◆ゲームストーリーに思うこと | ゲームデザインエクセレント

◆ゲームストーリーに思うこと

 先述のように、入社時の肩書きは「シナリオライター」でした。にも関わらず、私はゲームの仕事におけるストーリー的なものを、かなり抑制的に考えています。


  実は、業界に入ったときには野心満々で、スピルバーグや宮崎駿にも負けないようなストーリーテラーになるつもりでいました。また、『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』をものともしないようなストーリー性豊かなゲームを作り、それを通じて会社をメジャーの地位に押し戻してやろうなどとも考えていました。

  しかし、一人前になる過程で理解していったことは、自制です。ゲームシナリオはゲームのシナリオで、ストーリーではないのです。プレイヤーは、ゲームを楽しみたくてプレイします。本格ストーリー、大いに結構。ただし、それがゲームの楽しみを増すものでさえあれば。戦いなり成長なりに没頭しているプレイヤーに、その流れを差し止めてまで押しつけるべきものではありません。

  そして、ストーリーはゲーム本体と独立して成り立つことはありません。壮大なストーリーを打ち上げれば、必要となるソフトウェアの要素=コードやデータも壮大なものとなってしまい、大規模なプロジェクトでなければ実現することはできません。

  抑えるべきところをそうしないでいたのでは、満足な結果は得られません。消極策は、積極策と比べるとどうも士気が上がらず、また不安さもあります。しかし、人はときとして「がんばらない勇気」を示すことも必要になるのです。


 あれこれ書いてきましたが、やはり目は輝かせて欲しいと思います。そもそも、星目そのものがいけないわけではありません。むしろ、クリエイターにとってそれは不可欠な成分でしょう。創作なんて、冷静に考えればどうしたってリスクばかりなのですから。戒めはあくまでも「星目"がち"」であることに対して与えられているのです。

   「例えこの身が滅びようとも、断固として理想を貫くべし!」
  なんて生き方は、いつの時代も共感を呼ぶものです。でも、実行する場合は、自分自身のリスクでそれをすべきですね。商業ゲームはたいていは"他人のお金"を使って作ります。集団制作ですから、他人の時間も使います。そして、そのお金も、最終的な出所は、プレイヤーのお小遣いですし、できあがったゲームはプレイヤーの自由時間を削り取ることになります。

  映画の世界は逆の価値観が支配的なようで、「いかにわがままにふるまって自分の作りたい物を作りきるか」が監督の重要な素質として語られているように見えます。例えば、ある監督には「鉄道のシーンを撮るために、線路横の住宅を買い取って取り壊した」などのエピソードがあります。"世界の......"なんて二つ名が必ず付けられている権威ですが、現実問題として「必ず大赤字を出す監督」でした。この人がじっとしていれば、単にそれだけで数本分の予算が浮くわけで、それを使って「会社も観客も同時に幸せにする映画」を志向する監督が何人もデビューできたかも知れません。こうして考えると、60年代から始まった日本映画の衰退は、ただの偶然ではなさそうです。そして、日本ゲームの衰退を招きたくないのなら、同じ道を通らないよう、注意しなければなりません。

  もっとも、この真逆もまた困った問題です。例えば、ゲームをしないし興味もない=作品性について全く判断できない人がプロデューサーとして予算を握り、そろばん勘定とアンケートだけで作品内容に干渉してくる......なんてことも、ありそうですね。