ゲームデザインエクセレント -4ページ目

◆ 「飽食の時代」の料理人

 私がゲームの仕事に入ったのは90年代の初めです。その頃にはゲーム産業もすっかり産業らしい体裁を持っていました。しかし、人材的には、それ以前の世代の人がいっぱい残っていたのも事実です。


  「昔は良かったよなー。
    2・3ヶ月かそこらでゲーム作れてさ、
    グラフィックスもそれっぽく描けてりゃOKだったし、
    サウンドなんて、ビープ音だったしさ。
    ステージだって、同じのがずっと繰り返しで良かったんだ。
    それから、売れたんだよな。十万本なんてざらで、
    鼻クソみたいなゲームでも出せばとりあえず2・3万は売れたしさ」


 どんな分野でも、成長期には入れ食い状態があるものです。自分自身の経験としても、初めてアーケードのゲームに熱中した頃は、今思えばゴミのようなタイトルに、毎日何枚も百円玉をつぎ込んでいました。当時としては「テレビ画面を自分で操作できる」というだけで、十分楽しめたのです。そして、私の技術では、せいぜい数分やればゲームオーバーだったため、ステージの変化の乏しさも全然気になりませんでした。
  ただ、安定期に入ると、事情が違ってきます。優秀なゲームの登場によって(私の場合は『ゼビウス』との出会いが大きかったのですが)、スタンダードが引き上げられてしまうのです。その意味で、こうした先輩たちのぼやきは「あー、オレたち仕事しなくちゃいけないんだよなー」なんて言ってることに他なりません。正直あきれて聞いていたものですが、たぶん2000年代初めに業界に入った人も、私たちの世代のぼやきに同じ印象を持ったのかも知れませんね。というのも、90年代もまた、それ以降の時代に比べれば、入れ食い的お気楽さを持った時代だったからです。


  マシンの性能はまだまだ右肩上がりで、それについて行けさえすれば、最新のゲームを名乗ることができました。そして、顧客層の感心を、簡単に手にすることができたのです。それが長く続いた結果、そうしたことが、あたかも「これとこれを押さえておきゃ、客は買う」という決めパターンとして、確立してしまったのです。
  しかし、現代はもうそういう時代ではありません。今、ゲームプレイヤーの中心を占める中高生は、生まれたときにはもうプレステがあった世代なのです。「基本3Dで、イベントの時だけキャラ絵出してアニメ声優の声あてときゃ売れるって!」の類が通用するはずもありません。むしろ、アニメやライトノベルなど他のエンターテインメントメディアと比較され、同じ基準で取捨選択されてしまうことを、覚悟しなければならないでしょう。

 古いゲームと接するとき、思いもよらない面白さを見つけることがあります。
  もちろん、ゲームの黎明期を体験的に知っている世代に属する私としては、ノスタルジーの要素を完全に抜き去ることは難しいかもしれません。しかし、それでも時代を超越した面白さを感じることがあります。そうしたゲームをじっくり考えてみると、良質のボードゲームと同じような洗練さがあることに気づきます。それは、いたずらにメディアリッチな作品ばかりを志向してしまいがちな現在のゲーム屋に対して、大きな示唆を与えてくれるものだといえるでしょう。


  "遊ぶ"のアーキテクトとして、最適化された面白さを追求していきたいものと思います。

◆ その他のアナログゲームから

 他、コンピュータ化による恩恵をそうした方向で使ったゲームの典型例として、RPGが挙げられます。
  現在、RPGといえばコンピュータゲームとしてのRPGです。『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』のようなタイトルが典型とされ、そのせいで一般には「剣や魔法を使える主人公が魔王を倒す、ストーリーのあるゲーム」といった理解でとらえられています。
  しかし本来のRPGは、ゲームマスターを中心に人間どうしで対話しながら進めていくテーブルゲームでした。マスターは、二人称の物語をプレイヤーたちに提示します。そしてプレイヤーたちは、戦士や魔法使いなど、何らかの役割を演じて、その物語=ゲームに参加します。ちなみに「ロールプレイング」という言葉自体が、「役割を演じる」という意味を持っています。
  本来のゲームマスターは、単なる語り手ではなく、ゲームプレイの全てを仕切る支配人です。用意したシナリオに基づいてゲームを進め、キャラクターの能力、武器や持ち物、そして遭遇したモンスターとの戦いなど、パラメータを元に判定を行っていきます。ただ、手計算でメモしながら進めていく都合上、あまり複雑なことはできません。ゲームシステム自体、割り切った設計とならざるを得ませんでした。
  コンピュータゲームとしてのRPGは、このテーブルトークをソフトウェアにするという取り組みの結果、産まれたものです。個人でも保有できるプログラム可能なパソコンの登場によって、それが現実化したのです。もちろん、コンピュータは人間のゲームマスターほどの対話能力はありません。貧弱な表現力しか持たず、想定外の事態に対応することもできません。ただ、その一方で、メモリーの許す限りの記憶能力や、複雑な計算でも瞬時にやってのける演算能力など、人間には苦手な能力も持ち合わせています。これらの特徴を反映した結果、元のテーブルトークとはずいぶん異なるにはせよ、コンセプトを受け継いだものとして、コンピュータRPGが生まれました。そして、これが持つ特徴=「一人でも遊べる」と結びついた結果、ポスト成長期のゲーム界で中心ジャンルの地位を獲得するだけのソフトになっていったのです。


 他、シミュレーションゲームにも、同様のことが言えます。
  例えばタクティカルシミュレーション。戦争をモチーフにしたこのゲームは、元々は実際の軍隊が作戦立案や訓練のために開発したものです。ゆえに、現実的であることが至上の要求となるため、解りやすいとか遊びやすいとかいった事情は考慮していませんでした。軍事マニアのような人種にとっては、それを理解すること自体が喜びですが、結局そういう人しかプレイしないため、アナログゲームとしてしか存在しなかった時代、きわめてマイナーなカテゴリーであり続けました。
  ところが、ソフトウェアになることで、いろいろな問題が解決しました。きめ細かなモデル化が可能になったことに加え、システム自体にプレイヤーをアシストする機能が実装できるため、格段にプレイしやすいものとなったのです。加えて、従来では導入が困難だった要素 ―例えばターン制をやめてリアルタイム制にするとか、索敵を組み込むとか― のスムーズな導入まで図れることになり、可能性が劇的に拡がったといえます。これは、戦争以外のシミュレーションゲームでも、同様でしょう。


 むろん、現実に即したモデルを構築するのは、必ずしも正しい解法だとは限りません。リアリティの導入が面白さを保証してくれるわけではないというのは、理数系だけの問題ではないのです。そして、商業版ゲームは、研修目的でプレイするわけではありません。現実を正しく再現していなくても、楽しめればそれでいいのです。
  ゲームデザイナーに求められているのは、そのあたりの取捨選択能力です。これは、ハイテクでもローテクでも、本質的な違いはありません。

◆コンピュータゲームへの導入

 70年代、ボードゲームは、おもちゃ売り場でかなりの存在感を持っていました。例えば『人生ゲーム』では、こんなコピーのCMが繰り返し流されていました。今なら流行語大賞の候補になるぐらいに、はやったものです。


  「ここが人生の分かれ道。億万長者になるか、貧乏農場に行くか」


 玩具メーカーというのは決して大企業ではないのですが、商品の性質上、ゴールデンタイムのCM枠で活発に広告を流すことになります。マニアのものとして始まったコンピュータゲームですが、やがて玩具業界の手に委ねられると、瞬く間にメジャーなエンターテインメントになっていきました。こうした業界が手がけたからこそでしょう。
  とはいえ、コンピュータゲームは、これらボードゲームを電子化するところから始まったわけではありません。「ゲームセンターのゲームが、自宅でも遊べる」が、商品コンセプトだったのです。必然的に反射神経志向で、それはコンシューマオリジナルの時代になっても続きました。深いゲーム性が求められるようになったのは、ブームが沈静化し、次の段階へ進んでからです。


 ただ、その場合も、ボードゲームがそのままソフトウェアになった訳ではありません。ボードゲームが行っていたような"遊ぶ"ためのモデル化――対象を大胆にデフォルメし、遊んで楽しめるレベルまで抽象化するなど――を、取り入れていったのです。
  そこには、コンピュータならではの特徴をどう生かすかという課題があります。
  ソフトウェア化された場合の最大の利点は、「一人でも遊べる」ということでしょう。そしてもう一つ、「プレイヤーがルールを覚えていなくても良い」というものがあります。ボードゲームのルールは必ずしも単純明快ではありませんが、理解している人間が集まらないと、プレイが始められません。しかしコンピュータゲームでは、そういう問題はありません。適切にデザインされていることが条件ですが、ソフトウェアにルールを組み込んでおくことができるため、深く知っていなくてもプレイし始められるのです。
  このアドバンテージは、その分プレイの敷居を下げることにも使えます。でも、逆にルールの方を複雑にすることもできますね。
  例えば、『モノポリー』では26しかない土地・会社を数百に増やすとか、権利金の額が市場で変動するとか。単に独占するだけではだめで、広告費をかけないといけないとか。あるいは、ノンプレイヤーキャラを並行して動かし、利益は彼らがもたらしてくれるとか。「仁義なき独占資本主義の闘い」をゲーム化するのなら、この方がより正統でしょう。ボードゲームとしては、複雑すぎてとてもプレイできたものではありませんが、ソフトウェアなら簡単です。

◆ 「勝つ」をどうデザインするか

 ゲームで重要なのは「勝つこと」です。そして、両雄のいちばんの違いは、ここにあると言っていいでしょう。
  先述の通り、『モノポリー』には世界選手権があり、世界チャンピオンの座をかけての高度な闘いが展開されています。では、なぜ『人生ゲーム』には、それがないのでしょうか。ゲーム性を考えれば、簡単ですね。じゃんけんの世界トーナメント戦みたいなもので、ナンセンスだからです。『人生ゲーム』の勝ち負けは、ほとんどルーレットだけで決まります。プレイヤーの判断が関わってくる場面は、ごくわずか。進学するか就職するかすら、自分では選べないのです。
  つまり、これは「勝ち」と「楽しさ」の関係がどうデザインされているのかの違いと言えます。
  本質的に競技である『モノポリー』では、強い一体性を持ちます。基本的に勝つことを楽しむもので、それには運を期待するのではなく、正しい戦略に立脚した的確なプレイを展開しなければなりません。単なる勝利ではなく、自分の能力を高めることで得られるであろう勝利が、楽しさをもたらしてくれるのです。一方、『人生ゲーム』での両者は、たいした牽連性はありません。勝ち負けは、ただの偶然です。もちろん負けるよりは勝つ方が面白く、初心者や子供にとっては勝てる可能性のある分、『モノポリー』以上の魅力を持つでしょう。しかし、努力や才能とは無関係に得られるものである以上、そのがもたらす面白さは限られてしまいます。むしろ、そこにいたるまでの過程をプレイヤー間で相互に楽しむことが、いちばんのゲーム性となります。


 とはいえ、それだけで終わらせないところが、ボードゲームのそれたるところです。
  『モノポリー』は独占資本主義の経済を幾分かの皮肉を込めてモデル化したものと言えます。もし、これが何もモデル化していないゲームだったらどうでしょうか。真っ白なボードに、地名の代わりに識別コード。やりとりされるのも、ドルではなく単なる数値で、計算シート上に書き込まれるだけ......。それによって得られる面白さは、大いにプレイヤーを限定してしまうでしょう。経済という題材があり、それをモデル化しているからこそ、より多くの人にとって楽しさを感じさせられるのです《*4》。『人生ゲーム』にしても、その本質はすごろくではあるものの、マスに書かれたコピーとコマンドは、一定の世界観に基づいて統一されています。ゲームを通じて、多様性のある物語を一人称視点で楽しむという趣があるのです。
  興味深い題材を持ってきて、それを本質を突きつつもなるべくシンプルな形でモデル化し、遊びとして楽しめる外観を与えてパッケージングする......ボードゲームまでしかなかった時代のゲームデザイナーがやってきたのは、まさにこういうことだと言えるでしょう。

◆ もうひとつのメジャータイトル

 1930年代に登場した『モノポリー』は、いわばスタンダードナンバーのようなもので、同じゲームモデルを採用したさまざまな製品が存在しました《*3》。日本では、『はなやまのバンカース』が有名です。地名が日本のものだったり、通貨単位が違っていたりなどのローカライズはされていますし、ルール(&それを通じて狙うゲーム性)が必ずしも同じというわけではないのですが、基本的仕組みという意味では、クローンの一つと言えるでしょう。
  一方で、全く異なるゲーム性を持つ、メジャープロダクトのボードゲームもありました。そうしたものの一つに『人生ゲーム』があります。


 こちらは、エンドレス周回型ではなく、スタートとゴールのあるシステムです。
  ボードには列になった多数のマス。これは曲がりくねった状態でボード上に描かれていて、かなりの長さです。そして中央にはルーレットが配置されています。
  ゲームは、ルーレットを回し、その数字に応じて駒を動かすことで進めます。
  各マスには、「ハンバーガーショップでアルバイト。$10,000もらう」といった形で、イベントが設定されています。この結果、お金の出入りがあったり、進行に関する例外処理(ex;一回休み)が発生したりします。そして、これらも漫然と並んでいるわけではありません。最初の方にあるのは、就職です。やがて、結婚したり子供が生まれたり家を建てたりなど、人生の節目に応じた形で、登場してくるのです。
  ゴール到達後は、手持ちの財産を清算します。全員がゴールし終えた時点で最終財産を比較し、順位を決めます。


 こちらが模擬/象徴しているのは、名前の通り「人生」ということになります。基本的に収入の方が支出より大きいので、現実離れしたほどに豊かな一生を送れるのですが、そのあたりを修正したバリエーションとして「ビター版」「辛口版」なども存在しています。また、スタンダード版でも、イベント内容やゲームバランスは、時代に応じて変化しています。昔のバージョンではやたら子供がたくさん産まれていて、車(6人乗り)に乗せきれないことが多かったのですが、最近ではそんなこともないようです。


 両者は、さまざまな意味で対極的なゲーム性を持っています。
  まず、時間軸。『人生ゲーム』は不可逆的進行です。スタートとゴールがあり、ゲームの進行すなわちエンドに向かって近づいていくことになります。一方、『モノポリー』は条件ループです。勝利条件「自分以外の全プレイヤーを破産させること」を誰かが満たすまで、ゲームはずっと続きます。
  『モノポリー』は、実際には抽象的なゲーム性を持っています。ストーリーや世界観はゲームの裏側にあり、ゲームプレイに直接関係してくることはありません。一方、『人生ゲーム』は、ある種のストーリーを演じるゲームと言えます。社会に出るところから始まり現役引退まで続く人生を、途中あれこれ発生するイベントを通じて疑似体験していくわけです。

◆ ボードゲームから考える

 そもそも「リアルにする」というのは、エンジニアリング(技術)の課題です。硬派な数理系プログラマにとってはチャレンジングなテーマかも知れませんが、ゲームデザイナーとしては、彼らに「よろしくね!」とお願いするしかないわけで、どうも情けない話ですね。自分にできる手段で、ベストを尽くせるようにならなければなりません。
  ここでゲームデザイナーとして参考になる領域があります。ボードゲームです。第2回で行った分類で言えば、「道具式ゲーム>ボードゲーム>模擬・象徴型」ですね。


 ボードゲームといってもあれこれあるのですが、筆頭に挙げられるのは『モノポリー』でしょう。1930年代の発売以来版を重ね、世界選手権も毎年開かれていて、既に「競技」と言ってもいいくらいです。日本では、現在タカラトミーが発売元になっています《*2》。
  モノポリーの本体は、1枚の四角いボードです。外周部分が40のマスで区切られていて、プレイヤーはサイコロ2つを振り、時計回りで周回していきます。スタート時点で一定額の資金があり、後は周回するごとに決まった額がもらえます。
  ゲームは、プレイヤー間のお金のやりとりで進んでいきますが、その軸になるのは、マスに設定された権利です。
  多くのマスは、土地や会社の権利と結びつけられています。もし、誰のものでもない土地に止まった場合、決められた権利金を払って権利を獲得することができます(購入しない場合は、競売にかけられます)。一方、誰かが権利を持つマスに止まったら、そのプレイヤーにお金(レンタル料)を支払わなければなりません。
  なお、プレイヤー間の取引は常時認められています。土地の権利を揃えるときも、他のプレイヤーから売ってもらったり交換したりを活用します。当然値段は交渉で決まりますから、いい土地の最後の権利を持っていたりした場合、高値で売りつけることができるでしょう。


 さて、『モノポリー』の勝利条件は、「自分以外の全プレイヤーを破産させること」です。これはどのように実現していくのでしょうか。決め手は、レンタル料にあります。土地・会社は、独占することによってより大きな利益を得られるようになっているのです。
  土地の場合、同じグループ(2・3マスで構成)の権利を全て取得すると、レンタル料が倍に上がります。また、そこに家を建てることができ、同様にレンタル料も上がっていきます。家は4軒までで、フルに建てた次にはホテルに建て替えが可能です。レンタル料も、家が建つごとにどんどん上がります。例えば中程にある「ケンタッキー通り」の場合、単独では18ドルですが、揃っていると36ドル、家が建っていると1軒で90ドル、以下250・700・875となり、ホテルが建っていると1050ドルになります。単独の場合の、実に60倍近くです。
  もし払えなかったときは、自分の持つ権利を使ってお金を用意しなければなりません。他のプレイヤーに売るか、それを抵当に入れて銀行からお金を借りるかということです。前者の場合、いくらで売れるのかは交渉次第です。後者の場合、返すまでの間はレンタル料が入らなくなってしまいます。
  そうしてお金を用意しても払いきれなかった場合、破産となります。破産したプレイヤーはゲームから除外され、土地などの権利は、他のプレイヤーに渡ることになります。


 このゲームが志向したのは、独占資本主義です。
  普及した時代が、世界恐慌の頃と重なっている点に注意してください。市場を独占することで好き放題の価格設定を行い利益をむさぼることができる社会を、モデル化しているのです。

◆ 様式=お約束

  先述の"様式"という言葉ですが、ゲームではむしろ「お約束」と言った方が解りやすいかもしれません。
  例えば、RPG。狭いはずのダンジョンなのに、1区画だけで何匹ものドラゴンが住んでいます。魔法使いが唱えた呪文は敵だけを焼き払います。そして、どんなに激しい攻撃を加えても、金や宝箱には何のダメージもなく(そもそもモンスターがなぜ持っているのかはともかく)手に入れることができます。フルプレートの重装備でも移動能力には全く影響がなかったり、瀕死の状態でも最高能力で戦闘できたり。冷静に考えると、かなり不条理な世界ですが、特に疑問を感じることなく受け入れていますね。
  これらはゲーム性の本体部分ですが、ユーザーインターフェイスにもお約束は支配しています。近年のRPGに多いスタイルは、3Dで描かれたフィールド+マイキャラの画面の上に、2Dのキャラ絵とテキストウィンドウをオーバーラップする(&声優によるボイスも)というもの。このとき、キャラクターが戦闘中だろうがどんなダメージを受けていようが表示されるキャラ絵に違いがなかったり、同じ決めゼリフを戦闘ごとに聞かされたり、また数人組で歩いているはずなのに画面にはひとりしか表示されなかったりと、さまざまな"納得ずくの不条理"が登場してきます。
  以上、RPGを例にとりましたが、異なるジャンルでも同じです。アクションゲームとはこういうものだ、シューティングゲームとはこういうものだ......そんな感じで、一つ一つの要素がなぜそこにあるのか考えられたわけではなく、「だってゲームってこういうものでしょ?」と前例を踏襲するように受け継がれているのです。まさに様式化しているわけです。


 実はここに挙げたようなRPGのお約束は、昔のマシンの性能限界から来ています。
  これらのゲームが確立したのは、ファミコンの時代です。ゲームに特化した機能が実装された優秀なハードでしたが、しょせんは8ビット機で、できることは限られています。三次元で表示したくとも、どうにもならないのです。そこで、代替手段として、アニメや漫画には観られない独特の表現技法が発展してきました。
  以後、スーパーファミコンになり、さらにPCエンジンなどCD-ROMドライブ装備のマシンへと移る中、できることも少しずつ広がっていきました。ただ、劇的な変化ではなかったため、新機能の実装も、従来の様式に新要素を上乗せするような形となりました。バストショット絵やボイスなどがその典型例です。
  現在は、3Dゲーム機の時代です。また、メモリーも外部記憶メディアも格段に大きくなっています。技術的な制約はとっくにぬぐい去られていますが、いちど確立してしまった様式は簡単には消え去ってくれません。フィールドはスプライトからポリゴンキャラに変わったものの、バストショットやボイス&テキストは相変わらずオーバーラップされる、そんなインターフェイスがまかり通っています。確立されてしまった様式が、ずっとゲーム界を支配し続けているわけです。


 とはいえ、単に技術的なブレークスルーを追いかければいいのかというと、そう単純な問題でもありません。
  プラットフォームの性能が大幅に向上したプレステの時代以降、それは実際に起こりました。「リアルにすれば面白くなる」かのように勘違いしてしまう関係者が少なくなかったのです。企画書にはそんな文字が飛び交い、実際そんなつもりのゲームが作られましたが、結果は多くが悲惨なものでした。

◆ 遊ぶための装置として

 私の好きな建築家ル・コルビュジェの言葉に、こんなものがあります。


   「建築とは、人が暮らすための装置である」


 一般人としては「当然だろ、なんでわざわざそんなこと格言にするんだよ」だと思いますが、世の建築家志望の若者にとっては、ほとんど身も蓋もない言い方とも言えるでしょう。というのも彼らの多くは単なる建物が造りたいわけではなく、芸術として人の心を揺さぶるようなものを造りたいと思っているからです。
  言葉には、裏側を見ることが必要です。ル・コルビュジェが実際にデザインした建物は、とても「装置である」なんて言えるような無味乾燥なものではなく、思いっきり芸術的なのです。ただ、その芸術性の基準を、既存の建築様式や"芸術的であるもの"概念には求めなかったということです。「それは人が暮らすための装置である」ということを第一原理として掲げ、突き詰めて考えたうえでゼロから形を作っていったのです。
  ともあれ、ゲーム屋である私も彼をリスペクトし、次の言葉を唱えましょう。


   「ゲームとは、人が遊ぶための装置である」


 ゲームの歴史はとても浅いのですが、それでも様式あるいは"芸術的であるもの"は存在するように思います。「ゲームって、こういうふうにまとめるものでしょ」という要素が既にいくつも確立され、無反省なまま使われてしまっているということです。
  ひとつひとつの要素は、導入された過程では、意味のあることだったでしょう。しかし、単なる様式となってしまっているなら、捨て去る勇気が必要です。人が遊ぶための装置であるという第一原理を、突き詰めて考えていかなければなりません。

 「アーキテクト」という言葉は耳慣れないものと思いますが、辞書的には「建築家」を意味します。ただ、ここでは"仕組みを作る人"という意味で考えています。「ゲームデザイン」の中には、「ソフトウェアの設計」もあれば「メディア作品の造形」もあります。しかし、この両方で全てというわけではありません。ここでいうアーキテクトは、そのどちらでもない、純粋にゲームデザインである部分を組み立てる人、というようなニュアンスです。
  コンピュータでは、設計思想のことをアーキテクチャといいます《*1》。ここでは、ゲームにおいて、ソフトウェアとしてのそれではなく、遊ぶための装置におけるアーキテクチャを作る人という意味合いで、理解していただけたらと思います。


第8回 アーキテクト的なゲームデザイン

 客は徹底的に素人です。素人は絶対に自分の好みを揺るがしにしませんから。きれいな絵、きれいなねーちゃん、きれいなヌード......きれいなもの、ぱっと見れば見た瞬間は気持ちいいです。が、2回見ますか? 不思議と2回、3回見ていいものは、きれいなだけのものでは絶対にないんですよ。そこは忘れていただきたくない。――――おそらく、クリエイター、アーティスト、作り手が生身に持っている「俺はこれが絶対なんだよね、お前ら!! これ!」というものが封じ込められていないものは、どんなきれいなキャラクターやストーリーを作ろう、やはりだめなんじゃないのかな。

    
    
  富野由悠季
  ITメディアニュース(http://www.itmedia.co.jp/news/ )2008年10月31日記事
  「「お前らの作品は所詮コピーだ」――富野由悠季さん、プロ論を語る 」より

【注釈】

*1 :独立した職種となっている場合もありますが......
 このシリーズでは、「企画職=ゲームデザイナー」という立場なので、こういう言い方になりますが、ゲームの構想&提案部分だけをゲームデザインとする立場からは、「企画職の仕事=ゲームデザイン+ディレクション」という構図で理解できるでしょう。
  ただ、名刺にディレクターとある人が、ここで書いているような立場とは限らないのが、面倒なところです。実質的にプロデューサーなのに、肩書きはディレクターなんていうことがあるのです。「『プロデューサー』は、スタッフクレジットで社長につける肩書き」なんていう会社だと、その部下をプロデューサーと呼ぶことはできないわけですね。また、マーチャンダイジング担当の中にもディレクターと名前の付く人(例えば広告ディレクター)もいるため、話は混乱してきます。
  このあたり細かく論じていくときりがないので、あまり深入りしないことにします。


*2 : 「構想」→「企画」→「仕様」→「実装」という4段階
  このあたりは私自身の業務経験に基づく描写で、オーソライズされた用語ではありません。一方で、少し後ろに出てくる「要求/設計」や「5つのフェイズ」などは、工学者・経営学者によってオーソライズされた概念を引用しています。実は彼らの理論はここで引用しているものより遙かに精緻なのですが、正直なところ、私が自分の周辺で見聞きしてきた実際の業務ではそれほどのものは使いません。アバウトな把握でも、全くのカオスに比べれば格段に有効なものなのです。


*3 :ここでOKが出た場合、プロジェクトには予算が付き......
  予算が付くといっても、その時点ではお金がある訳ではなく、将来に向けての約束にすぎません。「予算3億」などと言われると、つい3億円の札束が積み上げられる状態を想像してしまいますが、実際には「完成するまでに使うお金として、トータル3億円まで許してあげるよ」ということです。そのため「予算はあるが金がない」なんていう悲喜劇も、しばしば発生します。


*4 :プロジェクトの可視化
  ソフトウェア開発を可視化する試みとして、近年UMLというものが注目されています。平たく言えば「チャートの体系」です。ソフトウェア開発の世界では、処理の流れを可視化するためにフローチャートが使われていました。書き方と記号の意味を共通化することで、共通言語としての意味を持たせたのです。UMLにも、それと同様の形式は含まれています。さらに、概念設計からコーディングに至るまでの各プロセスに応じたさまざまな形式が用意されています。
  現状では、まだ普及度が低いのですが、システム開発の領域で、徐々に使われるようになってきており、ゲーム開発者教育の局面でも、しばしば論じられるようになってきています。プログラマたちが当たり前に使うようになってくれば、ゲームデザイナーにとっても必須知識の一つになるでしょう。