◆ 遊ぶための装置として | ゲームデザインエクセレント

◆ 遊ぶための装置として

 私の好きな建築家ル・コルビュジェの言葉に、こんなものがあります。


   「建築とは、人が暮らすための装置である」


 一般人としては「当然だろ、なんでわざわざそんなこと格言にするんだよ」だと思いますが、世の建築家志望の若者にとっては、ほとんど身も蓋もない言い方とも言えるでしょう。というのも彼らの多くは単なる建物が造りたいわけではなく、芸術として人の心を揺さぶるようなものを造りたいと思っているからです。
  言葉には、裏側を見ることが必要です。ル・コルビュジェが実際にデザインした建物は、とても「装置である」なんて言えるような無味乾燥なものではなく、思いっきり芸術的なのです。ただ、その芸術性の基準を、既存の建築様式や"芸術的であるもの"概念には求めなかったということです。「それは人が暮らすための装置である」ということを第一原理として掲げ、突き詰めて考えたうえでゼロから形を作っていったのです。
  ともあれ、ゲーム屋である私も彼をリスペクトし、次の言葉を唱えましょう。


   「ゲームとは、人が遊ぶための装置である」


 ゲームの歴史はとても浅いのですが、それでも様式あるいは"芸術的であるもの"は存在するように思います。「ゲームって、こういうふうにまとめるものでしょ」という要素が既にいくつも確立され、無反省なまま使われてしまっているということです。
  ひとつひとつの要素は、導入された過程では、意味のあることだったでしょう。しかし、単なる様式となってしまっているなら、捨て去る勇気が必要です。人が遊ぶための装置であるという第一原理を、突き詰めて考えていかなければなりません。

 「アーキテクト」という言葉は耳慣れないものと思いますが、辞書的には「建築家」を意味します。ただ、ここでは"仕組みを作る人"という意味で考えています。「ゲームデザイン」の中には、「ソフトウェアの設計」もあれば「メディア作品の造形」もあります。しかし、この両方で全てというわけではありません。ここでいうアーキテクトは、そのどちらでもない、純粋にゲームデザインである部分を組み立てる人、というようなニュアンスです。
  コンピュータでは、設計思想のことをアーキテクチャといいます《*1》。ここでは、ゲームにおいて、ソフトウェアとしてのそれではなく、遊ぶための装置におけるアーキテクチャを作る人という意味合いで、理解していただけたらと思います。