ゲームデザインエクセレント -2ページ目

◆ワールドビルダー

 ワールドビルダーは、いわゆる「世界観」に直結した仕事です。ゲームの背景となる世界を考え、設定として実体化していきます。直接的な造形はデザイナーの仕事ですが、ワールドビルダーは、彼らに示すコンセプトを考えなければなりません。


  こうした役割から見ると、必要とされる局面はレベルデザインよりも多いといえます。象徴的にストーリーを扱う場合でも、世界観を必要とするゲームは多いからです。例えば、格闘ゲーム。ゲームプレイにおいて特に物語的な展開があるわけではなく、キャラどうしが蹴ったり殴ったりしあってるだけですが、そんな場合でも世界観は存在し、キャラクター設定もそれに基づいてなされていますね。


 この仕事をする人は、やはり豊富な知識を持っていないといけません。
  一般教養と言ってもいいですが、世間で言う教養とは、若干ベクトルが異なっていることも事実です。特に重要になる場合が多いのが、古代から中世にかけての歴史・文化でしょう。今日のゲームは幅広い時代を扱いますが、「中世ヨーロッパっぽい架空の世界」は、やはり定番的なのです。とりわけ、歴史の教科書に出ていないようなことにこそ、注意が必要です。王侯貴族の種類であるとか、武器甲冑や軍隊の仕組み、教会のシステムなどです。


  また、ファンタジー分野における先行作品に関する理解も、十分持っていなければならないでしょう。『ドラクエ』などの定番的なコンピュータゲーム、そしてその作り手がリスペクトしている、より古い世代のゲーム(『ウィザードリィ』『ウルティマ』など)は当然視野に修めておくべきですし、コンピュータゲーム以外の代表的な作品についても同様です。『指輪物語』や『クトゥルフ神話』程度は知っておくべきでしょう。
  もちろん、こうした領域だけではなく、自然地理とか民族の文化とかあるいは文学芸術とか、世間的意味での一般教養も、浅く広く知っているべきでしょう。また、一般的にゲームで使われる概念(SFやミリタリーなど)だけではない領域で何か得意分野を持っているということが、作り手としては重要だと思います。私自身は、政治経済にはかなりの自信があります。また、医学や生化学なども、強い方です。どちらもあまり使う機会がありませんが。


 ただ、主客を転倒させてはいけません。ワールドビルダーにとっても、役割の目的は「ゲームプレイの充実」であり、「壮麗な世界の構築」ではないのです。ゲーム世界の設定は、必然性や正当性ではなく、ゲームとしての面白さを価値基準にしなければなりません。また、ゲーム全体としては、システム的に考えることが重要です。魔力に関する属性とか、キャラクターの能力を定義するためのパラメータといったものは、システムであり、同時に世界でもあります。


  先にプレイヤーの欲求について述べましたが、シナリオには、その能力向上の実体化という側面があります。単に数値やフラグとしてのみ示されるだけでは喜べなくても、作品世界の中での意味が与えられれば、楽しさをもたらします。特定のタイミングで何かを与えることはレベルデザイナーの役割ですが、このような意味でプレイヤーの関心を惹きつけるのはワールドビルダーの役割です。

◆レベルデザイナーとしての仕事

 さて、話を少し戻します。


  先に挙げた第一原理「場面場面が面白くなければならない」ですが、これはどのように満たされ得るものでしょうか。作家が小説を書くときであれば、物書き的な要素によって満たすのが基本でしょう。しかし、ストーリー一般に拡げて考えた場合、それはたくさん取り得る回答のひとつに過ぎません。


  例えば漫画であれば、絵が良ければ1の条件は満たされます。あくまでも「良い」なので、必ずしも「上手い」でなければならないわけではありません。下手でも、魅力的ならいいのです。ただ、とりあえず見てもらえる度合い、そして「飽きる」までの余裕という面では、やはりうまい絵は有利です。アニメなら、これに加えて動きという要素もあるでしょう。かわいい女の子がかっこいいロボットに乗って派手な戦闘をしていれば、とりあえず観てもらえますね。


  ゲームの場合も同様です。キャラクターがリアルタイムに動くというただそれだけでも、さしあたってはだいじょうぶです。そして、キャラの見栄えが良かったり動きが気持ちよかったりすれば、そうでないものよりは有利です。設定だの必然性だのは、とりあえず関係ありません。「ありきたり」であることも、たいした問題ではありません。


 結局これは、第二原理「必ず飽きるから、対策が必要」にとっても同じです。プレイヤーは必ず退屈するわけですが、そのときに提供する"退屈退治"は、別にストーリー的な仕掛けである必要はないのです。ステージが変化するとか、モンスターの種類が変わるとか、自分自身に新しい技が出せるようになるとか、そういうことでも十分です。


  もちろん、これらはストーリー上の変化とフィックスする場合が多いでしょうが、必須ではありません。例えば、RPGにおけるキャラクターのレベルアップなど。ストーリーとは無関係で、また、簡素かつ本質的な退屈対策といえるでしょう。


 レベルデザインという仕事は、直接的にはマップに関するデザイン・レイアウトを中心とする仕事です。マップを作り、モンスターや各種仕掛けを配置(それを考えるという要素もしばしば含みます)していくということです。


  それが目的とするのは、プレイヤーの獲得するレベルのコントロールにあります。プレイヤーがゲームプレイにおいて持つ欲求はさまざまですが、それを「より高い能力になりたい」に落とし込んだ上で、それをコントロールしていくということです。欲求は、いちどに満たされてしまったのでは、面白くありません。そこで、段階的に充足させてあげることで、より高い満足感を、プレイヤーに与えることができるのです。

  ストーリー的な仕掛けというのも、それを補完していくための手札と考えることができます。ストーリーフローを作る場合、そうしたレベルデザイン段階での使いやすさも配慮していく必要があるでしょう。

◆物語構成の正体

 では、世間で説かれるような物語構成という概念は、全く意味のないものでしょうか。実はひとつ、大きな役割があります。「説明」です。
  多くの場合、ストーリーは説明する必要があります。特に映画やゲームのような集団製作を前提にするものだと、作っていく初期の段階から、それが必要になります。そのときに漫然と全体を書き連ねたのでは解りづらくなってしまいます。そこで、定型的なフォーマットにあてはめることが、意味を持ってくるのです。
  近年、多方面で多用されるのが、「導入部」「展開部」「終結部」の3パートに分ける構成です。物語の基本要素―舞台や登場人物とその価値観・世界観などをおおまかに知ってもらうのが導入部。いろいろなことが起こり、話が展開していく部分が展開部。そして、クライマックスからエンディングまでが集結部です。


  例えば「桃太郎」を、この三部構成の方式でまとめると、次のようになります。


  導入部:
    「桃から生まれる」という不思議な出生を持つ若者、桃太郎。
    拾ってくれた老夫婦に育てられ成長していく中で、
    人生上の目標を模索するようになった。
    悩んだ結果「鬼退治」にそれを見いだすと、養父母に願い出て、
    僅かな装備品だけを持ち、旅を始めた。

  展開部:
    旅に出た桃太郎は、やがて仲間と出会う。
    キビ団子一個という僅かな報酬で命をかけた戦闘に従ってくれる、
    犬、猿、雉である。
    本来は互いにいがみ合うはずの彼らを統率しつつ、桃太郎は鬼ヶ島に到達する。

  終結部:
    強力な鬼たちに対し、桃太郎軍は宴会のさなかに奇襲を敢行、一方的に叩きのめす。
    鬼のリーダーは桃太郎に降伏、財産と引き替えに助命を申し出た。
    荷車いっぱいに宝物を積んで、凱旋する桃太郎軍団。
    その行き先は、養父母の待つ家だった。


 この三段構成が先にあるという意味ではありません。現実の創作はもっともやもやしていますし、面白さを追求して作ったストーリーは、こんなにすっきりしたものにはならないのです。ただ、説明のためには、四角いものを丸く見せる工夫も必要です。
  もちろん、こうして書ける程度の変化すらないような物語では論外です。「物語は展開させなければならない」こと自体に気づいていない本当に未熟な書き手には、"起承転結"も"序破急"も、標語としてじゅうぶん役に立つことでしょう。

◆ストーリーの基本原理

では、ストーリーフローは、どう作ればいいのでしょうか。
  どうもこうもありません。「作る」こと、それが全ての始まりです。「創作理論」と称するものを主張する人もいますが、ストーリーには方程式の類はありません。理論とやらのほとんどは作家ではなく評論家や学者がまとめたもので、実際にはできあがったものに対する後知恵に過ぎないのです。


  むろん、よくないストーリーに対し、「なぜよくないのか」の理由を羅列することはできます。そのいくつかを裏返せば、定石みたいなものもまとめられるでしょう。しかし、そうした教訓を集めたところで、創作に結びつく建設的な理論にはなってくれません。ストーリーは多様なもので、面白いか面白くないかは相互関係によっていくらでも変わってきてしまうからです。ある作品においては美点だったものが、別の作品に投入すれば欠点になってしまうということが、たいへん多いのです。


 ただ、だからといって「何でもあり」というわけではないのは、先に挙げた程度の創作体験があればわかることでしょう。依拠すべき、そして拘束もされる、基本原理と呼べるものがあります。次の2つです。


   1:場面場面が面白くなければならない。
   2:読者(観客/視聴者/プレイヤー)は必ず飽きるから、
     対策を講じておく必要がある。


 1の条件が満たされていれば、とりあえずは受け入れてもらえます。そして「続きを見たい」という気持ちになってもらえます。一方、これがないと、何も始まりません。まさにストーリーの第一原理です。
  ただ、人には「飽きる」という基本属性がありますから、どんなに面白いものでも、それが続いているといずれ飽きてしまいます。そこで、何らかの対策を講じておかなければなりません。物語の展開というのは、そのためにあります。そして、同じパターンばかりが続くとそれはそれで飽きてしまうため、展開を展開させる"メタ展開"も必要になるでしょう。また「実はこうだったんだ」のようなサプライズも織り交ぜる必要があります。そうしたものが集まったときに相互に矛盾してしまうようでは、読者がしらけてしまいますから、設定を体系として構築することも必要になってきます。こちらは第二原理ですが、かなり発展性がありますね。


 多くの理論先行型ストーリーテラーが陥ってしまうのは、1よりも2を重視することです。場面の面白さに配慮しないまま、物語の構成や設定といったものをどんどん進めていってしまうのです。甚だしい場合は、本来"飽き対策"の一手法に過ぎない「世界観」を、物語自体の目的であるかのように思いこんでしまいます。
  これは、読者としての感動体験が脚を引っ張っているのかも知れません。しかし、世界観、構成、テーマといったものは、見てもらったその先にあります。例えそれらが優秀であっても、場面が面白くない作品は、そこまで進まないうちに放棄されてしまうのです。自分が読者として感じた面白さがそこだったとしても、それは「読み終わっての感想」ですね。作者は、読んでいる最中の読者に対して面白さを提供し続ける必要があります。

◆物語作法の誤解

 世の中には、どんな分野でも、方法を指南してくれる本があるものです。AmazonでAND検索をかけてみたところ、「物語+書き方」で22件もヒットしました(なお、小説+書き方では124件、シナリオ+書き方では55件でした)。
  そうした本ですが、多くの場合「物語はトップダウンで書く」が前提になっているように見えます。つまり、次のような段取りが想定されているように読み取れると言うことです。

  1.日頃から、書きたいと思っている分野を用意しておく
   2.そこから「これを書く」という題材を、作品規模とあわせて決める
   3.両条件をふまえて、作品の核になるテーマを抽出する
   4.テーマを実体化するためのコンセプトを選び出す
   5.作品世界を構成する諸要素を設定する
   6.キャラクター(主人公や敵も含め)を設定する
   7.「起承転結」とか「序破急」とかいった構成を決め、細分化する
   8.特に中心となる事件と、そこにいたるまでの伏線を決める
   9.それぞれのパートの中身を作っていく


 ただ、こんな決めつけがなされると、一言言いたくなりますね。アイデアのとき(第3章)と同じく、こう問いかけたいのです......「あんた、ほんとにそんな順番で作品作ってるのか?」

 物語作法がこのようにまとめられているのは、実際のところ、本というメディアの制約でしょう。
  実際の物語作成は、もっともやもやしたものです。あらゆる場面で行きつ戻りつを繰り返しながら進めていく、泥臭いプロセスです。ただ、本というのは、もやもやをもやもやのまま書くことはできません。解りやすく明確な言葉を選んでいく必要があり、そこで、著者自身が実際に行っているプロセスとは別に、説明用に一本筋の通った記述をしていくことになるのです。
  というわけで、よどみない流れとして描かれているのは、単にそう記述してあるというだけのこと。それを「著者がそのように主張している」としたのでは、読み間違いです。
  ただ、そんな誤読が発生する理由は、作者が想定する読者像とのずれにあります。
  こうした本は、読者が多少の創作体験を持っていることを想定して作られます*2。現実との差分は、読者自身が自分の創作経験に基づいて補えばいいという前提で書かれているのです。想定されている水準は本によってまちまちですが、「入門」と銘打っているのなら、"ノートに書き殴って友人間に回覧"程度でも十分でしょう。
  逆に言えば、その程度の経験すらない人では、誤読の可能性も断然高くなってしまいます。そういう人は、読む前に書くべきなのです。

◆ ストーリーフローのあるゲーム

 以上のようないきさつは「象徴としてのストーリーの導入」ということができるでしょう。
  ただ、こんにち言うような「ストーリーゲーム」との間には、まだまだ決定的な違いがあります。ステージはあっても、ただひたすら繰り返すだけという場合が多いのです。例えば『ドンキーコング』。スロープの面があり、ベルトコンベア、ジャッキと続いた後、最終面となって、コングと対決します。では、それをクリアしたら? 何もなかったかのように最初のスロープ面に戻ります。
  その時代のゲームはだいたいそんなもので、僅かな数の面を多少難易度を上げながらループし続けるのが当たり前でした。少し時代が下がる『ゼビウス』になると、物語構成的な変化もないわけではなく、最終ボスとされる存在が要所要所に出てきたりもするのですが、これは決して倒すことはできず、永久に逃げ続けます。そして、16面が終わると、また1面に戻ります。
  一方、同じ黎明期でも、パソコンゲームでは全く別の事情が存在しました。「アドベンチャーゲーム」という、まさにストーリーフローそのものを楽しむタイプのゲームが、普及していたのです。
  これは、当時のパソコンの性能に由来しています。パソコンゲームにおいても、初期の主流はやはり反射神経型ゲームだったのですが、リアルタイムの描画性能が高くなかったため、性能的にどんどん向上していくアーケードに比べ、見劣りするものにしかなりませんでした。一方で、メディア容量の制約の少なさやテキストの処理が得意など、アドベンチャーゲームにおいては逆に見栄えの良い商品を作ることができました。結果として、パソコンゲーム市場は後者を中心としたものになっていったのです。

 やがてゲームは今日あるような方向に進んでいくのですが、「二者が融合した」というよりは、動作環境の向上などがもたらした必然的変化といえそうです。コンシューマは、かつてはアーケードに沿ったゲーム性が主流でしたが、しだいにやり込み要素を重視するようになりました。やがてストーリーフローを持つものが増え、『ドラゴンクエスト』を嚆矢とするRPGのブレイクで決定的になりました。以後、マシンの性能向上は、主にストーリーメディアとしての側面で用いられるようになったのです。
  ただ、一色に染まったというわけではありません。例えば格闘ゲームにストーリー展開があっても、それはゲームの中心的価値ではなく、位置づけは『ドンキーコング』の頃とそう違うわけではありません。
  類型化すれば、次のようにまとめられるでしょう。


  1「記号型」:ストーリーはなく、デザイン上の見立てとして
          モチーフが設定されている。
   2「象徴型」:作品性に深みを与える目的で、
          象徴的な扱いのストーリーが与えられている。
   3「進行型」:ストーリーフローがあり、
          それを進行させる形でゲームプレイを行う。
   4「展開型」:多様性のあるストーリーフローが用意、
          プレイヤーの行動で選ばれていく

 

 ストーリーを作るということも、2までであれば、借り物でもなんとかなります。現に『ドンキーコング』のストーリーは、映画『キングコング』から借りてきたといっていい程度のものでした。しかし、3以上のレベルではストーリーフローを作っていく必要があり、「創作技法」として意識していかなければなりません。

◆ ゲームストーリーの登場

 こんにち、ほとんどのゲームには何かしかのストーリー要素が付いています。これは、一応、コンピュータ化される前のゲームセンターから始まっていると言えるでしょう。
  若い人には意外かも知れませんが、ゲームセンターという場所は、コンピュータの登場以前から存在しています。「エレメカ」と呼ばれる電気仕掛けの遊戯台<*1>が、いろいろな遊びを提供していたのです。それらは、遊び自体は単純ですが、例えば、射撃やレースなど、多くの場合何かを"なぞらえる"という形で成り立っていました。そして、このなぞらえ自体がストーリー要素と言えなくはないものでした。
  ただ、実際のところ、この段階ではまだ言い切ることは、無理があります。何かがモチーフになっていても、基本的に"見立てていた"だけだからです。やがて コンピュータゲームが登場し、順次置き換わっていったのですが、ゲーム性は多分にエレメカ的でした。『スペースインベーダー』(78年)の登場は、ゲーム産業としては一大転機です。しかし、作品の視点からでは、それほどのものではありません。宇宙戦争をモチーフにしたといっても、あくまでも記号的に扱っているだけ。侵略について、何らかの物語が与えられていたわけでもないのです。

 このような状況が変わったのは、ブームもひとしきり落ち着いた80年頃です。単なる見立てやなぞらえではなく、明確なストーリーを与えられたゲームが、続々と登場してきたからです。
  例えば『ドンキーコング』(81年)。ゲームそのものは、障害物を避けたり壊したりしながら前進していくシンプルなものでしたが、
   「巨大な類人猿が、女性をさらって建設中のビルに逃走した。
    主人公はそれを追いかけ、妨害を避けながら、女性の解放をめざす

  というストーリーが用意されていました。また各キャラクターにも「マリオ」「レディ」など、固有名詞が与えられてもいました。
  『パックマン』(80年)はもっと記号的なゲームでしたが、四体の敵がキャラクターとして設定されていた点は、マリオを凌ぎます。それぞれ名前が付けられ、性格付けも施された上でアルゴリズムに反映されていたからです。
  シューティングゲームも、同様です。例えば『ゼビウス』(83年)には、とてもこの場では引用しきれないような壮大なバックストーリーが用意されていましたし、同じナムコの『ボスコニアン』(81年)では、当代きってのSFイラストレーターの手による壮大なポスターが制作されていました。つまり、プレイヤーが闘う世界に関する物語が用意され、登場する敵や背景のデザインなども、その世界観に基づいてまとめられていたのです。多少の音楽(ジングルといったほうが言い程度の短いものですが)も付くようになり、映像作品的な外観を獲得していきました。

◆ "シナリオ仕事"の範囲

 まず、論じる対象を考えてみしょう。「シナリオライター的なもの」とは何なのか、です。
  言葉というものは多様です。そして、古くからある言葉であればあるほど、意味スペクトルも広くなってしまいます。
  現実に、日本のゲーム会社で「シナリオ」と呼ばれる可能性のある仕事は、たいへん幅広いものです。ざっと挙げてみましょう。


  Ⅰ.ゲームにおける物語的要素の考案
     ・キャラクターに関する設定
     ・敵に関する設定
     ・武器やアイテムに関する設定
     ・世界観や自然法則に関する設定

  Ⅱ.ゲームにおける「脚本」にまつわる仕事
     ・ストーリーラインの考案
     ・シーンやカットに関する決定
     ・セリフやナレーションおよびト書きの作成
     ・演出や効果音に関する指示
     ・楽曲に関する指示

  Ⅲ.ゲームプレイの進行に関する諸決定
     ・ステージ/マップの全体的な配置
     ・ステージ/マップの設計
     ・獲得スキルの設定
     ・敵などの出現


 海外のゲームプロダクトの場合、シナリオライターの仕事が意味するのはⅡに限られるようです。Ⅰは「ワールドビルダー」、Ⅲは「レベルデザイナー」と、それぞれ別個の役割名が付けられています。また、演出・効果音や楽曲については、他職種との境界領域でしょう。
  ただ、役割名称の問題と、役割を担当する人間の問題とを混同してはいけません。少なくとも日本では、ワールドビルダーもレベルデザイナーも、独立した職種としては存在していないのです。これらの仕事は、それ以外の仕事も含め「企画」と総称され、ゲームデザインと同じ括りで扱われるのが基本です。加えて、このシリーズの基本的立場――「『誰の専門とも言い切れないが、誰かがやらなければならない仕事』を担当するのは、基本的にゲームデザイナー」――を踏まえると、あまり絞り込むわけにも行かないでしょう。
  そこで、まずゲームにおける物語のあり方を一通り検討し、物語の制作について一般的に論じた上で、レベルデザインやワールドビルダーの仕事へと話を進めていきたいと思います。

◆ はじめに

 冒頭で引用した短文は、対談の中での発言です。糸井重里さんは広告分野の代表的人材で、コピーライター(広告で使用する文章=キャッチコピーや本文を執筆する担当)という専門職の存在を世に知らしめた功績者でもあります。"星目がち"という言葉は、糸井さんならではのネーミングで、ようするに目の中に星がきらきらしてる(しすぎてる)人のことでしょう。
  さて、この「まちがいびと」ですが、ゲームの場合もやはりいるといえます。第1回の中で紹介した"不可解な志望者"たちも、糸井流の3類型でまとめられるでしょう。
  加えて言えば、どの類型に属するのかが、志望職種ごとにくっきりわかれているようにも思えます。
  プログラマ志望者に多いのは圧倒的に「ストレートなまね」です。"***のようなゲームを作りたい"といったあたりからモチベーションを刺激されている場合が多いからでしょうか。実習で出してくる作品も、ファミコン時代のアクションゲームのようなものばかりだったりします。まあ、この職種はそれでよしとする考えもあるのですが、技術屋に絶対必要な要素である「向上心」への作用としてはネガティブに働く場合が多いため、私としては危険な傾向だと思います。
  企画志望者の場合、二番目の「勘違い革命家」が該当します。この分野には「斬新なものはウケる」という素朴な信仰がありますが、それを狙っているうちに、単に「新奇」「珍奇」ばかりになってしまったりするのです。
  そして、三番目の「星目がち」は、やはりシナリオ分野に集中してきます。
  ソフトウェアという工学的な仕組みでできているゲームソフトは、その成り立ち上本質的に理工系なのですが、その中で、シナリオライターという仕事は、例外的に文科系です。また、実際のゲームプロダクトでも、「感動」「泣ける」の類が、肯定的な評価と共に語られる場合も多く、「そういうものを作ることがシナリオライターの役割なんだ」と思いこませるのに十分と言えるでしょう。


 本来、企画とシナリオは別の仕事です。ただ、大きな区分ではまとめられる場合が多く、両方を兼ねる形で仕事をする場合もあります(ex.企画を考え、それが通ったら自分でシナリオを書く)。私自身、会社に入ったときの役職名は「シナリオライター」でしたし、独立後はどちらの仕事もしていました。
  今回は、両要素の境界領域のテーマということになるのですが、内容的にあまり絞りこまず、現実に即した形でまとめていきたいと思います。

第10回 シナリオライター的なゲームデザイン

 広告の世界もそうなんだけどね、コピーライターになりたいっていう生徒に三種類のまちがい人がいる。ひとつはオーソドックスに先輩のまねをする人、もうひとつは先輩がやっても無駄だからやらなかったことを自分では革命だとか冒険だとか思ってやる人。もうひとつは"星目がち"な人たち。この三種類がいるんですよ。
  それを具体的に分ける方法を思いついたの。すごい単純に言っちゃえば星目がちな人たちは恋人にプレゼントする花束を野で摘んでくる人なの。要するに、ヒメジョオンでもわたしがまとめれば可愛いし、心がこもっていればいいと思っている人。もうひとつ、革命的な人たちはドクダミを持ってくる人たち。で、もうひとつは赤いバラとかカスミ草の組み合わせで持ってくる人なの。この三種類のまちがい人がいるわけ。


糸井重里 (宮崎駿『出発点』より;著者との対談から)