ゲームデザインエクセレント -3ページ目

注釈

*1 :"教育業界"には実に不愉快な人たちがいます
  実際には教育業界にいるのではなく、広告業界にいるのでしょうね。しかし、学校の名前で公にしている以上「広告屋が勝手にやったこと」というわけにはいかないでしょう。 本文におけるこのあたりの表現は、かなり過激です。ただ、そうならざるを得ないのです。なぜなら、ゲームデザインをバックボーンにしている私としては、彼らの言は「おまえなど、おらん!」と言われているのに等しいからです。 なお、世界規模でビジネスを展開している会社では、"日本でしか通用しない職種名"がかなり前から問題視されています。工学院のパートナーである(株)バンダイナムコゲームスの場合、グラフィック職種を「ビジュアル・アーティスト」と呼びますが、これは世界標準にあわせた呼び方に他なりません。手前勝手な"ゲームデザイナー"の定義は、この国のガラパゴス事例をまたひとつ増やすことに他ならず、責任ある機関のとるべき態度ではないと言えるでしょう。



*2 : 「ユーザーインターフェイス」という言葉で......  詰めて「ユーザインタフェース」と標記する場合があります。工業用語の標記ルールでは、語末の音引き記号を省略することが多く、"ユーザー"と"インター"にそれを適用しているのでしょう。いわばコンピュータを"コンピューター"と書かないようなもので、技術屋方言といって構いません。 なお、工学用語としての「インターフェイス」は、異なるシステムの境界になる部分を差して用いられます。コンピュータではソフトウェアでも用いられ、特にオブジェクト指向プログラミングにおいて重要な概念になってきます(ちょっと簡単にはいきませんので、これ以上の説明は避けますが)。




*3 内部構造とそれを導入させたコンセプト......  具体的には、フロアの途中に柱がない「チューブ構造」というものです。エレベータなどの区画を中央に集め、主にそこに強度保持をさせることで、他の柱を不要としたのです。フロアを広く使えることから、施工主には歓迎されたのですが、採用した理由はそれではありません。「取り壊して建て替えることが、ただの頑丈な箱よりも容易」というもの。この背後には「都市は生き物である」という哲学があります。どんな建物もいずれば古びますが、このとき壊しにくければ廃墟になってしまいます。それを避け、街の生命力を守るためには、取り壊し時まで考えた設計が必要であるとの思想が込められているわけです。 周知の通り、ツインタワーはテロリストの攻撃によって崩壊し、今はもうありません。飛行機衝突の衝撃が分散されることなく集中した上、航空燃料が内部で炎上、その結果、チューブの強度が一気に失われてしまったためと言われています。哲学を悪用されたと言えるでしょう。


*4 :プログラマにとって重要な判断基準 実際には、工学全体の価値基準かも知れません。以前、ある自動車評論家が"最近のエンジン周りの設計はなっとらん"と批判しているのを読んだことがあります。マニホールド(エンジンからの排気をマフラーに導くためのパイプ)を、滑らかな曲線ではなく、直線部分を延長したような不自然な繋がりにしてしまっている例が多すぎるという主旨でした。 私は車の設計に関しては素人ですが、それでもスバル・インプレッサのエンジンルームをみると、美学へのこだわりのようなものを感じます。逆に、三菱ランサーエボリューションのエンジンルームはいただけません。補機を、隙間を見つけてはごちゃごちゃと詰め込んだような感じで、どうも下品です。 だからといって、車好きなら承知の通り、両者の性能にはほとんど違いはないのですから、本当にどうでもいい部分ですね。


*5 :『ウィザードリィ』でいえばビショップ 魔法使い系と僧侶系の両方の魔法を覚えることができる職業です。一見便利そうですが、ものすごく成長が遅いため、実際にパーティーに加えると足手まといになる傾向がありました。このゲームでの転職は、基本パラメータが一定値以上になればいつでもできるため、まずは魔法使いか僧侶のどちらかで全魔法を覚えさせてから転職させるのが、使いたい場合の基本だったと言えます。 ゲームデザイナーに置き換えて考えてみると、あちこち示唆に富んでいるように思えてしまいます。

◆ 本気で目指すのなら

 ゲームデザイナーという仕事は、『ウィザードリィ』でいえばビショップのようなものかもしれません《*5》。新卒で最初から就くこともできますが、いったん別の職種で経験を積んでからジョブチェンジするという道もあります。
  私の場合は最初から企画屋でしたが、年代の近い同業者(多くが90年頃までに業界に入っています)の中でのジョブチェンジ組の比率は、決して小さくありません。10人集まれば、そのうちの5人は「元プログラマ」で、3人が「元グラフィッカー」といったところでした。残る2人に属する私自身にしても、創作者としての修行は主にマンガを通じて行ったといえますので、並べた場合は後者に近いということになると思います。
  しかし、「グラフィックスをバックボーンにしているゲームデザイナーがいる」という事実を、「ゲームプロジェクトでCGを担当する人がゲームデザイナーである」という妄言に結びつけるのは、やめて欲しいものです。
  そもそも、時代背景が違います。昔のグラフィッカーは、領域ならではの専門性は、さほど必要としませんでした。ファミコン/スーファミの表現力では、それを必要としなかったのです。デッサン力も、それほど高度なものは要求されず、反面ゲーム好きであることは事実上の必須条件となっていました。職種間の差異が少ないから、スムーズなジョブチェンジができたのです。今日のグラフィックス担当者は、何よりグラフィックスにおいて専門家であることが求められます。


 ゲームというのは、何かの代用品ではありません。一部、ゲームを「映画の一種」と捉える立場があり、それもファミコン/スーファミの頃はただの比喩だったのが、昨今では真顔でそう主張する人も見受けられるようになっています。しかし、勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。ゲームはゲームであって、映画ではないのです。映画のための技法はあれこれ参考になりますが、主語と目的語を逆転させたのでは本末転倒です。
  とはいえ、ひとつ言えることがあります。登山道は、登り口は別々でも、頂上に近づくにつれ次第に同じ道に合流していくということです。
  また、今日「ソフトウェアのデザイン」が求められるのは、必ずしも工学的な領域ばかりではありません。インタラクティブなメディアとして多用されるのはウェブやFLASHコンテンツなどですが、これらは存在自体がグラフィックスとプログラムの両領域の重なりだと言えるでしょう。


 例え、僭称的なゲームデザインコースに入ってしまった場合でも、本章で指摘したあれこれを理解し、自覚を持ってさまざまな機会を捉えていけば、「ソフトウェアのデザイン」をするための能力も磨いていけることでしょう。このことは、特にゲームとは関係のないグラフィックス専攻課程にいる人にとっても同じです。
  そして、逆側にも真はあります。ちゃんとしたゲームデザインコースに属している人も、「ゲームデザインとグラフィックデザインは全く異なる」という事実を、自分が勉強・修行を怠けるための理由に使ってはいけないということです。それが有用な知識体系であることを理解し、自分自身で活用法を見つけ出すつもりで、能力獲得に向けて努力していくべきものなのです。

◆ソフトウェアと美

 さて、ソフトウェアのデザインですが、ここまでの説明とはまた異なる側面で、追求すべきことがあります。「美」です。
  もちろんユーザーインターフェイス(の、特に画面)では、美しさは重要です。汚い画面のゲームはプレイする気が起きませんし(品質自体が低いように感じられてしまいます)、その美しさも作品性にふさわしいもの(=雰囲気を盛り上げるということですね)でなければだめでしょう。しかし、ここでいう美しさは、その意味ではありません。
  本シリーズの第1章では、機能と美という二面を示した上で、見えるものと見えないものとがあることを論じました。これはデザイン一般の価値観です。元来デザインの美というものは、見えない部分にも及ぶのです。
  例えば建築ファンが何かの建築物をすばらしいと思うとき、その外観だけに惹かれているわけではありません。ニューヨークにかつてあったワールドトレードセンター・ツインタワーは、外観的にはただの四角い柱です。それが高い評価を集めたのは、内部構造とそれを導入させたコンセプト、さらには裏付けとなる哲学の部分にあります。《*3》


 実は「美しい」は、ソフトウェア関係者......特にプログラマにとって、重要な判断基準です。プログラムは、直接的にはコードとして表現されます。その背景にはアルゴリズムがあり データ構造があります。またターゲット機のアーキテクチャによって導かれます。これらは工学的な仕組みですが、同時に、美が宿るものなのです。《*4》
  このような価値基準は、70年代あたりから始まっています。高級言語が使われるようになった結果、プログラムは言語的な創作物であると認識されるようになりました。そして、「美しく書かれたプログラミング」ということが、重視されるようになったのです。
  そもそもは、実用性から来ています。可読性の高いソースは、工業としての生産性を高めるからです。そして、直接のソースだけではなく、システム自体のアーキテクチャといった部分も同様です。洗練されたアーキテクチャは、何よりも理解しやすく、使いやすいのです。これが積み重なっていくことで、次第に価値基準として独立し、感覚としての"美しい"が確立されていったのだと考えられます。


 このあたり、実例から離れて論じることは難しく、取り組んだ経験がない人を説得する自身はありません。ただひとつ指摘できることがあります。私たちは、数学的な調和に対し、美しさを感じるということです。
  対称性のあるもの。リズムを持つもの。構造化されたもの。そして論理的なもの。それらは、そうでないものと比べた場合、あきらかに美を感じさせます。実用性ばかりではなく、審美性においても、私たちは対称な配置を好むのです。こうした美はあくまでもその関係性自体に感じている美で、形そのものへの美観とは異なります。
  初学者には実感が持てないかも知れません。しかし、この美意識の存在は、とりあえず信じてください。


 ゲームデザイナーは、ソースコードの美までは共有することはありません。しかし、システムそのものの美しさには、直接の責任を負う立場です。こうした価値観およびそれが存在する理由について理解し、自分自身の持ち物の一つとしている必要があるでしょう。

◆使いこなしのシナリオ

 「ユーザーインターフェイスのデザイン」というテーマは、道具レベルと装置レベルとでは、かなり違う様相を呈してきます。個々の画面やコントロールのデザインであれば、道具レベルの問題で済むでしょう。しかし、ソフトそのものは、装置として捉えなければならない複雑さを持つ場合が大半です。
  ちゃんと使うためには、ユーザーは手順を踏んで使い方を理解していかなければなりません。この手順は、作り手によって、ソフトウェアの操作体系の中に組み込まれるものですが、どのように組み込むかによって、そのソフトの使い勝手は全く変わってしまいます。逆に言えば、いいソフトを作るためには、いい手順を組み込まなければならないということです。
  これについて私は近年「ソフトウェア・シナリオ」というものを考えています。
  これはユーザーに対するシナリオです。まずそのソフトを使うユーザーを考え、その人が実際にたどるであろう道筋を想定します。そして、それにふさわしい形で各要素を配置していくのです。ユーザーは、ソフトを使いながら成長し、最終的に「使いこなしている人」になるわけですが、そこにいたる道筋をユーザー任せにするのではなく、ユーザーがたどるべきシナリオとしてきちんと想定した上で、デザインの中に組み込んでいくということです。


 そもそも"使われる物"のデザインには、具体的ユーザー像を想定することが、本来不可欠です。しかし、ソフトウェアではあまり重視されていませんでした。......彼/彼女は、まず最初にマニュアルを読む。そして、全ての機能とコマンドを十分に理解したうえで、ソフトを使いはじめる。「そのソフトを使って何をするのか、何ができるのか」といった問題は、導入を決めた時点で明確であり、それまで別の方法や他のソフトを使って進めていた仕事は、ただちに新ソフト上に移行され、投じた資金(=ソフトの値段)にふさわしい見返り(=能率向上)を、手にし始めることができる......と、こんなきわめて観念的なユーザー層が想定されていたのです。
  現実にはどうでしょうか。マニュアルを全く無視するような人は少ないのですが、多くは熟読する前にまずソフトを起動してみるでしょう。そして、過去の経験を元に、あれこれいじってみるはずです。高機能なソフトでも、そのソフトの全てを最初から使おうとはせず、まず使える機能を理解して、限定的な形で自分の仕事に適用していくでしょう。また、「そのソフトを使って何をするのか、何ができるのか」への見通しも、多くの場合明確なものではありません。映像編集ソフトを買う場合、「子供の運動会ムービーをデスクトップで編集したい」といった意味での"使用目的"は持っています、具体的にそれがどういうソフトウェア操作を意味するのかまで理解しているとは限りません。そういうことは、あれこれやりながら理解していく......これこそが、ユーザーの実像でしょう。
  これは「ソフトを使いながら成長していく」ユーザー像と言えます。


 ゲームの場合、アクションなど反射神経で楽しむものは、ある意味単純明快です。しかし、シミュレーションのように主に大脳で楽しむものでは、かなり複雑な操作を必要とする場合がありますし、その複雑さ自体が楽しみの素という場合もあります。
  ただ、より多くの人に本気でプレイして貰うためには、初心者をどうやって上級者に育て上げていくのかを考えなければなりません。それには、ただ丁寧なマニュアルをつけておけばいいなどということはなく、ソフトウェアそのものをシナリオを意識して作っていくべきなのです。

◆ デザイン対象としてのUI

 実際のゲームを念頭に置くと、ユーザーインターフェイスのデザインは、非常に広範囲な作業となります。
  これは、起動してから実際に遊び始めるまでのプロセスを考えれば、解るでしょう。起動画面があり、キャラメイクなど初期の設定を行って、いよいよゲームに。そしてゲーム中も、戦闘画面やステータス画面など、さまざまな画面モードを切り替えながら進めていくことになります。ユーザーインターフェイスのデザインには、こういう画面の遷移やコマンドの階層といったグローバルな構造も含まれますし、個々の画面構成要素の形状やふるまいなども当然対象になります。極端な話、アイコンやコントロールのデザイン・アニメーションまで含まれてくるのです。そして、何を見せ何を隠すかも判断しなければなりません。
  冒頭短文の引用元である『クロフォードのインタラクティブデザイン論』は、ソフトウェア一般を対象にユーザーインターフェイスのデザインを説いた本ですが、決してノウハウ集の類ではありません。1テーマだけの本とは思えない高い密度で、非常に深く書かれています。理解の前提になる知識も、文系理系を問わない広範な分野に属するものです。


 デザイナーにとって大事なのは、「テンプレートに押し込めない」ということです。ソフトウェアのふるまいやユーザーに求めるアクションについて、「この分野ではこうすることになっているから」で決めてしまうのではなく、しっかりした根拠を持つと言うことなのです。このあたり、前回指摘した"様式"問題と共通します。そちらでは「面白いかどうか」がキーワードでしたが、こちらでは「使いやすいか」(使うにあたって適切か)が求められると言えるでしょう。
  もちろん、見た目の美しさも、使いやすさの一部ですし、ときには引き替えにすることもあるかもしれません。ただ、そのような検討なしで行った制作は、例えどんなに美しかったとしても、デザインとは言えません。


 多彩で多様なテーマですが、一つ注目ポイントを挙げれば、「"使われる物"であることへの十分な配慮」です。
  そもそも、ソフトウェアは『装置』です。「文書を作る」「データを処理する」といった目的を達成するために使うものです。この本質は、ゲームの場合も違いはありません。プレイヤーが遊ぶための装置なのです。
  さて、"使われる物"には、重要な条件があります。使いやすいものでなければならないということです。
  そして使い方を示唆する形状をしている必要があります。例えばノブが付いているドアを開けるとき、引き戸のようにスライドさせようとする人はいません。ノブをどちらかに回した上で、押すか引くかをやってみるでしょう。ドアノブというデバイスが、その使い方を示唆しているのです。今日のユーザーインターフェイスにおいてメタファー(比喩)が多用されているのは、ここから来ています。画面上にボタンの絵が描かれていれば、押す(クリックする)ものであることが一目でわかりますね。
  そしてもう一つ言えるのは、「何をすれば何がおきるか」の予測が付くということ。ある処理を理解したら、その類推で、他の処理も理解できるというようなものです。
  ただ、「道具」といわずして「装置」という点に、問題の一端が伺えますね。かなづちやノコギリも何らかの目的を達成するためにありますが、これは装置ではなく道具です。手にとれば、ある程度使い方も解るでしょうし、使っている人が近くにいれば、見よう見まねでやってみることができます。ところがソフトウェアは道具ではなく装置で、見ているだけでは使えるようになりません。

◆ ユーザーインターフェイスを作る

 ゲーム画面というものは、とにかく見続けられる存在です。現代のメジャータイトルは、百時間以上のプレイ時間が想定されていますが、この間ずっとプレイヤーは画面を見ています。『スターウォーズ』の全エピソードを通して見たってせいぜい13時間程度ですから、途方もない水準と言っていいでしょう。
  なぜ、こんなに長時間、見ていられるのでしょうか。絵としてスターウォーズの数倍優れているからではありません。それが、プレイヤーにとってゲーム世界に向けて開かれた唯一の窓口だからです。見ていないことにはゲームが続けられないから見ているのです。


 コンピュータでのユーザーによる入出力のあれこれを、「ユーザーインターフェイス」という言葉で呼びます。《*2》
入力の中心にあるデバイスは、ゲーム機の場合、キーパッド。数個のボタンと2本の方向スティックという組み合わせが、今日では基本でしょう。パソコンであればキーボードやマウスが、DSやiPhoneならタッチパネルが、これに該当します。プレイヤーは、これらのデバイスを通じて、システムに指示命令を伝えます。
一方、出力は、映像+サウンドです。振動などもありますが、補助的なものでしょう。実際のデバイスとしては、テレビなどの機器が用いられます。これらを通じて、システムから情報が与えられるのです。
入力と出力は、実際には一体的です。プレイヤーは出力を得つつそれを元に入力を行い、システムは入力をリアルタイムに処理して出力していきます。ゲームにおけるユーザーインターフェイスは、このような相互的なやりとりとして把握する必要があります。


 さて、ユーザーインターフェイスという視点からゲーム画面を考えれば、それが単なる絵でないことは、明白でしょう。
  画面上の構成要素には、しばしばなんらかの"ふるまい"があります。ボタンやアイコンが現れ、選択などを求められます。また、メイン画面上にもそれを操作することで何らかの入力ができるインタラクティブな構成要素(=コントロール)が配置されることがあります。そして、これらの結果、画面モードやプレイヤーの状態などが変化したりします。画面をデザインするということは、そうしたふるまいも含めてデザインするということなのです。
  もちろん、画面の中心的機能は、プレイヤーへのインフォメーションの提供です。世界の状態......自分がどんな場所にいて、そこがどうなっていて、どこにどんな敵がいるのかなどは、(ゲームの種類により具体的か抽象的かの違いはあるものの)第一には画面で示されますし、アイコンやサブウィンドウあるいは文字・数字の直接表示などによって、補助的に伝えられます。ただ、この場合も何をどう提示するのかはゲーム性に直結する問題で、絵としてかっこいいかどうかで決めているわけではありません。
  単に絵があればいいというだけなら、グラフィックス担当の仕事でしょう。一方、ソフトウェアのふるまいを実際に作るのは、プログラマの役割です。しかし、ユーザーインターフェイスのデザインという視点からこの作業を見ると、どちらとも違うと言わざるを得ません。
  本連載の最初の回で書いたように、<b>「誰の専門とも言い切れないが、誰かがやらなければならない仕事」を担当するのは、基本的に企画屋</b>です。ゆえに、ユーザーインターフェイスのデザインは、基本的にゲームデザイナーがしなければならないものなのです。

◆ 企画におけるビジュアル

 まず話の取りかかりとして、企画職にとっての「グラフィック力」――絵や図を描いたり、文書や画面をレイアウトしたり配色を決めたりと言った能力――の位置づけを確認してみましょう。
  不要か必要かと言えば、一応必要です。しかし、重要かどうかといえば、実はそれほど重要ではありません。


 第5回「ゲームデザイナーの条件」では、「図を描ける」「レイアウトができる」を、会話や文章と同レベルの基本的スキルとしてあげています。
  これはこれで、大事なことです。
  言葉だけでは伝えにくいことを伝達するためには、図が必要になります。
  文書にとって「読みやすい」の重要性は言うまでもないでしょう。文章そのものが解りやすく書かれていなければなりませんが、それをまとめた文書の方においても、魅力的に見せる工夫が必要です。
  そして、企画書では、具体的な画面の案を示す必要があります。
  ただ、これらはプレイヤーに見せるものではなく、制作者側で内部的に利用されるだけです。ゆえに、絵としての魅力は、必要はありません。重要なのは、「読みやすい」「解りやすい」なのです。
  魅力ある絵を作るためには、ひらめきなど、勉強だけでは届かない部分が重要になります。ところが、読みやすさ・解りやすさを目的とする場合は違います。この要素は、相当部分が研究済みなのです。知識として確立された「読みやすい/解りやすい」があるわけで、企画屋であれば、これをきっちり学ぶことで到達できるレベルの画力があれば十分だと言えるでしょう。
  これはいわば"楷書のデザイン"です。面白みには欠け、ユニークさも出しづらいのですが、基本中の基本です。グラフィックデザイン自体を仕事にしている人なら"草書のデザイン"もできなければなりませんが、企画屋は基本を押さえていれば十分なのです。


 では、ゲーム本体で使うグラフィックスについては、完全に専門職に任せきってしまっていいのでしょうか。
  このあたりは性格にもよるのでしょうが、私としては自分が全く知らないことを他人に預けてしまうのは嫌です。「できるけど今イチ」「できないけど解っている」であれば委ねても問題ないのですが、知らないままというのは、気持ち悪くて嫌なのです。実際、企画屋は、上がってきた原型のいい悪いを判断しなければならないことが、しばしば発生します。全く解らないのだとしたら、イエスかノーで答えるしかありません。しかし現実の仕事では、共同作業で着地点を探っていかなければならないことが大半です。
  この種の気持ち悪さを感じそうなら、ちゃんと勉強した方がいいですし、それには自分が作者として取り組んでみるのがいちばんだと思います。例えば「ゲームデザイン学科」において、選択科目としてCGの科目が存在するのは十分に意義のあることでしょう。


 とはいえ、実は"デザイナー的な"において重要なことは、こうした部分ではありません。「ゲーム画面を作る」ということは、実際には単に「絵を作る」こととは異なる次元の問題を含んでいるからです。

◆ 僭称者たちへまず一言

 第1章でも書きましたが、"教育業界"には実に不愉快な人たちがいます《*1》。ゲーム会社におけるグラフィックス担当者を勝手に「ゲームデザイナー」と称し、学科名称に付けたり、パンフレットの「卒業後の進路」に記載したりする手合い="ゲームデザイン僭称者"たちです。


  ゲームデザイナーという言葉は、自然発生的に登場してきましたが、現在では確立した用語です。そういう場合、たとえ読み取れる別の意味があったとしても、使わないのが良識。例えば敬称のつもりで相手に「貴様」なんて呼びかける人はいませんよね。「"ゲーム"のグラフィック"デザイナー"だから」なんていうのは、「"貴"も"様"も敬語だから」といっているのに等しい屁理屈です。そして、感じる憤りも、いきなり貴様呼ばわりされたのと変わりません。


  言葉の背景には、長年にわたる関係者の取り組みが存在しています。いくつもの議論が積み重ねられ、ようやく意味が確立されているのです。例えば、ゲーム開発者の世界会議であるGDCでは、「Game design」は、「product」や「visual art」などと並んで、扱われる6つのメジャーテーマの一つとして位置づけられています。"ゲームプロダクトをどう運営していくのか"などと同格の重要テーマであるとの認識があり、現代のゲームはこうした理解に支えられて作られているのだと言えます。


  本来、教育機関は、ゲーム界の一翼を担う立場です。である以上、こうした動向にちゃんと目を向け誠実な態度をとって欲しいと思うのですが、彼らの進んでいる方向は全く逆。先日、文部科学省の予算で作られている人材開発をテーマにした報告書の表の中に、職種区分として「ゲームデザイナー(2Dデザイナー、3Dデザイナー)」などという項目があるのを発見しました。中央官庁の持つ政治力まで動員して、黒を白だと言いくるめようとしているものに思えてなりません。


 さて、わざわざこんな話から始めなければならないのは、今回の話題が、まるで彼らの主張を裏付けるかのようにとられてしまうおそれがあるからです。


  第二部になってから、「ほんにゃら的なゲームデザイン」というタイトルのもとで書いてきたあれこれは、多くの場合その"ほんにゃら"とゲームデザインの境界領域の話でした。時には境界どころか純粋に"ほんにゃら"の話であったりもしました。で、今回です。「デザイナー的なゲームデザイン」の名で語ろうとするのは、グラフィックデザイナーの仕事とゲームデザイナーの仕事の境界線部分にあるあれこれなのです。

第9回 デザイナー的なゲームデザイン

  デザインは必ず動詞から始めます。まず技術ありき、という考え方を捨てます。話したがりの自尊心を抑制します。ユーザーのアクションには素早く反応します。動詞を論理的なグループにまとめます。使用頻度の高い動詞はすぐにアクセスできるようにします。ツリー構造は、できるだけ均等にします。大局を見てデザインするようにします。誤った期待を持たせないようにします。何を言いたいのか明確にします。問題を説明するのではなく、解決策を提示します。1つの声で5種類の口調を使い分けます。


クリス・クロフォード『クロフォードのインタラクティブデザイン論』オーム社P.101より

【注釈】

*1 :設計思想のことをアーキテクチャと......
  コンピュータ用語の「アーキテクチャ」は、実は建築用語からの借り物らしく、本来的な意味だと「建築様式」になってしまうらしいです。よりによって"様式"が導かれてしまうところが、皮肉なものですね。ゆえに、この辺りの説明を英語に翻訳すると何言っているのか解らない毒電波な記述になってしまいそうですが、当面は日本オリジナルなので、いいとしましょう。


*2 : 日本ではタカラトミーが発売元 このあたりは、細々と説明するよりも、公式サイトを見た方がいいでしょう。詳しくはこちら(http://www.takaratomy.co.jp/products/monopoly/ )をみてください。 なお、後述する『人生ゲーム』も、同じ会社の製品です。URLは、こちら(http://www.takaratomy.co.jp/products/jinsei/ )になります。さまざまなバージョンが紹介され、またマスのひとつひとつを見ていくこともできるため、一見の価値ありです。


*3 同じゲームモデルを採用したさまざまな製品が存在 例えば、タカラ『億万長者ゲーム』。このゲームの特徴は、権利を設定できる地名コマによる周回路以外に、「資金稼ぎゾーン」という小さなサークルがあります。スタートから資金が一定額に達するまではこちらを回る必要があり、またそれ以降も必要感に応じて周回していくことができます。地名は世界都市で、ニューヨーク・ロンドン・パリ・東京・モスクワが世界5大都市という扱いでした。 他、日本版がエポック社から発売されていた『ペトロポリス』。地名が産油国に、家が油井になっています(ボードそのもののデザインももちろん異なります)。つまり、国際石油資本をモチーフにしたゲームということですが、特段の斬新さはなかったように記憶しています。 なお、ボードゲームである以上、実際にどういうルールで遊ぶのかは参加するプレイヤーの合意に任されているといえますね。『はなやまのバンカース』を子供の頃に遊んだときの記憶では、プレイヤー間の取引はなかったように思いますし、家を建てるのも土地ごとにできたように記憶していますが、私の友人宅でのみ通用したローカルルールなのかも知れません。現在、復刻版がアマゾンで購入できますので、確認できなくはないのですが。


*4 :経済という題材があり、それをモデル化している 『モノポリー』には、「マフィアのしのぎをゲーム化している」という説もあります。土地がいちいち権利金で売り買いされ、そこに立ち寄っただけでレンタル料を取られるのも、ようはストリートごとに縄張りがあって、みかじめ料を取り立てているということ。鉄道会社と公共会社は、さしずめ企業舎弟でしょうか。