◆ アップル流のユーザー観 | ゲームデザインエクセレント

◆ アップル流のユーザー観

 ここまで「遊び」一般を論じてきましたが、話をゲームに限定すると、「なぜ楽しいのか」という問いかけは、また別の意味も帯びてきます。例えば、こんな説教をされた経験はないでしょうか。

    「なんで君たちはゲームをするのだ。
     そんな時間とエネルギーがあるんだったら、
     ***をすればいいではないか!」


  何かをゲーム化した場合、結果的に元となるその"何か"とはかけ離れたものになってしまうことがあります。典型例は、スポーツゲーム。野球・サッカー・テニスと、さまざまな人気スポーツはゲームにおいても重要カテゴリーですが、プレイヤーが実際にしていることはテレビの前でパッドを握ってるだけ。「そんなことやってるんなら、外に出てサッカーボールでも蹴って来い!」といいたくなる人の気持ちも、込められている意味(=ゲームはスポーツよりも低級な遊び)の不当さはさておき、わからなくはないですね。でも実は小さくない問題提起です。
  例えばRPG。「剣と魔法の世界で、戦いを通じて成長し、冒険する」と称していますが、実際にやっていることは「コマンドの選択を繰り返して変数の演算処理を実行」の連続です。戦闘も多くはターン制で、自分のコマンド選択が終わるまで、時間は静止している状態。戦闘の舞台も、狭いはずのダンジョンにドラゴン数匹がいたりとか、ありえない設定になっています。こんなものに、なぜ私たちは熱中できるのでしょうか。
  ターン制という点では、タクティカルシミュレーションも同じです。「司令官になって軍隊を動かし、戦争を遂行」というのですが、しょせんは「大規模・複雑化しただけの将棋」といえそうです。敵の全部隊が移動し終わるのをじっと待っている軍隊というのは、現実的ではありませんね。また、変数の処理という点は、恋愛シミュレーションゲームも同じでしょう。そしてこのカテゴリーの場合、「絵で描かれただけの女の子を恋愛感情の対象にして、何が楽しいの?」という、アニメブーム以来40年近くも繰り返されてきた嘲笑交じりの問いかけが、形を変えて出現してくるのです。


 今回の冒頭に掲げた短文の引用元は、アップル社によるソフトウェア開発者向けの文書です。
  元々コンピュータは「訓練を受けた者が使う」と考えられていた道具です。80年代になって個人用(=パソコン)が登場しても基本的に違いはなく、マニュアルや技術書をしっかり読んで理解していることが、ユーザー像として想定されていました。しかし現実には、そんな人ばかりではなく、16ビット機の時代を迎えた80年代前半には、パソコン="勉強しないと使えない、マニア的な道具"という常識が形成されていました。その状況でアップルは、誰にでも自然に使える道具として、GUIを本格的に取り入れたパソコン、"Mac"こと『マッキントッシュ』を発売します《*2》。そして、Mac上で動作するソフトウェアのインターフェイスを統一するため、プログラマたちに、具体的なユーザーモデルとそれに基づく設計思想を、ガイドラインとして伝えたのです。
  そこで論じられているユーザー像は、ユーザーインターフェイスのデザインという技術的なテーマに基づいてはいるものの、それを超えた普遍性を持っています。特に、次のような考察は、注目に値します。


   ○人間には環境をコントロールしたいという欲求がある
    ○人間は、自分の行為を掌握することを欲している。
   ○人間は、記号や抽象表現が得意である


  つまり、接していて快適である環境は「把握可能な水準でモデル化された、記号化・抽象化されたシステム」ということになるでしょう。これが意味するものは、現実世界との対比で考えるとはっきりしてきます。現実世界は、ありのままのシステムです。把握不可能な規模と複雑性を持ち、原因と結果の関係は予測困難です。このような場で暮らしていくことに、私たちはストレスを感じます。そこで、自分の関わる範囲を狭く限定したり、あるいは現実を抽象的に理解したりして、自身の望むものとの間に折り合いを付けていくのです。
  逆に言えば、ドラクエ世界が楽しい場所である理由は、最初からそうなっていることに求められます。同じファンタジーRPGでも、例えば『オブリビオン』の世界であれば、かなり現実に近いことになってしまいます。プレイヤーには極端なまでの自由が与えられ、世界は多様で、目的性もあるわけではありません。その環境下でのプレイは、基本的にストレスです。チャレンジングな状況を常に追い求めているアスリートタイプの人にとってはストレスこそ喜びでしょうが、一般人はそうではありません。ゆえに一般人をプレイヤーとして意識する場合、世界は適切にデザインされなければならないのです。