◆山田の"快感空間理論" | ゲームデザインエクセレント

◆山田の"快感空間理論"

 ここまでは先人の説を紹介してきましたが、ここでオリジナルの考えを述べさせていただきましょう。私が自分で「快感空間理論」と名付けているものです。


 まず、「楽しい」について確実に言えることがあります。心の作用だということです。ある刺激を受けた場合、刺激そのものは物理量として存在しますが、それは直接「楽しい」を導くわけではありません。心の中に「楽しい」を感じる何かがあって、それとの関係で生じてくるはずなのです。


  よく似た別のものとして、食べ物で例えてみましょう。味は、本来なら「食品の持つ、化学的状態」です。味覚受容細胞の反応という意味では、5つの基本=甘味・酸味・塩味・苦味・旨味に分けることができるもので、それが混じり合うことで特定の味となってきます。実際には、辛い・渋いなどの物理的刺激も重なるためもう少しの幅がありますが、だいたい10種類ぐらいのパラメータを想定すれば、味を数値的に指定することができるでしょう。


  ただ、それを舌で受け取ったとしても、その時点では単なる情報にすぎません。他とは違う特定の何かを感じるのは脳の作用であり、それを「うまい」という形で快感に置き換えるのは心の働きです。そして、どんな化学的状態を快感に感じるのかは、その人によって違いがあります。例えば納豆は、私にとっては「うまい食べ物」ですが、そもそも食べ物として認識できない人にとっては「腐った豆」という化学的状態そのものに過ぎないといえます。また、ある程度の経験を積まないことには、うまいと感じられない食べ物もあります。幼い子供にとって、ウニ、牡蠣、カワハギの肝といったものは、うまいまずい以前に「気持ち悪い」に過ぎません。


  ともあれ、味覚のパラメータを10種類とすれば、味は10次元空間のどこかにプロットされる座標として表現できることになります。そして、食べ物は単独の味だけで構成されていることはあり得ないので、集合的に表現されるものとなるでしょう。つまり、「味空間内に存在する幾何(空間)ベクトル」と捉えるべきものです。ただ、化学量・物理量としての「味」と心理量ともいうべき「旨い」は、同じではありません。人間の心理にも「旨さ」のパラメータがいくらかあり、「旨さ空間」は「味空間」と密接に関係しながらも、独自の広がりを持っているのです。


 で、ゲームの場合です。


  ゲームの楽しさは、味覚のような、感覚細胞に由来する状態はありません。しかし、心の作用として「楽しい」をもたらすという点では、食べ物のおいしさと同様のことがいえるでしょう。「面白い」を感じるための基本となるパラメータが何種類もあり、特定の「面白さ」は、その空間の任意の点を占める座標であるということです。これは「頭の中に快感空間が広がっている」と捉えることもできます。そして、食べ物が味空間内においてそうであるように、ゲームも「快感空間内に存在する幾何ベクトル」と捉えられるでしょう。


  このベクトルは、刺激として働きます。全く未知のベクトルは刺激を強く感じてしまいます。基本的に警戒心を持ってしまうため、プレイヤーはある程度似通ったベクトルを好む傾向があります(1)。とはいえ、同じ刺激ばかりを繰り返し受けていると、だんだん感覚が鈍っていって、あまり反応しなくなります(2)。そして新しいベクトルも、その強い刺激自体は本質的に快感である可能性が高いわけで、何かのきっかけから受け入れるようにもなります(3)。


  これが、だいたい好みのジャンルがある理由(1)であり、同じゲームばかりやっていると飽きてしまう理由(2)であり、新しいジャンルを開拓していく理由(3)です。また、単にデータを差し替えただけのゲームをやっても新作として楽しむことが難しい理由も、ここにあります。それは、空間上の位置は別の場所かも知れませんが、ベクトルとしては同じになってしまうのです。


  さて、快感空間は、経験と共に発展してきます。「旨さ」における珍味類と同じようなものです。これは、面白さを表すための変数が増えたということです。


  初めてゲームに触れたとき、今から思えば他愛のないものでも、すごく面白く感じられました。極端な話、テレビ画面上のキャラクターが自分の操作で動くというただそれだけで楽しかったのです。しかし、少し進めていくと、スコアや面クリアなど、成果が出ないと楽しさが感じられなくなります。やがて、ビジュアルやサウンドへの注文、ストーリーラインへの期待、ソフトウェアとしてのパフォーマンス、実にたくさんの「面白い」パラメータが増えていき続けることになります。