◆ ロジェ・カイヨワの4分類 | ゲームデザインエクセレント

◆ ロジェ・カイヨワの4分類

「ホモ・ルーデンス」という言葉をご存じでしょうか。


人間の種としての学名は、"考えるヒト"を意味する「ホモ・サピエンス」です。ホモ・ルーデンスはこれをもじった言葉で、"遊ぶヒト"という意味になります。唱えたのは、20世紀前半に活動したオランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガ。それまで学術の分野ではあまり重要視されていなかった「遊び」を正面から肯定的に捉えた論考は、当時としては大きなインパクトを持っていました。《*1》


そして、この問題提起を受け継ぎ発展させたのが、ロジェ・カイヨワです。1958年に発表した『遊びと人間』の中で、その後大きな影響を与える理論を展開したのです。


カイヨワは、人類の遊びを「意志⇔脱意志」「ルール⇔脱ルール」という2つの軸でとらえました。そしてこれを直交させることで、4つの類型をみちびきました。


意志+ルールは、参加者がルールの下で明確な意志を持って参加する類型を言います。例えばチェスなどがそうですね。これを「アゴン」(競争)といいます。チェスなどのボードゲームの他、競技スポーツ一般がここに属します。


これに対し、ルールはあるものの、参加者の意志で進行するわけではない遊びの類型もあります。例えば、ギャンブル。「勝ちたい」という意志は皆共通ですが、結果はそうした意志とは関係ありません。一方で、ルールは妥協の余地なく厳密に適用されます。これを「アレア」(偶然)と呼びます。


一方、ルールの側が否定されるタイプの遊びもあります。例えば子供のごっこ遊びは、積極的な意志のもとで遊ばれるものの、勝敗は付きません。これを「ミミクリー」(模擬)と言います。おままごとなどが該当しますし、演劇もここに含まれます。


そして、意志とルールのどちらも否定される遊び。これらに対してカイヨワは「イリンクス」(めまい)という呼び名を与えました。ブランコからジェットコースターまで、たいへん大きなカテゴリーになってきます。


「ホモ・ルーデンス」という言葉をご存じでしょうか。
人間の種としての学名は、"考えるヒト"を意味する「ホモ・サピエンス」です。ホモ・ルーデンスはこれをもじった言葉で、"遊ぶヒト"という意味になります。唱えたのは、20世紀前半に活動したオランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガ。それまで学術の分野ではあまり重要視されていなかった「遊び」を正面から肯定的に捉えた論考は、当時としては大きなインパクトを持っていました。《*1》


そして、この問題提起を受け継ぎ発展させたのが、ロジェ・カイヨワです。1958年に発表した『遊びと人間』の中で、その後大きな影響を与える理論を展開したのです。


カイヨワは、人類の遊びを「意志⇔脱意志」「ルール⇔脱ルール」という2つの軸でとらえました。そしてこれを直交させることで、4つの類型をみちびきました。


意志+ルールは、参加者がルールの下で明確な意志を持って参加する類型を言います。例えばチェスなどがそうですね。これを「アゴン」(競争)といいます。チェスなどのボードゲームの他、競技スポーツ一般がここに属します。


これに対し、ルールはあるものの、参加者の意志で進行するわけではない遊びの類型もあります。例えば、ギャンブル。「勝ちたい」という意志は皆共通ですが、結果はそうした意志とは関係ありません。一方で、ルールは妥協の余地なく厳密に適用されます。これを「アレア」(偶然)と呼びます。


一方、ルールの側が否定されるタイプの遊びもあります。例えば子供のごっこ遊びは、積極的な意志のもとで遊ばれるものの、勝敗は付きません。これを「ミミクリー」(模擬)と言います。おままごとなどが該当しますし、演劇もここに含まれます。


そして、意志とルールのどちらも否定される遊び。これらに対してカイヨワは「イリンクス」(めまい)という呼び名を与えました。ブランコからジェットコースターまで、たいへん大きなカテゴリーになってきます。


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ホイジンガの考えの背景には、文明の考察があります。元来彼は古代や中世の文明を研究する歴史学者でした。文明には遊びがつきものですが、通常「文明の結果として」登場するものと思われていました。しかしホイジンガはここに疑問を持ち、文明よりも先に遊びがある=「遊びが文明を作る」という、それ以前の常識からは逆説としかいいようのないテーゼをうちたて、諸文明における遊びを論じていったのです。


一方、カイヨワの説の背景には、ある種の進歩思想があったようです。......従来の遊びはミミクリーとイリンクスの合一を中心としてきたが、これからはアゴンとアレアの合一が中心になるようにしていかなければならない、といったものです。


ただ、どちらの説も、提唱者の思惑を離れ、遊びを論じる文脈ではたいへん広範に引用されています。