こんにちは。

今回は律法について考察していきます。

 はじめに

律法について考察しようとしたきっかけは、僕自身が聖書の中で重要な用語を実は理解できてないのでは、と思ったからです。

 

まず、本題に入る前に律法は廃止されてないことについてお話ししておきたいと思います。

「クリスチャン」を名乗る人たちの間では、「律法は廃止された」と言う人がたくさんいます。

ですが、主イエスはこのように明言されていました。

 

約聖書 マタイによる福音書 五章十七節〜二十節(ミカエルさんの訳)
我が来たんは律法や預言者を廃止するためにやと考えたらあかん。廃止するためやのうて、実現しに来たんや。確かに、あんた方に言うとく。すべてのことが起こるまで、天地が消滅するまで、律法の文字から一点一画消えることはない。せやから、もし誰かがこれらの掟の最も小さなものを一つを破棄し、そうするうように人々に教えるなら、各天の国で最も小さい者と呼ばれるだろう。しかし、それを行って教える者は、その人は各天の国で優れた者と呼ばれるだろう。 確かに、言うとく。あんた方の義が律法学者やファリサイ派の義よりも優れてなければ、あんた方は決して各天の国に入ることがない。

(引用元:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」)

 

これ以外にも律法が廃止されてない根拠はたくさんあります

律法が廃止されてないことについて詳しく理解したい方はこちらの記事をご覧になることをお勧めします。

では、ここから「律法は誰が作ったのか」、「律法はいつから存在するのか」、「律法はなぜあるのか」といった視点から律法について考えていきたいと思います。

 律法は誰が作ったのか

律法は誰が作った法なのか、はっきりさせたいと思います。

結論から言えば、律法を作られたのは主イエスです。

その根拠として、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」[ヨハネによる福音書‬ ‭一章一節〜三節]

などが挙げられます。

 律法はいつから存在するのか

律法がいつから存在するという点について多くの人は誤解しています。

律法はモーセの時代以前は存在しなかった、と考える人が決して珍しくないと思いますが、本当はそうではありません。

ヨセフは、かつてエジプト人ポティファルの妻に「わたしの床に入りなさい。(創世記三十九章八節)」と迫られた時こう言いました。

「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。 この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。(創世記‬ ‭三十九章八節〜九節)」

と述べたことから、何が罪かをヨセフは知っていたことが分かりますり

他にもモーセの時代以前から律法があったと言える証拠は存在します。

律法はモーセ以前にもあった。その証拠は創世記二十六章五節にある。新共同訳は「戒めや命令、掟や教え」としてるが誤訳であり、日本聖書協会は口語訳(千九百五十五年)と新共同訳(千九百八十七年)編纂の時は「律法」という言葉を避けて別の単語に故意に誤訳し、聖書協会共同訳(二千十八年)でようやく「律法」と訳した。実際、当該聖句の原語は、トラー(וְתוֹרֹתָֽי)であり、まさに「律法」なんや。律法をトラーってヘブライ語で言うさかい。アブラハムの時代で既に律法を守ってたことが明らかや。
市販の日本語訳聖書では見落としがちな点だと思いますが、律法がモーセの時代以前にもある根拠を上記のミカエルさんの解説からわかっていただけたかと思います。
 

 律法はなぜあるのか。

律法について「クリスチャン」を名乗る人たちの中でも、「束縛のためにある」とか「律法は束縛である」といった考えを持つ人が少なくないようです。

ですが、この考えは間違っています。

「主なる神がモーセを通して律法を人間に授けたのは、人間が御子イエスに似る者とするためであり、束縛するためでは決してありません。

(引用元:真の聖書福音と預言「本物の愛」)

主は決して人々を拘束するために律法を授けられたのではありません。

実際に律法の内容を見てみると、律法は束縛とは言えないことがわかります。

(画像引用元:https://x.com/fu4l1s8ydcqrbue/status/1740274748406522318?s=46

上記の画像は主イエスこそ真の道であるというブログを書かれている真さんの作られた画像です。

律法の内容は決して束縛とはいえないものであることがこの画像からわかっていただけるのではないかと思います。

 

また、モーセの律法の戒めは六百十三個存在していますが、それら全てを守る必要は現在ありません。

古い契約は、古代イスラエル人のみならず、すべての人間がモーセの律法をすべて守れば神は救うという契約や。新しい契約は、エレミヤ書三十一章三十三節にあるとおり、心に律法を記すとあることから、すべての人間が律法を守り行う義務は古い契約と変わりなく、罪の贖いの形態が以前は動物の犠牲の儀式をしていたんを、罪無き神の子羊たる主イエスの十字架での犠牲に置き換わって天の大祭司とならはったことで、動物の犠牲制度や神殿や祭司制度等はもはや地上で行う必要が無くなった等と一部変わっただけの言わば「契約の更新」なんや。それやのに、偽使徒パウロの狂信者どもは、律法全部が廃止された、または十戒のみでええといった聖書(パウロ書簡を除く)に書かれてへん大嘘を吹聴し、エレミヤ書に書かれてる新しい契約に反すること、福音書に記録されてる主イエスの律法を廃止せえへんという教えに反することを平気で言うており、反キリストであると彼らは自ら証言してる。

(引用元:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 三」)

たまに、六百十三もある律法を守るのかとか、律法を守れと言う人は割礼をしているのか、などと言う人もいますが、そうした人の嘘に騙されないでください。

割礼については、以下の解説をお読みになることをお勧めします。

エレミヤ書31章やヘブライ書8章と10章にもあるとおり、主イエスが仲介者の新しい契約は心に律法が記されるのです。それこそ聖霊によって心に受ける割礼です。だから、キリスト者と自称しながら律法を無視して逆らう人は、主イエスが仲介者となっている新しい契約を結んでいない滅びゆく悪魔の子でしかないのです。

(中略)

聖霊によって心に割礼を受けていれば、割礼を受けたことになるのです。肉体に対して割礼していないと不安になる必要はないです。聖書の真理に対して心が頑なにならず、子供のように素直に受け入れるのならば、その人は心に割礼されていると言えるでしょう。

引用元:真の聖書福音と預言「神の律法と真理に逆らう人々は滅びる」

心にされる割礼こそ、大事なものであるということです。だから、肉体に割礼をする必要は現在ありません。
これに関連して、食物規定についても現在守る必要はありません。
食物規定についてはこちらの記事をご覧ください。

 律法は何から成り立っているのか

 律法は愛から成り立っています。

主イエスはマタイによる福音書二十二章にて、律法の中で最も重要な掟として神を愛すること、そして第二に隣人愛をあげられました。

そのあと「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイによる福音書‬ ‭二十二章四十節)」と述べられました。

つまり律法は愛から成り立っているということになります(参照元:真の聖書福音と預言「罪への正しい認識と愛の重要性」)

なので、決して律法は人間を束縛するためにあるのではありません。

むしろ罪を犯す人は罪の奴隷である、と主イエスは仰ったとヨハネによる福音書八章三十四節で書かれています。

 誰が守るのか

律法は全人類が守るべき掟であり、イスラエル人だけに適用されるわけではありません。根拠は以下にあります。

 

民数記‬ ‭十五章二十九節

「イスラエルの人々のうち、その土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留する者も、過って罪を犯した場合には、同一の指示に従う。」

 

旧約聖書にははっきりと律法は全人類に向けられたものであると書いてあります。

なので、イスラエル人のみに適用されるから律法は守らなくていい、と考えることはやめてください。そもそも、日本人の一部は古代イスラエル人の末裔です。

だから、本来聖書や律法とは無縁ではありません。日本と古代イスラエルの関係について知りたい方は、こちらの動画こちらの記事をお読みになるとをお勧めします。

 どのように守るべきものか

律法を守る上で、その守る動機は非常に重要になります。

救われるために律法を守るといった動機ではファリサイ派と同じ「律法主義者」になってしまいます…。

①信じて救われるから戒めや掟は不要(律法廃止論者

②救われるために戒めや掟を守らないといけない(律法主義者

③神を愛するから神の御心どおりに戒めや掟を守る(信仰による義人

(引用元:真の聖書福音と預言「神を愛するということと人が生きる意味」)

律法を守る動機が「救われるため」といったものになってないか、内省することが大事だと思います。また、律法を守ることが面倒臭いなど気持ちがある場合も神を愛してない証拠となるので、注意する必要があると思います。

 

そして、神の律法は人間の法や人間的な価値観よりも優先して守るべきものです。

ダニエル書三章に登場するシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人はバビロン王ネブカドネザル二世の命令に背いてまで、偶像を拝むなという主の戒めを守りました。

その三人の従順さのためか、主はその三人を燃え盛る炎から救われました。

こうしたことから、主は人間の法律などよりも主の律法を守ることを求められてるとわかります。

また、主イエスから直々に教えられていた使徒たちもまたそのような姿勢でした。

使徒言行録五章二十九節には「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と使徒たちが祭司や律法学者の言うことよりも神に従うことを第一としていたことがうかがえる言葉が記録されています。

だから、我々も人の言葉、それも世の政府や権力者の言葉よりも主の律法に服従せねばなりません。世間の人の言葉や世での常識などで自分を律することのないよう注意する必要があると思います。

キリスト者なら、当然にその基準は聖書(偽使徒パウロの偽福音を除く)であり、それに従って考え、日々の生活の物事や人間関係等に対処せないかん。世俗的な基準で物事を考え、処理するようでは、それではキリスト者とは言えず、不信仰の者でしかあらへん。善悪の基準も聖書にある事柄、神の律法に則るべきや。たとえ世俗社会で許されてることであろうとも、それが神の律法や創造の秩序に反するのであれば、そないな行いはやるべきではない。このように、律法に依拠して自分を律することで、自らを聖別することになる。そのためにも世の悪に気付いた上で不服従という行いが必要不可欠や。世の悪(政府、富裕層、報道機関等)を盲信して、その指示に従うようではあかん。

(引用元:真の聖書福音と預言「キリスト者の成長に必要なこと」)

上記のミカエルさんの言葉はよく覚えておくべきだと思います

しかし、使徒を名乗るパウロはシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人や使徒たちとは異なり、世の権威に服従すべきと説いています。

ローマの信徒への手紙十三章一節〜二節にて、パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」

と述べました。

このパウロの姿勢は先述した神に認められた人たちの姿勢とは大きく異なります。

パウロはそれ以外にも主イエスや十二使徒たちとは異なる教えを説いており、パウロ書簡を読む際は注意が必要です。

パウロについてはこちらの記事などをご覧ください。

また、神の律法を守るためには自己愛や自分自身の欲と戦わねばなりません。

主イエスはかつて自分自身を捨ててご自身に従うように仰せになりました。

 

新約聖書 ルカによる福音書 九章二十三~二十四節

それからイエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

 

新約聖書 マタイによる福音書 十章三十七〜三十九節

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 

「自分を捨てる」とは具体的にどういうことなのか、わからない方も多いと思います。ここでミカエルさんの解説を引用させていただきます。

これは言い換えれば、自我の放棄であり、地上で生きる間に自分がしたいことをする、自分が考えたいように考え、自分が信じたいものを信じるというような事象は、すべて自我から来ており、そのような肉の思いを捨てることを意味します。」

(引用元:真の聖書福音と預言「自我との戦い」)

よくクリスチャンの間では「ありのままでいい」という言葉がまことしやかに信じられていますが、それが嘘であることはわかっていただけたのではないでしょうか。

また、十戒のみが有効である、という話をする人もいますが、それは聖書に根拠がない嘘です。騙されないでください。

そうした嘘に騙されていると、神から有罪と断罪されてしまいます。

 

ヤコブの手紙二章十節

「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」

 

このように律法を守るにあたって、一箇所でも落ち度があれば、有罪となってしまうということです。律法は完全に守らなくて良い、と言ってる人たちにどうか騙されないでください。

 律法を守らないとどうなるのか

ヨハネは律法を違反する人に対して、このように述べています。

 

新約聖書 ヨハネの手紙一 二章四節

「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。

 

律法を守らない人は偽り者とヨハネは述べています。

クリスチャンと名乗ってても、律法違反をしてるのなら偽り者であると見做されるということになります。

律法違反をしてる人はそのままでいれば救われず地獄行きとなってしまいます。

 

新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(ミカエルさんの訳)
「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」

(引用元:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 三」)

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 十章二十六節〜二十九節(ミカエルさんの訳)

もし、わたしたちが真理の知識を受けたすぐ後に、故意に罪を犯し続ければ、罪のための生贄はもはや残されていないからであり、むしろ恐怖に冒されたある程度の破滅的な裁きの予想と敵対する者たちを滅ぼす燃える憤りの激しさが残されています。モーセの律法に違反する者が、二、三人の証言に基づいて情け容赦無く死刑に処せられるなら、神の子を放置したり軽く扱い、契約の血を汚れたものと看做し、その血の贖いによって清められて、恩寵の霊を侮辱する者は、どれ程より酷い刑罰に値すると思いますか。

(引用元:真の聖書福音と預言「神の律法と真理に逆らう人々は滅びる」)

 

ヨハネの黙示録‬ ‭二十一章八節

「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」

 

律法廃止論を唱えて、悔い改めを拒んだままなら主イエスから救われることは無くなってしまうことが上記の聖句からわかっていただけるかと思います。

また、この世で生きている間に律法違反を続けてるのならかみから見放されてしまい、悔い改めることができなくなってしまいます。

そのことがよくわかるのは、サウル王の事例です。

サウルから得られる教訓についてはこちらの記事をご覧ください。

 律法を守る人は迫害される

ここからは視点を変えて、律法について考えていきます。

現在、支配層は日曜休日を人々に強要しようと動いています。

それにはこちらのツイートにあるように「救世主」と呼ばれている米国のトランプ氏も加担しています。

また、こちらでは、同性婚についてローマ教皇は「祝福できる」と述べました。また、こちらの記事では同性愛に批判的なキリスト者への抗議がされています。

今後ますますこうした動きは加速していくものと思われます。

大艱難期には黙示録などに預言されてる災害が起こると思われます。そうなった時に、律法を守るキリスト者たちが災いの原因だと吹聴したりする恐れがあります。

聖書に預言されているあらゆる災害も大艱難期に起こり、彼らはその原因を神の民のせいにしたりもするでしょう。彼らは自分たちが主なる神が定めた金曜日の日没から土曜日の日没までの聖なる安息日を勝手に変更して守らず、そのことが神の怒りを招いているのにその事実を棚に上げて、日曜日を安息日として守っていない神の民のせいにするでしょう。そして、ますます日曜日を安息日、休む日として厳しくするでしょう。それは当局だけでなく、市民の間でも監視が厳しくなり、日曜日に何か作業をするのを見つけたら通報さえするようになるでしょう。」

(引用元:真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」)

上記でミカエルさんが仰ってるような状況に今後なると思われます。主イエスへの信仰故に律法を守る人たちはただ迫害されるだけでなく、今後殺されたりすると思われます。

主イエスは「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。(ヨハネによる福音書‬ ‭十六章二節)」と仰っておられます。主イエスへの信仰ゆえに殺される、という状況にあっても揺るがない信仰を今、時があるうちに持たねばなりません。悔い改めは時期を逸してしまえばできなくなってしまいます。

救いの機会の扉が閉じられてから、慌てて聖書を読み出したり、慌てて聖書の真理を知ろうとしたりしても、時機に遅れるともはや手遅れということです。救いの機会の時というのは、キリスト再臨に限らず、各個人で異なる個人的な時間です。寿命が個人で異なるのと同様です。

(引用元:真の聖書福音と預言「今後の社会情勢と神の裁きへの備え」)

 ​残された時は少ない

こちらのツイートにあるように、マイナンバーと口座の紐付けが行われようとしております。

マイナンバーは今後マイクロチップとも関係してきます(詳しくはマイナンバー制度は国民家畜化計画の始まり、そして今後のことという記事を)

また、憲法改悪への動きも着実に進んできております。

こちらの太陽暦二千二十四年一月三十日付の記事にて、岸田首相は「先送りできない課題」として、憲法改悪を上げ、衆・参両院の憲法審査会において、活発な議論をいただいたことを歓迎します。国民の皆様に御判断をいただくためにも、国会の発議に向け、これまで以上に積極的な議論が行われることを期待します。また、あえて自民党総裁として申し上げれば、自分の総裁任期中に改正を実現したいとの思いに変わりはなく、議論を前進させるべく、最大限努力したいと考えています。今年は、条文案の具体化を進め、党派を超えた議論を加速してまいります。引用元:首相官邸「第二百十三回国会における岸田内閣総理大臣施政方針演説」)」

と述べました。

こちらの記事によると憲法改悪は太陽暦二千二十四年中に実現される可能性があります。
憲法改悪が実現してしまえば、聖書をゆっくり研究することなどできなくなります。
どうか、今自由があるうちに聖書を手に取り、読んでみてください。
 
今回の記事は以上です。
最後までご覧くださりありがとうございました。