山背国の霊蹟めぐり③ ~八坂神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

祇園祭(ぎおんまつり)
でもしられる


八坂(やさか)神社です。



ここは、もともと
神仏習合の社であり

祗園社(ぎおんしゃ)
祗園感神院(ぎおんかんじんいん)
祗園天神(ぎおんてんじん)

などといわれたようです。

 



祭神は、かつて


牛頭天王(ごずてんのう)


だったといいます。

牛頭天王は
神仏習合によって生まれた
日本独自の神仏といわれ、

牛の頭をもった
おそろしい神であり、

釈迦(しゃか)の聖地である
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を
守る神とされているようです。



祇園精舎の守り神から
「祗園の神(ぎおんのかみ)」

ともいわれ、

牛頭天王を祀ることを

「祗園信仰(ぎおんしんこう)」

というようです。

八坂神社を
祗園社というのも

八坂神社の祭を
祇園祭というのも

八坂神社の一帯を
祗園というのも

すべて、
牛頭天王(祗園信仰)
によるようですね。



また、神仏習合には
本地垂迹(ほんちすいじゃく)
という考え方があり

仏教の仏は
神道の神の姿を
仮りてあらわる(権現)
とされたそうです。

大日如来(だいにちにょらい)は
天照大神(あまてる・あまてらす)

大黒天(だいこくてん)は
大国主命(おおくにぬし)
とされたように

牛頭天王(ごずてんのう)は
素戔嗚尊(そさのを)
とされたようです。



明治時代の
神仏分離(しんふつぶんり)
によって

牛頭天王はことごとく
排除されたため、

牛頭天王を
祀っていた社は

素戔嗚尊を
祀る神社にかわったといいます。

八坂神社もまた

牛頭天王から
素戔嗚尊へとかわり

祗園社から
八坂神社にかわったようですね。



「八坂」というのは、ここが
八坂郷という地名であり

8つの坂があったからとか
いくつもの坂があったから
といわれるようですが、

八坂(やさか)神社を
勧請した神社のなかに

弥栄(いやさか)神社も

あることから、

繁栄を祈ってさけぶ
「弥栄(いやさか)」が
語源なのかもしれません。



牛頭天王で
もっとも知られる話に

蘇民将来(そみんしょうらい)

があります。

牛頭天王が
后をめとりにゆく旅の途中
一晩の宿をもとめたところ、

長者であった弟・
巨旦将来(こたんしょうらい)
は宿を断り、

貧しい兄・
蘇民将来(そみんしょうらい)
は宿をかしたといいます。



のちに、后をえた

牛頭天王はふたたび
蘇民将来をたずねると

蘇民将来の一族には
茅の輪(ちのわ)を

つけさせたそうです。

そうして、
茅の輪をつけていない
巨旦将来の一族を
根絶やしにしたといいます。



このことから、


茅の輪をつくって
『蘇民将来之子孫』の
札をつけておくと

難を逃れることができる
といわれたそうです。

6月30日の
夏越の祓い(なごしのはらい)に

茅の輪くぐりが
全国でおこなわれるのも

蘇民将来の
逸話によるといいます。



巨旦将来の一族を
根絶やしにしたのは

疫病(えきびょう)の
例え話であるともいわれ、

牛頭天王は疫病をひろめる
行疫神(こうえきじん・疫病神)
ともいわれようです。

 



いわゆる
祟り神(たたりがみ・怨霊)
なのですが、

神仏習合のさかえた
平安時代には、

祟り神を祀ることで

災厄を逃れる
 

「御霊信仰(ごりょうしんこう)」
が生まれたといいます。

 

牛頭天王(行疫神)を祀るのも

御霊信仰によるようです。

 



860年ごろの日本は
疫病が流行しただけではなく、

富士山の大噴火や
大地震・大津波までおこった

激動の時代だったといいます。

ひとびとはこれを

政争に敗れた貴族たちの

怨霊のせいとしたようですね。

 



そこで、

御霊(怨霊)を鎮めるため
 

京都の聖地・
神泉苑(しんせんえん)で
 

御霊会(ごりょうかい)という

祭事がおこなわれたといいます。

しかし、それでも
疫病はおさまらなかったので
御霊会はくり返されたようです。

こうした流れのなかで
行疫神である牛頭天王が

京都に勧請されたようですね。



伝承によれば
牛頭天王ははじめ

広島の
鞆の浦(とものうら・沼名前神社)
にあらわれ、

芦田川をさかのぼった
疫隈の国の社(素戔鳴神社)
にうつり、

つづいて、兵庫の
明石浦(あかしうら)
にあらわれて、

姫路城の北にあたる
広峯(ひろみね)神社に
祀られたといいます。

 



そして、
広峯神社から京都の
岡崎(おかざき)神社に
勧請されたそうです。

岡崎神社を
東天王(ひがしてんのう)
というのは、

牛頭天王を祀っていたから
だといいます。

 


869年の御霊会では
神泉苑に66本の矛をたてて
 

牛頭天王の

渡御をおこなったそうです。

当時の国の総数である
66本の矛に
66国の災厄をうつし

諸国の災厄を祓った
いいます。

この、

牛頭天王の渡御による御霊会を

祗園御霊会といい
 

これが、
「祇園祭(ぎおんまつり)」
のはじまりだそうです。

 

しかしそれでも、

疫病はおさまらなかったのでしょう。

 



岡崎神社から
この地に遷ったのは
876年だといいます。

僧・円如が神宮寺に祀った
といわれるようです。

そして、翌877年に

牛頭天王を祀るこの地の
小祠に祈願したところ

ようやく
疫病がおさまったといいます。

これによって
天皇や貴族による
領地の寄進があいつぎ

広大な境内をもつ

祗園社が生まれたようです。

 


ただし、
この地にはもともと

天神(天神地祇?)
祀られていたともいうらしく

そのため、
祗園天神(ぎおんてんじん)
ともいうようですね。

 



ほかには、
656年に来朝した
高麗の伊利之(いりし)が

新羅国の
牛頭山に祀られていた
 

素戔嗚尊(そさのを)を

八坂郷に祀った

という説もあるようです。

 



日本書紀によると、

天岩戸(あまのいわと)事件で
流離(さすらい)刑となった

素戔嗚尊(そさのを)は

新羅国
「ソシモリ」にいたとあり

 

朝鮮半島に祀られていても

おかしくはないといいます。

 



しかし、
ホツマツタヱには


ゆけのそしもり
つるめそか
やとにつくむや
しむのむし


とあり、

弓削(ゆげ・弓作り)の
ソシモリ(疎守・辺境守護)
である

ツルメソ(弦召)
宿をかしたことで

ソサノヲは
荒れた心がおさまった
とありました。

「ソシモリ」
という言葉もあるほか

宿をかしたという話は
「蘇民将来」
にも通じそうです。



祗園社の祭祀は、

伊利之の子孫ともいわれる
「八坂造(やさかのみやつこ)」

がになっていたようです。

やがて、紀(き)氏の

紀百継(きのももつぐ)が

婿養子となって八坂造をつぐと

明治時代まで
紀氏の子孫が祗園社の

執行(長官)だったといいます。

 



祗園社の社紋である
木瓜紋(もっこうもん)は

紀氏の家紋による
といいます。

 



祗園社の紀氏が
愛知にながれて
 

津島(つしま)神社
をきずくと

おなじく牛頭天王を祀る
津島信仰(つしましんこう)
が生まれたようです。

織田家は、この
津島神社を氏神としたことから

織田信長(おだのぶなが)も
木瓜紋だったといいます。



寺院が権力をもった
奈良の平城京から

遷都するにあたって

平安京には
官営の東寺・西寺のほか

すでに存在した寺社以外は

認めなかったようですが、

とり残された仏教寺院は
平安京郊外に寺院を築くか

平安京内にあった寺社を
拠点としたようです。

 

祗園社が

平安京遷都前からあったのか

平安京遷都後に
疫病退散によってできたのか

諸説あるようですが、

平安京内にある

祗園社は、はじめ

奈良の
興福寺(こうふくじ)の

支配をうけたといいます。

さらに、つづけて
比叡山(ひえいざん)の
天台宗(てんだいしゅう)の
支配をうけたようです。



平安時代末期には
寺社は武装集団を
組織していたといいます。

寺院では
僧兵(そうへい)

神社では
神人(じにん)

といわれたようです。



なかでも、
比叡山延暦寺は
強大であり

朝廷や貴族にたいして
不満があると

神仏をのせた
神輿をかついで訴え

意を通したといいます。


そのさまは、まるで
独立国家のようだったそうです。

 



織田信長の
延暦寺焼き討ちや

豊臣秀吉の
刀狩りは

これらの勢力を
沈静化する意味も
あったようですね。

 



八坂神社には
神人がいたといいます。

なかでも、身分がひくく
穢れの処理をになうものは

犬神人(いぬじにん)
といわれたようです。



犬神人は、


祇園祭では
祭の先導役となり

祭の警護もおこなった
といいます。

 



また、ふだんは
弓作りをおこない

「弦召し候(つるめしそうろへ)」


などと声をかけながら
弓弦を売ったことから

「弦召僧(つるめそ・弦売)」
ともいわれたそうです。

 



これもまた、
ホツマツタヱにあるように

ソサノヲに宿をかしたという

ツルメソに通じているのでしょう。

もしかすると、

牛頭天王の信仰とは

ツルメソを

蘇民将来として祀る信仰

なのかもしれませんね。



とはいえ、牛頭天王は

 

中国の

五道(ごどう)将軍が

 

武塔(むとう)神や

牛頭(ごとう)天王になったとか、

 

陰陽道の

天刑星(てんぎょうせい)と

むすびついたともいわれ、

 

さまざまな神性が

混ざりあった存在でも

あるようです。

 


鎌倉時代に
天台宗の延暦寺と

 

浄土宗(じょうどしゅう)の

知恩院(ちおんいん)が
争ったときには、

延暦寺の命によって
犬神人が知恩院にゆき

浄土宗の開祖である
法然(ほうねん)の墓を
破壊したといいます。

 



法然の遺体は

浄土宗の信徒によって

すでに持ちだされていて

守られたといいますが、

 

ときの延暦寺は

ずいぶんおそろしかった

ようですね。

 


スタジオジブリの
「もののけ姫」に出てくる
石火矢衆は、この

犬神人(弦召僧)が
モデルになのだそうです。

また、犬神人たちは
建仁寺(けんにんじ)の門前に

暮らしていたといいます。

 

祗園社が

比叡山から独立したのは

室町時代の

足利義満(あしかがよしみつ)
によるといいます。

 

やはり、比叡山には

手を焼いていたのでしょう。



本殿には、

中央に
牛頭天王が祀られ

西には妻・
頗梨采女 (はりさいにょ)

東には8人の子・
八王子(はちおうじ)

が祀られていた
といいます。



いまでは、

中央に
素戔嗚尊(そさのを)

東に妻・
櫛稲田姫命(いなたひめ)

西に8人の子・
八柱御子神(やはしらのみこがみ)

が祀られるようです。

 



東にはさらに
ソサノヲの妻として

神大市比売命(かむおおいちひめ)
佐美良比売命(さみらひめ)

が祀られているといいます。


もしかすると、これは


マス姫モチコ(モチサスラヒ)
コマス姫ハヤコ(ハヤサスラヒメ)

のことかもしれませんね。

 



西にはさらに


稲田宮主須賀之八耳神
(いなだのみやぬしすがのやつみみ)

が祀られているといいます。

これは、稲田姫の父・
アシナツヂのことでしょう。

 



また、本殿のしたには
龍穴(りゅうけつ)があり

深い池につながっている
ともいうようです。



この池は、
 

若狭(わかさ)

鵜の瀬(うのせ)


東大寺(とうだいじ)の

二月堂(にがつどう)とも

つながる

近畿を南北につらぬく
水のラインにあるといわれ

神泉苑とも
つながっているそうです。

 

 

また、この池には
青龍が住んでいる
ともいうようです。

それは八坂神社が

京都の東の

方位守護でもあり
 

東西南北の四神のうち
東の青龍が守護すると
いわれるからのようです。

 



ちなみに、


北の守護は

上賀茂(かみがも)神社

西の守護は

松尾大社(まつおたいしゃ)

南の守護は

城南宮(じょうなんぐう)


だそうです。

 


京都盆地の地下には
巨大な湖があり、

その水量は
琵琶湖とほぼおなじ
ともいわれるようですから

京都は水の豊かな地
でもあるのでしょう。

 

 

こちらの、本殿は

2020年に国宝なった

といいます。

 

 

河原町に面した西楼門のほうが

ランドマークになっていますが

 

本殿も舞殿(ぶでん)も

南向きであり

 

南楼門が

正門だといいます。

 


こちらは、

法観寺(ほうかんじ)の

八坂の塔までつづき

 

坂をのぼってゆけば

清水寺(きよみずでら)へ

つながるようです。

 

 

山背国の霊蹟めぐり④ へ つづく

 

 

 

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山背国の霊蹟めぐり⑤ ~六道珍皇寺~
山背国の霊蹟めぐり⑥ ~神泉苑~
山背国の霊蹟めぐり⑦ ~大覚寺~