冥界(めいかい)の
入口ともいわれる
大椿山(たいちんざん)
六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)
です。
六道珍皇寺から
東山(ひがしやま)と
鴨川(かもがわ)にはさまれた
東福寺(とうふくじ)までの
ひろい一帯を
「鳥辺野(とりべの)」
といい、
平安京に
暮らすひとびとの
鳥葬(風葬)地
だったといいます。
いまでも、
大谷本廟(おおたにほんびょう)
豊国廟(ほうこくびょう)
鳥戸野陵(とりべのりょう)
など墓地や廟や陵が
あるようです。
ほかには、
嵯峨野(さがの)の東にある
「化野(あだしの)」と
船岡山(ふなおかやま)の北にある
「蓮台野(れんだいの)」が
平安京の3大葬送地だった
といいます。
やっぱり、どの場所も
都のはずれにありますね。
そんな、葬送地・
鳥辺野の入口にあたるのが
六道珍皇寺だそうです。
六道とは、
天人が暮らす
「天道(てんどう)」
人間が暮らす
「人間道(にんげんどう)」
阿修羅が暮らす
「修羅道(しゅらどう)」
畜生が暮らす
「畜生道(ちくしょうどう)」
餓鬼が暮らす
「餓鬼道(がきどう)」
罪を償う
「地獄道(じごくどう)」
の6つの世界のことで、
ひとの魂はこの世界を
輪廻転生(りんねてんしょう)
しているといいます。
六道珍皇寺のあたりは
「六道の辻(ろくどうのつじ)」
といわれ、
あの世とこの世の
境目とされたようですね。
また、一説には
「髑髏(どくろ)」から
「六道(ろくどう)」や
「轆轤町(ろくろちょう)」に
転じたといいます。
ひとびとは、ここで
「野辺の送り(のべのおくり)」
という法要をして
別れを惜しんだそうです。
六道珍皇寺では
薬師如来(やくしにょらい)
が本尊とされるのも
東方浄土をつかさどる
からでしょうか。
さらに、お盆には
先祖の霊の通り道になる
ともいわれるらしく、
「六道まいり」という
供養でも知られているようです。
創建は、
諸説あるそうです。
このあたりに暮らした
鳥部(とりべ)氏の氏寺・
宝皇寺(ほうこうじ・鳥部寺)
が前進だとすれば、
奈良時代まで
さかのぼるといいます。
また、
空海(くうかい)の師・
慶俊(けいしゅん)による
愛宕寺(おたぎでら)
が前進だとすれば
平安京遷都前後の創建
になるようですね。
ほかには、
空海が創建したという
説もあれば、
平安時代の参議(さんぎ)・
小野篁(おののたかむら)
の創建ともいうようです。
小野篁は、
六道珍皇寺の檀家であり
伽藍を整備したといいます。
また、
閻魔堂(えんまどう)を建てて
盂蘭盆会(うらぼんえ)を
はじめたともいうようです。
小野篁(おののたかむら)とは
百人一首の11番
『
わたのはら
やそしまかけて
こぎいでぬと
ひとにはつげよ
あまのつりぶね
』
を詠ったという
「参議篁(さんぎたかむら)」
のことで、
国政をになう
高官だったといいます。
第52代・
嵯峨(さが)天皇から
第55代・
文徳(もんとく)天皇まで
つかえたらしく
平安時代初期を支えた
政治家のようです。
絶世の美女といわれる
小野小町(おののこまち)の
祖父といわれるほか、
能書家である
小野道風(おののみちかぜ)の
祖父でもあるようです。
いわゆる、海人族の
小野(おの)氏であり、
飛鳥時代の外交官・
小野妹子(おののいもこ)
の子孫だといいます。
漢詩の才能は
中国の漢詩人・
白居易(はくきょい)とならび、
書の才能は
中国の書家・
王羲之(おうぎし)とならぶ
とたたえられ、
詩でも書でも、平安文化人の
テキストになったようです。
そして、武芸のほうは
生まれつき秀でていた
といいます。
ですが、いちばんはやはり
法学だったようです。
国政における
法(律令)のありかたを
つねに考えていたかた
なのでしょう。
そのため、ときには
朝廷に歯向かうこともあり
嵯峨天皇の怒りをかって
隠岐の島に2年ほど
流されていたともいいます。
百人一首の歌は、
隠岐の島におくられる
船のなかで詠んだそうです。
「大海原(わだつみ)」と
「和田岬(わだつみ)」をかけて
八十島(河内湾)をこえて
瀬戸内海に出てきたところで、
「あの船はなんだい?」
(島流しの舟かい?)
と、ひとにきかれたら
「海人族の末裔が
遠くまで釣りに出ているだけだ」
とこたえてくれよ
という意味でしょうか。
潔白の身だから
やましいことはなく、
つぐなう罪もない
ということかもしれません。
もしくは、
天命(あま)に
連(つ)れられているだけ
という魂の自由さを
詠っているのでしょうか?
法律家として骨太な精神があり
朝廷をもおそれないため
「野狂(やきょう)」
ともいわれていたそうです。
嵯峨天皇とは、ほかにも
こんな話があるようです。
あるとき朝廷に
『無悪善』という
謎の立札がたてられたとき、
小野篁はこれを
「さがなくてよからん」
(嵯峨天皇などいなければいいのに)
という悪口でないか?と
読んだといいます。
すると、嵯峨天皇から
自分で書いたから読めたのだろうと
因縁をつけられたそうです。
そこで小野篁は
どんな文字でも読めますと
返したところ、
嵯峨天皇は
『子子子子子子子子子子子子』
はどう読むかときいたそうです。
すると、小野篁は
「ねこのここねこししのここしし」
(猫の子・子猫 獅子の子・子獅子)
とすぐさま解いたそうです。
嵯峨天皇は感心して
疑いは晴れたといいます。
12文字にたいして
14文字で答えたというのは
なにが秘密がありそうで
気になりますが、
頭の回転のはやいかた
だったのでしょう。
しかし、小野篁も
母を亡くしたときには
心を痛めたようですね。
六道の辻は
鳥辺野の入口であることから
冥界の入口であるとも
いわれたようです。
そんな地へ、
足しげくかよう小野篁の姿は
冥界へとくだって
亡き母に会いにゆくように
見えたのかもしれません。
六道珍皇寺の境内には
「冥土通いの井戸」があり
小野篁は、ここから毎晩
冥界に降りて母に会っていた
と伝わるようです。
さらに、法に厳しい
小野篁の性格から、
夜は冥土につかえて
閻魔大王のとなりにたち
ひとの魂を裁いている
とまでいわれたようです。
藤原良相(ふじわらのよしみ)
という政治家は
病気がかさなって
冥界まで送られたとき、
閻魔大王のそばにひかえる
小野篁をみたといいます。
藤原良相はかつて
小野篁をかばったことがあり、
小野篁は義理をはたすため
閻魔大王にとりなしたところ
藤原良相は
生き返ったのだそうです。
翌日、朝廷で小野篁と
顔を合わせた藤原良相は
ふかく礼をいったといいます
ちなみに、この井戸は
入口専用なのだそうです。
出口の井戸は
化野(あだしの)にもちかい
六道町(ろくどうちょう)の
福生寺にあったといいます。
もしかすると、嵯峨天皇とは
因縁で結ばれていたのかも
しれませんね。
ほかに、蓮台野(れんだいの)の
千本閻魔堂ちかくの井戸から
出てきたともいうようです。
また、2011年には
六道珍皇寺の境内から
あらたに井戸がみつかり、
出口専用の井戸として
「黄泉がえりの井戸」
と名づけたようです。
そこには、
小野篁の念持仏を祀る
竹林大明神の
祠があるといいます。
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