山背国の霊蹟めぐり⑥ ~神泉苑~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

善女竜王(ぜんにょりゅうおう)
を祀る

神泉苑(しんせんえん)
です。



東寺(とうじ)の僧・
空海(くうかい・弘法大師)

神泉苑で
雨乞いをおこなったとき

善女竜王があらわれて
雨を降らせたといいます。

 


平安時代末の
今昔物語(こんじゃくものがたり)
によると、

弘法大師が神泉苑で
7日間の雨乞いをしていると

5尺(1.5m)ほどの
蛇があらわれたといいます。

よくみれば、あたまには
5寸(15cm)ほどの金色の蛇を

載せていたそうです。



これが、
天竺(てんじく・インド)の池・
阿耨達池(あくのだっち)にすむ

善女竜王(ぜんにょりゅうおう)
という龍神であり

池の水を通じて
神泉苑にあらわれたというのです。

 

 

善女竜王は

 

法華経(ほけきょう)につたわる

龍神で、

 

八大竜王(はちだいりゅうおう)

のひとり

 

娑伽羅(さがら)竜王の

3女だといいます。

 

父・娑伽羅は

大海竜王や龍宮の王ともいわれ

海をつかさどるようですね。

 

ほかに、

娑伽羅の娘として

 

牛頭天王(ごずてんのう)の后・

頗梨采女(はりさいじょ)

がいるようです。

 

善女竜王と頗梨采女は

姉妹かもしれません。

 

どちらも、方位をつかさどる

歳徳神(としとくじん・とりのりかみ)

縁があるといいます。

 

 

境内にも、歳徳神を祀る

恵方社(えほうしゃ)があり

 

恵方を向くように社殿がうごく

珍しい社のようです。

 

 

また、一説によると

善女竜王は8寸の龍の頂に

載っていたともいうらしく

 

もしかすると

「5寸の金の蛇」とは

龍のことで

 

そのあたまには

さらにちいさな善女竜王が

載っていたのかもしれませんびっくりキラキラ

 

空海が入定した

高野山(こうやさん)によれば、

 

空海の師・恵果(けいか)がいた

中国の青龍寺の鎮守として

善女竜王が祀られていたといいます。

 

善女竜王は、

空海や恵果の真言密教と

縁がふかいのでしょうか?

 

空海は、この

善女竜王をよびだしたことで

都に雨を降らせたようです。

以後、
神泉苑は雨乞いの聖地となり

 

空海によって
善女竜王が祀られたといいます。



神泉苑の社伝によると

この話がすこし変わるようです。

第53代・
淳和(じゅんな)天皇の世に
干ばつがおこり

東寺(とうじ)の僧・
空海

西寺(さいじ)の僧・
守敏(しゅびん)が

雨乞い対決を

おこなったといいます。

 



まずは、
守便が祈祷したのですが

干ばつがおさまるほどの
雨は降らなかったそうです。

つぎに、
空海が祈祷したのですが

こちらはまったく
雨が降らなかったといいます。

 



そこで、空海が
三千世界を見渡したところ

空海の法力をねたみ
空海を重用した天皇をうらむ
守敏によって

雨を降らす龍神が
水瓶に封じられていた

というのです。

干ばつは、守敏によって
ひき起きていたのだそうです。



そこで空海は、
守敏の封印から逃れていた

龍神・善女竜王を

 

天竺の

無熱池(むねっち・阿耨達池)

にみいだすと、

 

神泉苑に

よびよせたといいます。

 

そうして、京の都に

3日3晩にわたって
雨を降らせたというのです。

こうして、空海ら

東寺は対決にうち勝って
 

天皇の信頼を

えたのだそうです。



敗れた守瓶は、西寺で
軍荼利夜叉の法をおこない
空海を襲ったといいます。

空海は、東寺で
大威徳明王の法をおこない
対抗したそうです。

軍荼利夜叉と大威徳明王の

はなった矢は、いくつも

 

空中で相打ちとなって

落ちたといいます。

そこで、空海は
じぶんが亡くなったという
噂を流したそうです。

噂を信じた守敏は

法をおこなう壇を破ったところで

こと切れたといいます。

 

 

これは、

東寺と西寺の勢力争いを
あらわしているのでしょうか?

平安京の

官営寺院としてはじまった
東寺と西寺ですが、

 

鎌倉時代にはすでに

西寺は廃寺となっていた

ようですね。

 



神泉苑の境内には
矢剱(やつるぎ)社という
謎の祠があるのですが

これは、

矢取(やとり)地蔵のこと
ともいわれるようです。



守敏が空海に

矢をはなったところ

黒衣の僧があらわれて
空海をかばったといいます。

黒衣の僧は
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)であり

空海の身代わりになったそうです。

いまでも、羅生門跡に
矢取(やとり)地蔵として
祀られているようですね。

清水寺(きよみずでら)にも
坂上田村麻呂を守った
地蔵菩薩の話がありましたね。



神泉苑の池は、もともと
京都盆地にあった


古代湖のなごりであり
1万年前に生まれたそうです。

平安京遷都のさいに
禁苑(きんえん・皇居の庭)として
整備されたといいます。

平安時代の絵師・
巨勢金岡(こせのかなおか)
監修したらしく、

その姿は
琵琶湖(びわこ)を模していた
ともいうようです。

 



かつては、
南北4町・東西2町
あったといい

大内裏併設の苑として

大内裏から直接おとずれる

こともできたようですね。

 

 

大池や小川や小山や

森林など自然をとりこんだ

大規模な庭園であり、

 

乾臨閣(けんりんかく)

という正殿のほか

 

右閣・左閣

西釣台・東釣台

滝殿・後殿など

 

さまざまな宮殿が

あったようです。

 

大池を満たしていた

泉のことを、

 

神泉(しんせん)と

よんだことから

 

神泉苑(しんせんえん)と
名づけられたようです。




第50代・
桓武(かんむ)天皇は

平安京遷都とともに
神泉苑の造営にあたり

西暦800年になって、
はじめて訪れたといいます。

以後、歴代天皇はみな
この地を愛していたようです。

なかでも、第52代・

嵯峨(さが)天皇は神泉苑で

花宴の節(はなうたげのせち)
をおこなったといわれ、

これが記録に残る
日本最初の桜の花見
とされるようです。

 



御霊(ごりょう)信仰による
祟り神の鎮魂として

御霊会(ごりょうかい)がはじまったのも
神泉苑だといいます。

祗園社(ぎおんしゃ)の神輿がわたった
祗園御霊会(ぎおんごりょうかい)では、

66本の鉾(ほこ)が

神泉苑にたてられたといいますが

これが、
祇園祭(ぎおんまつり)

はじまりだそうです。

御霊会では、
舞や猿楽などおおくの
芸能も披露されたようです。

ひとびとが熱狂することで
御霊の魂をなぐさめたといいますが、

天災に苦しむひとびとの心を
すこしでも救おうとした
というのが近い気もします。
 

ふだんは

立入禁止の神泉苑も

 

御霊会のときには

門がひらかれて

 

おおくのひとびとが

楽しんでいたようです。

 



絶世の美女とうたわれた
小野小町(おののこまち)

神泉苑で
雨乞いの祈願をした
といいます。

 

百人一首や

古今和歌集にのこる

歌人でもある

 

小野小町はこのとき
こんな歌を詠ったそうです。

 




ことはりや
ひのもとならは
てりもせめ
さりとてはまた
あめがしたとは



この国を
「日の本」というからには
照りつづくのも理でしょう。

しかし、この世のこを
「天の下」ともいうので

雨(あめ)を降らせては
いただけないでしょうか?


という歌だそうです。

しかし、これも
ホツマツタヱにのこる
天照大神の歌


あめがした
やわしてめくる
ひつきこそ
はれてあかるき
たみのたらなり


に通じている
ような気がします。 

 

天照大神が詠んだ歌が

「理」であるならば

 

苦しむひとびとのために

雨を降らせてくださいませと

天に祈っているようですね。

 

また、

「あめがした」は

「あまがした」とも

読めることから

 

皇室につかえた

海人(あま)族

末裔であるわたし

 

という、意味もある

のかもしれません。

 

歌に通じるかたがたは

ホツマツタヱとも

響きあうのでしょうか。

 

 

菅原道真(すがわらみちざね)

たびたび訪れていたらしく、

 

神泉苑で鹿の群れをみたと

残しているようです。

 

また、

神泉苑が縁となって

巨勢金岡と親交を結んだ

といいます。

 

 

ほかには、

源義経(みなみとよしつね)が

静御前(しずかごぜん)と

出会ったのも神泉苑のようですね。

 

静御前は、

雨乞い祈祷の白拍子(舞女)

のひとりだったといいます。

 

99人まで舞わせても

効果がなかったのですが

 

100人目の静御前が

舞ったところ、たちどろに

雨が降ったといいます。

 

源義経はその姿に

見惚れてしまったようです。

 



「ゴイサギ」という

鷺(さぎ)の命名も

神泉苑だといいます。

第60代・
醍醐(だいご)天皇が


神泉苑に行幸していると
鷺があらわれたといいます。

醍醐天皇が使いのものに
鷺を捕まえさせようとしたところ


鷺は天皇にひれ伏して
身をささげそうです。

醍醐天皇はおおいに喜んで

鷺に「五位」の位を

たまわったといいます。

そこで、この鷺を
五位鷺(ごいさぎ)
というようになったそうです。



神泉苑は、
枯れることのない泉
として知られ

干ばつのさいには
たびたび水源として
開放されたといいます。

しかし、
戦国の動乱などで
荒廃してゆくと


苑内にも

田畑ができたそうです。


江戸時代には
徳川家康(とくがわいえやす)の
二条城(にじょうじょう)造営に

神泉苑の泉が

堀の水の供給源にされて

とりこまれたといいます。

 

かつての神泉は、いま

二条城の堀にそそいでいる

ようですね。

 

 

山背国の霊蹟めぐり⑦ へ つづく

 

 

 

↓よければクリック

↓お願いします。


神社・お寺巡りランキング

 

 

☆霊蹟めぐり全記事リスト☆
山背国の霊蹟めぐり① ~文子天満宮~
山背国の霊蹟めぐり② ~六角堂~
山背国の霊蹟めぐり③ ~八坂神社~
山背国の霊蹟めぐり④ ~清水寺~
山背国の霊蹟めぐり⑤ ~六道珍皇寺~
山背国の霊蹟めぐり⑥ ~神泉苑~
山背国の霊蹟めぐり⑦ ~大覚寺~