山背国の霊蹟めぐり① ~文子天満宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

北野天満宮(きたのてんまんぐう)

前身ともいわれる

文子天満宮(あやこてんまんぐう)
です。




平安時代の貴族・
菅原道真(すがわらみちざね)

大宰府(だざいふ)

左遷されるとき、

乳母であった
多治比文子(たじひのあやこ)を
あわれにおもって

自作の彫像を
渡したといいます。

 


数年後、道真公の
訃報をうけた文子は

自宅の庭に
小さな祠をもうけて

御像を御神体として
道真公を祀ったそうです。

 

その自宅のあった地が

ここだといいます。

 



やがて、平安京が

おおくの災厄にみまわれ


道真公の祟りではないかと
騒がれはじめたころ、

文子は道真公の

神託をうけたといいます。




北野(きたの)
右近(うこん)の馬場
わたしを祀ってほしい

 

道真公はこう告げた

といいますが、

文子は貧しかったため
実現することができず

自宅の庭先で
祀りつづけたそうです。



数年後、こんどは近江の
比良宮(ひらのみや)の神官・
神良種(みわのよしたね)の子・

神太郎丸(たろうまる)に
神託がくだったそうです。

神(みわ)父子は
多治比文子とともに、

北野の右近の馬場を

境内としていた


朝日寺(東向観音寺)
向かったのでしょう。



すると、朝日寺の僧・
最珍(さいちん)にも

道真公の神託があった

のだそうです。

こうして、947年に
北野に社殿が建てられたのが


北野天満宮(きたのてんまんぐう)
のはじまりだそうです。

 



北野の馬場には、
天神地祇(てんじんちぎ)

 

地主神として

祀られていたといいます。

北野天満宮や
菅原道真公を

「天神(てんじん)」
というのは、

 

北野の地でもともと

天神地祇を祀っていた

ことによるようですね。

 

 

ここは、乳母・

文子がいちはやく

道真公を祀っていた地

であることから、

「天神信仰発祥の神社」
「北野天満宮の前身神社」


といわれるようです。



文子天満宮は、

北野天満宮の
境内に祀られるほか、

境外の御旅所ちかくにも
祀られているといいます。

 


また、
玉房稲荷(たまふさいなり)神社

にも祀られているそうです。

御旅所や玉房稲荷のあたりは
北野天満宮につかえる
神人(じにん)が住んでいて

文子天満宮を

祀っていたといいます。

北野天満宮の社家・

上月家は

文子の子孫といわれ

代々・文子を名乗りながら
巫女をつとめたといいますから、

文子の子孫が

このあたりにうつって
暮らしたのでしょうか?



玉房稲荷は
満願寺(まんがんじ)の

旧地であり、

満願寺は
平安神宮(へいあんじんぐう)の
東に遷ったいまでも、

境内に
文子天満宮を祀っている
といいます。

 

また、文子の旧宅は

綱敷行衛天満宮(つなしきゆきえてんまんぐう)

のあたりにあったともいうようです。

 

今回訪れているのは、

JR京都駅からほどちかい

文子天満宮です。

ご祭神は
菅原道真(すがわらみちざね)

です。

相殿に

父・菅原是善(これよし)
母(伴氏の娘)
乳母・多治比文子

 

が祀られているといいます。



文子殿には

菅原道真公
多治比文子

が祀られているそうです。

 

写真左にある

「全国文子会」というのは、

 

祭神である

多治比文子にちなんで

 

全国の

あやこさん、文子(ふみこ)さん、

あやさん、あやかさんなど

 

名前に「あや」がはいる方々の

ネットワークの輪をつくっている

のだそうですびっくりキラキラ

 


末社にも、

道真公の関係者が
祀られているようですね。

 



福岡の
太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)

でも祀られていました。

気になるのは
火之御子社(ひのみこしゃ)
でしょうか。

火雷神(いかづち)
を祀るといいますが、

雷神ともいわれる
道真公を鎮めるために
祀られているのでしょうか?

出雲めぐりからすれば
火神・カグツチとの関係も
気になるところです。

 

こちらは、

鬼門を守るお稲荷さん

でしょうか。

 

ご神木は

2本の木がひとつになった

 

相生(あいおい)の

オガタマの木だといいます。

 



さて、
貧しい身分だったといわれる
多治比文子ですが

多治比というからには
「多治比(たじひ)氏」

なのでしょう。

多治比のほかに
丹治比・丹墀・多治・丹治

などの表記もあるようです。

奈良時代までは
有力氏族だったといいます。


 

多治比氏は、
 

第28代・
宣化(せんか)天皇の

3代孫・
多治比古王(たじひこ)
にはじまるようです。

多治比古王の子・
多治比嶋(しま)は

左大臣にまで
のぼりつめたかたで

第41代・
持統(じとう)天皇の世に
活躍したといいます。

 

これが、

西暦700年ごろ

のようですね。




多治比嶋の娘は
中臣(なかとみ)氏の
本流にとつぎ、

多治比嶋の孫娘は
大伴旅人(おおとものたびと)
とむすばれて

大伴家持(おおとものやかもち)
を産んだといいますから、

奈良時代には
とても栄えた氏族
だったようです。



しかし、多治比氏は
橘(たちばな)氏

大伴氏について

藤原氏と敵対しために
政争にまけて

勢力を失ったようです。


それでも、第50代・
桓武(かんむ)天皇の
妻に


多治比嶋の5代孫・
多治比真宗(まむね)
がいたといいます。

平安時代でも
名家ではあったのでしょう。

 

これが、

西暦800年ごろ

のようですね。

 

 

桓武天皇と多治比真宗の子・

葛原親王(かずらわらしんのう)は

 

桓武平氏の祖

ともいわれるようです。

 

この血筋がのちに

平家の世を築いていくようですね。

 

葛原親王の子・

高望王(平高望)は、

 

道真公と同時代人であり

ともに大宰府で没したといいます。

 

これが

西暦900年ごろ

のようですね。

 

ちなみに、高望王の孫が

平将門(たいらのまさかど)

だそうです。

 

多治比氏は

平家の母ともいえる

のかもしれません。

 

そして、
多治比文子はそんな
多治比氏の傍系だった
のではないでしょうか?

 



菅原氏は、
 

桓武天皇をはじめ
歴代天皇の教育係だった

といいますし、

 

菅原道真の母も
伴氏(大伴氏)だった

といいますから

 

多治比氏とは

縁もゆかりも深かったことでしょう。


さらに、

朝日寺(東向観音寺)には

大伴氏の墓所があるというのも

 

北野の地が選ばれた理由

かもしれません。

 

 

また、
多治比氏の本拠地は

大阪の
羽曳野市美原のあたり
だといいます。

ここは、

菅原氏の祖神にあたる
土師氏ゆかりの地

 

道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)

ともちかいようです。



美原区多治井(たじい)には
丹比(たんぴ)神社があり、

 

多治比氏の祖である

第28代・宣化天皇を

祀っていたといいます。

 

しかし、第18代・
反正(はんぜい)天皇の

産湯の井戸があることから

 

いまでは、

反正天皇が祀られるようです。

 

反正天皇も、和号を

 

多遲比瑞歯別天皇
たじひのみつはわけのすめらみこと)

 

といい、

 

この地で生まれたことから

「タジヒ」というようですね。

 

 

一説には、

虎杖(いたどり)のことを

多治比といっていたようで

 

美原区にはイタドリがおおく

自生していたのかもしれません。

 

そのためでしょうか、
多治比氏の家紋も
虎杖紋(いたどりもん)

だといいます。

ちなみに、

平安京の大内裏にあった
達智門(たっぴもん)も

多治比(たじひ)氏が

管理したことからついたそうです。

 

 

多治比氏のことが

とても気になる

文子天満宮でした。

 

 

山背国の霊蹟めぐり② へ つづく

 

 

 

↓よければクリック

↓お願いします。


神社・お寺巡りランキング

 

 

☆霊蹟めぐり全記事リスト☆
山背国の霊蹟めぐり① ~文子天満宮~
山背国の霊蹟めぐり② ~六角堂~
山背国の霊蹟めぐり③ ~八坂神社~
山背国の霊蹟めぐり④ ~清水寺~
山背国の霊蹟めぐり⑤ ~六道珍皇寺~
山背国の霊蹟めぐり⑥ ~神泉苑~
山背国の霊蹟めぐり⑦ ~大覚寺~