「日蓮が申すやうは『しばしまて。弘法大師の悪義まことにて国の御いのりとなるべくば、隠岐法皇こそいくさにかち給はめ、をむろ最愛の児せいたかも頸をきられざるらん。弘法の法華経を華厳経にをとれりとかける状は十住心論と申す文にあり。寿量品の釈迦仏をば凡夫なりとしるされたる文は秘蔵宝鑰に候、天台大師をぬす人とかける状は二教論にあり、一乗法華経をとける仏をば真言師のはきものとりにも及ばずとかける状は正覚房が舎利講式にあり。かゝる僻事を申す人の弟子・阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば竜王は法華経のかたきなり、梵・釈・四王にせめられなん。子細ぞあらんずらん』と申せば、弟子どものいはく『いかなる子細のあるべきぞ』とをこづきし程に、日蓮が云く『善無畏も不空も雨のいのりに雨はふりたりしかども、大風吹きてありけるとみゆ。乃至、此れは一定やうあるべし』と、いゐもあはせず大風吹き来たる」
大聖人の弟子達も興ざめして「これは御あら義」という言葉を言い出す中において大聖人様は大確信でお述べになられたんですね。
「邪法の真言に正しい利益があるわけがない。必ず大罰がある」という事の御確信であります。
雨が降ったと聞いたがしばし待て、弘法の悪義が正しくてもし国家の祈りとなるのであったならば、その真言で祈った隠岐の法皇(後鳥羽上皇)があのような惨めな様になるはずがない。必ず戦に勝ったに違いない。
また、それに伴って御室がその時の戦に負けて最愛の稚児の勢多迦が頸を切られる事もなかったに違いないではないか。
そして、これは現証ですが、真言の必ず国を亡ぼす現証という事をまず隠岐の法皇(後鳥羽上皇)の事を挙げて仰せになった。
そして、次に今度は真言の間違いを示す文証をお挙げになって仰せになっておられる。
弘法が「法華経を華厳経に劣っている」という謗法の言辞を書いている文証は十住心論にある。
寿量品を説いた釈迦仏を「凡夫である」と悪口を言った文証は秘蔵宝鑰にある。
天台大師を「泥棒だ」と書いた文証は二教論にある。
一乗法華経を説いた釈迦仏を真言師の履き物取りにも及ばずと書ける文証は弘法の弟子である正覚房の舎利講式に書いてある。
このような間違った事を言う者の弟子である阿弥陀堂法印がもし大聖人様に勝つ事があるならば雨を司るとされる諸天の一つである竜王は法華経の敵として梵天・帝釈・四大天王に責められるであろう。
そのような事のあるべきはずがない。これには必ず深い意味がある。
そのように、阿弥陀堂法印が雨を祈って直ちに静かに雨が降った。そんな事のあるべき道理はない。必ずこれには深い意味がある。
こう大聖人が仰せになったら弟子達が側にいて「どのような子細があるのでございましょうか」と言った。
この「をこづきし」という言葉には嘲笑(嘲笑う)という意味がありまするが、ここではそれはなじまないですね。
「力んで聞く」とか「しかと聞く」という意味もあるので、ここでは「しかと聞き質してきた」という事なんです。よって大聖人様が仰せられた。
「実は、中国の真言宗の高僧である善無畏も不空も雨の祈りをして雨は降ったけれどもその直後に大風が吹き渡ったという前例がある。今もまた、必ずこのようになる」という事を断言された。
そのお言葉の終わるか終わらないうちに大風が吹き来ったというんです。
平成15年 4月8日 『下種本仏成道御書』御書講義
- 説明
- これまでの『下種本仏成道御書』講義
- 佐渡の悪坊主達の企み
- 日蓮大聖人の諸天に申しつける大境界
- 北条宣時の偽の御教書
- 阿仏房・千日尼夫妻の命がけの信心
- 赦免状下る
- 諸天に守られながらの不思議の還御
- 殿中にて平左衛門以下幕府首脳と面談
- 良医の譬え
- 第三の国家諌暁
- 阿弥陀堂法印の祈雨
- 真言宗の謗法たる所以
- 蒙古襲来の前兆たる大悪風
- 第一回目の蒙古襲来と御在世の逆縁広宣流布
- 未来順縁広宣流布の姿
