「にちれんこたへていわく『としいちじょうなり。それにとってはにちれんぜんよりかんがもうすをばおんもちひなし。たとへばやまいおこりをらざるひとやまいせば、いよいよやまいばいぞうすべし、しんごんだにも調ちょうぶくするならばいよいよくにいくさくべし、あなかしこあなかしこしんごん,、そうじてとうせいほっとうをもつておんいのるべからず。各各はぶっぽうらせたまうておわすにこそ、もうすともらせたまわめ。またいかなるにやあるらん、にはことにしてにちれんもうことおんもちひなし。のちおもわせさせたてまつらんがためもうす。
 ないれをもておもふに、ぼうたちだにおんいのりあらば、にゅうどう殿どのことにあひたまいぬとおぼそうろうあなかしこあなかしこ、さはざりけるとおほそうろうな』としたゝかにもうそうらいぬ」

 だいしょうにんさまが「今年を過ぎることはないであろう。今年中には必ず来る」とへいのもんにお答えになった。
 大変な断言だんげんでしょう。この時4月でありますから「今年中」ということはあと8ヶ月しかない。この8ヶ月の間にもうは必ず来る。
 だいしょうにんさまぐんじょうせいを分析されてげんしたのではないですよ。
 いつも申します通り、しょてんに申しつけるだいしょうにんさまのお徳あればこそこの断言だんげんができるわけであります。
 さて、へいのもんを始めとするばくの面々が今こうして敬意を表しているようだけれどもどっけーじんにゅうしっぽんしんこーどっふかはいってほんしんうしなっているゆえ)」なんです。
 そのような者達であるからさんだいほうを用いずに必ずまたしんごんの毒を飲むであろうということぞんであられるからこういうことをおおせられるんですね。
 以前よりかんがえ申す所をその者達は用いない。
 例えば、やまいの原因を知らない者がやまいを治そうとすればやまいはいよいよ増すではないか。
 これはしんごんしゅうことですね。じゃきょうの者達は「ほんの国がなぜこうなったか」「こくしんぴつがなぜ起こるのか」その根本原因を知らない。
 これらの者どもに祈らせるならば、やまいはいよいよ増すのである。
 だから、しんごんしゅうもう調ちょうぶくする、すなわち「もうに勝とう」という祈りをさせるならばいよいよこの国は戦に負けるであろう。
 いやしんごんしゅうだけではない、総じてほんこくじゅうねんぶつぜん等の法師等にももう調ちょうぶくの祈りをさせては絶対ぜったいにならない。
 そして、へいのもん等の在家はぶっぽうらせたまうておわすにこそ」(これは「仏法ぶっぽうを知っていればこそ」なんて読めるかもしれませんが逆ですね、さっきのことと同じですね)仏法ぶっぽうを知らない立場でおられればこそ申すともわからないであろうということなのであります。
 へいのもん等は仏法ぶっぽうどうを知らないから、ってもわからないであろう。
 またどういう不思議ふしぎなのか、他のことはともかくとしてだいしょうにんことだけはどういうわけか怨嫉おんしつして用いようとしない。
 でのちおもわせさせたてまつらんがためもうす」「ああ、あのときやっぱりだいしょうにんさまおおせになられた通りだった」という風におもい合わせるために今ここにハッキリとっておく。
 中略の所でもって、じょうこうほうじょうよしときたんとしてしんごんの密教を用いて叡山でもって祈りを込めて負けてしまったんですね。
 このだいげんしょうを実例としておげになって、今ここに「しんごんしゅうをもってもう調ちょうぶくをするなら必ず戦に負ける」ということおおせになったわけであります。
 これをもっておもうに、じょうこうのこのげんしょうを見た時に、しんごんしゅうの高僧達に祈りを任せるならば必ずこの国はもうの責めにあうだいばつを受けるであろう。
 「あなかしこ、さはざりけるとおほそうろうな』としたゝかにもうそうらいぬ」ということだいしょうにんさまはあの時そうはわなかったではないか」などとってはいけない。
 今ここにハッキリとしんごん調ちょうぶくさせるならば必ずこくしんぴつじつとなってこの国は亡ぶ」ということを自分はあらためて断言だんげんする。
 しかも「今年はいちじょう、今年中に来るんだ」ということ断言だんげんあそばしたわけであります。
 「したゝかに」というのは「つよづよい置いた」ということです。
 いいですか、このじょうをよくかんがえてごらんなさい。だいしょうにんさまは2年半にも及ぶざいを終えて帰ってきたばかりでしょう。
 おそれ多いことですがだいしょうにんさまはその間3度の冬をお過ごしになっておられる。
 骨まで凍るあの極寒のの冬を3度お過ごしになって、やっと文永11年の3月に赦免されて4月8日にへいのもんに会った。
 ここで、普通の凡夫であれば「よくぞ帰してくださいました」と礼をうでしょう。そして、適当にうまいことってへつらうじゃないですか。
 ところが、だいしょうにんさまはここでもってまことに厳しい父親が出来の悪い息子を救うために厳しくいましめられるようなお姿で「絶対ぜったいじゃきょうを用いてはいけない」「正しいさんだいほうを用いなければこの国は亡びる」とおおせになった。
 この時にばくは何とだいしょうにんのお徳を感じて「りょうでんいっせんちょう」といって莫大な財産を寄進するといい「だいしょうにん仏法ぶっぽうを弘めてもいい」とったんです。
 ただし「ねんぶつしんごん等の諸教と肩を並べて一緒になって国の祈りをしてくれないか。こういうことをやってくれるならば弘めて結構、ばくが応援しようじゃないか」とここまでった。
 普通それでもってOKというじゃないですか。池田大作みたいに(大笑)「ガンジー、キング、イケダ展」なんてやっている者ならそれこそOKということになっちゃう。
 ところが、だいしょうにんさまは「じゃきょうを捨てない以上は絶対ぜったい国の祈りをしてはならない」と諌められた。<br>  この時へいのもんしんごんしゅうを深く信じておったんですよ。そのへいのもんに対してしょうにんことばかざらず」とのおおせのごとくへつらわずにだいことおおせになった。
 この時へいのもん逆鱗げきりんに触れて再びの島に帰したらどうなりますか。今度こそ命が危うくなるかもしれない。
 これをあえてい切られるということに、だいしょうにんさまの何ともえないおうのお心、そしてだいだいを感ずるんですね。
 凡夫では絶対ぜったいにこういうことはできません。


平成15年 4月8日 『下種本仏成道御書』御書講義