ビッチ、律、倍音 その2 | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

4.音感 感覚と思考の狭間

 

 前回わたしは、ピッチ、律、倍音について思うところを述べました。しかしこのようなテーマは音楽の基礎の「楽典」の勉強においてはあまり重視されない。むしろ記譜の仕方とか、2度と短2度と長2度の違いみたいなことの理解が先行になる。

 54年前、3歳ではじめてピアノを習った時に、教則本『バイエル』の赤本(上巻)の付録に、紙に書いた鍵盤が付録でついてきてそれで指の位置を覚え、先生は「ト音記号」(ジークレフ)の書き方を教えてくれる。5線の1番下から2番目のところを記号の書き出しの位置にする。それ以外の知識は教えてくれなかったと記憶する。

 ト音記号の書き出し位置が、五線譜における「G」すなわち「ト音」であり、その記号の形はアルファベットの「G」からの変形であると知ったのはずっと後のことである。教育とは、基本を教えるまでその先のもっと本質的なことを敢えて教えないことでもあるのかも知れない。そうしないと年少者は混乱してしまうからであろう。

 

 しかしピアノの習得において楽譜を読む能力は必ずしも絶対必要ではない(ヘルムート・ヴァルヒャや辻井伸行さんのように)が、大変重要であることには違いない。

 

 ヴァルヒャ オルガン バッハオルガン曲集

ヘルムート・ヴァルヒャについては、Wikipediaに詳細があるのでそちらを参照。


 次に習うのは、音の長さである「全音符」「二分音符」「四分音符」(休符も)であり、この発展系の「三連符」などの理解はもっと先のこと。ただし四番目に習う音符「八分音符」は重要で、リズムを習得するためには欠かせない。ここで「符点四分音符」と「八分音符」を組み合わせた「二拍一体」のリズムの意味をはじめて体感する。

 

 音程、音の長さ、拍子、リズム、これらは音楽の基本ではあるけれど、それだけで音楽の深いところに到達するということではない。が、これらの基本の反復的学びがとても重要なことであるし、ここのところの理解は「読譜」という媒介なしに前には進まないということなのです。

 

 だが、「音感」を考える場合、こういう基本とは別に「音楽的才能」とはあるもので、音符が読めなくても歌が上手な人はいるし、プロの歌手にもそういうことらしいとの噂も聞いたことがある。

 音楽の特別な教育を受けなくとも、現代は日常が音楽に溢れていて、そういう環境の中では、楽譜を媒介としなくても、感性や感覚だけで音楽が上手になる人はたくさんいる。

 

 これは、楽典が初等音楽教育用の「とりあえずの体系」であるということを示すものであろう。楽譜は大切なものだが、これは音楽の本当の姿ではなくて、「翻訳」であることを示している。

 わたしが、「ビッチ、律、倍音 その1」で語ったことは、実は音楽の楽譜で表せない領域に踏み込んでいるつもりです。むしろこれらの世界は「音感」や「センス」の問題であろうと思う。たとえばヘ短調は、♭4つを楽譜に示すことで表すことができる。しかしヘ短調の音階の歩みが、♭3つのハ短調とは周波数が異なる、などということまでは楽譜には現れない。

 

 楽譜は知識による思考で読むことができる。それが『バイエル』以来わたしが受けた教育でもあった。ピアノは調律されてわたしの前にあり、調性による音階の周波数の差異など考えなくても、弾けば自動的に差異は反映される。ところが音楽の表現技術とは実は、この楽典の領域の外のところにも多くの要素がある。

 

 引用

 

 ヴァイオリニストの千住真理子は、基準音が440Hzでも445Hzでも違和感や不快感を覚えたことはなく、また、無伴奏で演奏する際は作曲者によって基準音を使い分け、重音を弾く際には3度音程の取り方を平均律とは変えていると証言している。

 

Wikipedia 「絶対音感」より

 

 この楽譜の体系の外にある演奏技術へのプロのこだわりは、もう楽譜という「翻訳」をこえて、音楽の本質に迫ろうとする態度であるとわたしは思う。千住先生が、練習に当たって何らかの音を頼って(後述する「電子メトロノーム」など)練習し、重音に限って「平均律を変えている」とは思えない。わたしの想像だが、計算で得られる周波数の変更ではなくて、それは長年に培った「感覚」的なものであろうと思う。

 

パガニーニ 24のカプリース 作品1 千住真理子(ヴァイォリン)

 

 パガニーニのこの作品は、無伴奏のヴァイオリンソロのためのもので、重音の和声を聴き取るのにはうってつけである。特に、第4、5曲を聴いてほしい。

 

 補足 重音に関して

 

 引用

 

 歴史的な擦弦楽器では、弓は張力を小指で調整していたため、張力をゆるめることで3または4つの弦に同時にふれさせることができた。現代のヴァイオリンはその構造上、弓で弾く場合は完全な和音は通常2音が限界である(ピッツィカート奏法を用いれば4和音も可能である)。3音、4音の和音を出すには、弓で最初低音の2弦をひき、素早く高音の弦に移す。ただし、やや指板寄りの箇所を弓で弾くことで3音同時に出すことも可能である。

 バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータでは4音同時の和音が多く要求され、しかもそれがポリフォニックに書かれているため、これを正確に現代楽器で表現できる、弓の木が極端に曲がったバッハ弓と呼ばれるものが存在する。ウジェーヌ・イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタでは、5音や6音の和音が用いられている。これは一種のアルペジオである。

 

 Wikipedia 「ヴァイオリン」より

 

 補足おわり

 

 また、わちしのブログ記事「神秘主義の意味」で以下のように述べた。

 

 転用

 

 スクリャービン 交響曲第5番 『焔の歌・プロメテ』 作品60

 

 前出のアシュケナージ盤のピアノ協奏曲にカプリングされている作品に手掛かりがある。

 

 交響曲というより単一楽章によるピアノ協奏曲である。プロメテウス神話を描写するというよりも、人類に天界から火(叡智の象徴)を授けた(神から火を盗んだ)英雄として、音楽を通じてプロメテウスを崇め奉る作品である。

 

 

 ピアノソナタの前衛は、実にこの交響に結実を果したが、それは道半ばというべきであろうか?

 

 だが、この作品を聴くにつけ、ピアノの独奏に込められた「神秘主義」を何とかオーケストラ化しようとする意図があり、「そうか、彼はこれがやりたかったのだ」と納得する。

 

 音楽的には、平均律12音の矛盾を解消しようとして、

 

 「引用」

 

 スクリャービン本人はこの曲のリハーサルにおいて、「神秘和音中の第11倍音(基音の増4度上)は低めに演奏されるべきだ」と述べている。第11倍音は平均律上の増4度よりも約四分音低い(微分音を参照)。同様に第7倍音も平均律上の短7度より約六分音低く、オーケストラ上では音程の取り方をそのように配慮した方が、自然倍音上で共鳴することにより良く響いて聴こえる。

 

Wikipedia より(当ブログ記事のママ)

 

 ピュタゴラ音階や純性律の響きを聴き取る能力は、おそらくピアニストとしての彼の聴覚の研ぎ澄まされた「繊細」な感覚に帰するのだろうが、彼がショパンにこだわった過去にその源流がある。

 

当ブログ記事 「神秘主義の意味」(2020/5/3)

 

 自然倍音上で共鳴することにより良く響いて聴こえる。というスクリャービンの言葉は、「倍音を含まない」という意味ではない。スクリャービンの神秘的とも評される音楽は、そもそも平均律を前提とした「不協和音」の多様性にあって、その中にある「純正律」に準じる和声だけに「低めに演奏せよ」といっているに過ぎず、同じ瞬間に十分「倍音」を含む響きが含まれているのです。よってスクリャービンは、自然倍音「」とことわっているわけです。

 

 メトロノームの進化がもたらしたもの。

 

 昔ながらのインカやアステカ文明のピラミッドの形を連想させるかつてのものと違って、今日では「電子メトロノーム」というのがある。この電子メトロノームは優れもので、かつてテンポを鍛錬するだけに使われていた機能に加え「トーン」(音程)もチェックできる。扇型のゲージの針が中央に近くなると、それは自分が奏でている音の高さが平均律の周波数とほぼ一致していることを示してくれる。

 最近の中高生、特にブラスバンド部員はこの「トーン」合わせる練習を盛んにするそうである。自分の出している音の高さの誤差を確認するにはよい方法かもしれない。だがあまり感心しない。

 

 わたしは3歳でピアノをはじめたが、ピアノというのは鍵盤を敲けば調律された音が出る。だからある一音の自分の音の高さを調整することは基本的にない。

 実際には、タッチの仕方、体重のかけ方、強弱により、プロのピアニストの音色には違いがあり、実はピアノにも音作りの世界は存在しているのかもしれないが、小学生ぐらいではそんなことを気にかけて練習する人はほとんどいないと思われる。

 

 わたしが「音程」にたいして深く注意するようになったのは、10歳からフルートを習ったからである。

 

 転用

 

 わたしは少年時代にフルートを習ったが、先生に「そこは倍音を利かせて」という事をいわれたことがあった。理屈は分らなかったが、手首をほんの少し回して、自分の「息」が出てくる上下の唇の穴の角度を微妙に変えると明らかに音色が変わる。手首を体の前側に倒すと「歌口」(フルートの音が出る最左端の音が出る穴のこと)に対して、より深い角度で息かあたる。すると「音色」が変わる。どちらかというと「深身」「厚み」が増す。一般の人には分らない程度だが、音程はほんの少し低くなる。(これは実は悪い癖で現在の先生に怒りられている。)

 

当ブログ「哲学総論 つれづれ 番外編 表象と対象 その中間」(2020/5/8)

 

 要するに、管楽器の場合、ピアノと違って奏者自信が「調律士」たることが求められる。この練習は、管楽器や弦楽器には必要だが、ピアノの初等科ではとりあえず必要とされない。しかし、管楽器において、音程を安定させるには、自分の耳で自分の音を聴くということが求められる。舌や唇の使い方だけでなく、観念の中で「理想の音」を定めてその音が出るように努力する。この過程を通して音感は繊細になるのです。大事なのは「理想の音を頭で探し、感覚で覚える」ことで、電子メトロノームのように「求められる音を外から持ち込んで合わせる」ことではない。この鍛錬は正しい平均律の音を出せるようにすることだけではなく、「わざと音を外す方法」をも鍛えられてくれる。そこから「音色による感情表現」ということに発展していくのです。

 

 音大受験には、受験科目に「聴音」というのがあって、全く聴いたことのない音楽を聴いてもそれを楽譜にする技術だが、それは平均律の血肉化(叩き込み)みたいなものです。しかし、「音感」とは、正しく平均律に翻訳できることは基本であっても、それが最終到達点になってはならないわけで、平均律を超え出てくる音楽に込められた様々な響きの多様性への繊細な感覚である。

 もし、「電子メトロノーム」に合わせた練習の結果、その奏者が楽譜を見て、いつも「同じ「ド」の周波数」しか出せないとしたら、それは楽器を「とりあえず扱うことができる」で終わってしまう。なによりもそのような演奏は、極端にいえば電子オーケストラに取って代わられ、生のオーケストラなど必要なくなってしまうということである。

 

 もうひとつ、わたしが「音程」に注意深くなった理由を挙げれば、はやくから作曲に取り組んだことです。最初は小学生のころに、国語の教科書に出てくる「詩」に作曲し、ピアノ伴奏をつけていたが、小学5年生のころにモーツァルトの最後の3つの交響曲を収めたLP(カール・ベーム指揮 アムステルダムコンセルヘボウ=現ロイヤルコンセルトヘボウ)に魅せられて、交響曲を作曲したくなった。しかし作曲の技術などほとんど知らなかったので、古本屋で『作曲法』(下総 皖一先生 著)などの本を4冊ぐらい買ってきて3年ぐらい読んでいた。

 

モーツァルト 交響曲第39番 40番 41番

カールベーム指揮 アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団(復刻版)

 

 モーツァルトの交響曲第39番 変ホ長調 Kv-543 はわたしを魅了した最初の交響曲であったが、最初のトゥティの変ホ長調の和音で、弦セクションの演奏に乗って奏でられている主和音に添えられている木管楽器、とくにクラリネットとファゴットの柔らかさに惹かれた。しばらく39番ばかり聴いていたが、やがて40番を、さらに41番も聴くようになった。

 40番の出だしはト短調の分散和音で、41番の出だしはハ長調のトゥティだが、39番のあの柔らかさ、華麗な音楽は、変ホ長調でないと得られない響きであることを悟った。わたしが読んでいた作曲法の本にも「調性には性格がある」みたいなことが書いてあった。

 だから、自分で作曲するにあたって「調性」の選択ということが問題のひとつとなると思った。中学生になると、変ホ長調の作品を努めて聴くようにした。ベートーベンの「英雄交響曲」やR・シュトラウスの「英雄の生涯」、シューマンの「第3交響曲」、ドボルザークの「第3交響曲」をよく聴き込むに及んで、この調性のもたらす独自性が理解されていった。(その感覚はここでは割愛=「英雄の華麗さと悲哀を表す」という風に「文学的」になってしまい、主観の関与する言い方しかできないので)

 

 フルートは、♭系の調性に対して相性がよく、♯系の調性はどちらかというと苦手で、これは管楽器に特徴的であり、よってフルートはハ調楽器だが、クラリネットや金管楽器は、♭系の楽器となる。B管=♭2つ Es管♭3つ F管=♭1つ であり、だから変ホ長調は管楽器の音がよく伸びる。これがモーツァルトの第39交響曲の持つ秘密のひとつであるとわたしは確信した。

 

 こうしたわたしの過去の道程は、「音感」ということに対するこだわりをもたらしたのです。

 

5.音感 デジタル時代の弊害

 

 パソコンで田舎の風景の写真を写し出し、「心和む」風景を見た時に、多くの人が「綺麗」という感想を発する。だが、わたしは、「綺麗だが美しさを反映していない」といつも思う。正直にいって「綺麗過ぎる」という感じで見ている。何百万画素のデジカメで撮影された景色は、デジタル信号化された場面(その画素数に対応して写し出せるほどの性能がディスプレイにあるとも思えない)だが、それはただ対象を写し取っただけで、絵画のような「描き手の精神」は一向に反映されない。

 ディスプレイもキャンバスも平面でかつ時間はとまっている(動画は別として)あるが、画家はそこに立体を描こうとし、時間の動きを感じさせようとする。こういうものはデジタルでは再生されない。

 

 わたしの中学生時代は日本のオーケストラの実力は明らかに欧米と差があった。ところが最近は欧米のオーケストラに引け劣らずみんな上手なのだが、どのオーケストラも均質化してしまっているようにも思える。上記の電子メトロノームを使った「トーン」の練習が日常化しているとすれば、その弊害もあるのではないか。ちょうどパソコンの写真に「画家の魂」が示されないのと同様に。

 

 ただ一回の生演奏に込める精神を培うには、信号化された音の限界を意識化しなければならない。「楽譜」さえ「翻訳」としての「アナログによる信号化」であって、生きた音楽はそこを超え出てくる必要がある。それが奏者の精神であらねばならない。千住先生の「わざと平均律から僅かに外れる」演奏はけっしてパソコンで作ることはできない。まして50年以上前に録音された、デジタル以前のアナログのCDのなかには、いまだに名演とされる演奏がある。電子メトロノームの練習がこういう名演を超えて行くとはとても思えない。

 

 自分の音を自分で聴きこみ、鍛錬する。音楽が楽典理論で割り切れるものではないことを自覚する。

 

 こういうことが重要である。

 

 余談だが、わたしは「絶対音感」を持っている。(これは一般の人が思っているほどの特別な能力ではなくて、幼少のころに訓練で身につく場合もあり、大作曲家の中にはこの音感を持たなかった人もいる。よって「絶対音感」と音楽家としての「才能」はイコールではない。)といっても絶対音感には程度の差があり、わたしはせいぜい「読譜」において音が採れる、楽譜を見たことがなくても楽器で再現できる、ぐらいである。この音感は幼少のころのピアノ教育のおかげであろう。(絶対音感はおそらく後天的なものである。いわゆる「音痴」が訓練で直るということからもそうであろう。)

 

 引用

 

 12音につき鋭敏な絶対音感を持つ人は、次のことが、基準音を与えられずにできる。

  • 様々な楽音やそれに近い一般の音に対して音名を答える。
  • 和音の構成音に対して音名を答える。

 絶対音感を保持している人にはある特定の楽器をやっている人、やっていた人などが持っている事が多いが声楽系は非常に少ない。 また、絶対音感保持者は、次のようなことをする際にも、絶対音感を保持しない人より容易にできる。

  • 耳で知っているだけの曲を楽譜なしで正確に楽器で再現する。
  • 早く12音音楽や無調音楽などのソルフェージュができる。
  • 無調の聴音で一個ぐらいずれても、すぐに途中から正しい音高に持っていく。

 一方で、人によっては次のような不便さを感じる場合がある。

  • 移調楽器や現在の基準音(A=440~442)に設定されていない楽器(古楽器等)を演奏する場合、鳴っている音と譜面の音が一致していないと感じてしまい、演奏に抵抗を感じることがある。
  • 移動ド唱法で歌うことや移調して歌うことを苦手とする場合がある。
  • 咳止め薬(ベンプロペリンリン酸塩製剤)や抗てんかん(癲癇)薬(カルバマゼピン製剤)の副作用による音感異常で、非常に不快感を覚えることがある。
  • 調性音楽の分析の際に旋律や和音の機能がわからなくなり各音の役割による表情が付けにくくなる。

 プロの音楽家だからといって、絶対音感があるかというとそうではなく、相対音感だけを持っている人がほとんどである。

 通常、ピアノなどは若干高めにチューニングされているが、プロの音楽家でも違いを聞き取れる人はほとんどいない。

 

Wikipedia 「絶対音感」より

 

 わたしの場合、時々だがピアノを弾いていて、平均律の「濁り」を感じることがある。しかしそれは「不快ではなく」おそらく平均律の音の歩みが不均衡であることをあらかじめ知っているからであろう。

 

 音楽表現を豊かにするには、「楽譜にすべてが書いてある」という思い込みは禁物で、また「機械のように音程が捕まえられれば上手になる」というのも錯覚であって、音楽はもっと裾野が広いのである。

 

 特に、ピッチ、律、倍音の世界は、ここで述べてきたように「理論でははかり知れない」感性の世界である。もちろん技術を獲得するために「理論に即した練習」が前提になるのだが。

 

 幼少からピアノを習う場合、唯一不足するのは音の高さを作りに行くという過程である。管楽器や弦楽器はこれが必要であるが、このことが音程への繊細さを育む。だからピアノを始めてたら、少し遅れても構わないからピアノ以外の楽器を習うことがお奨めであるが、それが叶わない場合は、オーケストラ作品を聴くとか、無伴奏の管楽器、弦楽器のプロの演奏をよく聴くことである。逆に管楽器や弦楽器を習っている人は、必ずピアノを習うべきで、これは楽器の特質上「和音」が奏でられない以上、ビアノによる「和音」への親しみが大きく寄与するであろうからである。(ソナチネぐらいまではやった方がよい) それが無理ならせめてピアノ曲のCDに親しむことである。

 

 つづく