この記事は「哲学総論 つれづれ 番外編 表象と対象 その中間」2020/5/8記事の参考として連載します。わたし自身の考えに対する検証が不十分で、問題提起程度のものです。意外な視角も込めているつもりです。
1.ピッチについて 私的経験も含めて
引用
中央の1点ハ音(ド・C4・c')の上の1点イ音(ラ・A4・a')は、1939年にロンドンで行われた国際会議で440 Hzとされた(通常 "A = 440 Hz" か "A440" と記される)。しかしベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団では A = 444〜445 Hzが基準とされている。日本では、戦後の1948年に9年遅れでA = 440 Hzを導入したが、以前は、1859年のパリでの会議、1885年のウィーンでの会議で定められたA = 435 Hzを標準としていた。現在の日本ではオーケストラや演奏会用のピアノは A = 442〜443 Hzとなる場合が多い。
Wikipedia より
実際においては、上記のように奏者により演奏ピッチは厳密には僅かに違う。
わたしは以前ブログで高校の音楽の教師の家を訪ねたとき聴かされた、バーンスタイン指揮 ニューヨークフィルのベートーベンの『コリオラン序曲』について、「ピッチが低い」という感想を述べたことがあると書いた。これは実は本当のところが分らない。
バーンスタイン指揮 ニューヨークフィルハーモニー交響楽団
残念ながらこのベートーベン全集のなかには収録されていない。(わたしは所有してません)が、この全集の録音は1960年~1970年にかけて録音されており、わたしが教師を訪ねたのが1980年でだから聴かされたのはCBS盤だったからおそらく同時期の録音だったと思われる。バーンスタインはこの約10年後にウィーンフィルとベートーベン全集を再録音している。こちらは今でもCDで手に入るし、Youtubeでも聴くことができる。同時期と思われる下のライブ演奏だが別にピッチの低さは感じられない。
、
ベートーベン 『コリオラン序曲』 バーンスタイン指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団 (ライブ)
わたしの耳の錯覚かもしれない。40年も前のことだ。しかし演奏者や演奏時期により奏者のピッチが一定しないのは事実である。
だが2つの『コリオラン序曲』ピッチの差があると仮定しても、原因が奏者の差や録音時期にあるとは限らない。
奏者の差という事で言えば、ニューヨークフィルとウィーンフィルという違いがある。上記のWikipediaの記述によると、ウィーンフィルはピッチが幾分高めとされているから可能性はある。
しかし、レコード製作会社の違いもあるということも想像できる。
ニューヨークフィル盤はCBS(アメリカ)でウィーンフィル盤はDG(ドイツ)である。録音スタッフも器械も当然違うし、当時はアナログの時代だから、極端な話、オープンテープの回転速度の差という事も考えられる。
わたしが高校生の頃、旧ソ連で録音された演奏は、「メロディア」というレーベルからLPが発売されていたが、知人をはじめわたしの周辺では「メロディアの録音は暗い(あるいはソ連の音は暗い)」という話が多かった。「暗い」が「ピッチが低い」が同じかどうか分らないが、そういう感覚をもったLPとしては、スベトラーノフ指揮 ソビエト国立交響楽団のショスタコーヴィチの交響曲第10番ホ短調 作品93 のメロディア盤(1968年録音)であった。このコンビによる同時期のライブの第1楽章をYoutubeで聴ける。
ショスタコーヴィチ 交響曲第10番 ホ短調 作品93 第1楽章
スベトラーノフ指揮 ソビエト国立交響楽団
ロンドンでのライブだが、ピッチの「低さ」はあまり感じない。
ショスタコーヴィチの第10番の第1楽章は出だしが長大で静かな序奏がつづくからピッチを聴き取りにくいこともある。そこで今回いろいろと探してみた。
すると、ショスタコーヴィチの交響曲第5番で、スベトラーノフ指揮ロンドン交響楽団のもと、マリス・ヤンソンス指揮ウィーンフィルの出だしで僅かにウィーフィルのピッチが高いとわたしは思った。
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調 作品47
スベトラーノフ指揮 ロンドン交響楽団
マリス・ヤンソンス指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
これはわたし錯覚かも知れないし、録音による違いかも知れないし、オーケストラの特性なのかも知れない。だが、ピッチの国際基準はあくまで設定であって絶対的なものではないのはおそらく間違いないであろう。
しかし、ピッチの違いはごく僅かで、鑑賞するに当たってはさほど問題にならない。
2.律(音階)について 平均律の「濁り」
音階といってもいろいろあるが、ピュタゴラス純正律 純正律 平均律などのそれぞれについて詳しく説明しない。
ここでは純正律とは、物理学上の空気の共鳴に原則合わせた音階で。平均律がオクターブが割り切れないことの産物であること、そしてわたしたちが現在使用しているのは平均律であると考えていただいたらそれ以上は立ち入る必要はありません。
平均律がなぜ純正律を補正するかについては、当ブログ記事
「自然の合目的性と美意識」(2018/9/21)を参照
ところで、純正律と平均律の違いはセント(1Hz=約4セント)の違いとして表せる。
音程 平均律のセント値 純正律のセント 差
1度 0 0 0
短2度 100 111.73 -11.73
長2度 200 203.91 -3.91
短3度 300 315.64 -15.64
長3度 400 386.311 +13.69
完全4度 500 498.04 +1.96
3全音 600 590.22 +9.78
完全5度 700 701.96 -1.96
短6度 800 813.69 -13.69
長6度 900 884.36 +15.64
短7度 1000 996.09 +3.91
長7度 1100 1088.27 +11.73
8度 1200 1200 0
表 平均律と純正律の差
この一番左の列が平均律と純正律のセント(約4セント=1Hz)の差を表す。
要するに、純粋の和音を実現する純正律に対する平均律の「修正値」は、純正律から微妙に上下する。
この違いは、ほとんど聴き取れないが、単なる違いではない。
まず、24つある長調短調に性格をもたらす。ピアノのオクターブを思い起こしていただければ分りやすい。つまり、Ⅰオクターブ上12種類あり、長調は、ハ長調から変ロ長調の12、短調は、ハ短調から変ロ短調まで12ある。
しかし、平均律で調律されたピアノの左手の「ラ」(A4)から始まるオクターブの上の「ラ」までの周波数は、
音の周波数(Hz) 差(Hz)
A 440.000
> 26.164
A# 466.164
> 32.829
B 493.883
> 29.368
C 523.251
> 31.114
C# 554.365
> 32.965
D 587.330
> 34.924
D# 622.254
> 37.001
E 659.255
> 39.211
F 698.456
> 41.533
F# 739.989
> 26.164
G 783.991
> 46.618
G# 830.609
> 49.361
A 880.000
表 平均律のA4からのオクターブの周波数
であり、となりあう半音同士の差は「一定」ではない。しかしその数字の差があまりにも大きい(小さいが聴き取れそうなくらい大きい)から、この計算式を疑ってしまう。しかし、表 「平均律純正律の差」良く見ると、純正律のセント値を決めている数値(実は分数)は、単純な数列になってないことが分る。たとえば、一度と短二度間は0.666でA短二度と長二度間は0.059である。(この場合注目すべきは、分数の方で。分母と分子には明らかに規則性がある。(が、その分数はここでは割愛)
つまり、共鳴の自然法則は、整数のような階梯的な音階を導かない。なるほどわたしたちの視覚に現れるピアノの鍵盤は整然と並んでいるが、音程の飛躍は、1+1=2という数学的な並びではなくて、飛躍は「不等」な歩みである。わたしたちが、幼い頃に「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」と音階を習った時に、教えられてはいないけれど、それが「1番目の音・2番目の音・・・・」という順番として刷り込まれているのだが、実は音の高さは「不揃い」なのである。
それは平均律に独特のものではなく、そもそも平均律の原点である最高の共鳴である純正律が、そういう不揃いな音程の構成をとっている物理法則なのである。
音階には性格がある。この原因のすべてが周波数によって説明されるべきではないが、たとえば表 「平均律のA4からのオクターブの周波数」
で検証すると、
Aから始まる「イ短調」の最初の2音の音程差は、
A 440.000 と B 493.883 の間が
26.164 + 32.829 = 58.993
主音をイ短調より半音上げて、A#から始まる「変ロ短調」だと
A# 466.164 と C 523.251 の間が
32.829 + 29.368 = 62.197
で、一致しない。同じ短調でも変ロ短調の方がイ短調に比べて、音の飛躍は 3.204Hz 大きくなる
転用
a-moll イ短調ー敬虔な女性らしさ、性格の柔和さ。
b-moll 変ロ短調ー変わり者。たいていは夜の衣を着ている。幾分不機嫌で、きわめてまれに満足した表情をする。神と世界に対する嘲笑。自分自身とすべてに対して不満。自殺の準備・・・この調に響いている。
ある資料より
(出典は事情により避けます。調性の性格の分析は様々で、文学的要素が入り込んで一様に評価できません。出典を示すと、わたしの個人的見解を出典に責任転嫁することになり、ここでは調性の性格に議論があると理解してください。)
これらのことを見ても、そもそも音階とは不均衡なものであって、しかしそれが自然の摂理として、前提として人間の音楽が成立しているものであるということが言えるでしょう。ただし人間の聴覚自体が、対象が響いている音程差を補正してしまうという性質があって、周波数の数学的な結果だけが調性の性格を説明するものではありません。
3.倍音について 濁りが生み出した効果
ここからは「倍音」の話というより、平均律、純正律の話が絡みあいます。
引用
純正律の長所は、倍音のうなりを伴わない、単純な整数比による純正な和音が得られることである。 上記の例(表は割愛)であれば、C-E-G、F-A-C、G-B-Dの三和音は4:5:6の比となり、三和音として最も単純な比を持つ。
短所は、音の組によっては、純正音程から著しく外れることである。上記の例ではD-Aの音程は純正完全5度(3/2)よりも81/80(シントニックコンマ)狭い40/27となり、この音程を含む和音は非常に響きが悪くなる。そのため純正律では転調や移調が困難である。
もう一つの短所は、旋律の演奏に際しては、純正律では大全音(9/8)と小全音(10/9)の2種類の全音が存在するため、音階が不均等な印象を与え、また演奏が難しいことである。
Wikipedia 「純正律」より
「純正律の長所は、倍音のうなりを伴わない、単純な整数比による純正な和音が得られることである。」 この場合純正律によって、すべて和音が「純正」な共鳴が得られるということではない。それはその後段短所の記述からも明らかで、むしろこちらの方が平均律が考え出された理由である。
ただし、ここで注目してほしいのは、「倍音のうねりを伴わない和音」ということである。
平均律の倍音
ということを逆に考えれば、平均律に現れる「倍音」効果とは、平均律の純正律に対する補正による濁りが、共鳴の不完全を補って発生するのではないか、というのがわたしの勝手な考えです。
「勝手な」と述べたが、人間が改良を加えても、空気を振動させる物理法則は人間が変更することができず、ゆえに物理法則は常に自己完結しようとする。だから「倍音」の発生は必然であろう。
このわたしの考え方が仮にある程度正しいことを含むとすれば、平均律が今日の音楽表現と音楽の多様性(様々な倍音効果に支えられて)に多大な貢献をしてきたということができるのではないでしょうか?
つづく