哲学総論 つれづれ 55 | コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 引用

 

 概念の進行は、もはや、移行でもなければ、自分が他へと映し出されることもなく、「発展」であって、区別されたものが、直接同時に、たがいに一体化するとともに全体を一体化し、また、規定が概念の全体に組みこまれて自由な存在としてあるような、そうした運動である。

 

 [口頭説明] 他への移行は「存在」の領域における弁証法的過程であり、自分が他へと写しだされるのは、「本質」の領域の過程です。たいして、「概念」の運動は発展であって、もともとすでにあったものが対象化されるのがその運動です。自然界では、有機生命が概念の段階に対応します。たとえば、植物の胚芽の発展したものです。胚芽はすでに植物の全体をふくむが、理念の形でふくむというふくみかたです。だから、ここでの発展は、植物のさまざまな部分――根、茎、葉、など――が胚芽のうちに物として、まったくの縮小物としてあり、それが発展する、と考えてはならない。いわゆる「箱入り仮説」がそれだが、その欠陥は、最初は理念の形でしか存在しないものをすでに実在しているものと見なすところにあります。一方その仮説のただしい点は、概念がその過程のなかで自分のもとにとどまるので、概念の過程では内容的に新しいものはなにもうみだされず、形式の変化しか生じない、ということです。概念の過程は自己発展として示されるという概念の本性は、人間の生得概念とか、プラトンのいう、すべての学習は想起であるとかの考えのうちにも見てとれます。とはいっても、教育によって成長を遂げていく意識の内容が、前もってすでにその意識のなかにきちんとした形で存在しているという意味ではありませんが。

 概念の運動は、いうならば、一つの遊戯にすぎない。運動によって対象化される他のものは、実際には他のものではない。キリスト教の教えでは、それがこう表現されます。神は、自分と対立する他のものとして世界を創造しただけでなく、永遠の昔から一人の息子をうみ、そのうちに精神として安らっている、と。

 

『論理学』 ヘーゲル 著  長谷川 宏 訳  作品社 344~355

 

 概念の進行は、もはや、移行(太陽と月がともに天体であり、物質でできていて、しかし集まっている元素の種類も量も違っているということが相互に互いを規定する関係、差異と同一性の共存による本質の相互移行による規定)でもなければ、自分が他へと映し出される(月の輝きが太陽光の反射であるが、月に燃焼がない分けではないことを太陽が映し出す)こともなく、「発展」であって、区別されたものが(太陽は元素でできている。太陽は燃焼している。太陽は自転している。太陽の直径は30000年1パーセント大きくなっている。このように太陽を主語にして語られる述語の個別それぞれに区別されたものが)、直接同時に、たがいに一体化するとともに全体を一体化(「太陽」という名辞において全体化)し、また、規定が概念の全体に組みこまれて自由な存在としてあるような、そうした運動(全体から宇宙の原理に迫る運動)である。

 

 [口頭説明] 他への移行は「存在」の領域における弁証法的過程であり、自分が他へと写しだされるのは、「本質」の領域の過程(ヘーゲル論理学の第2編で扱われる「概念」に先行する過程)です。たいして、「概念」の運動は発展であって、もともとすでにあったものが対象化されるのがその運動です。自然界では、有機生命が概念の段階に対応します。たとえば、植物の胚芽の発展したものです。胚芽はすでに植物の全体をふくむが、理念の形でふくむというふくみかたです。だから、ここでの発展は、植物のさまざまな部分――根、茎、葉、など――が胚芽のうちに物として、まったくの縮小物としてあり、それが発展する、と考えてはならない。(胚芽が成長するのであって、いまだ芽を出していない胚芽をどんなに切り刻んでも根、茎、葉を取り出すことはできない。しかし「植物」という概念は、このような成長全体を含むものである。この際、胚芽の成長とはアリストテレスの言葉を借りれば「運動変化」であって「性質変化」ではない。(『自然学』 アリストテレス 著  内山 勝利 訳 「アリストテレス全集」第4巻 第6巻 第7巻 岩波書店 288~370頁)植物の成長は、植物にそのような成長がすべて胚芽に詰まっているというわけではなく、土の中から水と養分を吸い上げ、太陽光に向かって芽を出し、葉をつけて光合成をして花を付け実りとなる。胚芽という一粒の物体に内在しているものだけではなく、水分を取り込んだり光エネルギーを変換したり、周囲の物質世界から必要なものを取り込み、不要なものを捨て去る運動である。この「変化」は性質の変化ではなくこの過程全体が植物の概念である。)いわゆる「箱入り仮説」がそれだが、その欠陥は、最初は理念の形でしか存在しないものをすでに実在しているものと見なすところにあります。一方その仮説のただしい点は、概念がその過程のなかで自分のもとにとどまるので、概念の過程では内容的に新しいものはなにもうみだされず、形式の変化しか生じない(植物の概念にとどまり、その変化は現実としての「成長」の過程という現象(段階)の形式だけが変化する)、ということです。概念の過程は自己発展として示されるという概念の本性は、人間の生得概念とか、プラトンのいう、すべての学習は想起であるとかの考えのうちにも見てとれます。とはいっても、教育によって成長を遂げていく意識の内容が、前もってすでにその意識のなかにきちんとした形で存在しているという意味ではありませんが。(プラトンの『メノン』において、メノンの召使の少年に、正方形に関する質問をする場面を参照 プラトン 著  藤沢 令夫 訳 プラトン全集 第9巻 岩波書店 278~293頁)

 概念の運動は、いうならば、一つの遊戯にすぎない。運動によって対象化される他のものは、実際には他のものではない。(植物の胚芽の運動変化に、わたしたちは、実は人間の成長を重ねることができ、同時に植物と動物の成長の違いも認めることもできる。今日の科学では、人間は妊娠段階から母親の胎内から出てくるまでに、6億年の動物の進化を10ヶ月ほどで走破することが知られ、体内ではカエルのような姿の時期があるが、そういう進化の過程を踏むことにより、遺伝子情報に組み込まれたものをからだが学習する。)キリスト教の教えでは、それがこう表現されます。神は、自分と対立する他のものとして世界を創造しただけでなく、永遠の昔から一人の息子をうみ、そのうちに精神として安らっている、と。

 

「赤字」はわたしの補筆

 

 ヘーゲルの叙述の用語を拾っていくと、概念について、「進行」「発展」「運動」という言葉がつづく。これは一般には非常に違和感があるだろう。なぜなら少なくとも哲学以外の学問では「概念」とは思考の整理に使用し、認識を確定するために使われるから、「運動」などという「動く」「概念」というのはピンと来ないであろう。これには背景があって、英語では「概念」を、concept 「コンセプト」という。たとえばファッションショーで茶色のセーターを着たモデルが登場した時、よく、「このセーターは秋色のコンセプトで」という言い方がされる。この言い方を換言すれば「秋の紅葉をイメージした」とか「秋の色使いを基調にした」などという言い方になろうかと思う。英語の「コンセプト」は「概念」という大げさでわかりににくい単語のイメージとはかなりニュアンスが違って、もっと簡単に「考え方」という訳語のほがふさわしい。ドイツ語では、Konzept  がこれに対応するが、科学とか工業における規格とかに良く用いられる。簡単な例を示せば「主語」という概念は、行為の主体、動作主体ないしは。受動態構文においては動作をされる側を示す、と簡単に定義してみれば、「概念」はかなり広く使用されることがわかる。

 しかし、ドイツ語にあって、哲学者にもよるが、哲学においてのみ、Begriff  という別の単語が使用される場合がある。こちらのほうは「考え方」ということよりも「理解」という意味合いに近い。だから、太陽は元素でできている。太陽は燃焼している。太陽は自転している。太陽の直径は30000年1パーセント大きくなっている。というような太陽を主語にして語られる幾通りもある述語の個別それぞれにおいてではなくて、それらを包括した太陽の規定を求める場合は、Begriff を用いる。そうすると太陽についての内部構造、蘇生、誕生と消滅などを包括的に思考し、その本質を追及しようとすると、太陽に関する現象総体の意義を探すこととなり、「概念」という認識があらゆる現象について頭の中を駆け巡る。このような認識の運動とも、一種の認識のブレとも思われる思考過程は、「秋の紅葉をイメージした」デザインのセーターを解説することとはかなり違う。この解説はモデルが着ているセーターについて、「一定の イメージ」を飢えつけようとする意図があり、いわばファッションショーの観客にセーターのデザインの意図を伝えようとしているわけで、運動する認識というより、むしろ「固定観念」に誘導するものであるからだ。

 

 このヘーゲル流「概念」の運動という思考過程こそ、わたしが前2回の「哲学総論 つれづれ」で、核兵器について太陽や天体や生態系に絡めて述べたわたしの哲学の思考過程そのものである。

 人は、ある名辞に対していろいろなイメージを持つ。それがたとえば「核兵器」だった場合、「恐ろしい兵器」だとかいったイメージを持つのだが、人類が到達した科学といっても、その反応、すなわち原子核を破壊する(この場合は「原爆」であって、「水素爆弾」は逆に核融合なのだが)ことで得られる膨大なエネルギーを、その陽子ー陽子反応を連鎖的に発生させることができれば、これまでの常識を覆す威力の爆弾を作ることができる、という仮定で発明された。それは人間の発明ではあるが、太陽では常に起きている化学反応で、物質は本来そのような反応を実現する内在性を持っているのである。ただし地球の環境においては、その反応は地球46億年の過程では、自然には一度も起きたことがない。ひょっとしたら初期の重爆撃期においてはあったかもしれないが、それは地球が3億年掛けて冷えることで無いこととなった。その後8億年後に最初の生命が誕生するのだが、遺伝子を破壊するような放射能が溢れた環境であれば、36億年の地球の生命の過程はありえなかったと考えるべきである。そうすると、太陽光の恩恵もまた遠く離れた太陽の核反応をその源とするのであり、核兵器が廃絶されねばならないという思想の中に、その反応を作り出した人類史の自己批判を込めると同時に、物質の運動の根拠としてそのような反応があるけれども、19世紀末から原子核を破壊するということに踏み出した歴史に対する反省というのは、「科学が必ずしも人類に幸福をもたらすものではない」ということに尽きる。

 が、これは「言うは易し」で、たとえば最近銀行や郵便局のプリペイドカードから「不正引き出し」ということがあるけれども、自分たちがプログラムしたIT技術が自分たちでコントロールできなくなっていることを示している。パソコンという電算処理のための「箱」の中で、どういう反応や計算がされているか、もはや理解している人はごく稀であるし、もっとも知っているのは「不正」を働いている人なのかもしれない。予断になるが、アメリカ大統領が持っているといわれている「核の発射ボタン」が、もしITの体系に接続されていて、アナログでないとすれば、これほど恐ろしいことはない。70年ほど前の、スタンリー・キューブリックが描いた映画『博士の異常な性格』は人事ではないのである。この映画では、アメリカがソ連に核を発射するきっかけは「共産主義大嫌い」の少佐の単独の暴走にあるのだが、大統領が命令を撤回したのに爆撃機一機だけに連絡できず、核爆弾が落とされるところで終わっている。この命令が連絡できないというような機械上のトラブルが、たとえば東京証券取引所のシステムダウンの騒動を見るにつけ、すべてがITに繋がっている現代の盲点はいくらでもあるとわたしは感じる。

 ここで、ひとつお断わりを入れておくと、わたし自身も今、この瞬間にパソコンを使って記事を書いている。この電力はおそらく関西電力の原発で作られた(核反応によって作られた)ものが混じっている。このことからも「科学が必ずしも人類に幸福をもたらすものではない」ということが「言うは易し」であることを示している。本当に科学の弊害から決別しようとすれば、まさにその電気を使っている自分に対する自己批判、自己検証がなければならないのであって、客観的と思われる認識は、主体の問題を置き去りにしてはならないという意味で Begriff =理解 でなければならない。

 

 引用

 

 わたしたち生命が太陽の表面で生存できることはまずない。約6000度の太陽の表面温度に耐えられない。しかし問題なのは、太陽と地球のあまりにも違う環境にかかわらず、両者は共通の物質たる原子(元素)から構成されているということ、そして様々な原子は具体的な性格を持っているにもかかわらず、陽子、電子、中性子という詳細な分解をすれば、それぞれ性格はなくて同一であるということを考えてみればわかる。宇宙を最初に作ったエネルギーの変形である物質は、非常に単純な単位で構成されている。電子や陽子というこれの単位がそれで、元素記号上の違いは原子の大きさや保有電子数の差と見てよい。

 ところが、その単純な単位の変形が、たとえば水素は、人体必須元素だが、これは地球の生命にとって欠かすことのできない水分の源である。ところが太陽においては水素(宇宙で最も多い原子)は、陽子-陽子連鎖反応の材料でしかない。太陽の燃焼は、物質がその発生の原点であるエネルギーに回帰しようとする現象にも考えられる。

 

当プログ「哲学総論 つれづれ 54 宇宙論(試論)」より

 

 わたしたち身体には、水素、酸素、リン、炭素などがあり、たまたま太陽には水素が大量にあって猛烈な勢いで水素原子がヘリウムに変換されるが、地球では水素と酸素が結合して「水」としてある。これが生命を支える最も基本的な物質であり、生命は海から始まったわけである。だから地球の環境を守るという時に、それは地球の自然のうちにある物理法則にのっとった生き方をするということである。植物の胚芽の概念を思考する時、植物もまた人間同様に素晴らしい身体システムをもって成長する。その目的は実(みのり)をつけることであり、それは子孫を残すためという究極の自然の合目的性を実現している。人間の命という自然の恵みを殺戮するために、遠くで輝いて地球の全生命に命を育んでくれている太陽で起こり、地球では起きない反応をわざわざ人工的に作ることがすでに地球の物理法則に合致しない。太陽はそこにある(今の地球との関係で「そこ」にある)から「恵み」なのである。

 

 再度引用 

 

 概念の運動は、いうならば、一つの遊戯にすぎない(太陽が6000度の高温で地球から1.471×1011mから1.572×1011mの距離にあるという認識は、地球上では想像を絶する広大な宇宙観でまた科学的事実であるが、プラトン(『ティマイオス』)やアリストテレス(『宇宙について』)でさえ、正確な仮説を建てることができなかった。わたしたちの宇宙観の原点は、コペルニクスであり、ガリレオに始まるものであるが、そういう認識にいたっても太陽はあまりに遠く、行くことができない。あくまでも科学が到達した認識という観念上の思考に過ぎない。ゆえに「一つの遊戯」にすぎない。)運動によって対象化される他のものは、実際には他のものではない。(しかし、間違いなくわたしたちも地球の生命も太陽エネルギーなしには存在しない。だから間近で見たり触ったりできなくても、太陽は「他のもの」ではなくわたしたちが生きるシステムを支えているし、太陽と地球との位置関係によってもたらされる地球の豊かさの上に、わたしたちは、自らの身体にその恵みを取り込み利用する生命のシステムを持っている。だから太陽は「実際には他のもの」ではない。)キリスト教の教えでは、それがこう表現されます。神は、自分(燃焼し、やがて燃えつきようとする運動)と対立する他のもの(太陽以外の天体や太陽系)として世界を創造しただけでなく、永遠の昔から一人の息子をうみ(地球を引力にひきつけつつ地球に公転の自由を与え)、そのうちに精神として安らっている(自らの膨大なエネルギーをわたしたちが生命として「理念」を開花させるそのうちに、わたしたちの精神をつかさどる思考を生み出した生命としてのシステムを実現してわたしたちの中で「微笑んでいる」が,それは神を観念できる(神を信じる)という意味と同時に、神を人間の思考の産物と考えた(無神論に立つ)としても、わたしたち自身の「生きていることへの感謝としての微笑」でもある。)、と。

 

 「哲学総論 つれづれ」前2回とブログ記事「未来への希望」で述べた、なぜわたしが「核兵器」や「原発」に反対するかの根拠を導くために、わたしが40年近く思考してきた思考過程を、大まかに存在論の検地から説明すれば、上記のようなことになる。

 ただし、現実の「戦争」や「紛争」はこれだけでは終わることがない。よって哲学を続けるのである。

 

 引用

 

 宇宙は生成したものの中ではもっとも立派なものであり、造り主はおよそ原論(ロゴス)

と思慮の働きによって把握され、同一を保つもの(物質の理(ことわり))に目を向けて作成されたのである。

 

 『ティマイオス』 プラトン 著  岸見 一郎 訳 白澤社 36頁

 

 

 一旦おわり