引用
16
ソクラテス 〔召使の子に向かって〕 では君、ぼくに答えてくれたまえ、正方形とはこのようなものだとということがわかるかね?〔正方形ABCDを地面に描く〕
メノンの召使 はい、わかります。
ソクラテス ところで、正方形がもっているこれらの線――四つあるね――は、全部等しいものだね?
メノンの召使 ええ、たしかに。
ソクラテス こうやってまんなかを通る線〔EG・HF〕をひくと、これらの線もやはり等しいのではないかね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス このような図形には、大きいのも小さのもあるだろうね?
メノンの召使 ええ、たしかに。
ソクラテス では、この辺〔AB〕の長さが二ブゥスで、この辺〔AD〕が二ブゥスだとすれば、全体は幾〔平方〕ブゥスあるだろうか。こういうふうに考えてごらん。――もしかりに、ここ〔AB〕が二ブゥスで、〔AD〕が一ブゥスしかない〔AE〕としたら、この図形は二ブゥスの一倍の大きさ〔ABGQ〕ということになるのではないかね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス ところが実際には、ここ〔AD〕も二ブゥスなのだから、この図形の大きさは二の二倍になるのではないかね?
メノンの召使 そうなります。
ソクラテス すると、二の二倍しただけのブゥスからできていることになるわけだね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス で、二の二倍のブゥスはいくらになる? かぞえて言ってごらん。
メノンの召使 四〔平方〕ブゥスです。ソクラテス。
ソクラテス ところで、もうひとつ別にこの図形の二倍の大きさのもので、これと同じ種類の図形ができないだろうか? つまり、これと同じように。もっている線が全部ひとしいのだ。
メノンの召使 はい、できます。
ソクラテス では、その図形は、どれだけのブゥスからできているだろうか
メノンの召使 八〔平方〕ブゥスです。
ソクラテス さあそれでは、ぼくに言ってくれたまえ、 ――その図形のひとつひとつの線は、どれだけの長さだろうか、いいかね、こちらの図形〔ABCD〕の一つの線は二ブゥスだったね。では、もうひとつの二倍の大きさの図形がもっている線は、いくらだろうか?
メノンの召使 むろんそれは、ソクラテス、二倍の長さです。
ソクラテス どうだね、メノン、ぼくはこの子に何も教えないで、すべて質問しているだけだろう? そしていまのところこの子は、八平方プゥスの正方形をつくる一辺がいかなる線かということを、知っていると思いこんでいるのだ。そう思わないかね?
メノン たしかに。
ソクラテス で、実際にしっているのだろうか?
メノン いえ。けっして。
ソクラテス 二倍の長さの線からできると思いこんでいるのだね。
メノン ええ。
17
ソクラテス それでは、この子がしかるべき想起の仕方で、つぎつぎと想起していくのを観察したまえ。
〔召使の子に向かって〕 で、君はぼくに言ってくれたまえ。――君の主張によると、二倍の大きさの図形は、二倍の長さの線からできるというのだね。ぼくの言うのは、この図形のことなのだよ。つまり、こちらの辺は長く、こちらの辺は短いというのではなく、これ〔ABCD〕と同じように、どの辺もみんな等しくて、ただ大きさがこれの二倍、八〔平方〕ブゥスだとするのだよ。さあ考えてみたまえ、やはり君には、それが二倍の長さの線からできるように思えるかね?
メノンの召使 そう思えます。
ソクラテス ではこちらがわにもうひとつ、これだけの長さの線〔BK〕をつけ加えると、この線〔AK〕はこの線〔AB〕の二倍になるのではないかね?
メノンの召使 ええ、たしかに。
ソクラテス だから、君の主張によると、この線〔AK〕から八〔平方〕ブゥスの図形ができるはずなのだねーーもしこれと同じ長さの線が四つあるならば。
メノンの召使 はい。
ソクラテス では、それ〔AK〕を基底にして、等しい長さの線を四つ書いてみよう。君のいう八〔平方〕ブゥスの図形とは、これ〔AKLM〕のことだろうね?
メノンの召使 はい、たしかに。
ソクラテス これ〔AKLM〕のなかはこれらの四つ図形〔ABCD、BKCP、CPLQ、DCQM〕があって、そのひとつひとつは、この四〔平方〕ブゥスの図形〔ABCD〕と等しいのではないのかね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス そうすると、それ〔AKLM〕はいくらになるかね。これだけの大きさ〔ABCD〕の四倍ではないかね?
メノンの召使 まちがいありません。
ソクラテス とするとうする、これだけの四倍がすなわち二倍だということになるのかね?
メノンの召使 けっしてそんなことはありません。
ソクラテス では何倍かね。
メノンの召使 四倍です。
ソクラテス としてみると、君、二倍の長さの線からは。二倍の大きさのものではなくて、四倍の大きさの図形ができるわけだ。
メノンの召使 おっしゃるとおりです。
ソクラテス と四の四倍なら、つまり一六〔平方〕ブゥスになるわけだ。ね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス では八〔ブゥス〕の図形は、どのような線からできるのだろうか?――この線〔AK〕からは、四倍の大きさのができるのではないかね?
メノンの召使 そうです。
ソクラテス そして、その四分の一大きさのこれ〔ABCD〕は、半分真長さのこの線〔AB〕からできているのだね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス その正方形をつくる一辺は、これだけの長さの線〔AB〕よりは長く、これだけの長さの線〔AK〕よりは短いのではないだろうか。
メノンの召使 たしかにそうだと思います。
ソクラテス そうそう、君がそうだち思ったとおりに答えてくれればいいのだ。――そこできくけれども、この線〔AB〕はにブゥスで、この線〔AK〕は四ブゥスだったね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス してみると、八〔平方〕ブゥスの一辺となる線は、二ブゥスの長さのこの線〔AB]より長く、四ブゥスの線よりは短くならなければならないということなる。
メノンの召使 そうですね。
ソクラテス では言ってみてくれたまえ――君はそれがどれだけの長さだと主張するかね?
メノンの召使 三ブゥスです。
ソクラテス 三ブゥスだとすると、この線〔AB〕の半分〔BR〕をつけ加えると三ブゥスになるはずだね? これ〔AB〕が二ブゥスで、これ〔BR〕が一ブゥスなのだから。そしてこちら側〔AT〕でも同じように、これ〔AT〕でも同じように、これ〔AD〕が二ブゥスで、これ〔DT〕が一ブゥス。――こうしてここに、君の言うような図形〔ARST〕ができるわけだ。
メノンの召使 はい。
ソクラテス そうすると、ここ〔AR〕が三ブゥスで、ここ〔AT〕が三ブゥスなら、この図形全体は、三の三倍だけのブゥスからできているのではないかね?
メノンの召使 そのようです。
ソクラテス で、その三の三倍のプゥスは幾〔平方〕ブゥスかね?
メノンの召使 九〔平方〕ブゥスです。
ソクラテス しかるに、二倍の大きさの図形というのは、幾〔平方〕ブゥスでなければならなかったのかね?
メノンの召使 八〔平方〕ブゥスです。
ソクラテス してみると、三ブゥスの長さの線からもやはり、八〔平方〕ブゥスの大きさの図形はまだできないわけだ。
メノンの召使 たしかにできません。
ソクラテス ではどのような線からできるだろうか。正確に言ってみてくれたまえ。勘定したくないのなら。それがどのような線か、手で指し示すだけでもいいんだよ。
メノンの召使 いや、ゼウスに誓って、ソクラテス、私にはわかりません。
18
ソクラテス こんども気がつくかね、メノン。この子が想起の過程において、すでにどんなところまで前進しているかを。――最初この子は、八平方ブゥスの正方形の一辺がどのような線であるかを知らなかった。ちょうど、いまもやはりまだ知らないでいるのと同じように。しかしすくなくとも、あのときには、この子はそれを知っていると思いこんでいたのだ。あたかも実際に知っているかのように確信をもって答え、そこに何ら困難も感じていなかった。ところがいまでは、この子はすでに自分が困難に行きずまっていることを自覚して、知らないでいる実情のとおりに、また知っていると思いこむようなこともないのだ。
メノン おっしゃるとおりです。
ソクラテス だから、いまこの子は、もともと自分が知っていなかった事柄に関して、前よりも進歩した状態にあるのではないだろうか?
メノン その点も同意です。
ソクラテス とすると、われわれはこの子を困難に追いこんで行きずまらせ、シビレエイのようにこの子を痺れさせことによって、よもや有害な影響をあたえたことにはならないだろうね?
メノン たしかにそうとは思えません。
ソクラテス とにかくわれわれのしたことは、どうやら、事柄の真相発見の一助なったらしいのだからね。なぜなら、いまならこの子は、自分が無知な者とし、よろこんで探求するつもりにもなるだろうが、前にはしかし、二倍の面積の正方形は、二倍の長さの線をもたなければならないなどということを、いい気になって、たくさんの人に何べんもくりかえしながら、それでもうまく語ったつもりになっていたことだろうから。
メノン そうでしょうね。
ソクラテス 君はどうおもうかね――この子は、自分の無知をさとって困難におちいり、それによって知りたいと思う気持ちになる以前に、知らないのに知っていると思いこんでいた事柄を探求したり学んだりしようと試みるだろうか?
メノン そうは思えません、ソクラテス。(誤訳か?)
ソクラテス してみると、しびれたことが、この子のためになったわけだね?
メノン そう思われます。
ソクラテス それでは、この子のいまの行きづまりの状態から出発して、ぼくといっしょに探求しながら――その場合、ぼくのほうは質問するだけで、教えはしないのだが――そもそも何を発見するだろうか、ひとつ見てくれたまえ。そして、ぼくがこの子自身の思わくをたずねないで、教えたり説明したりするのをみつけるかどうか、よく気をつけていてくれたまえ。
19
〔召使の子に向かって〕では、君、答えてくれたまえ。――ここに四〔平方〕プゥスの大きさの図形〔正方形ABCD〕がある。わかるかね?
メノンの召使 ええ。
ソクラテス ここにもうひとつ別の等しい図形〔BKPC〕を、これにつけ加えることができるね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス さらに、このどちらとも等しい第3番目のもの〔CPLQ〕を、ここにつけ加えることができるね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス この角にあいているところを、これ〔DCQM〕をつけ加えてうずめることができるかね?
メノンの召使 たしかに。
ソクラテス そうすると、ここに四つの等しい図形ができることになるのかね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス で、どうだろう――この全体〔AKLM〕は、これ〔ABCD〕の何倍になるだろうか?
メノンの召使 四倍です。
ソクラテス しかるにわれわれには、、二倍の大きさのものができなければならなかった。おぼえていないかね?
メノンの召使 たしかにそうでした。
ソクラテス では、こういうふうに角から角への線〔Bその他〕をひいていくと、これらの図形を二分することになるのではないかね?
メノンの召使 たしかにそうでした。
ソクラテス そうすると、これらの四つの等しい線〔DB・BP・PQ・QD〕ができて、この図形〔DBPQ〕をとりかこむことになるね。
メノンの召使 ええ、そういうことになります。
ソクラテス さあ考えてごらん――この図形〔DBPQ〕ま大きさはいくらのものだろうか?
メノンの召使 わかりません。
ソクラテス このひとつのひとつの線〔DB、BP、PQ、QD〕は、ここに四つの図形があるが、そのおのおのの半分ずつを内側に切りとっているのではないか。ね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス では、半分に切りとられたそれだけの大きさのものが、これ〔DBQR〕の中にいくつあるかね?
メノンの召使 四つあります。
ソクラテス これ〔ABCD〕の中にはいくつあるかね?
メノンの召使 二つあります。
ソクラテス 四つは二の何にあたるかね?
メノンの召使 二倍です。
ソクラテス そうすると、これ〔DBPQ〕は何〔平方〕ブゥスになるかね?
メノンの召使 八〔平方〕ブゥスです。
ソクラテス どような線からできているかね?
メノンの召使 これ〔DB〕です。
ソクラテス 四〔平方〕プゥスの大きさの図形の角から角へひいた線のことだね?
メノンの召使 はい。
ソクラテス 学者たちはこの線のことを、対角線と呼んでいるのだよ。だから。対角線というのがこれの名前だとすると、メノンに仕える子よ、きみの主張は、対角線を一辺として二倍の正方形はできるのだということになろう。
メノンの召使 たしかにそのとおりのものです、ソクラテス。
プラトン 著 藤澤 令夫 訳 『メノン』 プラトン全集 第9巻 279~291頁
プラトンの哲学の骨格としての「イデア論」は、ある種の宗教がかった性格として説明できる。イデアという理想は、人間個人の認識よりも、前提として人間の認識以前に存在する「イデア」の原理があって、人間の認識に先立ってそのような世界の原理がある。よって人間個人が真理を求める時に、そのような原理に触発される、ということであって、ここで紹介している『メノン』のなかの、メノンの召使との問答はプラトンのイデア論が確立する過程を示していて、それは「想起」と呼ばれるものである。
要するに、イデアという理想の世界は、一種神の原理のようなもので、人間の認識もそのイデアに支配され、その世界のもとに認識しているに過ぎない、というものである。このイデア論の前提が、「想起説」とよばれるもので、人間は世界を「未知」のものと思っているが、人間の知は世界についてすでに知っている、という前提に立つ。
引用
「想起」と知の内発性
それに対して、ソクラテスが、未知なるものについての探求の可能性を確保するために提出するのが「想起」(アナムネーシス άνάμνησίς ) という新たの知の理念である。彼はオルペウス教的な輪廻転生説を援用しながら、わたしたちの魂は不死なるものであり、永世を通じてすべてを学び知り尽くしているのだと言う。したがって、
事物の本性はすべて同属的であり、魂はすべてを学び尽くしているからには、ある一つのことを思い出すことで――それを人々は「学ぶ」と呼んでいるのだが――他のすべてを見出すということに何のさしさわりもないのだ、もし人が勇気をもって探求に倦むことがなければ、だがね。探求するとか学ぶとかいうことは、全体として、想起することにほかならないのだよ。
『哲学の歴史』 1 責任編集 内山 勝利 中央公論新社 458頁
このプラトンの「想起」については、前回の「哲学総論 つれづれ 55」でヘーゲルが言及している箇所をもう一度引用する。
引用
[口頭説明] 他への移行は「存在」の領域における弁証法的過程であり、自分が他へと写しだされるのは、「本質」の領域の過程です。たいして、「概念」の運動は発展であって、もともとすでにあったものが対象化されるのがその運動です。自然界では、有機生命が概念の段階に対応します。たとえば、植物の胚芽の発展したものです。胚芽はすでに植物の全体をふくむが、理念の形でふくむというふくみかたです。だから、ここでの発展は、植物のさまざまな部分――根、茎、葉、など――が胚芽のうちに物として、まったくの縮小物としてあり、それが発展する、と考えてはならない。いわゆる「箱入り仮説」がそれだが、その欠陥は、最初は理念の形でしか存在しないものをすでに実在しているものと見なすところにあります。一方その仮説のただしい点は、概念がその過程のなかで自分のもとにとどまるので、概念の過程では内容的に新しいものはなにもうみだされず、形式の変化しか生じない、ということです。概念の過程は自己発展として示されるという概念の本性は、人間の生得概念とか、プラトンのいう、すべての学習は想起であるとかの考えのうちにも見てとれます。とはいっても、教育によって成長を遂げていく意識の内容が、前もってすでにその意識のなかにきちんとした形で存在しているという意味ではありませんが。
概念の運動は、いうならば、一つの遊戯にすぎない。運動によって対象化される他のものは、実際には他のものではない。キリスト教の教えでは、それがこう表現されます。神は、自分と対立する他のものとして世界を創造しただけでなく、永遠の昔から一人の息子をうみ、そのうちに精神として安らっている、と。
『論理学』 ヘーゲル 著 長谷川 宏 訳 作品社 344~355
ヘーゲルが「理念」という用語を用いるのは、「神」と直接的に述べない婉曲であるとわたしは考えている。。
この「理念」はプラトンのイデア論から大きく影響を受けていて、特にその「想起」の考え方に大いに注目を置いている。が、すべての学習は想起であるとかの考えのうちにも見てとれます。とはいっても、教育によって成長を遂げていく意識の内容が、前もってすでにその意識のなかにきちんとした形で存在しているという意味ではありませんが。とわざわざことわっている。ヘーゲルは自らの思想である「理念の開花としての生命」に対して、魂があらかじめすべてを学んでいるとするプラトンとは距離を置いて、認識を概念の運動として発展であるとするのがヘーゲルの立場である。
この登場人物である「メノンの召使」の少年が、何歳ぐらいであるか、またどんな初等教育を受けたかは定かではない。
しかしわたしたちが「小学生」になる6歳のころに、数学は初めて教えられるものではない。図形の形態についても一定の理解があることを思い出さねばならない。足し算とは「和」の回答だが、わたしたちは小学生になる前に、すでに指折り数を数えるし、一から十の命名も知っている。平面的な空間で、引力に勝てず、飛び上がることはできても、身体は必ず落ちてくることも知っている。
幼少のころ、母が恋しくて「泣く」と母が戻ってくる。家の外は「天気が安定せず」「雨が降れば外には行けない」ということを理解する。「三角形も四角形も」なんとなく知っている。つまりプラトンの「想起」を待つまでもなく、すでに0歳児からの経験は積み重ねられているのであって、ひとつの「線分」が「等価」であることは小学校で初めて習う。等価の線分に囲まれた「四角形」を「正方形」と概念できるのは、小学生で習う「数学」の知識によるわけだが、各辺が「等価」でなくても、「四角」とい形は小学生に成る前から知っている。
小学生に成る前にすでに、「同じ長さ」ということを知っている。知らないのは「等価の線分」という言葉であり、「必ず高いところから低いところに落ちる」ことを知っているが、「地球の引力」という言葉を知らないのである。
平方根という言い方があるが、「メノンの召使」の少年がソクラテスに「対角線」を教えられている場面で想像されるのは、この少年はやがて√2 ということを覚え、2×2×√2×√2=8ということを理解するであろうということである。平方根とは「ある大きさの面積の正方形の一辺の長さ」であるということである。
初等教育が成立するのは、数字、倍。半分などの意味が、小学校に入学する前に、子供の認識の中にすでに形成されていて、それらの言葉の意味が大人と共有されるからである。プラトンの超感覚的な世界「イデア」における「想起」を持ち出すまでもなく、人間は生まれてきて僅かの期間で、母を理解し、自分がしゃべれなくても回りに会話があることを理解し、10ヶ月ぐらいで発音を獲得して言葉の世界に踏み出していく。
ところでわたしは最近、『哲学総論 つれづれ 54』以降、「核兵器」ということを扱ってきたが、原子核や陽子や中性子、電子などの物質の成り立ちから、核反応が太陽で常に起きているなど、現代科学の基本事項を、もしプラトンやヘーゲルが生きていて、彼らに語り聞かせたら、彼らは「核兵器」というものを(見たことがなくても)理解するのではないかと思う。しかも原子核の破壊ということが「人間にとって自殺行為である」と瞬時に理解するのではないかと思う。それほど彼らの生き様、すなわち「世界とは何か」という問いに対する真摯な探求の態度は素晴らしいものだということだ。ことにプラトンは時に「想起」において現実を超えた「空想」を思い描いた。『ティマイオス』におけるアトランティスの話などそういうものに思える。
そういう意味で、「核兵器の使用を肯定する」などの愚かさは、2300年前の古代の哲学者がこれに反論しうるものなのだが、それでもそうした「悪しき執着」が現代でまかり通っている、ということは、人間の愚かさとは古代から今日までほとんど変わっていないのではないかと思うのです。要するに人間の中身はあまり前進していないと言えるのではないでしょうか?
次回よりヘーゲル論理学の第2編に戻ります。
おわり