ソーシャルメディア病? | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 わたしは心理学者でも、医者でもないが、現在では、ブログ、ツィッター、SNSなどのインターネットを利用したメディアにおける情報発信の手段がすっかり定着しているのは誰もが認めるところである。こういうのをソーシャルメディアというのだそうだが、ここには現代人が陥りやすい危険も多く存在すると思われる。

 

 昨日、日本時間の午前8時後半に放送されてアメリカ大統領選挙でのトランプ大統領の会見を聞いてい、思ったことがある。

 ことわっておくが、わたしはトランプ支持でもバイデン支持でもない。そもそもわたしにはアメリカ国籍もないし、投票権もないのであり、他国の指導者を選ぶ立場にはない。それにもかかわらず自分がどちらの支持かを表明すること自体すでに「内政干渉」であり、古い言葉でいえば「民族(アメリカは多民族国家だが)自決権」に反する。グレタさんの環境保護活動には敬意を表するが、別の国の国籍を持つ者が「バイデン」支持を世界に発信するのはいかがなものであろうか?自分の知名度を以ってアメリカ国内の投票行動に影響を与えようとするのなら、以下わたしの述べるところの一種の「ソーシャルメディア病」ではないだろうか?

 

 思うところは、ツィッターを駆使するトランプ大統領は、自分がつぶやいた世界や、SNS上の不確定情報に溢れる自分を支持する人々の書き込みに認められる自分に都合のいい情報の世界に浸って、さもそれが世界の大勢だと信じ込んでいるふしがある。つまり、「ツィッター病」とでもいう病魔に冒されているのではないか?:アナログの現実より、ソーシャルメディアの「仮想」世界が現実だと思い込んでいる。

 テレビゲームの世界にのめり込んで、ゲームの世界が現実の自分の生活より大切で、その世界の方が優先になって生きている依存症と同じではないのか?真実でないかもしれないと自分で知っていても、相手を攻撃するために確証のないSNS上の情報を真実だと考えて、あげく、しまいには自分でそれが「本当」の現実のことだと信じ込んでしまう。その真実でない「仮想」にしまいには自分が振り回されてしまう。

 

 ソーシャルメディアでの発信は、常に一方通行である。自分が書き込んだことを誰が読むかわからない。自分が読んだ他人の書き込みがどれだけ「本当」のことでどれが「デマカセ」なのかわからない。

 

 自分の意見を発信するのはよい。素敵なお店の情報を不特定多数の人に伝えるのもよい。たが特定の他人に対する非難や中傷を書き込むことには責任が発生する。非難や中傷が「根拠がない」ことが自分でわかっていても、発信してしまえば、それを読んだ人の中にはそれが真実だと思う人もたくさん出てくる場合がある。

 

 アナログの世界こそこの世界の現実の実体であって、バーチャルな世界は、この世界を話題を材料にした実体らしき「仮想」ないし「脚色」で多くの誤りを含む。

 

 だから、根拠無き書き込みは「無責任」である。

 

 わたしもブログで発信しているが、他人を批判しない。日本の政治家だけはすべての人々の生活に関わる責任があるから、政治家に対しては名指しで批判することはあっても、普通の人を名指しで批判しない。暗に批判する場合は、その他人の書き込み自体を批判するのではなく、ひたすら自分の考えを述べるにとどめて、人を批判しているように読んでいる不特定多数の読み手には悟られないようにするのがルールだ。まして批判の対象であるのが誰かわかるように書いてはいけないのである。わかったとしても批判している当人にしかわからないように書くのが礼儀だし、できればダイレクトのメールですべきである。当事者同士以外に発信してはいけない。

 

 アナログの世界、すなわち対面で語り合うことが正しい相互批判である。

 

 アナログの対面の会話では、相手をこちらが誤解していたら、相手はその誤解を解こうとする。こちらの理解力も「絶対」ではないという前提が成立しているのが現実の「対話」である。自分の意見にどんな反応を示すか、どんな顔色になるかを見ることも「対話」に含まれていて、単に記述された「言語」だけがコミュニケーションの手段ではない。それが「生きた対話」であって、交互に発言するのではなく、一方的に片方向からの文章を送るというソーシャルメディアは常に「言葉の暴力」に成り下がる危険がある。相手にタイムリーな反論の「機会」を与える態度も大切である。だから実りある「対話」はマンツーマンの実際の会話において初めて成立するのである。

 ダイレクトのメールさえ「暴力」になる。女子プロレスラーの木村華さんが自殺したことを考えれば、ソーシャルメディアの危険性は明らかだ。しかし日本政府は華さんの件について「匿名で人を中傷する行為は人として、ひきょうで許し難い」(5月26日高市早苗総務相の発言)として、インターネット上の誹謗・中傷の削除や発信者の情報開示手続きは、運営事業者に対する「プロバイダ責任制限法」について、同法に基づく開示手続きの円滑化や開示対象となる発信者情報などの議論に着手しているらしいが、わたしはこれは問題の本質として、発言に対する人の「モラル」に問題を矮小化していると考える。というのは、人間同士の会話における「モラル」の問題は、別にインターネット時代に特徴的な問題ではなく、1995年のウィンドウズ95の登場によるパソコンの爆発的な普及以前のアナログ世界でも、人間社会では常に問われてきたからである。人はアナログの会話において発言する時、「これは相手を傷つけるだろうから」「これを言ったら相手が怒るだろう」と考えて、発言を自制することができる。ところが、キーボードで自分の意見を書く時は、相手が目の前に居らず、反論の余地を与えないまま普段は自制できている自分の「本音」を表明することが、何の制限もなく発信できてしまう。発言者を特定する「責任制限法」の趣旨は「モラル」違反への規制ではあるが、そういうモラルが容易に崩壊してしまうグローバル時代の通信手段体系(システム)の持つ危険性について、果たして人間の「良心」で乗り越えられるものであろうか?  

 その他にも、 デマの拡散、 犯罪告白や予告、アカウントの乗っ取り、 なりすまし、芸能人、有名人などへの誹謗・中傷、 プライバシー侵害、個人情報不正取得、自殺志願者と殺人犯のマッチングサイト、麻薬や大麻など 向精神薬の闇売買などソーシャルメディアの「匿名性」を利用した人の行為は、IT社会の負の遺産である。この「匿名性」こそ人間性喪失への「誘惑」であり、ここでは「理性」とはなにかという日常的な自己検証的態度が求められる。

 

 トランプが、昨日の会見で「投票用紙が盗まれている」「不正なカウントが行われている」という主張の根拠は、こうしたソーシャルメディアで流されている「うわさ」程度のものであり、多くのアメリカのマスメディアが会見の途中でトランプの会見の発言の音声を報じるのをやめて、「大統領の会見は根拠のないことばかりだ」とのコメントを挟んだのは、アメリカのメディアの底力を見た気がする。

 

 ところでわたしはトランプが好きか嫌いか?と問われれば、はっきり言って「嫌い」である。バイデンについてはよくわからない。トランプの自己中心的発想は人類の「退廃」で、他人の尊重、他人への配慮という点はほとんど感じられない。これもまた彼の「ツィッター(つぶやき)政治」といわれる発信の片方向性に閉じこもる意識が醸成した一種の「ソーシャルメディア病」とも呼べる弊害であろう。

 トランプとバイデンの1回目のテレビ討論会で、トランプはバイデンの発言を盛んにさえぎり、相手との討論など全く意識せず、まるで相手など存在しないように勝手に自分の考えだけを語っていたが、すでに討論会という現実の世界にトランプは居り続ける意思はなく、カメラの向こうにある有権者を自分の「仮想」に誘導することしか考えていない。それでも彼の意識の中ではそういう「仮想」で世界が成り立つと信じ込んでいる。300年近くアナログで歴史を繋いできたアメリカ大統領選挙という民主主義の到達点の成果を「仮想」によって骨抜きにできるものではないが、トランプ支持者の不見識な行動を見るにつけ、ソーシャルメディアの否定的側面が社会にいかに深刻な問題を及ぼしているかを痛感する。

 

 だが、ここでトランプ批判をしたいのではない。わたしも含めて、直接人と会わなくても人との繋がりを簡単に作れるソーシャルメディアの世界に関わっているわたしたちにとって、トランプは反面教師であり、わたしたちも知らず知らずにあったこともない人の発信する情報に振り回され、また常に現実の世界ではない「仮想」に引き込まれていく危険と隣りあわせなのだ。あるいは自分がそういう「仮想」を生み出すきっかけになる危険もあるのである。トランプの品性を欠くつぶやき、モラルを欠く他人批判は人事ではない。

 

 何が大切かというと、ソーシャルメディアを媒介としてない他者との生身のコミュニケーションの中で育てる自分の「品格」と「モラル」である。逆にいうならば、そういう生身のコミュニケーションを作ることができない人が増えて、ソーシャルメディアに頼るしか人と交われなくなってきているということであり、まさに「依存症」である。

 

 人と真剣に会話し、他人の生き方から学び、尊重し、人間関係における心の葛藤を糧として生きていくことで己の人間性を育てることである。その自己練磨の苦悩から簡単に逃げ出せるソーシャルメディアに依存しないこと、そのことには努力が必要なのだ。

 

 人と会話し、

 本や新聞を読み、

 文化、芸術、芸能に触れ

 旅行やスポーツを楽しみ

 仕事に精を出す

 

 こういう昔からある日常を充実させることが大切なのであって、そこにはソーシャルメディアを媒介にしては得られない生きた教材がある。人間の美しさはこうした日常の中でしか本当には発見できない。

 

 現実の日常を棄てないことが大事なのです。

 

 哲学者 コリン・ヤーガー

 

 

 おわり