サウンドの妙 再掲 (「響きの個性 作曲家武満徹をめぐって 2017年記事改訂その2) | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 読者の皆さんの中には、「武満 徹」の名を知らない方も多いかと思いますが、彼は世界的に大変有名で、芸術好きのフランス人やイタリア人、ドイツ人なら国民の60%ぐらいは彼の名前を知っています。

 

武満 徹 (タケミツ トオル)  1930-1995 作曲家

 

  武満 徹

 

① わたしと「弦楽のためのレクイエム」の出会い。

 

 

 小沢征璽 指揮  新日本フィルハーモニーの「弦楽のためのレクイエム」の映像
 

 

 今日は世界的に有名な日本人作曲家、故 武満徹先生の音楽について述べます。

 わたしと武満徹先生との出会いは、FM放送で、中学3年(1978年 39年前)で聴いた「弦楽のためのレクイエム」(1957)です。この作品は武満先生の音楽としては、「古典的」な形式と、弦楽ストリングスという伝統的な楽器編成で書かれていて、とっつきやすいこともあり、中学生のわたしでも十分理解できたと記憶します。ただしこの作品の「拍」の意外性を聴き取っていて、「拍」がぼやかされていると言うか、4/4なら、そういう風に聴こえはするが、音の始まりのアクセントや一拍目だけ「強」という西欧音楽の原則から少しずれている。そのずれは、違和感がない。

 死者の為のミサ曲である「レクイエム」は、瞑想であって、メトロノームの刻む確定的な歩みから自由でなければならない。「拍」は自然哲学的には、音楽における「心臓の鼓動」であって、「生」を象徴する。よって「死者のため」の弔いは、「生」のリズムから解放されていなければならない。レスタティーボ的な主題の処理が、不規則な「拍」を感じさせない。

 旋律は「厳しい」悲痛である。1959年に来日中のストラヴィンスキーが、この作品の「厳しさ」を認め、絶賛した。

 

 武満 徹 先生のオーケストラ作品のCDジャケット 主に1960年代までの初期、中期の傑作集

 

① ノヴェンバー・ステップ (琵琶、尺八、オーケストラのための)

② アステリズム

③ グリーン

④ 弦楽のためのレクイエム

⑤ 地平線のドーリア 

 

 小沢征爾 指揮 

 トロント交響楽団

 鶴田錦史 琵琶

 横山勝也 尺八

 録音 1967-1969

 

 

 当時「交響曲第1番」の作曲に挑戦していたわたしは、この年、一気に現代音楽に出会い、自分の作曲がまったく古臭い時代遅れの、ベートーベンをも脱していないことことに気づき、途中まで書いたわたしの第1交響曲のスコアをわたし自身がライターで火をつけて葬ってしまった。若かったのですぐに「第2交響曲」に取り掛かったけれど、その後様々な「現代音楽」との出会いを前に、自分の作曲技量の無さに打ちのめされ、何回も改定しているうちに、わけが分からなくなり、40年近く経ったいまだ「完成」していません。

 

② 武満先生の若いときの周囲

 

 「レクイエム」(鎮魂歌)と言うからには、誰かの死を悼んでいるはずだが、わたしが知る限り。武満先生のこの作品の対象とする「死」に該当する人物を特定するのは容易ではない。この項、武満先生の周辺では、まず早坂文雄が1955年になくなっている。早坂は黒澤明監督の『羅生門』『七人の侍』の映画音楽を手がけていた日本音楽界の重鎮であり、「弦楽のためのレクイエム」は、早坂文雄に献呈されているから、一応対象の一番候補は早坂であろう。しかし、作曲家が作品を企図した最初の段階で、そうだったとは限らず。判断は難しい。

 

③ 聴きやすい「弦楽のためのレクイエム」

 

 この記事をはじめるにあたって、当然読者の多くは、武満先生のことを知らないだろうことを考慮してこのシリーズを始めている。だが「武満徹ってだれ」と思っている年配の方にお知らせしておきたいのは、NHKで放送された吉永小百合主演の『夢千代日記』1981、1984のテレビドラマ音楽は武満先生が作曲、監修したのであり、1974年NHK放送の文明の栄衰をテーマとした連続ドキュメンタリー『未来への遺産』のBGMも務めている。だから武満先生の名前を知らなくても武満先生の音楽に触れている人は多いのです。

 

 以前、もう5ヶ月ぐらいまえに、当ブログでわたしは

 

 「ジュッデイ・デデン」 という音楽について語りました。

 

 これはトルコの軍楽隊の音楽です。

 

 こういっても「はあ?」 と言う人も

 

 日本では、NHKドラマ、向田邦子原作 「阿修羅のごとく」のテーマ、と言った瞬間に「あっ」と思い出すのです。

 

 ④ テープ音楽

 

 これからじっくりと武満先生の音楽を語りたいのですが、そのサウンドは、「旋律」より「響き」です。先生が若い項、ドヴュッシーから音楽にアプローチし始めたのが分かる気がします。

 

 しかし、武満先生はあくなき挑戦者で、これも音楽と言ってよいかは皆さんの判断です。下の URL から武満先生のテープ音楽『水の曲』を聞くことができます。

 

 自然哲学的にいえば、これが12音階からの解放で、「音」の「自由」の世界です。が、編集する側の精神が12音階的に還元しようと意図しているから、旧来のものと変わらぬ「音楽」として成立しているように聴こえる。

 

 

 

『水の曲』

 

 テープ音楽で、「水が滴る音」編集していて、それ以外の音は一切使っていない。水が水に衝突する音を様々なシチュエーションで拾っているだけです。

 テープ音楽を「邪道」というなら、わたしたちが日ごろ聴いているCDでさえ、電気信号に置き換えた音楽なのだから、「生演奏」以外は認めないなどといったら日常から音楽を排除しないといけない。

 

 テープ音楽というのは、これしか手段がないという意味で、自然界の「水」の音を楽器に見立てて作曲する、と言うことです。

 

 ただし、自然界の模倣とは違う。

 

自然に限らず「模倣」を巡る議論は結構奥が深い。

 

⑤ 絵画における「模倣」と「精神」

 

 西欧絵画は、19世紀前半に、「写真」が発明され、対象を正確に「模倣」するということから離れていく。当然の帰結だが、「写真」以前の「絵画」が模倣のあくなき追求であったかと言うとそうではない。だからわたしたちは、現代の抽象画は「わけが分からない」けれど、作者の意図など無視してしまえば、絵のなかにある手がかりを勝手に解釈して自分なりに納得すれば、なんとなく理解する。

 

 

 

岡本太郎 作 題名は「勝手な解釈」を期待して伏せる。

 

 むしろ古典的な「模倣」と思われる「背景」を探る方が私たちには苦手で難しい課題なのです。

 

例えば、

 

アニョーロ・ブロンジーナ の 『エレオノーラ・ディ・トレドの肖像』

1545年ごろ

 

 この絵画の女性たるナポリ王の娘であるエレオノーラの無表情な顔は、私たちを突き放し、はいっていけない距離感を感じさせる。

 当時は、これが「スナップ写真」であって、そこに貴族的な「冷静」さをかもし出すことを、描き手も、被写体も意識しているのです。

 では、わたしたちは何を読み込むかと言うと、この時代の中間貴族(ナポリ王国と言っても事実上スペインの支配下)の女性の「疎外」です。

 豊かさ以外の自由は無く、彼女はフィレンツェのメディチ家のコジモ1世に嫁いだ、と言うよりそういう身分のものとしか彼女の結婚は許されないし、沢山の子を儲ける「道具」(今日では差別的な言い方だが、彼女は11人の子をなし40台前半でなくなっている)でしかないと言う意味で「多産」の象徴であるザクロをあしらったドレスに、富を誇示する宝石の首飾りが描かれ、家事労働とは無縁の「病的」とさえ見える手。こういうものすべてが、そういう時代の恵まれたる階級に生まれた「女性」の自由からの「疎外」を読み取ることができます。

 この時代から、18世紀まで、「肖像画」とは大方このようなものとしてあって、例外は、庶民を描いたものにあります。そこには「笑い」「悲しみ」「苦労」「労働」が描かれていて人間性あふれます。

 

 そういう意味では、一定の身分の女性を描いているであろう

 

 

 『モナリザ』

 

 モナリザのかすかな「微笑み」は奇跡に近いわけです。

 

 現代の抽象画より、古典を理解するほうが困難だと言うのは、そこに作者の「精神」、または時代の「精神」が込められていて、それをつかむのが容易ならざることだということなのです。

 ダ・ヴィンチは時代において抜きん出て「ルネサンス」の申し子であったから、絵画の人物の精神の息吹を視覚的に表現したかったのであり、ブロンジーナは、肖像画職人に徹して写真のように無表情を切り取っていて、時代の「精神」が彼に描かせた人間「疎外」を逆にわたたちに伝える作用をもたらしている。ブロンジーナの画家としての技量は、無表情が「表情を感じさせてはならぬ」という精神で描いていることであって、その点「描く精神」としてはダ・ヴィンチに引けをとらない。が、一種の「模倣」と看做せる。微笑を描かないことが彼の「精神」であったのだ。

 

 引用 

 

 世人の意見によると、芸術の目的は自然の模倣であり、したがって芸術はすでに存在しているものの忠実な模倣を提供すべきものであるが、かくて芸術の目的は実物を想起させることだということになろう。しかしこのような目的を課せられては芸術は自由なる、美なる芸術ではありえない。勿論、自然がその諸形態を産出するのと同様に、人間も仮象をつくりだそうとすることは、人間の一つの関心事たるを失わない。しかし人間が表現されるべきものの客観的価値を省みることなしにその技量を示そうとすることは、まったく主観的関心事にすぎないであろう。人間の所産は内容上また精神的なものでなければならず、かような内容にこそ価値がなくてはならぬ。自然模倣においては人間は自然的なもののいきをでないが、内容は精神的なもの足るべきである。

 

『美学』  ゲオルグ・フリードリヒ・へーゲル 著  竹内敏雄 訳

岩波書店 第1巻 上 42頁

 

 自然を模倣する、対象を模倣する。だが、絵画であれば「輪郭」と「色」と「光と影」と三角法の「奥行き」で「模倣」しても、対象の「におい」や「音」や「変化」を直接表現できない。しかしプロの画家が、キャンバスと絵の具を使って描く作品から「におい」「音」「変化」を鑑賞者に感じさせることができるのは、その作品に込める「精神」が並々ならぬ人間性に支えられているからに他ならない。芸術家とはそういうものです。

 

⑥ 「自然を表現する自然自身」を実現する「精神」

 

 武満先生が、自然の「水の音」を楽器とするとき、無秩序にそれを並べずに、われわれの感性に届くような作曲(テープ編集)をしていることを理解せねばなりません。

 

 自然の音は、人間が使っている音階の制限を受けない自由奔放な無限の高さに開いており、12音ある1オクターブの「半音」以下の音も自然界には当然存在する。

 

 しかし、武満先生は、12音に純化しないが、そこに収斂するように、自然の「水」の音をテープ編集上の技術を駆使して行っており、中間高さの音は、音階の「補助」に位置づけられています。それは「共鳴」の原理が、客観的でありながら人間の耳を満足させる法則であることを理解しているからこそです。共鳴の法則は、共鳴する音を際立たせ、不協和は後景に追いやられるのが物理法則であり、ゆえに山の湧き水が作る川のせせらぎが「美しく」聴こえるのは理にかなっている。

 

 人間の精神が捉えている「ハーモーニー」は、人為的ではなくも自然の物理的営みとして、人間以前からあり、その現象としての音はそのような営み(法則)にのみ憑かれる「自然の精神」のなせる業です。

 

 面白半分で「テープ」を加工していない。ピアノ曲をつくる「精神」と同質です。それを聴くとき「水」を巡るイマージュが交錯するのは事実で、具象より幾何学模様を理解する心情に似ています。

 

 ただし

 

 「水の曲」が成功作ではないのは明らかで、聴く人は少ない。が、この実験的野心には、表現対象たる「水」を同時に「表現手段」として使うという意味では、本来の自然回帰でもある。それを人間としての認識美学が捉える「音階」にアプローチする構成をもって、極めて抽象的に、具象「水」をイメージさせるのです。

  

⑦ 地平線のドーリア

 

 完全4度の飛躍は、ド―ファ  レ―シ  シ―ド などの音程の差としてあり、つづけて5度、長2度などを引きだして旋律にする、いわゆる教会旋法てす。

この音階は日本や中国の「笙」の楽器構造にも原点として刻印されていて、音楽以前の「原始の人々の記憶」とも解釈可能です。

 

 この作品も、西欧的な拍子のアクセントから解放されようとするリズムの抽象化と、音程をはずす中間音へのアプローチが認められ、演奏家にはとても難題であるとさえいえます。

 

 ただ、タイトルの「地平線」に関して、意味がもう一つ判然としない。太陽が昇り、沈むイマージュだと言われればそうだが、どうもこれはわれわれが知っている自然に認める「地平線」ではなくて、観念的な音の「地平」たる音階、古典的な区切りたる「小節線」を、その向こうにある何物かに導入する音階の限界線を言っているのだとわたしは思う。ドリア調自体、今日の音楽に一般的でない「中世的」な響きであって、現代人のとげとげしい形式主義の単調を壊して、地平線を越えていく、という動機をここに聴くべきです。

 抽象絵画よりも古典的な写実を前にして、この音楽は意味を成す。視覚の前に現れたものは視覚で捉えられないものを現わしており、古典音階で捉えられない音楽は、別の音階を明らかにせず、私たちの日常にある音階が、自然に別の音階へと移行していく過程を芸術内容としている。困難な音楽と言えばそうなろう。

 

⑧ 海へ

 

 この作品はアルトフルートとギターによって演奏される。

 

 Ⅰ. 夜 The Night Ⅱ. 白鯨 Moby Dick Ⅲ. 鱈岬 Cape Cod

 

  演奏時間:約12分

 

 「鱈」岬とは

 

 

 アメリカ北東部マサチューセッツ州にある鍵状の半島のようなところである。

 

 この作品は2曲目の題名から、一説にはメルヴェルの小説『白鯨』のイマージュだとされることもあるが、事実に関してはなんともいえない。

 

 以前このブログでも述べたが、私は個人的にフルートを吹くので、この作品は初演当初1981年からずっと聴いてきました。

 フルートはただ歌口に穴が開いているだけの構造で、世界中に古くから「横笛」としてある楽器です。

 この単純な構造により、管楽器でもっとも音程がはずしやすく、もっとも音色を変化させることができる。ホロートーンといわれる特殊奏法のことで

 ① 音色の揺らぎは「倍音」の利かせ方で変化します。倍音を利かせるほど「太い」「深い」濁りが形成されます。

 ② 音程のはずし方は、いくつかあってかあって、「歌口と唇の角を変える」「のどの奥を閉めるようにする」などですが、こちらの方は技術的には人によって様々です。

 もう一つフルートの特殊奏法に、フラッターツンゲと言うのが在って、これはバイブレーションの掛かった音の振るえとなり、この作品にも登場します。

 

 このような技術が、海の表面的な波とかうねりだけでなくて、「深さ」のイマージュで、濁りながらも光が深海に進んでいこうとする水の空間に煌く。が、私たちが地上でいっぱいに浴びている太陽の光とは異質な、屈折のなかに光の柱がところどころに見えている。魚たちが回遊し、海が鯨という大きささえも、すっぽりと飲み込んでいる。

 

 こういう想像は聴くものの自由に帰せられていて、武満自身は音楽を具体的に語らない。

 

 そもそも、12分の音楽を呈示することが、作曲家の使命であって、演奏後に作曲家自身が何か「言葉」を追加して説明しなければならない作品など、すでにそれだけで失敗している。

 

 この音楽は武満先生のものとしては成功している作品です。

 何よりも聴きやすい。

 

 しかし聴きやすさの中に何を読み取るかは「聴く者の主体性」に掛かっている。武満先生の精神の深さに引けをとらないこちら側の「創造力」が問われる。

 

 CDを紹介する。

 

 

 小泉 浩 (アルトフルート)  佐藤紀雄 (ギター)
 1982年録音 (武満先生が亡くなる13年前)

 

 わたしは大学に入った項に、このレコードのLP盤を持っていて、よく聴きました。

 カプリングに 「ア・ウェイ・ア・ローン」「プライス」「雨の樹」が入っています。打楽器の作品「雨の樹」が面白い。

 

 また、いづれ