秋は何といっても協奏曲である。 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 約1年ほど前、わたしは、秋は室内楽という趣旨のブログを書いたけれど、協奏曲もまた秋にふさわしい。

 

 協奏曲は、特に独奏楽器の倍音を楽しむ。ピアノ協奏曲は、その数からいっても協奏曲の王様だが、倍音を聴くとなると、ピアノは鍵盤楽器であり、音色の違いは聴き取りにくい。そこで聴くべきは、弦と木管である。

 

 コレルリ 合奏協奏曲 作品6 第7番 ニ長調

 

 合奏協奏曲というのは、バロック版オーケストラと思われがちだが、ヴィヴァルディの『四季』、実はヴァイオリン協奏曲であってソロヴァイオリンのヴィルトヴーゾが聴ける。コレルリの合奏協奏曲も、ソロヴァイオリンが活躍する。躍動感溢れるヴァイオリンの独奏に花を添える弦楽とチェンバロの響きがなんとも心地よい。低音のチェロのノンビブラート奏法が、バロックの雰囲気を感じさせる。

 音楽は、しばしばフーガを伴う。

 コレルリは、若きヘンデルの師匠にあたる。ドイツのザクセンから修行にきたヘンデルは、この先輩に学んで後に合奏協奏曲作品3と作品6を残すが、そのフーガの手法は、むしろオペラとオラトリオに導入されて花を開く。ベートーベンはこのヘンデルの作曲技法によく学んでいて、ベートーベンの音楽には時折、中世的な素朴さが登場する。フーガではないがベートーベンのヴァイオリン協奏曲の第2楽章の静かなヴァイオリンのレスタティーボの中にその素朴さが現れる。倍音の効果をよく聴き取ることができる。

 ヘンデルでは第1番と10番が聴き応えがある。

 

 コレルリ 合奏協奏曲 作品6

 イタリア合奏団

 

 

 ヘンデル 合奏協奏曲 作品3.6

 アーノンクール 指揮  ウィーン・コンチェルト・ムジクス

 

 メルカダンテ フルート協奏曲 ホ短調

 

 フルートほど奏者により音色が違う楽器もない。ペーター=ルーカス・グラーフの倍音を利かせた音色は、山の上から吹き降ろすような深みがある。フルートの音は透明感があり、華麗なイメージをもたれているが、低音の「太さ」にこそ真骨頂がある。これが高音の透き通るような「爽やかさ」を引き立たせる。交響曲のような作品では、概して木管は「高音」で登場するから、フルートの低音の「厚み」は協奏曲でこそ聴かれる。P・C・E・バッハの協奏曲とともに、このメルカダンテの作品も、そのようなフルートの奥深さを聴くことができる。

 


 ペルゴレージ  ビッチーニ ボッケリーニ メルカダンテ  フルート協奏曲

 ペーター=ルーカス・グラーフ  フルート

 オーケストラ・ダ・カメラ

 

 ドヴォルジャーク チェロ協奏曲 ロ短調 作品104

 

 チェコ音楽好きにはたまらない名曲である。ただし、チェロは他の協奏曲の独奏楽器よりは音量があって、作品自体は交響曲のような大編成を前提としたようなところがあって、単にチェロのヴィルトヴォーゾを楽しむだけではなくて、ドヴォルジャークの管弦楽法満載の、一種の交響曲である。モーツァルトの時代の協奏曲は、あくまでも独奏者中心というところがあって、独奏者だけでなく作品が自己主張するという傾向は、ベートーベン以降である。たとえばブラームスのピアノ協奏曲も、一種のピアノ付交響曲の観が顔をのぞかせている。ドヴォルジャークのこの協奏曲も、チェロ協奏曲であるということを離れて、大変な「名曲」ではあるが、チェロを聴かねばならない場面では、聴き手も「室内楽的」に聴かねばならない。第3楽章のフィナーレの直前の、チェロとヴァイオリンのコラボレーションは、2重奏を聴くべき静寂だが、それに続くコーダは、まるで交響曲のエンディングである。

 

 

 ロストロポーヴィチ チェロ

 カルロ・マリア・ジュリーニ 指揮 ロンドンフィルハーモーニー

 

 グラズノフ ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82

 

 弦の倍音を聴く、ということでは、このグラズノフの作品はうってつけである。哀愁を帯びた旋律を奏でるヴァイオリンの音の「奥行き」を聞き取ることができる。読者にはグラズノフはあまりなじみのない作曲家だろうが、ラフマニノフやショスタコーヴィチに比べると、音楽の現代性へのこだわりがなく、どちらかというとチャイコフスキーを踏襲した「ロマン派」で、奇をてらったところがない。

 アンネ・ゾフィー・ムターが、ロストロポーヴィチの指揮でこの作品を録音したCDを始めて聴いたとき、ムターの倍音操縦がとても優れていたことに驚愕した。弦楽器奏者とはこうあるべきである。そこにあふれていた主題に対する感情移入は、「歌う」ということの技術的難しさを感じてしまつた。わたしもフルートを吹くアマチュアとして、こうあるべき、と感じた。

 

 

 

 アンネ・ゾィー・ムター ヴァイオリン 

ロストロポーヴィチ 指揮  ナショナル交響楽団

 

 とはいえ、何も変わっていないのは、奏者の美しさへのあくなき努力をを信頼して作品に込める作曲家の精神である。

 

 コレルリが込めた美学は、確かにムターのグラズノフにもあるのである。

 

 グラズノフの協奏曲では、最後に、ヴァイオリンがバラライカのようにピツィカートを奏でる。それがまた素晴らしいのである。