本日は少しマイナーな話になります。
わたしのシューベルトのピアノ曲、「幻想ソナタ」の記事を読んでくださったあるピアニストの方に初めてのメールを送ったのですが、丁寧にもご返事をいただきました。その中で武満 徹作曲の『地平線のドーリア』についての論評を所望されたので、この作品についてわたしの思うところを述べたいと思います。
1.基本情報
作曲 武満 徹 1930~1995
『地平線のドーリア』 1965年 (クーセヴィツキー財団の依頼による)
編成 17人の弦楽器奏者(前方8人の奏者とそのエコーとしての後方9人の奏者による)
2.作曲技術
① 名前の由来
ドーリア(ドリア)とは、古代ギリシアに発する古い音律旋法のことである。ドーリア人からの由来名で、世界史の教科書ではギリシア神殿の柱の彫刻様式で「ドーリア式」とか「コリント式」と呼ばれる挿絵がある。代表的ポリスは「スパルタ」(アテーナイはイオニア人)である。
② 教会旋法の基礎
古代ギリシアはピュタゴラスが音階を発見(発明ではなく自然界の音の共鳴の法則を発見したということに留意されたい)に認められるように、様々なオクターブを分割した音階が使われていたと考えられている。ただしその使用方法は「モノフォニー」(ハモらない)的と推測されているが、実際のところよくわからない。古代ギリシアの音階がとりあえず推定されるのは、ギリシア音楽の理論を引き継いだのがキリスト教音楽であったからで、中世グレゴリオ聖歌などに見られる音階がある程度知られるのは、「四線譜」すなわち今日の「五線譜」の原型が残されていて、今日の聖歌の演奏もまたこの「楽譜」に基づいている。
ただし、10世紀頃までは、キリスト教音楽も「モノフォニー」(合唱であれば全員が同じ音程で歌い、和音は登場しない。ちなみに奏者が一度に違う音程を奏でるいわゆる「ハモる」場合を「ポリフォニー」という。)
モノフォニーにあっては、音階に、今日のような「長調と短調」という2大表現区分は必要なかった。(中世音楽において、例えばイギリス民謡の「グリーンスリーブズ」にその名残りがあって、旋律は長調と短調の間をさまよって調性が判然としない。) 今日のような音階体系は、「ポリフォニー」すなわち「和声」の発展に対して、もっとも音楽が変化に富めるための目的で確立された。逆にいえば、太古の音楽はもっと「モノフォニー」的に自由であったのである。
③ 教会旋法の8つの音階の区分
8つの教会旋法
上記の音階が、教会旋法の8つの代表的なもので、いずれも古代ギリシア時代の言語名ないし土地名が絡んでいるけれど、それはほぼ伝承と考えてよい。ドーリア調が「本当に古代スパルタ人の音階」であったことを証明するものは何もないのである。
ところで、この8つの音階に収斂された理論も、13世紀頃のビザンチン(東ローマ帝国)の教会音楽の体系であって、ローマカトリックにおける聖歌がすべてこの音階で説明されるものでもない。これをビザンチンの「オクトエコス」と言うが、「オクト」とは、ドイツ語の Oktett オクテット 八重奏曲 が示すように、「8つの」という意味である。
④ ドーリア調
引用
ドーリア調の性格的な点は、主調音から数えて短三度と長六度があり、第七音は短七度をもって導音をなさないことである。そのうち短三度と短七度の音程は、他の教会調にもその例があるから、残る長六度音程だけがドーリア調の唯一の標識となる。ある短調の楽曲に長六度が現れる時は、俗にこれを「ドーリア式六度」という。
『作曲技法』 属 啓成 著 音楽之友社 33頁
ドリーア調は、このように現代のニ短調とは微妙な差を持つ、
それによって構成される旋律もまた、短調と長調が混在するようなものになる。同時にそれは水平方向、すなわち旋律だけに及ぶのではなく、音階の作り出す和声進行やカデンツがニ短調とは異質の響きを醸し出す。少なくともわたしたちが今日聴いているものとはいささか異質の世界に誘う。
もっとも、バロック以降の音楽でも、ドーリア調的な部分を含む作品は多く存在する。これが属先生の指摘される「ドーリア式六度」として特に短調の作品に現れる。(グリークのチェロソナタなど)
なお、バッハのオルガン作品である『トッカータとフーガ ニ短調 BWV538 ドーリア調』は、フラットひとつを調性記号をもつニ短調だが、バッハがこの記譜において、調性記号を用いず、臨時記号だけで書いたこともあって、永らく『ドーリア調』とのタイトルが付けられているが、作品の構成自体はドーリア調を基礎とはしていない。ドーリア調とは直接の関係はない。
では、武満先生は『地平線のドーリア』において、この教会旋法にたいして特別のこだわりがあったのであろうか?結論としてわたしはそのようなこだわりはあまり無かったと考えるのだが、その前に『地平線のドーリア』の楽譜について幾つかの検証を試みたい。
ドーリア調による作品であると評価できる。しかしドーリア調という音階は、作品に密かに隠されている。武満先生は隠すつもりもなかった。隠すのではなく、この作品が教会旋法への回帰を目指すのではなく、響きの豊かさを確保するためには「汎調性」(特定の音列が作品を貫いて支配する)が全曲を支配せねばならなかったのである。
引用
武満がどのようなドーリア旋法とその「亜種」を組み合わせて使ったかということは明瞭ではない。そもそも、ジョージ・ラッセルがジャズの即興演奏の理論として、教会旋法のリディア調をひとつの指標としたがリディア旋法に固執する背景には、五度圏上の第7音までによる音階がC-D-E-F♯-G-A-Bとなり、これを旋法になおすとファから始まるリディア旋法の音階列になるという合理的な説明があったし、またその旋法がジャズのブルー・ノートと密接な関係を保ちうるからであったが、ドーリア旋法を用いることに対してはそうした説明付けはできない。武満にとってはむしろ、旋法(モード)を用いることによって、パン・トーナル(汎調性)的な沃野を音楽が手にできることが重要だったと思われる。
武満は次のようにも述べている。
「ドーリア旋法から出発した一つのバントーナルな、調整的な音というものを考えている。(中略) ドーリア調などはぼくからは遥かに遠いものなんだけれど、われわれの音楽にとって起源的な意味のあるものですね。そこからぼくはドリアンのディミニッシュ(減音程)とドリアン・オーグメント(長音程+半音)十二音を含むひとつのモードを作り、旋法的な十二音にもつ。」(出典不明)
『地平線のドーリア』 武満 徹 作曲 オーケストラスコア 楽曲解説 長木 誠司 記述 音楽之友社 4頁
()カッコ内筆者追記
確かに与えられた音形は、F-C♯やA-A♯の跳躍には、ドーリア調のDから主音をFに移したディミニッシュとオーグメントを含む。が、それは旋律的な扱いではない。旋律と呼ばず、水平という言い方は、常に垂直に展開する和声との関わりを意識してのことで、作曲者の与えた音形は、ドーリア調の和声を誘発する。それは汎調性であり、調性のない無調ではなく、平均律にまみれたわたしたちの耳の常識から離れた作品を支配する古代の音階の自由に基礎付けられた、遠い記憶の調性である。その記憶の醸し出す和声がわたしたちには新鮮であるのだが、その和声への「響き」に、武満先生は繊細な音楽表現を求める。それはスコアに指示されている「奏法」への細やかな「指定」に認められる。
⑤ 現代音楽の記譜に見る作曲家が目指した「響き」
現代音楽のスコアは、古典音楽の記譜では現せない奏法を求めるために、特記を設ける。武満先生の特記では、特に二つの記述が注目される。
ひとつには、ビブラートに対する指示である。この作品は、ノンビブラートの弦の音とピィチカートで開始される。VIBがビブラートでN.Bがノンビブラートの指定であるが、冒頭ではN.B記号は省略されていて、これは「特記ない場合はN.B」の意味である。23小節目にVIB記号が出てくる。
また、S.P記号は、「スル・ポンティチェロ」といい、チェロの中央で弦を張っている弦の山(頂点)を形成する駒のことで、この近くで弓を弾くと「シューシュー」という独特の音が得られる。
さらに、これは記譜上の問題とは必ずしも言えないが、スコアの最初にこの作品を演奏するための17人の奏者の舞台上の位置が指定されている。つまり聴き手に音響が伝わる距離を決めている。この指定が果してCDでどれだけ反映されるかは定かではない。もしかしたらこの作品は「生演奏」で聴くべきなのかもしれない。
以上のような記譜上の特徴を見ていくと、作曲者は繊細なまでに「響き」へのこだわりを見せていて、わたしはこの作品を聴く時に、『地平線のドーリア』というタイトルの示すドーリア調という指標にあまりこだわらなくてもよいのではないかと思っている。ドーリア調という特定の調性は作品に統一感を与える要素ではあるが、それは局面の「響き」をすべてひとつの調性で染め上げるというよりは、個々の楽器に古典奏法を越えた一種の特殊性を持った「響き」を要求して、演奏の進行にしたがって、聴くものにとって「旋律的」でない時間を観念させる。無調ではないが脱調性的な感覚に誘(いざな)う。
3.表現思想
この作品はドーリア調という旋律の発展ではなく、逆の道程をいく、つまり「地平線」のイマージュが先にあって、そこに採用されたモード(動機)を「響き」という垂直に展開する。音の連なりは、一瞬一瞬の「響き」に複合されて水平方向に時間を進む。
では、作曲家のそのような語法を支えている表現への思想はどのようなものだろうか?想像をめぐらしてみたい。
しばしばこの作品と深い関わりを持つと指摘される、オーストラリアの11歳の少女の書いた短い「詩」がある。
① 詩 Gareden Rein と『地平線ドーリア』
Hours are leaves of life.
And I am their gardener.
Each hour falls down slow.
時は、生命(いのち)の葉っぱで、
わたしはその園丁だ。
時間が散ってゆく、
ゆっくりゆっくりと。
この詩と『地平線のドーリア』の関わりを指摘されることが多いが、わたしは直接作品との関係を必ずしも認めていない。
音楽と美術の決定的な差異はどこにあるかというと、鑑賞者の何を支配するかといことである。もちろんどちらも鑑賞者の記憶に自分の芸術を植えつけることにあることには違いない。だか、美術にあって目標となるのは、主に鑑賞者の空間であり、視覚である。これに対して音楽は、主に鑑賞者の時間である。もっというと美術作品は作者の精神が時間を越えて形に残る。古代ローマの遺跡のように作者が死んでも遺される。(作品は塗料や石の紫外線劣化などにさらされるからメンテナンスが必要であるが) 音楽は大量に印刷可能な今日では、楽譜は劣化しないが、演奏する人、聴く者がいなくなってしまうと忘れられてしまう。音楽は形がない観念的なものだから、形ではなく内容が鑑賞者の時間を越えていかねばならない。江戸時代に流行った歌を今日わたしたちはほとんど聴くことさえできない。だから音楽という芸術は、時間(時代)を超えて支持されなければ生き残ることができない。作曲者の生きている時代にだけ支持されても、100年後に誰も聴く者がいない作品は忘れられて歴史の藻屑と消える。鑑賞者の時間を支配するということは、作者と鑑賞者が共有する「同時代性」という時間を超越する必要がある。バッハが300年の時を超えて今日演奏されるように、形のない「音楽」の内容が、バッハを超えて取って代わる代用が存在しない超時代性を獲得しているように。ところが、美術作品は、形さえ残っていれば、300年支持されなかったものが「再評価」されうる。空間を支配してさえいれば「復活」する。(ポンペイの『イスッス戦い』の壁画は、AD79年ベスビオス火山の爆発で埋もれていたが、2000年の時を超えて「再評価」される) 美術作品の目標は空間の支配であり、作者に対する同時代の人々の評価には関係がない。生前一枚も絵画が売れなかったゴッホの例を考えるなら当然である。
だから、武満先生の作品が、作者の死後25年の時を越えて今日支持されているのは、作品が「同時代性」を超えて「普遍性」を持っているということであると考える。作者の精神が、音楽という形のないものを超えて、演奏時間という具体性を越えた記憶という観念において鑑賞者の時間を支配するのである。ゆえに作曲家という芸術家は、時代を超えた「個性」(オリジナリティー)を貪欲に追求する。時を越えて求められる作品でなければならない。ベートーベンの作品は、おそらく人類滅亡まで演奏される。そういう地位こそ作曲家は求めるのである。
音楽家も美術家も、自分の人生が終わることを知っている。問題は死後に如何にして自分の精神を残すかにあるのであって、自分の肉体的終焉には囚われていず、限りある自分の死への時間を尽くして創作し、自分が生きた「証(あかし)」を示すことなのです。
では、武満先生が目指したのは何かというと、「地平線」というテーマに対する自己の観念が、『地平線のドーリア』という作品を介して、「地平線」という超時代性をもつテーマが、自分との同時代性を超えて、何時の時代にも支持される芸術家の精神であり、時代を超えて支持される「個性」(オリジナリティー)であるということである。もちろんそのような芸術家としての生き様はこの作品に限ったことではないが。
そのような態度において、武満先生は、伝統的な音楽の継承者であることにとどまることを潔しとはしなかった。確かに「管弦楽」という西欧的な伝統の上に「笙」や「尺八」を導入する(『ノヴェンバー・ステップ』に代表される)ことは、「異文化間の融合」としての「個性」であったに違いないが、それは「異種文化の出会い」によって注目されるを目指したわけではない。むしろ「響きの個性」を追求する上で、西欧音楽の管弦楽とかピアノの響きでは実現できない独特の「響き」へのあくなき挑戦でもあった。その挑戦が「普遍性」を持つことが芸術家の目的地なのである。
その芸術家としての態度が何に基礎付けられているかということを考える時、「Garden rain」に武満先生が思い描いたのは、この詩(pome)に対する観念的なイマージュというより、この「詩」の持つ思想であろう。
すなわち、
「時(hour)」は、木々の葉であり、様々な「生」として、たった一葉の「葉」でありながら、懸命生き朽ち果て、限りある「生」を謳歌する「個性」である。葉はひとつの葉でありながら、秋の紅葉まで母たる木々にしがみついて一生を終える者もあれば、新緑豊かなうちに強風によって地面に落ちて朽ちる者もある。音楽作品が演奏される「時(時間)」において、表現されるべき一瞬一瞬を描くのが作曲家(園丁)である。「いのちの葉っぱ」は、一枚一枚個性的な表現で彩られながら「散っていく」。「ゆっくりゆっくりと」進んでいく作曲家の技法で鑑賞者の精神をひきつける。そういう芸術家の使命(思想)をこの短い詩に見出すことができるのではないか?ゆえに武満先生は詩に対するインスピスーションを描こうとしたのではない。この詩はあくまでも作品とは離れた芸術家の姿勢を象徴しているといえる。武満先生は晩年「時間の園丁」のタイトルで新聞に音楽時評を連載していたことからも、この詩に対する先生のアプローチは個別作品である『地平線のドーリア』にではなく、先生の芸術家としての人生観に関わっていると思われる。
芸術家が鑑賞者の時間を支配することを目的としていることは、例えば演奏者(再生芸術家)にも見て取れる。
演奏者が聴衆を支配したいのは、コンサートホールの聴衆の記憶という観念である。奏者は作曲家と違って、亡くなってしまえばもはや鑑賞者を引き付けることができない。(演奏できない) これを補うのは、「録音」「録画」と自分の解釈を残す「執筆」である。よって亡くなった奏者であっても、その素晴らしい演奏は、今日CDの名盤として多くの鑑賞者を引き付ける。
音楽とは、実際の演奏は一定の時間を通り過ぎて「終わる」のだが、終わってなお鑑賞者の精神をくすぶり、感動させる。だから終わった事実を超えて鑑賞者の時間を将来わたって虜にできる作品や演奏こそ「価値ある」芸術といえる。美術と違って「形」という視覚に訴える手段を持っていないのである。
余談だが、わたし個人の体験としては、忘れられないコンサートというのが幾つかあって、例えば、1980年、大阪フェスティバルホールで聴いた、朝比奈隆先生の指揮、大阪フィルハーモニーのブルックナーの第8交響曲、1991年、大阪ザ・シンフォニーホールでのサイモン・ラトル指揮 バーミンガムシティ交響楽団のマーラーの第9交響曲、2009年の大阪ザ・シンフォニーホールでのマリオツォ・ポリーニのショパンプログラムなどである。
こういうわたしの心に刻まれたコンサートは、それが過去の事象であっても、わたしが死ぬまでわたしの精神に生き続ける。つまりわたしという鑑賞者の時間を支配しているのである。
② 作風の変遷
『地平線のドーリア』が作曲されたのは、1966年だが、このころの武満先生は、雅楽や打楽器、時に「人声」など音を出す楽器に多様性が見られた。これもまた「響きの個性」のあくなき追求であったのだろうが、1970年代に入って、再び「旋律を用いた作風」に変遷していく。『地平線のドーリア』は純粋な西欧楽器の作品だが、聴く時は、響きの変化に注目するとよいと思う。
字数が限られてきたので、CDについて。
若杉 弘 指揮 日本読売交響楽団
若杉先生は『地平線のドーリア』の初演者で、ゆったりとしたテンポで響きの移り変わりがよく聴き取れる。
小澤 征璽 指揮 トロント交響楽団
LP時代にレコードが擦り切れるぐらい聴いた。若杉先生よりテンポが早く、中間部はリズミカルである。カプリングに『ノヴェンバー・ステップ』『アステリズム』『グリーン』『弦楽のためのレクイエム』が収められているのがうれしい。
高橋 アキ ピアノ 武満 徹ピアノ作品集
武満先生の変遷を聴くことができる。ぜひ、1961年の『ピアノディスタンス』と1982年の『雨の樹素描』を聴き比べてほしい。
追記
わたしなりの勝手なイマージュを詩的に述べるなら。
たとえばどこまでも続く「地平線」というのを体験する「観光地」というのがあって、例えば国内なら、北海道のサロベツ平原とか根釧台地が上げられる。
しかしわたしが観念する「地平線」とは、
人類などまだ登場していない何億年も前でも、そこにあった地平線に太陽が昇るイメージである。4億5千年前に、生命は初めて地上に上陸したが、それは植物だった。動物が上陸するのはそれから1億年ぐらい後のことだ。植物には「視覚」はない。だからわたしたち哺乳類の祖先が、初めて海から陸に上陸した時、「地平線」は初めて生命の眼(まなこ)に捉えられる。それからはるか3億年かけて、わたしたちは現代の「地平線」を見ている。現代の町並みを観念の中で消し去って、原生林を思い浮かべ、かつての「地平線」は現在もそこにあると確証される。
メールをいただいたピアニストの先生の期待に答えられているかは分からないし、字数制限の関係で中途半端かもしれないが、参考にしていただければ幸いです。
おわり