キタテハ

冬の蝶カリエスの腰日浴びをり 波郷

蝶群がり甘藍畑きしりをり 波郷

 甘藍=キャベツ

 

黄立羽蝶をとめし土塊傲るなり  波郷

 黄立羽蝶=キタテハ

 傲る=おごる

 

枯葎蝶のむくろのかかりたる  風生

 葎=むぐら。広い範囲にわたって生い茂る雑草。また、その茂み。カナムグラ、ヤエムグラなど

 

4句のうち、2句目はモンシロチョウとみてよいですが、他の3句は偶然ですがキタテハを想定することもできます。キタテハは成虫で越冬しますし、食草はカナムグラです。

 

 

俳句における文語(古語)助動詞「をり」「なり」「たり」「けり」について、森器さんのブログとあき坊さんのブログに、詳細な分析と解説の記事が掲載されました。

 

例句も多く、なかで蝶を詠んだものを挙げてみました。

最後の句の末尾は「たる」と、「たり」の連体形になっています。

 

 

原記事は、質量とも大変充実しているので、そのままリブログさせていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

追加

 

 

忘れじのゆく末まではかたければ 今日を限りの命ともがな

                                    儀同三司母(新古今集、百人一首)

「決して忘れない」とのお言葉ですが、先々まで心変わりしないなど難しいことですから、今日この日限りの命であったらよいのに。

 

もがな=〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。

    奈良時代の「もがも」から変じた

 

大河ドラマ「光る君へ」によって、これまで三十一文字の世界が平面の紙の上にあったものが、具体的、立体的なイメージがもてるようになりました。

 

この歌の

作者  儀同三司母は高階貴子。関白藤原道隆の妻で、中宮定子、藤原伊周、隆家の母です。

前回の「光る君へ」にて、その伊周との壮絶な別れが放送されました。

 

この歌は、道隆が、作者のもとに通い始めた時に詠まれました。その時の大きな喜びと将来の不安がうかがわれますが、実際には二人は結婚し仲睦まじい時を過ごしたといわれます。

 

貴子は才能豊かな女房として知られ、漢詩に優れ、また女房三十六歌仙に挙げられる歌人でした。

掲歌は、現代人にもわかりやすい、易しい言葉で詠まれています。「もがな」は難しい。

平安期の和歌としては珍しく掛け言葉もないが、当時の歌人たちからも高く評価され、新古今和歌集の巻十三(恋歌三)の巻頭に採用されています。

 

この時代、女性が漢籍に通じていることは疎まれるといわれ、紫式部が自身の漢籍の才をひた隠しにしたという有名なエピソードがあります。漢詩に通じた貴子が宮中で重用され、また娘である定子の教養の高さと清少納言との交流と絆をみると、定子のサロンは高い教養のグループであったことが推測されます。

 

貴子は996年1-4月長徳の変の後、定子の落飾、伊周との別れに心を痛めるなか、病に伏しやがて死去します。一時こっそり舞い戻った伊周との面会を果たしますが、この和歌の「忘れじ」を伊周との再会と読み替えてみると、自身の悲しい最後を暗示しているように思えてしまいます。

 

 

失意の貴子の歌として

 

夜のつる都のうちにこめられて 子を恋ひつつもなきあかすかな

 

通釈

夜の鶴は籠の中で子を思って哭いたというけれど、私は都の内に足止めされて、子を恋い慕いながら哭き明かすのだなあ。

 

夜のつる=白氏文集の句を下敷きにしている

夜鶴憶子籠中鳴(夜の鶴子を憶うて籠の中に鳴く)

(白氏文集・五弦弾)

 

あかす=明石と掛ける

 

伊周は、この時明石での滞留を許可されていた。翌997年都に召還されるが、その時母はすでに亡かった。(996年10月没40代前半か)

 

 

ところで、長徳の変とは、伊周、隆家による花山院襲撃事件に加えるに呪詛事件の合わせ技で、家隆(中関白)一族他11名の処罰に至ったものです。ドラマでは、呪詛の犯人は詮子、倫子が怪しく、道長はドラマの主人公ゆえ「良い人」にしたてあげつつ、見る人にはやっぱり道長がこの粛清劇の黒幕ではないかと思わせるような演出になっているとみます。

 

 

 

 

 

                   オナガアゲハ

いさらゐの群蝶黒に徹したり

 

出水した地面などで、集団吸水する蝶は多いが、特に大型のアゲハチョウは壮観で、山地ではよくみかけます。その光景を詠みました。

 

いさらゐ=①水の少ない井戸・泉。

     ②ちょっとした(流れの少ない)遣(や)り水。

 

ほぼ同義の語として、「にはたづみ」があります。

にはたづみ=雨が降ったりして、地上にたまり、流れる水。遣り水。

      (口語では「にはたずみ」)

 

掲句では、林道などで出水して湿地となった地面を想定しました。

遣り水や、雨水のたまり水の場合、「にはたづみ」が良かろうと思っています。

 

この句は原句

いさらゐや群蝶黒に徹したり

 

について、切れ字「や」を「を」に変更して、ネット句会「悠々自適」に投句したものです。

主宰より、「たり」で終わる場合は、「なり」「けり」の場合同様、「や」切りとの併用は基本的には避けた方がよいとの評をいただきました。

 

にはたづみ降りたつ蝶の黒さかな   mjt

ぬかるみに尻餅つくなでかい蝶   一茶

 

について、下記ブログを参照ください。

 

 

参考

              ミヤマカラスアゲハ

 

   河川(梓川)砂州のミヤマカラスアゲハ

 

春の句(3)です。

コメントいただければ嬉しいです。

 

棟々に囀走り出しにけり ※

山菜や宿の童の赤き頬

プランターを翔び出すごとく遊蝶花

離陸待つ気球のロープ紫木蓮

雛飾る昭和色した喫茶店

雛飾る翁媼や児童館

恙なく子ら眠りたり彼岸の夜

鉄棒をくるり微笑む初桜

ミニふたり弾むシューズや春の風

校門の桜並木やバスを待つ

一本道桜蕊降る夕べかな

見上ぐればぼろんぼんぼん八重桜

死ぬるときは死ぬるがよろし花吹雪

入学式校門広く開かるる

清明の救急車疾く来たりけり

山裾に紫衣織り込むや藤の花

惜春や料金不足の郵便物

 

※俳句ポスト365 「囀」並選

 

 

 

 

行く春や鳥啼き魚の目は泪   芭蕉

 

松尾芭蕉が、江戸深川の芭蕉庵を離れ、千住から東北北陸の地へ、すなわち「おくのほそ道」へ旅立った時、詠んだ句です。

 

句意

春が過ぎようとする今、皆と別れ旅立つ。鳥は鳴き、魚の目には涙が浮かんでいるかのようだ。

 

昨日5月16日は、日本旅のペンクラブ制定による「旅の日」です。これは、芭蕉が奥の細道へ旅立った日(新暦)にちなんだものです。ただし、「奥の細道」によると旧暦では元禄2年(1689年)3月27日で、晩春にあたります。

 

新暦と旧暦とでは、これほどの差異をもたらすことがあります。もともと1ケ月ほどの差があるのに加えて、旧歴(太陰暦)では、3ケ年に1ケ月ほどのズレが生じて、そのズレを調整するため、うるう年を設けうるう月を設定するからです。

 

今年2024年をみると、5月16日は旧暦では4月9日です。また、旧歴3月27日は新暦5月5日です。

この句について新旧歴のズレを知った時もやもやしていましたが、そのもやもや感が解消しないまま今日まできてしまいました。

 

そもそも、普通は、学校教育によって、春は3月から5月までと認識しているのではないでしょうか。それが、気象庁とかが、暦の上では夏になりましたとか、しれっと言っていて、自然と受け入れているようです。

 

国民性なんでしょうか、自分を含めて、この何とももやもやした季節感のズレを自然に何となく調整して受け入れているようです。あえて詰めないんですね。

 

「旅の日」を制定したのが、日本旅のペンクラブということなので、その辺のことも解説してくれているのではと思っていますが、まだ捜せていません。

 

 

この新旧歴の季節感の調整に悩まされるのは、

西行の「きさらぎの望月の頃」も、そうで・・・自分にとって新旧歴悩ませる双璧です。

 

今年2024年の旧暦きさらぎの望月の頃は旧暦2月16日=新暦3月25日で、現代の桜の時期にぴったりはまりました。釈迦入滅の旧暦2月15日にもしっかり符合しました。これは今年たまたまのことと思われます。

 

そういえば、芭蕉の奥の細道の旅は、尊敬する西行の没後500年に思い立ったものということです。

 

 

奥の細道の旅立ちの項、

原文

弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、不二の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢またいつかはと心細し。

むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさぎて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。
 

行く春や鳥なき魚の目は涙

 

三月も下旬の二十七日、夜明けの空はぼんやりとかすみ、月は有明けの月(夜が明けても空に残っている月)で光はなくなっているので、富士の峰がかすかに見えて(かすかにしか見えず)、上野や谷中の桜の梢を再びいつ見られるのかと(思うと)心細い。

親しい人たちは皆前の晩から集まって(今朝は一緒に)舟に乗って見送ってくれる。千住というところで舟をおりると、前途は三千里もあろうかという旅に出るのかという思いで胸がいっぱいになり、幻のようにはかないこの世の分かれ道に離別の涙を流す。

 

行く春や鳥なき魚の目は涙

 

参照:西行の「きさらぎの望月のころ」とは