Xに投稿される俳句などを見ていますと、文語(古語)の助動詞を使っている俳句がとても少ないことが分かります。「かな」とか「けり」を使っている俳句はなかなかお目にかかれません、いくつか理由があるでしょうが、一番の理由はやはり古めかしく感じてしまうということでしょう。この助詞に使う二文字が無駄に見えてしまうということもあるかもしれません。

しかし、それでも文語(古語)の助動詞を使うことはあって、句の格調を高めるのには必要なのでしょう。けっして、まったく使わなくなるということはなさそうです。

でも、上にあげた「をり」「なり「たり」「けり」の使い方難しくはないですか? 藤田湘子著『20週俳句入門』には、とにかく「をり」「なり」「たり」を文末につけて並べてみれば自然に分かるというようなことが書いてあります。たしかに日本人ですから、直感的に正しい選択をすることが多いでしょうが、文語助動詞の感覚がもう分からなくなっている現代の日本人にはどれが適切なのか、途方に暮れることも多いと思います。私も、この「をり」「なり」「たり」そして「けり」を使うとき迷うことが多いです。

という訳で、ここで、もう一度「をり」「なり」「たり」「けり」という助動詞の意味について頭を整理してみるのはどうかと考えました。

特に「をり」「たり」「けり」は、いずれも「存続・継続」の意味をもつ助動詞です。ややこしいのです。実際はあまり区別をすることなく使っている場合が多いのですけれど。 

そして、予め言っておきますが、詩歌の場合、文法の理屈だけで助動詞が決まるとは限らないようなのです。言葉の調べもまた重要な要素ですから、こういうことは藤田湘子氏の言うとおり直感的に決めるしかないとも言えるのです。

でも、まあそれは横に置いておいて、とりあえず「をり」「なり」「たり」「けり」の文法的意味を整理して、頭をすっきりさせようというのが、私の狙いです。

まず今日は「をり」から。文法の説明は大修館の『全訳古語辞典』を参考にします。

この「をり」ですが、厳密に言うと助動詞ではないようで、『全訳古語辞典』では《補助動詞ラ変》と書いてあります。

もともと「をり」は「居り」ですよね。居りはラ変の自動詞で、
①いる。ある。存在する 
②座っている。じっとしている。
③地位にある。

という意味があります。

その「居り(をり)」が、動詞の連用形につくと次の意味が生じます。
①〔動詞の連用形に付いて〕ずっと~している。動作・状態の継続を表す。
②〔動詞の連用形に付いて〕~やがる。他をののしる意を表す。


このうち今回は②には触れずに、メインのを考えてみます。

結論から言うと、①は、英語の現在進行形ではないかと思うのです。

せっかくですから石田波郷の句から、この「をり」の俳句での用法を拾ってみます。たくさんありますが、これでも拾いきれているかどうか? 読むのが面倒な方はどうぞ読みとばしてください。

ジヤズ寒しそれをきゝ麺麭を焼かせをり  石田波郷 『鶴の眼』

朝焼の墓の真中の道掃きをり 『雨覆』

野分中つかみて墓を洗ひをり 『雨覆』

末枯や吊革を手に騙しをり  『雨覆』

咳き臥すや女の膝の聳えをり 『惜命』

炎天を雁行く脈をとられをり 『惜命』

鳶の舞春昼の熱昇りをり 『惜命』

メーデーの一日を墓に遊びをり 『惜命』

供華高く薄暑の墓を訪ねをり 『惜命』

金の芒はるかなる母の禱りをり 『惜命』

露燦々腋をあらはに剃られをり 『惜命』

意識裡に医師爽かに笑ひをり 『惜命』

黄葉はげし乏しき金を費ひをり 『惜命』

人の語を冬鴈のごとく聴きてをり 『惜命』

枯園を師が去にしかば見つめをり 『惜命』

一輪挿し転び溢れて氷りをり 『惜命』

蟇交む岸を屍の通りをり 『惜命』

梅雨来し妻ちびし鉛筆削りをり 『惜命』

野分あと口のゆるびて睡りをり 『惜命』

栗落とす女を見つゝ湯浴みをり 『惜命』

子を思ふ日ねもす捨菊見えてをり 『惜命』

息切れし白息椅子にしづめをり 『惜命』

馬車の腹へ運河冬日を反しをり 『惜命』

洗ひし足袋窓の暗黒に泛びをり 『惜命』

冬の蝶カリエスの腰日浴びをり 『惜命』

年逝く湯ゆたか創痕を沈めをり 『惜命』

雛の灯われは盗汗を拭かれをり 『春嵐』

蝶群がり甘藍畑きしりをり 『春嵐』

葉鶏頭死なざりし顔見られをり 『春嵐』

谷の藤ゆらぐわが息しづめをり 『春嵐』

十薬の香の墓に子とあそびをり 『春嵐』

年果つと胡桃焼きし手洗ひをり 『春嵐』

羽子落ちて木場の漣あそびをり 『春嵐』

病家族桃紅らむを恃みをり 『春嵐』

子の部屋のバッハ聴きをり霜の花 『酒中花』

黒牛は紙漉の瀬に遊びをり 『酒中花』

初烏望遠鏡を許しをり 『酒中花以後』

病棟より柚子湯の蒸気噴いてをり 『酒中花以後』

元日の日があたりをり土不踏 『酒中花以後』


文末を「けり」にしたらいけないのでしょうか? そんなこともないはずです。しかし、「けり」を入れたら「詠嘆」の意味が出てしまいます。あえて、詠嘆(~だったなあ)でなくて、今ここで~しているという「をり」の単純な「動作・状態の継続」感によって、ある種の臨場感を出したい。そんな効果が「をり」にはあると言えるでしょう。

つまり、「をり」にはフィルムか動画を見せられたようなリアリティがあるのです。『惜命』にこの「をり」を使った句が多いですね。まさに映像的な『惜命』の世界にはぴったりはまる助動詞なのです。

これに較べると、「けり」は、あくまで過去を基準とし、過去からずっとそうだった、という意味での継続ですから、フィルムというより絵画を見せられたような感じなのかもしれません。

直接的な詠嘆を避けつつ、切迫したリアリティを求めてこの「居り(をり)」は使われていると言えそうです。

囀りの下に僧の子遊びをり  角川春樹

芦刈の音より先を刈りてをり 大石悦子


これもリアリティを求めた句ですよね。現在進行形です。

次回は、「なり」をとりあげます。

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あじさゐの路地を7半走りをり  森器

公園の遊具の雨に濡れてをり傘を忘れし男子なるわれ


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拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。