「たり」を知るために基本季語五〇〇選山本健吉から、抜き出し集計分類した40句ほどの中には理解の定まらないものが残っていた。まずは言葉の形式的問題を2句。
(夕化粧)
111鯉こくや梅雨の傘立あふれたり 桂郎
『あふるは文語溢る』とutsuha-mori氏からご指摘をいただいた。手元の第六版広辞苑に当たったら、なるほど下二段活用の語でした。ありがとうございました。
「あふる」は「煽る」で風に吹かれると一瞥にて思い込んでしまったのか、直感的に「溢る」は「はふる」だと迷路に嵌った。
ちなみに、文語「あふれる(溢れる)」は下一段活用で、「たり」と接続する連用形は「あふれ」で同じ。異なるのは、連体形がそれぞれ「溢るる」「溢れる」、已然形で「溢るれ」「溢れれ」となる点と、文法書にはある(はず)。
※別役実さんと双璧を成す清水邦夫さんの戯曲「真情あふるる軽薄さ」は、当時の政治状況とリンクして、不条理演劇の中でも世に受け入れられた作品の一つだが、この「あふるる」はすんなりと理解された。
(昼咲月見草)
712鮭を打つ槌なりといふ汚れたり 蟹平
「汚れたり」は「けがれたり」と読んでいたが、アップ直前に確認したら「汚れたり」とルビが振ってあった。『よく見る宜し』と升田幸三は言ったが、小さなフリガナもしっかり読まねばイカン。
で、作者が「けがれたり」と読まれたくなかった理由は、同音の「穢る」を気にしたからではないか。理由は「穢る」には宗教的なあるいは精神的な汚れが内包されているからである。
(虫取撫子)
最後に言葉の意味的問題を1句。
619にて候高野山より出たる芋 宗因
「にて」は格助詞、…句意わからずとしたが、朝方の夢で「煮て候」との啓示を受けた←は冗談だが、大好きな蕪村の
五六升芋煮る坊の月見かなを思い出したのだ。日が暮れたらやって来る大勢の月見客の接待に、貧しい寺ゆえ寺庭さんかお手伝いの檀徒が団子の代わりの芋を煮ている場面で、ぐつぐつと煮える鍋からの湯気に差し込む月の光が見えるようだ。
その景色から、
煮て候高野山より出たる芋と読むべきと思い至った。
「候」は連用形か接続助詞「て」に付いて、謙譲とも言いがたいが丁寧な自己主張をする。
「煮て候」は「煮ているんでございますよ(笑)」と意訳しておく。「づ(出)」は「いづ(出づ)」と同じ。
(酢漿)
似て候高野山より出たる芋もありそうだと感じたのは、宗因の談林派が知識に依存する貞門派に対して、自由闊達な笑いを探る過程からの軽みを重視したからで、高野山で採れた芋が誰ぞの顔に似ていると笑ってみた。もしかしたら事実、宗因の遊び心がその座を和ませたかもしれない、その「にて」。
しかしここでの結論は、「煮て候」が十分に面白いとした。
僧二人だけの飲食芋茎干す 高橋梨花 お寺さんにとって芋は自給自足の強い味方でもあったろうし、なにかと関係深いのかな?
芋の葉を目深に馬頭観世音 川端茅舎
民間信仰では疱瘡神を「いもがみ」と読むことも多く、「imo」の同音ゆえのなにがしかが根底にあるのかもしれない。
芋で好きな句はやっぱり
芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏
(紫酢漿)
いささか言葉に拘り過ぎになったが、「たり」を知るにはその周辺を知る事が大切で、「けり」「なり」「をり」「あり」に含まれる「ri」の音が「り」「たり」と共通していても、意味的には互いに随分と距離があると分かった。特に「たりけり」では「にけり」のように発見・気づきと詠嘆との両者を共に意図して使われることが明らかになった。また「たり」を探る過程で、「ぞ」の省略や転換についても言及することができた。
これらを使いこなすには、まずよく鑑賞し、作者への共感から始めなければならないとの示唆を得た。
来路花(サルビア・ミクロフィア)
最後に基本季語五〇〇選には大変お世話になったが、繰り返し通読する内にやはり読み疲れて、風生歳時記にも頼ったことを付記しておく。