忘れじのゆく末まではかたければ 今日を限りの命ともがな

                                    儀同三司母(新古今集、百人一首)

「決して忘れない」とのお言葉ですが、先々まで心変わりしないなど難しいことですから、今日この日限りの命であったらよいのに。

 

もがな=〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。

    奈良時代の「もがも」から変じた

 

大河ドラマ「光る君へ」によって、これまで三十一文字の世界が平面の紙の上にあったものが、具体的、立体的なイメージがもてるようになりました。

 

この歌の

作者  儀同三司母は高階貴子。関白藤原道隆の妻で、中宮定子、藤原伊周、隆家の母です。

前回の「光る君へ」にて、その伊周との壮絶な別れが放送されました。

 

この歌は、道隆が、作者のもとに通い始めた時に詠まれました。その時の大きな喜びと将来の不安がうかがわれますが、実際には二人は結婚し仲睦まじい時を過ごしたといわれます。

 

貴子は才能豊かな女房として知られ、漢詩に優れ、また女房三十六歌仙に挙げられる歌人でした。

掲歌は、現代人にもわかりやすい、易しい言葉で詠まれています。「もがな」は難しい。

平安期の和歌としては珍しく掛け言葉もないが、当時の歌人たちからも高く評価され、新古今和歌集の巻十三(恋歌三)の巻頭に採用されています。

 

この時代、女性が漢籍に通じていることは疎まれるといわれ、紫式部が自身の漢籍の才をひた隠しにしたという有名なエピソードがあります。漢詩に通じた貴子が宮中で重用され、また娘である定子の教養の高さと清少納言との交流と絆をみると、定子のサロンは高い教養のグループであったことが推測されます。

 

貴子は996年1-4月長徳の変の後、定子の落飾、伊周との別れに心を痛めるなか、病に伏しやがて死去します。一時こっそり舞い戻った伊周との面会を果たしますが、この和歌の「忘れじ」を伊周との再会と読み替えてみると、自身の悲しい最後を暗示しているように思えてしまいます。

 

 

失意の貴子の歌として

 

夜のつる都のうちにこめられて 子を恋ひつつもなきあかすかな

 

通釈

夜の鶴は籠の中で子を思って哭いたというけれど、私は都の内に足止めされて、子を恋い慕いながら哭き明かすのだなあ。

 

夜のつる=白氏文集の句を下敷きにしている

夜鶴憶子籠中鳴(夜の鶴子を憶うて籠の中に鳴く)

(白氏文集・五弦弾)

 

あかす=明石と掛ける

 

伊周は、この時明石での滞留を許可されていた。翌997年都に召還されるが、その時母はすでに亡かった。(996年10月没40代前半か)

 

 

ところで、長徳の変とは、伊周、隆家による花山院襲撃事件に加えるに呪詛事件の合わせ技で、家隆(中関白)一族他11名の処罰に至ったものです。ドラマでは、呪詛の犯人は詮子、倫子が怪しく、道長はドラマの主人公ゆえ「良い人」にしたてあげつつ、見る人にはやっぱり道長がこの粛清劇の黒幕ではないかと思わせるような演出になっているとみます。