「たり」が主題だけど、その前に俳句が俳句である理由の「切れ」について述べる。

 

切れの無いいわゆる一物仕立ての句は屁理屈になりやすいから注意が肝心だ。このタイプは発句ではなく平句をご先祖様とする。

 

体育の日は片足で立ってみる 

俳句だと言い張ったけど目につくのは季語だけで切れは無いし、のっぺりと散文を切り抜いたような感触だ。俳句が川柳ににじり寄っていると聞いて試した。

(紫陽花の目立つ時期なので、5000歩ほどのウォーキングコースで出会う花々をお口直しに。)

 

余談だが、八月の積乱雲へ真つ直ぐにと大冒険をしたことがある。季語は八月は秋、積乱雲は夏、無謀の果へと真つ直ぐに&切れもない。その代わり、真っ直ぐにどうしたかは伏せた。まぁいつものママチャリの散歩だったけど。

暑さが一段落する頃の、夏中見ていた入道雲の発見が読む人に伝わったろうか。

 

 

夜道から夜道へ曲がる秋の雨

この句の切れは「秋の雨」の前だが、仮に「曲がるや」とすると道を曲がったことに意識が集中して、「秋の雨」が軽くなってしまうので動詞の終止形で軽く切った。

家路は駅前を離れるにつれ道がだんだん狭くなってくる、暗くもなる。道連れは季節の変わり目の冷たい雨。もちろん「(だから)寂しかった」などと書き込んでは俳句にならない。

 

「ご自由に」飲み屋の壁のちゃんちゃんこ

店の客は「ご自由に」と貼紙のあるちゃんちゃんこを着て飲むのが店の趣向だ。川柳風に『「ご自由に」と』としなかったので切れている。もちろん、「ご自由に」と飲み屋の壁にちゃんちゃんことせねば川柳に叱られる。しかし、近頃は川柳に季語はもちろん切れも入り込んでいるので、両者の境界はやがて無くなるだろう。

(アジサイバレリーナ)

 

で、俳句は基本的には物に思いを託す寄物陳思の遊びなので、種々の情緒表現は持ち込まない。

しかしもちろん、夏河を越すうれしさよ手に草履 蕪村のように感情表現を取り入れている句もある。川止めが解除されたのか渡河が、切字「よ」で強調するほどの嬉しさだったのだろう。俳句的には「手に草履」とすとんと落とすところが芸だ。

 

モノには常に例外はあるが、「切れ」を作ることによってつまり異なる世界が二つ並べば、それらの衝突する際の情緒的波動が読み手に間接的に感動を生む。

 

古墳まで道連れできた夏の蝶

ここでも口語を使ってみたが、切字は無しに中七で切れている。仮に下五をクレマチスとすれば道連れは句友とかになりそうだが、「夏の蝶」によってこの蝶々が道連れかと読み手は想像し納得する。このように切れを挟んで向き合う二つの世界は、実は連続して理解されている。両者が突飛過ぎれば連続できずに駄句となる。突飛過ぎとは作り手と読み手に共通了解がないことで、いわば感覚的な趣味の問題だから正解は無く、後ろを見たら誰も居ないことはしばしば経験するし、その突飛なものを他所へ持っていけば評価されたりもする。

 

 

切字を使うと「切れ」ははっきりして、取り合わせと同時に作者をモチベイトした事情が分かる。切字の前には季語を置くことが多いが、そうでなくても良い。

 

退院や一歩づつ万緑に入る

退院だぁ\(^o^)/が全て。平たい壁を見続けてやっと外に出たら、世界は目に沁みる緑。

しかし、命がけの入院の経験がない人にはワカランかも。

 

なので、切字の前に約束の季語を置けば読み手に届きやすい。

 

花冷や耳に残れる京言葉 

花冷と京言葉と普段は無関係な二つが出会うのが取り合わせで、前述の突飛過ぎずに共通了解の範囲にあるかどうかは読まれてから分かる。なにがしかの結社に参加して成果を上げるにはそれを知る必要があり、結果的に煮詰まって息苦しくなることは時に経験する。難しいものだ。

 

二階より花火見むとて集ひけり

句中に「切れ」は無く、切字「けり」で切れる。この時は「けり」の前の十五文字全体を一つとみなし、その後ろに衝突すべき何かが隠されているとして鑑賞する。「けり」を読んで「だから何だ!」などと暴れてはイカン。

また俳句の表現としてはここでも、「集まって楽しかった」等のエモーショナルな言葉は書かない。

 

 

で、次に切字ではないがなんとなく切れる気のする「をり」を例に、ニュアンスの違いを確認する。

 

風邪ひきの妻にうどんを煮込みをり

この「をり」は事態の時間的継続を示すので、まったり感たっぷりに、鍋の前に立って不慣れな煮込みうどんを作っている心情を書いた。

美味しく作れるかとの不安や、食べられるまでに回復した安心などがない交ぜになった心持。看病の一環として頑張っているので、詠嘆はせずに現実的な「さっきから」感を主張した。

 

「たべられるようになった」と密かに喜んでいるなら、

風邪ひきの妻にうどんを煮込みけりとする。

看病も終わりそうとほっとしているなら、念押しの「たり」で

風邪ひきの妻にうどんを煮込みたりとする。

その安堵感を強調詠嘆するなら「けり」を付けて、

風邪ひきの妻にうどんを煮込みたりけり

あるいは字余りを避けて

風邪ひきの妻にうどんを煮たりけりとする。でもこれはなんだか自慢しているようで、嫌味だ。

 

とうことで、「をり」「たり」には詠嘆の要素が無い。

「や」は見て見て的な開放的自己顕示で、詩を書くなら必要な態度ではある。

「けり」も同じだが自閉傾向があるので、詠嘆は自己中になりがち。

「たり」と似たような「なり」にはここで示せるほどの句が無いのは、問答無用の説教臭いから。

例えば詠嘆たっぷりの白露や芙蓉したたる音すなり 漱石などはあるが、「聞こえねぇのか?」と言わんばかりだ。幻聴なんじゃない?と言い返したい気分だよ。

 

次回は本題の「たり」を

 

(色もまばらな若い紫陽花もいい)