今日は、「なり」について。

まず、「なり」の識別について。

1.四段活用動詞の連用形
2.断定の助動詞「なり」の連用・終止形
3.推定・伝聞の助動詞「なり」の連用・終止形
4.  ナリ活用形容動詞の語尾
5.  助動詞「ごとくなり」「やうなり」「べらなり」の一部


これもややこしいですね。全部丁寧に説明していたら、ちょっと大変なので、2の断定の助動詞「なり」の連用・終止形を考えます。

この断定の助動詞「なり」、こんな文法の説明があります。。

①断定(ある事柄の状態・性質などを表すことばに付いて、「~だ」と断定する)
  ~(の)だ。~(の)である。
②存在(現にそこにある、いる、という意を表す。多く連体形を用いる)
  ~にある。~にいる。


接続は、体言や、活用する語の連体形、一部の副詞・助詞などに付く。のだそうです。

そして、「なり」の成り立ちについて、ちょっと分かりにくいですが、面白いので読んでみて下さい。

断定の助動詞「なり」は、「に(場所を示す格助詞)+あり」が変化したもので、物事の本質や性質などを説明する体言や、体言に準ずる語(動詞の連体形など)に付き、物事のあり方や定義を言いあてる意味を表す、そこから一般的な断定の用法が生じた。

この「断定」の助動詞には、「とあり」が短くなった「断定」のたり(後でやる完了の「たり」ではありません)があってこの区別について、私の古語辞典には次のような説明があります。

「たり」は「なり」よりも遅れて、おもに漢文訓読体の文章などで用いられ、ある事柄の一時的・外面的な特徴から判断される意を表す。一方、「なり」の方は、本質から判断される意を表すことが多い。

なるほど、と私は思いました。これを知っただけでちょっと前進した気がしませんか?

「なり」は、英語で言えば、be動詞の現在形でしょうか? be動詞には存在の意味もありますから。まあ、無理にそんなふうに理解することもないかもしれません。

なお、「たり」が漢文訓読体の文章に用いられるのに対して、「なり」は和歌や物語で多く使われます。「なり」というやさしい響きが、和歌や物語には適しているからでしょう。

ところで、石田波郷は、とても多く「なり」句を作っています。このうち、断定の助動詞「なり」を使ったと思われる句を拾ってみます。

白露の山河ことごとく別るなり  石田波郷 『病鴈』

牡蠣の酢に和解の心曇るなり 『雨覆』

夏河を電車はためき越ゆるなり 『雨覆』

うす衾秋の夜雨はそゝぐなり 『雨覆』

百合の雨心のやゝにをどるなり 『惜命』

手花火を命継ぐ如燃やすなり 『春嵐』

病涯の髪赭く墓に詣るなり 『春嵐』

廃工場草の穂絮のあそぶなり 『春嵐』

避暑の森われはつまづき歩むなり 『春嵐』

獅子舞の胸紅く運河渡るなり 『春嵐』

綿虫に蕎麦啜るなり深大寺 『春嵐』

蝌蚪の罎風雨はかげりはしるなり 『春嵐』

黄立羽蝶(きたては)をとめし土塊傲るなり 『酒中花』

どぜう鍋女は腕うるむなり 『酒中花』

籠りつげば曇りつぐなり沙羅の花 『酒中花』

白日に蕎麦啜るなり義士祭 『酒中花』

ガーベラの萎れて患者自治会なり 『酒中花』

病個室豆を撒けどもひとりなり 『酒中花』

患者らはみなのつぽなり枇杷をもぐ 『酒中花以後』

合歓明く病むは夕餉すさだめなり 『酒中花以後』

新聞紙値上がりぬ落葉俄かなり 『酒中花以後』



実は、文末の「なり」の句はもっと多いのですが、ナリ活用形容動詞の語尾であったり、「如くなり」の「なり」であったりするので、それは省きました。

「をり」が、『惜命』と『春嵐』に多く、年を経て、『酒中花』あたりから「をり」「たり」が消えて「なり」の句が目立つという印象です。後で取り上げる「たり」の句は、第一句集『鴨の眼』によく見られます。

つまり、波郷の場合、年を経て、物事の本質を言い得るようになって、「なり」がよく使われるようになった、とでも言うべきでしょうか。

また、断定をしながらもどこかやわらかい「なり」の調べが、晩年の波郷句には相応しかったとも言えるでしょう。詩歌の場合、文法の意味や言葉の意味だけが全てではなく、やはり語の響きや印象も重要な要素であることは言うまでもありません。


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白き灯の四葩の花を照らすなり  森器

学びそむ中世哲学無用なりけふも微笑む遺影のマリア


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拙作、拙文をお読みくださり
ありがとうございました。