学校創立より、98年間の長きに亘って
一人として著名人を輩出して来なかった我が母校
四国中央市内の3つの高校のなかでも
唯一、プロ野球選手も誕生して無かっただけに
創立百周年を目前に
いきなりノーベル物理学賞とは、起死回生やがね~
ほんまにたまげたがね~
この度は受賞おめでとうございます
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総合検診の会場は
三島図書館隣の保健センターやったけん
帰りに図書館へ初訪問
元禄中期の別子・立川銅山関係図
牛車道と仲持道をこの上に表示しようとしたけど
微妙に地形図が異なってて正確に書き込めなかった
変成岩への変化に伴って生み出されるのが
金、銀、銅、亜鉛、硫化鉄などの金属鉱脈です
四国山地のこの辺りの地殻変動は複雑で
石鎚山脈とその北側に法皇山脈が縦走してて
この断層の間を流れるのが吉野川支流の銅山川
山中に産する鉱物は原石のまま
あるいは途中で精錬を施して荷重を軽減しながら海岸まで運び積み出しました
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別子銅山においては
法皇山脈を越えるという地理的困難な悪条件の中で、
仲持という人力による運搬が行われました
仲持とは、1691(元禄4)年の別子銅山の開坑以来明治13年に牛車道が開設されるまで、奥深い銅山で精錬した粗銅や山中での生活物資(男性は45キロ、女性は30キロ)を背負って、険しい山道を運搬した人達です
伊藤玉男氏の「あかがねの峰」を読むと
「別子開坑二百五十年史話」の第二次仲持道は存在せず
小箱越の第一次仲持道(泉屋道)から銅山越の第三次仲持道(泉屋道)に移行したと書かれています
いま、當年開設の新道路なるものを、親しく踏査するに、爾来春去秋来すでに二百三十餘たび、その迹は空しく萎々たる雑草に埋れ果てゝ、こゝろなく過ぎれば、ほとんどそれと見分けるよすがもないほどである。ただわづかに残された文献をたよりに、別子山東延より西赤石の峰を左にとり、つまさきあがりの逕を辿ること一里半餘にして、西赤石と東兜を連ねる中間の尾根に出る。
これよりさきは、ひたぶるに地勢を按じ、記録に謂はゆる石ケ休場を石ケ山丈と推定して、東兜を右に、西赤石の山腹を谷間へ向つて十數町下ると、谷はいよいよ迫つて逕まさに窮らむとする邊、天空を劃して峭立する大巖石に行き當るのである。こゝは古来、樵夫等が岩屋と呼んでゐるところ、逕は紆曲してこの大巖石の腹に通じ、そこには幅廣に十數段の石磴を築いて人の往来に便じてあるのが見られた。
實に堂々たる立派な石磴である。その蒼然として風化せる跡は、歳月を經るのすでに久しきを示すと共に、これが往昔大別子の銅山路であつたことを知らしむるに十分である。そればかりではない。谷間の流れに今はわづかに板を渡した橋際にも、蔓生する草むらの中から疊みあげた舊い石崖が見られるのであって、山中に似合はぬその規模や結構は、別子の出銅最もさかんなりし當年を偲ばしむるに餘あった。
(別子開坑二百五十年史話 141頁より)
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いったいどう言う事かというと…
「あかがねの峰」によると
「史話」に書かれている「岩屋」を通るこの道も存在はするが
仲持道(泉屋道)としては使用されなかったとの記述がある
以下、「あかがねの峰」より該当箇所を抜粋
さていよいよ泉屋道の検証である。 147頁
別子開坑二百五十年史話は輸送路の変遷について、二次泉屋道は雲ヶ原を越えて種子川の源流域を通り石ヶ山丈の尾根に出て立川中宿-渡瀬左岸-へ出たとしている。この説に従えば雲ヶ原の輸送路は元禄15年(1702)から寛延2年(1749)の別子・立川両銅山合併までの47年間の長きにわたって使用されていたことになる。
宝永元年(1704)7月、立川山・種子川山など5ヶ村が上知され、宇摩郡の蕪崎村など7ヶ村が西条藩に渡されている。その後宝永3年、立川銅山の焼木、木炭が入手困難となったことから宇摩郡の上野山が立川銅山付山林となった。立川銅山では損得勘定で思案の末だろうが、鉱石を上野山へ運んで製錬するという非常手段をとって、泉屋と同じ雲ヶ原を通る道を造った。従って史話の説を採るならば、別子と立川の夥しい数の仲持が、海抜1550米の雲ヶ原の一点を通過したことになる。もしそれが事実なら、さぞかし壮観な光景であったろうが、そのことについての記録はどこにもない。そして更に、立川経由で新居浜浦に至る道筋が別子銅山の輸送を有利にするという事で収公したのに、なぜ雲ヶ原の絶嶺を目指して登らなければならなかったのだろうか。
昭和49年に合田正良が作った「別子銅山」に「旧別子銅山古図」がある。これはどう見ても立川銅山の絵図に違いないが、東舟窪(今の銅山越)を越えて上野山へ至る立川銅山道筋が明記されているから、寛延2年の別子・立川両銅山合併以前のものであることは間違いない。その絵図に嶺北の斜面を下る泉屋道が明記されているのである。そこでまずその泉屋道に出てくる地名を下から上へ追ってみることにする。
中途略
東平坑が閉山するまでは第三通洞から運び出された鉱石は東端索道によって東平から端出場へ下げられていた。この索道の中間に中継所が2か所あり、本谷川の絶壁の上にあった中継所を「新道の索道場」と今でもまだ呼ぶ人がいる。「新道の」名は何に由来するのだろう。
中途略
宝永元年(1704)12月、二次泉屋道を造成して間もない別子銅山では、立川銅山を相手取って「差上申一札之事」という願書を川之江代官所に差出している。
「立川御銅山道筋之義、長尾石か休場●西裏へ通り来り申候ニ付、当御銅山江ハ石か休場●東裏へ新道作り通路仕候、然ル処ニ立川山師元之道通シ不申、此方●作り申新道掫割之上、橋際迄之内ヲ立川銅山●通路仕候。此間大難所、荷物候而中々行違も難成所ニ而御座候(中略)願之通被仰付難有奉存候、則当六日●立川御銅山山師先年之道中持共相通シ申ニ付、右石か休場境目ニ当分番人付置、立川中持共通シ不申候様仕、(略)」
この一札に触れて泉屋叢考第拾参輯はこう解説している。
「石ヶ休場というのは果たしてどこのことか明らかでない。別子鉱業所で作成した鉱区図によると、銅山越の北斜面に小字長尾があり、長尾は立川村の小字である。従って長尾石ヶ休場はおそらく銅山越の近く立川側にあったのでなかろうか。ここより東裏に新道を作ったというが、東側は西赤石より石ヶ山丈に向かって枝脈が延びており、この稜線を以て種子川村と立川村の村堺としており、この稜線の東側面を指すのであろう。これに対し立川銅山の道筋は長尾石ヶ休場より西裏へ通っていると記されており、つまり西側面を通じたのであろう」
この説によると長尾石ヶ休場を現在の太平坑近くに想定し、東裏に新道とあるのを石ヶ山丈の稜線の東側、即ち西種子川の上流に設定している。従って、従来の一の森~長尾を通る立川銅山の輸送路も一転して石ヶ山丈の西側にあったという矛盾が生じたのである。
蛇足になろうが石ヶ休場について触れておかねばなるまい。今日でも登山者は背負子を使うが、昔は一般に里では天秤棒、山では背負子が荷物運搬用具として使われていた。そして背負子を使う者は必ず掛け杖を携えていた。この杖は頑丈で上端には直角に近い把手がついている。通常この把手を握ってそれで地面を付きながら歩行し、一息入れるときは杖を背後にまわし手の上に背負子を与け、バランスをとりつつ杖に荷重して肩を休める方法をとっていた。一息つく場合はこれでよし。しかし長い休息をとる場合は、これではどうも体が休まらない。そこで道中には所々に休み場が設けられていた。そこには丸太を組んだものもあれば石を積み重ねたものもあって、背負子をその台の上に与けて安定させれば、荷物から体を離すことが出来るのである。要するに石で作った仲持の休憩所が石ヶ休場で、その名のつく所は幾らでもあり、気にかけるほど珍しい場所ではないのである。
さて、先に記した「差上申一札之事」について吟味を行うことにする。
「落し」から長尾の尾根を葛折りに登り切った所で道は横がけとなり尾根の東裏に廻りこんでいる。仮にこの道を別子銅山がつけた新道とし、これを辿ればやがて「セリ割」の剣を通過して「橋」に至るので、前記一札と全く一致することになる。しかしこの過程は、立川銅山の仲持衆が常に通行していた立川銅山道筋が近くになければ成り立たなくなる。つまり、立川銅山道筋より別子銅山がつけた泉屋道を使用した方が便利だったから立川銅山の仲持衆が利用した筈である。それでは立川銅山道筋はどこをどう通っていたのだろうか。
前記合田正良著「別子銅山」に立川・大永両山村の川筋と道筋を入れた絵図がある。これと同じ図は「住友別子鉱山史」上巻にも収録されているがその出所は判らない。しかし、立川銅山の所在が最も大きく示され、さらに立川銅山の炭中宿であった菅平が記されているところをみると、どうも立川銅山の絵図らしい。先の立川御銅山絵図もまた、作られた年代も不明ではあるが、荒銅を下げた立川銅山道筋が明記されていることから、泉屋が両銅山一手稼業に移る寛延2年(1749)以前のものであることは確かだ。以下この絵図を参考にして少し立ち入ってみたい。
長尾とは西山で脊梁から分かれた尾根が「落し」まで続くが、その尾根全体を指すのか、あるいは北端の部分をいうのか不明だが、ここでは前述の山林図に従って一の森以北を長尾としておこう。この長尾の西側を巻いて、というよりも殆ど尾根伝いに東平に至る道がある。東平坑が閉山-昭和43年-するまでは時折使用されていた。この道の一端は長尾の一点でいわゆる東平街道と一緒になる。筆者はこの一点を「長尾石ヶ休場」だと考えている。何故ならば、長尾石ヶ休場より西裏へ通り申候道と、東裏へ新道作り通路仕候道が、舟窪の峰へ向って別れている処はここ以外にどこにもないからである。そしてさらに、立川銅山の仲持衆は上り下りの変化が多い上に遠回りにもなる立川銅山道筋よりも、一定の緩い勾配で上り、しかも近道になるという新道が出来ればこれを通行するのが当たり前で、その意味でも先の一札が示す内容にすんなりと一致するのである。絵図でいえば中程の「此道筋云々」とあるのは立川銅山道筋で、左へ分岐している「銅山道」は二次泉屋道となるわけである。
先に掲げた「立川御銅山絵図」も寛延2年以前に描かれたことは明らかであり、泉屋道が雲ヶ原から石ヶ山丈経由で立川の在所に通じていたのであれば、この絵図に泉屋道や馬の背番所が記載されよう筈がないのである。
二次泉屋道について考察を進めてきた。そしていま、この道は高く険しい雲ヶ原の絶嶺を越えていたものではなかったことが判って来た。が、しかし、これで泉屋道の全てが明らかになった訳では無い。後の絵図に見られるように「長尾石ヶ休場」から下では両銅山が一本の道を共用していたのか、それとも二本あったのか、あるいは、また絵図のように長尾の先端までは共用していたが、それ以後はまた分かれて、泉屋の方は「落しの橋」をかけて新しく立川の在所へ道を着けたのか、それならそれはどこを通っていたのか等、まだ解明しなければならないことがある。
さらに同時に、立川銅山の道筋についても考察を進め、最終的には大江ノ浜と中須賀までの両者の道筋が明らかにならなければ二次泉屋道に終止符が打てないが、とりあえず通説別子銅山史の仲持道の考証を終えることにする。元禄15年閏8月、僅か2ヶ月ほどで開通にこぎつけた時点での泉屋道は、道幅も狭く桟道のような急造の箇所も随分とあったことだろう。また一部ではルートの変更もなされたかも知れない。長い年月をかけて改良を重ねてきたこの道は牛馬さえも通し得る立派な道であったという。今その道はそのまま銅山峰への登山道として利用されている。歴史の証人であり文化遺産でもある二次泉屋道を、このままの姿で子孫に残しておきたいものである。
以上 「あかがねの峰」147頁から158頁より抜粋
「あかがねの峰」 著者 伊藤玉男
1994年 第2版発行
第二次泉屋道(仲持道)は作られたけど
実際には銅の道としては利用されなかったみたい
伊藤玉男さんの読みたい著書がいっぱいあるので
この次は土居図書館を訪ねてみよう!
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そうそう、
この文中に何度も登場した合田正良さん
なんとなく馴染みのある名前だと思って調べてみると
伊予三島市の郷土史家でした
箱物行政によるアピールとは一線を画した
こういった地道な取り組みもあった時代が懐かしい限り
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そろそろ1時間経ったかな
ざっとですが、目を通すことが出来ました
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