image
先週の牛車道探訪では
 只々単調で退屈な道と早々と音を上げていたのにもかかわらず
 
1893(明治26)年の牛車運搬廃止から128年が経って
 今どき、この様な古道を辿る酔狂なモノズキさんを
 
近江牛の牛使いさんが見逃す訳がない昇天おうし座
image
いつの間にか、すっかり憑依されてしまい
 2週連続で、再びやって来てしまいました(笑)
 

image

今回は、先週辿れなかった立川中宿から前回の牛車道へのアクセスポイントの

 

牛車道と水圧鉄管路の交差地点までの牛車道のログを録りたいと思います

 

゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・

 

春に4回に渉って訪れた別子銅山
 その初回の4月11日の探訪は前回でやっと終えることが出来ました
(なんと6回もかかってしもうた∑( ̄□ ̄;)ナント!!)
 
今回の4月18日の探訪も記事を纏める時間が足りず
 触りだけを初回だけアップして、4月25日の記事に飛んだので改めてリブログしました
 
拙い文章に意味不明な箇所や重複もあるかもしれませんが・・・
 やはりスルーだな Σ( ̄▽ ̄ノ)ノえっ!
 
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・
 
こんにちは(`・ω・´)ゞ
 お立ち寄り下さり有難うございます
 
image
今回は立川中宿から牛車道を辿りたいと思うので
 国領川(足谷川)の左岸(下流から見て右側)の道を遡ります車DASH!
 
この道も口屋から立川中宿へ続く、元牛車道であり
 
県道47号が足谷川の右岸に出来る前は
 バスもこの細い道を走ってましたバスDASH!
 
内宮神社の参道前を通過します
 新居浜秋祭りの幕開けを告げる未明の太鼓台かき上げは
 
重さ約2.5トンの太鼓台が4台
 全長300メートルのこの参道を登っていきますが
 
それはそれはすごい熱気が渦巻きますうずまき

 

令和元年10月16日内宮神社かきあげ 12分37秒

 
image
内宮神社の参道を住友鉱山鉄道下部線跡が横切っており
 参道の右側には坑廃水を処理する山根収銅所があります
 
image
足谷川に架かる生子橋
ここからマイントピア別子、鹿森ダム、遠登志渓谷、清滝を経て
 河又に至る延長約10キロの渓谷景勝地を別子ラインと呼び
 
そのほとんどが1955(昭和30)年に県の名勝に指定されました
image
小高い生子山(標高144m)の頂上に建つ煙突は
 旧山根精錬所の煙突でイギリス積の煉瓦煙突です
 
image
松山自動車道の手前に広場があったので
 ここにパジェロをデポして探訪開始
 
image
竣工から30年余り経つ高速道路にはひび割れが目立ち
 耐震化工事が至る所で行われています
 
一方で1880(明治13)年の完成から141年も経つ牛車道は
 放棄されて悠に100年を超えるが、しっかり原型を保ってる
image
足谷川の左岸沿いに続く道
 
image
道路の右側の石積みは下部鉄道の擁壁で
 煉瓦積みは落石除けの為に作られたという物言嶽トンネル
 
擁壁の途中で石の積み方が異なってますが
 これは1899(明治32)年の別子大水害の補修跡と思われます
image
1973(昭和48)年の筏津坑の閉山により
 別子銅山はすべて閉山となりましたが
 
坑内採石の運搬用に下部鉄道は残存していました
(昭和52年、前年の台風17号被害により廃止)
image
牛車道から下部鉄道跡へ続く道があるので
 軌道跡へ登ってみました
 
廃線跡は坑廃水を流す坑水路として管理されています
 
鉱山の負の遺産として未来永劫に中和処理作業は続きます
image
明治時代の下部鉄道の写真が資料の中にあったので
 現在地と同じ場所かもって思ったけど・・・
 
物言嶽トンネルが写って無い
 (カメラアングルの関係?)
 
下部鉄道で国領川沿いに道路と並走する区間って限られてるし
 やっぱりここなんだろうか?
 
生子橋の南付近かも知れないので
 次回訪れた際には石積みをよく観察してみよう
 
上・下の写真が同じ場所みたいで
 上側の写真が復旧後かと思ったけど・・・
 
住友史料館の説明書きでは
 別子大水害の前年の明治31年撮影となってる

 

 

゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・

image
更に遡ると足谷川を渡る龍川橋が見えてきました
 2005(平成17)年3月竣工
 
牛車道当時はここより少し上流側に不朽橋(眼鏡橋)が架かってたけど
 1899(明治32)年8月28日の別子大水害で流出しました
 
image
左から
別子山村 三里十四丁
龍川橋 大正元年九月竣工
金毘羅大権現と書かれた灯篭
image
image
 
image
眼鏡橋は立川分店前に架けられた花崗岩造りの橋 でした
 
周辺には料亭などもあり、賑わいを極め
 銅山へ行く人 たちはこの歓楽街を通り過ぎかねて、この眼鏡橋の上で迷ったそうな
 
 ところが、明治32年8月28日に発生した別子大水害により眼鏡橋は流出してしまいました
 現在は元の位置より少し下流側に龍川橋が架けられています
 
立川中宿・立川精銅所跡
 別子銅山と新居浜口屋(銅山の諸物資購入と粗銅の大阪廻船を取扱)を結ぶ物資運搬の中継基地。元禄15年(1792)設置。
 江戸時代、立川中宿と別子銅山間の険しい山道は、立川中持ちと呼ばれる人々によって、生活物資の荷揚げと粗銅の荷下げが行われており、立川中宿がこれを統括した。そのため、銅蔵や米蔵など諸物資を一時保管するための蔵で囲まれていた。
 明治2年(1869)、政府が山元での最終精錬を認めたため、別子銅山支配人広瀬宰平は、立川精銅所を新設し、大阪鰻谷の銅精錬にとって代わった。明治9年(1876)、組織改革によって立川出店となり、さらに明治15年(1882)、立川分店となって、精銅方・会計方・運輸方を置いた。
 しかし、別子鉱山鉄道の完成(明治26年(1893))を間近に控え、明治24年(1891)4月、端出場-石ヶ山丈間の複式索道が完成すると、立川分店の運輸業務は、その役割を終える。さらに、明治21年(1888)に操業を開始した惣開精錬所の型銅生産が軌道に乗ると、粗銅はすべて同所で型銅に精製されることになり、明治24年(1891)5月、立川分店は新居浜分店の出張所となった。

牛車道跡・眼鏡橋跡
 牛車道は、開坑以来の人肩運搬に代わる新車道。明治9年(1876)に着手したが、明治10年(1877)に勃発した西南の役により労働者や火薬の確保が困難になったことと、技術力の限界から一時開鑿を中断した。明治11年(1878)に開鑿を再開し、明治13年(1880)に目出度町から銅山峰・石ケ山丈を経由して立川仲宿までの約20kmが完成した。翌年から立川中宿から新居浜口屋までの約8kmが使用され、別子山の目出度町から新居浜口屋までの約28kmが使用された。牛車の牛は、広瀬宰平の故郷である近江牛が連れてこられた。
 眼鏡橋は、明治11年(1878)に牛車道の一環として立川中宿入口の国領川に一部花崗岩づくりで架けられた。その堅牢さから不朽橋と命名された。明治32年(1899)の別子大水害のときに、頑強であるが故にダムの役目を果たし、濁流を受け止めた後に流出した。
 
1899(明治32)年に流出して
 1912(大正元)年までの13年間は別の橋が架かっていたのか?
 
1912(大正元)年に竣工した龍川橋が
 2005(平成17)年まで93年間も使われていたのか?
 
分からないことは、いっぱいあります
image
この辺りの牛車道は生活道路として使われています
 
軽の乗用車がこのピンカーブを曲がっていましたが
 1回では曲がり切れず切り返してました(a地点)
 
やはり四輪では難しいようです爆笑
(牛車は2輪だったので小回りが利きます)
 
image
アスファルトの牛車道を上っていきます
image
少し標高が高くなった牛車道から足谷川対岸の下部鉄道の軌道跡が見えました
 
おや、車屋トンネルの端出場側に白く見えるのはコンクリート製の土砂止め
 4年前に下部鉄道跡を歩いた時には無かったので最近になって作られたのかな
 
廃線跡といっても坑廃水を流す坑水路が敷かれているので
 鉄道が無くなった現在も保守管理が欠かせません
 
image
集落の中にあったbのピンカーブを折り返します
 
image
立川中宿がよく見える
 あのグランド辺りが立川分店跡で不朽橋が架かってました
image
C地点のピンカーブ(標高135m)で折り返し
 ここから暫くはトラバース道になります
image
等高線をなぞり乍らも
 少しずつ標高を稼ぎ、牛車道は南へ向かいます
image
牛車道の高さまで立川の集落が広がってましたが
 残念ながらその多くが廃屋になってます
image
牛車道は竹と植林の鬱蒼とした森の中へ
 墓地をあちこちで見かけますが
 
辺り一面が森に飲み込まれており、1日中全く陽が射すことはありません
 
image
 
image
龍河神社は龍古乃別君(たつこのわけぎみ)を
 地域の開祖神としてお祀りしているそうな
 
278段あるという石段の参道を牛車道は横切ってた
 
ここまでの所要時間は52分で、2.92km歩きました
 
境内を囲むように群生してる林は、
 ツガ、ヒノキなどの針葉樹と
 
クスノキ、ヤブツバキなどの照葉樹が混じり合った自然林で
 昭和59年に新居浜市の天然記念物に指定されました
 
この立派な狛犬は昭和13年に
 住友鉱業(現住友金属鉱山)別子鉱業所の三村起一所長が献上されたそうな
image
2年前の2019年元日にも訪れましたが
 元日だというのに人気もなくて幟だけがはためいていました
 
集落の衰退で氏子も少なくなっているのか
 よく見ると社殿には碍子だけ残っており電気が来てない?
 
それとも配線を変更したのかな?
 
もし電気が無いなら
 このロケーションでは夜は怖くて来れんぞなもし滝汗
 
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・
 
龍河神社から先へと進むと電波塔がありました
image
ここまでは車道として整備されていますが
 ここから先は利用されることも無く、明治のままの牛車道やがね
 
image
やっと探訪記らしくなってきたで~(笑)
image
崩れてる箇所もあるけど
 基本的に石積みはしっかりと残っており路盤もこのとおり
 
荷物を満載した牛車が今でも通れそう
 
展望の全く無い牛車道を進みます
 
image
いったいどの辺りを歩いているのだろうと思っていたら
 旧端出場水力発電所と四通橋が見えた
 
目的地点の水圧鉄管との交点は近そうだ
 
image
これぞ埋もれた近代化産業遺産!
 人知れず眠ってる
 
image
あれれ!突如謎の案内板が現れた
 
「女、子供はむり」なんて、そんな云い方では
 現在の社会情勢ではディスられること間違いない(笑)
 
先週の探訪記でも触れたけど
 迂回路を示していると思われるこの案内板
 
女、子供はどうすればいいんだい?
 まっすぐ進むことは無理なので迂回路で降りろって事なのか
 
それともこの迂回路も険しいので来た道を引き返せって事なの?
 
迂回路を辿って無いのでどのような道なのか判りませんが
 下を通る県道47号までは俯瞰した距離はすぐ近くて高低差は結構あるので
 
かなり勾配のきつい迂回路と思われる
 
引き返すのなら龍河神社の参道を降るしかないので500mは引き返すことになる
 
石段の参道を降って県道47号を歩き
 旧端出場水力発電所の水圧鉄管路を登ってかなり遠回りになっちゃうね
image
とりあえずまっすぐに牛車道を進んでみると
 谷で牛車道の路盤が無くなってました
 
元は暗渠だったのでしょうか
 大水で路盤ごと流されたみたい
 
この崩壊地を何とかして越えたいものです
 
水が流れてる沢の向う側の崖の上に牛車道の路盤が見えるけど
 ここを登るのは足元が悪くて無理っぽい
 
何処か登れる箇所は無いかと探してると
 牛車道より山側に取付けそうな場所を見つけてよじ登りました
 
image
あとは牛車道に降りればいいやと思ってたけど
 牛車道の山側は岩盤の連続で高すぎて降りれない
岩だけに・・・ガーン (;^_^A
 
無理して怪我でもしたら・・・
 次にここを通りかかる人は何時のことやらわからない
 
image
牛車道山側の岩盤
 
image
岩盤の間から芽を出した一本の木を伝って何とか降りる事が出来ました
 よくもこんな場所に道を通したもんやね~
image
藪めいている牛車道を進みます
 
image
あっ!牛車道に穴が二つ空いてる
 
もしやこの場所はと
 山側を振り返ると見覚えのある看板が・・・
 
image
午前11時23分に水圧鉄管路と牛車道の交差地点に至りました
 
ここまでの所要時間は1時間33分で、4.45キロメートル
 
立川中宿から石ヶ山丈までの牛車道の未踏破区間を辿ることが出来ました
 
 
さてさて、
 時刻はまだ昼前、これからどうしよう
 
当初は、鹿森住宅跡を探訪してみたいと考えていましたが・・・
  昼食タイムも取らないとね~おにぎり
 
最後までご覧頂きましてありがとうございました
 

では、またバイバイ

 

次回も見てね(≧▽≦)

 

 

関連記事

 1. 今年は丑年!別子銅山牛車道を辿る へ

 2. 旧端出場水力発電所 鉄管保守路へ へ

 3. 2週連続で牛車道探訪w へ

 4. 新緑の唐谷三連橋とアケボノツツジ へ

 5. 兜岩・西赤石から銅山越へ へ

 6. 旧別子の牛車道は・・・ へ

 7. 魔戸の滝 へ

 8. 種子川林道を詰めて兜岩へ へ

 9. 百十二年前に蒸気機関車の影を映した岩壁 へ

10. 石ヶ山丈沈砂池 へ

11. 旧端出場水力発電所から牛車道を歩く へ

12. 淡々と牛車道を辿り石ヶ山丈停車場跡へ へ

13. 2本連なる牛車道から石ヶ山丈貯水池へ へ

14. 旧端出場水力発電所水圧鉄管路を降る へ

15. 別子銅山の終焉に想いを馳せながら・・・ へ

16. このページの最初に戻る

17. 「別子鉱山案内記」と今に残る産業遺産 へ

18. もしかして幻の第二次泉屋(仲持)道? へ

19. 車屋橋から下部鉄道跡へ へ

20. 古書「別子開坑二百五十年史話」 へ

21. 「あかがねの峰」 伊藤玉男 へ