5月9日に種子川造林道を辿った際に
「岩屋」と呼ばれる場所に巡りあう


いま、當年開設の新道路なるものを、親しく踏査するに、爾来春去秋来すでに二百三十餘たび、その迹は空しく萎々たる雑草に埋れ果てゝ、こゝろなく過ぎれば、ほとんどそれと見分けるよすがもないほどである。ただわづかに残された文献をたよりに、別子山東延より西赤石の峰を左にとり、つまさきあがりの逕を辿ること一里半餘にして、西赤石と東兜を連ねる中間の尾根に出る。

これよりさきは、ひたぶるに地勢を按じ、記録に謂はゆる石ケ休場を石ケ山丈と推定して、東兜を右に、西赤石の山腹を谷間へ向つて十數町下ると、谷はいよいよ迫つて逕まさに窮らむとする邊、天空を劃して峭立する大巖石に行き當るのである。こゝは古来、樵夫等が岩屋と呼んでゐるところ、逕は紆曲してこの大巖石の腹に通じ、そこには幅廣に十數段の石磴を築いて人の往来に便じてあるのが見られた。

 實に堂々たる立派な石磴である。その蒼然として風化せる跡は、歳月を經るのすでに久しきを示すと共に、これが往昔大別子の銅山路であつたことを知らしむるに十分である。そればかりではない。谷間の流れに今はわづかに板を渡した橋際にも、蔓生する草むらの中から疊みあげた舊い石崖が見られるのであって、山中に似合はぬその規模や結構は、別子の出銅最もさかんなりし當年を偲ばしむるに餘あった。

(別子開坑二百五十年史話 141頁より)

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このくだりと写真を確認したくて
 80年前の古書を探しました


『種子川造林道を詰めて兜岩へ』
 探訪日2021年5月9日


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別子開坑二百五十年史話

 

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昭和16年12月10日印刷
昭和16年12月25日發行
(非賣品)

 

非売品となってますが、この本を現時点で扱っている全国の古書店をネットで検索すると

 数十件ヒットしたので、ある程度の部数は発行されたのかなと思います

 

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別子開坑二百五十年は昭和15年(西暦1940年)
 

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1940(昭和15)年は神武天皇即位紀元(皇紀)2600年

西暦では1940年ですが、紀年法としての西暦が国内で一般に使われるようになったのは戦後になってからで 
 人々は元号と皇紀、それに干支を以て年を記録したり覚えてたそうな

泰西は姑く措き、わが東亜に於いて輓近最も急激なる發展を見せた都市は、その第一が満州國の新京、第二が新居濱市であると謂はれてゐる。明治二十二年の町村制實施に依って新居濱が村となり、次いで四十一年町制に改めて新居濱町となったことは既に記した。その新居濱町を中心に金子、高津の両村を合して市制を布き、いよいよ新居濱市が誕生したのは、昭和十二年の明治節、すなはち十一月三日のことである。」(517頁より)

新居濱市の昭和14年度市勢報告では、最近10年間における人口の増加率は78.8%を示して県下第1位
 埋立や港湾整備といったインフラも住友さんによって整備されました

明治より大正を経て昭和へかけて別子銅山並びに之を根幹とする住友事業の拡大に伴って物資の集散、船舶の輻輳、年とともに盛んなるに鑑み「住友鑛業」にては更に進んで新居濱町を中心とする地方振興に資すべく、これより先明治40年2月以来着手せる埋立工事に続いて防波堤、護岸壁の築造、海底の浚渫および公有水面の埋立等、極めて大規模なる新居濱築港計画を立てて昭和5年9月之が官許を得、14年6月に至って竣工を見た。(518頁より)

「斯して住友人にとり、將た本邦鑛業界にとって、永遠に記念すべき別子開坑二百五十年といふ歳は迎えられた。しかもこの昭和十五年が、光輝雙びなき建國二千六百年に相當したことは、その慶祝の情をいやが上にも沸き立たせ、われらの歓喜洵に極まりなきものがあつた。」(533頁より)

 

日中戦争の泥沼化で戦死者も増え続け、戦費調達の為の日用品の値上げ等々
 国民生活も苦しくなり始めていた1940(昭和15)年

 

翌年に日米開戦、第二次世界大戦が始まります

当時、日本の軍用機の名称は採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定があって

 

ゼロ戦(零戦)が制式採用された1940(昭和15)年は

 神武天皇即位紀元2600年にあたり、その下2桁の「00」から「零式」とされました


皇紀2600年に当たる昭和15年11月10日に天皇・皇后の臨席のもと
 宮城前広場において開催された「紀元二千六百年」を祝う式典が挙行され

それにむけて内地・外地を問わず様々な行事や活動がおこなわれ
  国威がおおいに発揚されました

この昭和15年に別子開坑250年を迎えます

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巻頭には色刷で別子銅山沿革、鳥瞰図も折り込まれており
 紙質も上等で、丁寧な装丁を施された全542頁

巻頭の一、家長(友成)題辭に続いて

 二、現家長(肖像画)

続いて三、は十二代家長友親君と先代家長友純君

この写真だけでは住友関係者でない私にはよくわからないので
 住友家についても少し調べてみました

 

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先代家長とは・・・

1926(大正15)年に没した15代友純君(トモイト)で
 左上の12代友親君の娘婿になる

10代当主の友視は、11歳から勘場で奉公を始めた廣瀬宰平(北脇駒之助)を抜擢した人物である

友視(トモミ)が没して息子の友訓(トモクニ)が後を継いだが
 その友訓もまもなく24歳の若さで世を去ってしまう

しかも、子供が居なかった

このままでは住友家は断絶してしまう

大坂の本店の重役たちは、他家から養子を迎えてこの難局を乗り切ろうと考えていた

「昨日まで見ず知らずの他人を戴いて、命を懸けて奉公できるわけがないでしょう」
 宰平はその頃別子の支配人になっていた清水惣右衛門に相談した

「それは確かにそうだが、他に方法があるまい」

「友訓様の実弟の、友親(トモチカ)様がおられるではないですか」

「いや、しかし友親様は、すでに浅田家に養子になっており
 今更こちらの都合で戻してくださいなどと、そんな図々しいことは、浅田家とて承知致すまい」

宰平は清水と協力して店の重役たちを説得する一方
 何度も浅田家を訪れて事情を説明し

ついに友親を復籍させ当主にすることに成功します

宰平の名が住友家中に轟いた瞬間だと言ってもいい

その12代家長友親が左上の写真である

記念すべき別子開坑二百年の1890(明治23)年11月23日に友親(48歳)が没し
 同月30日に13代友忠(19歳)も死去してしまう


12月に友親の妻、登久が一時的に14代を継ぐことになる


広瀬宰平は甥の伊庭貞剛と協力して後継者の選定に当たり
 徳大寺家の友純(トモイト)を迎えることにしたそうな

1892(明治25)年、友純(29歳)は友親の長女満寿(19歳)の婿として住友登久の養嗣子となる

住友家の家長はみんな「友」の字ガツイテルケド・・・
 友純さんは徳大寺家の出(西園寺公望の弟)なのに元々この名前だったのかなぁ~?

15代友親から住友財閥における住友家は
 君臨すれども統治せずの立場をとったそうな

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巻頭一六、別子銅山沿革、鳥瞰図(色刷)


巻頭の鳥瞰図には旧道として

 

小箱越(元禄4年開坑ヨリ同15年迄)と雲ヶ原越(元禄15年ヨリ寛延2年迄)


寛延2年ヨリ明治14年迄の運搬路として銅山越が描かれています

雲ヶ原越は第2次仲持道としては使用されなかったという説もあるみたいですが
 この本では元禄15年ヨリ寛延2年迄の47年間使用された事になっています


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別子銅山坑内平面図


舊別子銅山跡の様子が細かく描かれています
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別子開坑二百五十年史話 目次

本書は別子銅山開坑250年に際して
 別子銅山が住友事業の根幹をなせる点に鑑み

斯山の沿革、斯業の推移について編纂し、記念事業の一つとするのであるが
 当初、本社はこれが正史を修定する意図を持っていたけど

あまりにも専門的になり過ぎるので
 史話として通俗的に記述して理解し易くしたようです

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巻頭の印版より
八、蘭塔婆並びに東延附近、舊別子製錬所および焼鑛竃


元禄時代から1916(大正5)年迄225年間に亘り
 別子銅山の中心として栄え、数千人が暮らした旧別子は

第四通洞が竣工して採鉱本部が東延から東平へ移転し
 全ての施設が旧別子から撤退しました

旧別子東延附近の焼竃跡の荒廃
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『旧別子の牛車道は・・・』

 探訪日2021年4月25日


植林によって濫伐と硫煙による荒瘠から見事に蘇った旧別子

 

明治27年に別子鉱山支配人となった伊庭貞剛は

 別子の荒れ果てた山々を見て

 

「別子全山をもとの青々とした姿にしてこれを大自然に還さねばならない」と強く心に決め

 別子山中や新居浜の製錬所から出る亜硫酸ガスによって

 

森林や農作物が枯れる煙害問題に対処する為、年間100万本を超える植林事業を進めた

 

廣瀨翁の後ち、伊庭翁の鑛業所支配人時代に、別子の林業に対する近代的施業案を立てて、着々その栽培に努め、次いで鈴木翁の之を承くるや、偶々明治三十二年未曽有の大水害に會し、その遠因の斯山永年の濫伐と、硫煙に因る山地の荒瘠にあるを痛感して、愈〃先人の意圖を継ぎ、これが大成を計るとともに、深く斯業の國家百年の長計に副ふべき事業たるを認識して、さらに大規模の計畫を樹立した。(19頁より)

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年々硫煙が沁み透って、焼け熟爛れたやうに赤い山肌を露はした巌山には、普通の造林のような樹種の栽植はなし得ず、落葉松のみが巌に根をおろして生育する可能性を持つのみである。しかも、やっと植え付けて3年ほども経つと枯れてしまふ。そのあとにまた植えると、先の落葉松の枯葉が巖の肌に残っていて、それが肥料となって新しい落葉松の根を培って呉れる。枯れる、また植える。月を積み、年を重ねて撓むことなき不断の営為に由って、遂に落葉松は生育し、始めは點々と、後には蒼々と、肅殺さながら死面のやうな石英片岩の傾斜面を、現に見るが如く一様に蓋ひつつあるのである。(21頁より)

初めて旧別子を訪れた時、落葉松(カラマツ)を見て四国にも群生してるんだと驚きましたが

 荒廃した山々を再び森に還すために植林されたものだったんだ(*'▽')

『旧別子史跡登山道 その1』

 探訪日2016年11月13日

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109ページより
別子銅山開坑時に西条藩の立川銅山は既に老山深鋪となり始めていたのに対し
 処女鉱山の別子側は露頭部近くの高品位な鉱石を採取し得た上に

鉱床は上図の様に北45度の傾斜を以て
 西北より東南へ斜めに落ちており、その大部分が別子側に偏っていました

開坑当時は知る由もありませんでしたが
 峰の南の鉱床が、立川鉱山の鉱床の延長であることが判って来るにしたがって

新参者の成功に対する反感と嫉妬が高まり対立を極めたそうな

開坑から4年後の元禄7年4月25日
 焼竃から出火した大火によって132人の焼死者を出し、坑場は焦土と化しました

この時、足谷の火が峰を越えて燃え移るのを防ぐ為に放った向い火によって
 命からがら峰まで駆け上がって逃げて来た者も無残な死を遂げたという

立川銅山として、よしそれが自衛のためであるとはいへ
 各多くの焼死者を出したことが、当時立川側の別子に対する反感と嫉妬の激しかったことに結びついて
 
後世立川銅山の放火説をさへ生むに至った

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住友家中興の祖① 四代友芳 

住友理兵衛友以の孫にあたる吉左衛門友芳の代には
 1691年に伊予の別子銅山の開堀に着手する

これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し
 重要な輸出品として日本を支えることとなると共に約280年にも亘って住友の重要な事業の柱となった

今日の住友家の基礎、住友財閥の出発点は
 この住友友芳が開発した別子銅山によって築き上げられたものであると言ってもよく
 
事実、住友家の歴史の中ではこの四世吉左衛門友芳をもって住友家中興の祖としている

広瀬宰平、伊庭貞剛、鈴木馬左也、鷲尾勘解治といった名前はよく聞きますが
 不徳にもこの友芳さんのことは知らんかったがね〜

初版 平成19年10月発行
新居浜商工会議所

とっておきの新居浜検定公式テキストブックにも載ってなかったがね

大坂に本店を移転した住友理兵衛友以(トモモチ)から銅精錬業での住友家の歴史が始まり
 その後を継いだ友信・友芳の代で本格的に鉱山経営に乗り出します

西国一と謳われた備中の吉岡銅山の採掘権を入手した後
 伊予国で発見された別子銅山はその後長く住友家の繁栄を支える事になります

破格の産銅量を誇った別子も元禄12年の250万斤(1500トン)をピークに漸減
 所謂、遠町深鋪(えんじょうふかじき)が当時の鉱山の宿命だった

薪や坑木のために周辺の木を伐り尽くしてしまうと、より遠くから木を運ばなければならなくなる
 また、鉱脈を深く掘れば掘るほど地下水が湧いて排水の手間がかかる

このように鉱山経営が長期間にわたると採掘のためのコストがかさみ事業として成り立たなくなってしまうのだ
 
吉岡銅山の場合はさらに深刻だった

疎水坑道掘削の大工事は成功し、一時は年間90万斤の産銅量があったが
 掘れば掘るほど水が出る状態で将来性は見込めなかった

友芳は江戸に下り、勘定奉行荻原重秀に吉岡銅山の請負を返上したいと願いでるが
 一度許したものを公儀の威光にかかわると荻原は難色を示した

実際のところは、幕府は外国商人に約束しただけの銅を確保できずに困っており
 吉岡銅山も老朽化した鉱山の再生をやむなく住友が引き受けたというのが実態だった

友芳はそれならばと、吉岡・別子両銅山の運転資金として1万両の拝借金と
 西国の天領から別子銅山の飯米6千石を10ヶ月延買いでの払下げを嘆願し、荻原は承知する

吉岡銅山は水抜き工事にかかる負担が大きく最終的に拝借金5千両を返上して閉山するのだが
 幕府から巧みに援助を引き出した友芳の交渉手腕はさすがだった

友芳は享保4年(1719)に50歳で没したが
 この友芳の代が江戸期における別子銅山と住友家の絶頂だった
 
以降、銅山とともに住友家も静かに衰退していく

元禄年間に1千万斤(6千トン)を超えた銅の輸出高は宝暦4年(1754)にはわずか270万斤にまで減少する
 銅山の老朽化による産出高の減少が原因だった

オランダ、中国との貿易の支払いに窮した幕府は銅座を大坂に設け
 そこで全国の銅を一元管理するようになる

全国の鉱山で掘り出され、精錬された銅は御用銅として銅座に納入され
 銅座役人がこれを長崎会所に廻送し、貿易の決済に充てるのである

別子銅山は全国の輸出高の4分の1にあたる72万斤の御用銅を割り当てられ幕末まで続く

ところが宝暦以降幕末までの別子の産銅量は100万斤を超えることは滅多になく、せいぜい70万か80万斤がやっと

最大の原因はやはり地下水だった

鑿と槌の手掘りで100年近く掘り続けた坑道は深く狭くて排水は困難を極めた
 一時長崎出島のオランダ商館から蘭方水引道具(ポンプ)を導入したが、坑道の狭さの為さほど効果はなかった

ついに予算5千2百両、6か年計画で大水抜開鑿工事を断行
 だがこれも吉岡銅山と同じく根本的な解決にはならなかった

経営上のもう一つの問題は幕府から購入する6千石の飯米
 幕末になり米価が騰貴しそれに連動して買取価格も上がっていたが、銅の買上代金は据え置かれた

売上が上がらないのに経費だけが増えていく
 そうなるといつの時代でも最後の手段は人件費削減だった

住友もやむなくこれを断行したが、
 そうすると現場で命懸けて働く鉱夫たちから怨嗟の声が上がる

天保十年(1839)には、御用銅の40万斤への減額と飯米の代金の支払い延期を幕府に嘆願しており
 住友の経営がそれだけ苦境に陥っていた証拠である

さらに住友を悩ませたのが御用金

幕末になると幕府も手許不如意で、事あるごとに富商たちに御用金を命じた
 住友に余裕はなかったが断ることもできない

このような事情で幕末の住友は経営的に苦境に立ち
 いっそ別子銅山の請負を返上しようという声も挙がる

そんな多難な最中に第11代当主友訓(トモクニ)が、元治元年(1864)11月に24歳の若さで世を去り、しかも子どもが無かった

この元治元年は日本にとっても多難な年で
 6月に新選組が池田屋を襲撃し、7月には長州勤王党が報復のため京都御所を襲い敗れた(禁門の変)

この後、第1次長州征伐で幕府に屈服した長州藩は
 坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、第2次長州征伐では逆に幕府軍を打ち破った

このように時代が大きく動いている時期に住友家では当主が不在になり
 番頭たちが連日対策を協議したが意見は分かれ纏まらない

この住友家崩壊の危機に忽然と現れた男
 
それが広瀬宰平である

広瀬は11歳で別子銅山に奉公し、以来銅山一筋で叩き上げてきた男だった

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少しばかり、話を急ぎ過ぎたやうである

時は元禄15年、第4代当主友芳君の時代まで戻ります(^_^;)

住友家が元禄十五年三月以降、幕命を以て西條藩より開設を差許された新道路は、前年に出願せる路線に若干の変更を加へ、西赤石、上兜の両山の間を縫える樵徑を取りひろげて、西赤石の山腹を回って石ヶ山丈に出で、そこより立川山村渡瀬へ下り、新居濱浦に至るもので、此の年八月には渡瀬に中宿を設け、新居濱に口屋を建てた。(139頁より)

この新道路の紹介の中に最初に記した「岩屋」の文面が載っている

この新道路の石ヶ山丈から立川中宿までのルートは
 4月18日の牛車道の再訪で発見した古道こそ、この第2次泉屋道ではなかろうか!

『2週連続で牛車道探訪w』

 探訪日2021年4月18日

 
この記事の中では「ひょっとして第2次泉屋道だったりして」と冗談めかして書いてますが・・・
 探訪を重ねるうちに、この古道こそ岩屋に通じる47年間使われた第2次仲持道との思いが強くなりました

牛車道が一通り終了したら改めて紹介したいと思います(;^_^A
 

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この新道路により、従来の小箱越(第1次泉屋道)に依る大回りの不利不便を免れる事が出来たけど
 

道路が他藩の領分であり、立川銅山が他の銅山師の請負である限りは
 住友の経営にも幕府の鉱業政策遂行の上にも徹底を期し難きは当然との事と

元禄11年12月に川之江代官山本與惣右衛門は夙にこの点に着目し
 西條藩に替地を与えて立川山村その他を幕領に収めむことを幕府に進言
 

友芳君も立川銅山請負の願意を上申する

幕府として、もちろんその趣旨に異議無きも
 これが実施には諸般の影響を伴ふため、相当考慮を払へるものの如く
 

友芳君が産銅増額につき、親しく萩原勘定奉行の諮問に答へたる翌年、すなはち元禄16年に至りて


幕府は先づ立川銅山を別子同様おのが支配下に移すと同時に
 両銅山の薪炭に要する山林、出銅運搬路等に関係ある村々をも幕領に収むるに決し

 

西條藩および宇摩郡津根陣屋一柳直增候にその旨を伝へ
 翌宝永元年中に悉皆その手続きを了したとあり

西條藩に対して、幕府は新居郡下の大永山、種子川山、立川山、両角野、新須賀の5個村を公収して、その替地に宇摩郡内の幕領蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中ノ庄、上分、金川の八個村を与へ、次いで寛永三年に宇摩郡の津根、野田両村を替地として、同郡上野村を幕府の領地とし、さらに後ち一柳直增候に対して、さきに上野村の替地として与えたる津根五千石を公収するため、播州美嚢郡高木五千石に移封したのである。(145頁より)

この文では元禄16年(1703年)に立川銅山を支配下に移し
 薪炭に要する山林、出銅運搬路等に関係ある村々も幕領に収むるに決し


翌宝永元年(1704年)中に手続きを終了したとある

とすれば
 「雲ヶ原を越えて岩屋を通る第2次泉屋道は元禄15年(1702年)ヨリ寛延2年(1749年)迄ノ旧道」で


「銅山越の第3次泉屋道は寛延2年ヨリ明治14年迄ノ運搬路」となっていますが


ここより条件の良い銅山越の第3次泉屋道が
 宝永元年より仲持道として使われるはずで


第2次泉屋道が仲持道として実際に使用されたのは2年未満という事になるけど・・・

なにぶん300年も前の歴史を

 現在より当時に近い80年前に最も身近な住友本社により著された本の内容に対して


素人の私が浅い知識で意見することは憚られますが

この文章のくだりから

 第2次仲持道としての雲ヶ原越ルートは存在しなかったとの説が登場したのかな?

いずれにしても泉屋道(仲持道)としてこのルートを計画し完成した事は文中からも確実で
 立川中宿から石ヶ山丈を経て種子川造林道に似たコースを以て雲ヶ原に向かったものと思います

 

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西條藩領界標石 伊予三島市教育委員会
 「西條誌」によれば、西条藩は領内の境界を示す標石を19本も建てている。この標石は、寒川村と具定村の境に建てられたもので『これより西 西條領』と書いてある。
 幕府は、元禄11年(1698)旧宇摩郡のうち三島村など18か村を今治藩に与えた。次いで宝永元年(1704)別子銅山を開発するため、銅山の周辺の西條藩の領地を取り上げ、代替地に中ノ庄・寒川・上分・金川・長田・小林・蕪崎などを西條藩に与えた。それ以来、旧宇摩郡の村々は下図のように、天領・今治領・西條領に分かれてしまった。西條藩では藩の境をはっきりさせるため、このような標石をたてたのである。
明治になって藩が廃止されたのち、この標石はもとの寒川村役場にあったが、役場が取り壊され見捨てられ土に埋もれていた。平成2年、東寒川地区財産管理委員会及び地元の皆様のご協力により復元されたものである。(説明文より)

西條藩領界標石と巨木(2本) 四国中央市寒川町

市街地では巨木と共生出来ない世の中に・・・(◞‸◟)
 この2本の樹も昨年夏に主幹を落とされてしまいました

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今年の4月18日、2度目の牛車道探訪で古道を発見しました

 (詳細は現時点では未投稿 (^◇^;))

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この古道は2019年の正月に未発見に終わった

 地形図上で種子川山三角点から龍河神社方面に下る破線の道ではないかと・・・

『第3次仲持道と上部鉄道⑤ 石ヶ山丈から龍河神社へ』

 探訪日 2019年1月1日

 

尾根上の牛車道分岐まで辿ってみると

 まさにその道で現在の地形図上の道とはズレており

 

この古道は明治13年に竣工した九十九折の牛車道を真直ぐ突き抜けてた

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GPSトラックログを見ると古道が牛車道を突き抜けていることから
 明治13年に竣工した牛車道より前から存在したと考えられる
 

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第2次泉屋道のルートを推測してみました(橙色のライン)

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さてさて


時代を超えて存続する企業の条件は何か

経営理念、技術革新、環境の変化に対応する柔軟さ等

 様々なものが挙げられるけど、結局は人に尽きる

人材がいてこそ経営理念が伝えられ、技術革新と変化への対応も可能になる
 いくら創業者が傑出していても2代目以降に優秀な人材が続かなければ没落してしまう

では、住友さんの場合はどうだったのか

住友政友と蘇我理右衛門の義兄弟の契りから始まった住友家は
 理右衛門が「南蛮吹き」という銀銅吹き分けの新技術を会得し銅精錬業で成功を収め

2代目の住友理兵衛は父の築いた基盤をさらに発展させ
 大坂に本店と吹き所(精錬所)を移し、外国との銅貿易にも参入して巨富を築く

3代目の友信、4代目の友芳は鉱山経営に乗り出し
 これによって採掘、精錬、販売に至る銅ビジネスのすべてを掌中に収めた

特に別子銅山の発見は莫大な利益をもたらした

住友は他の豪商とは異なり、銅事業を事業の中核に据え、金融業に距離を置いてきた
 それは家祖政友の「浮利に走らず」という遺訓を忠実に守ったからである

しかし時代が下るにつれて逆にそれが足かせになっていく

鉱山の採掘が進むに従い大量の終了の地下水が湧出し
 さしもの別子の産銅量も幕末には最盛期の3分の1以下になった

だが銅ビジネスにこだわり続けた経営陣は、有効な対策を打ち出せなかった

さらにそこに明治維新という歴史上の大変動が訪れる

もしそこで広瀬宰平という男が現れなかったら住友の歴史は終わっていたかもしれない

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今回はとても長くなり、読み辛くて申し訳ないです

 ここで前半の終了 現在約五合目です(≧◇≦)

フゥ…ε-ヾ(´ε`;)ゝ休憩

2回に分ければ良かったのですが…m(__)m
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住友家中興の祖② 広瀬宰平

 

広瀬宰平は明治初期に没落寸前にあった住友家を建て直し、住友財閥成立の基盤をつくった人物である

 住友財閥のいわば中興の祖である


広瀬は文政11年(1828)5月、近江国八州村(現・滋賀県野洲郡中主町)で医師北脇理三郎の二男として生まれた

 父の弟・治右衛門は若い時に住友に勤め、後に別子銅山支配人になった人物である
 
この叔父によって九歳の時、別子銅山に連れて来られ11歳で勘定場の給仕となり

 27歳の時に結婚して翌年、住友家主人・住友吉次郎友視の推薦で元浅草出店支配人・広瀬義右衛門家に夫婦養子となって入る

 

30歳で広瀬家の家督を相続し、32歳で別子銅山吹方役頭

 慶応元年(1865)9月、37歳で同山の総支配人となる異例の抜擢を受ける
 
別子銅山は住友家が元禄4年(1691)に開坑して以来住友家の屋台骨であり

 幕府の保護育成によって産出額は元禄16年には年間1,460トンと最高を記録した

 

以後は毎年減り続けて最盛期の4分の1以下に落ち込んでいた

 しかし、この間、国内屈指の銅山として住友家は銅精錬と銅貿易によって富豪の地位を築き上げる
 
広瀬が別子銅山の総支配人となると同時に住友300年の歴史の中で最大の存亡の危機が訪れる

 

それまで別子銅山への払い下げ米は年8千3百石が幕府から割り当てられ

 その代金は翌年納入する御用鋼の代金から支払うのが慣例で、170年にわたって続けられてきました

 

ところがこの年幕府は長州征伐の軍費調達のため財政緊急策を打ち出し

 元禄以来続けてきた払い下げ米を突然中止してしまう

 

当時、別子では約3,800人が働いており、1年間で1万2千石の米を必要としており忽ち困窮する
 
困り果てた広瀬や住友家当主らは幕府方に米の払い下げを必死に嘆願するが

 倒幕派と戦っていた幕府はそれどころではなかった

 

2年後にやっとそれまでの3分の2の6千石の払い下げが認められたが

 米価は大幅にバネ上がり住友家は一大ピンチに陥いります
 

別子銅山の坑夫たちの配給米は減らされ、価格は2倍になり窮乏の淵に

 慶応3年(1867)5月、坑夫による大暴動が起こり、山は3ヵ月にわたって閉山した

 

坑夫たちは荒れ狂い、押しかけて役員や支配人に乱暴を働くものが続出

 難を逃れて山を下りる役員もいたが、広瀬は毒殺の危険も顧みず

 

敢然とこれに立ち向かい説得し、暴徒を鎮圧し難局をきり抜ける
 
明治維新とともに更に決定的な危機が襲ってきた

 

大政奉還、王政復古に続いて慶応4年1月に鳥羽伏見の戦いが起こり

 高松、松山両藩が朝敵とみなされ、土佐藩によって攻め落とされた
 

明治元年二月八日、土佐の藩士川田氏川ノ江の陣屋を領し、我が別子鑛山の事業を押へ、新居濱なる旧支店の米廩を封ず。此の時一旦事を誤らば我が鑛業の前途如何に變ぜんも計り知るべからず。宰平憂慮措く能はず、川田氏就き、夜を徹して事業場の利害を討議し、遂に川田氏をして余が忠実なる議論を容れしむるに至れり。蓋し別子の鑛業は久來我が住友家一家の事業なるも、幕府の御用を蒙り居りしに因り、維新騒擾の際、幕府の事業と思ひ誤り、土佐藩より手を下すに至りしなり。(253頁より)

 
今に殘れる川之江陣屋趾
 
 此の時、奉行が川田であつたのは、實に天佑といつてよかつた。彼れは土佐郡杓田村の出、夙に睡慧敏を以て本山村の庄屋から擢られて藩士に列し、近代産業に對する先達揃いの土州においても、嶄として頭角を現はしてゐた。川之江に來つたのは三十三の壯齢で、名を元右衛門といつたが、後ち小一郎と改めて大岩埼の三菱の創業に参畫し、晩年日本銀行総裁として財界を率いた程の人物だけに、一見して義右衛門の材器を織り、その論旨に耳を傾けて、言はむとするところを盡くさしめた。
 義右衛門(廣瀨宰平)もまた、川田が尋常一様の武辨でないのを見て、いたく知己の感にうたれ、稼業継続の承認を受来ると共に、幕府以来の払い下げ米を此の際支給に太政官より蕒下げられたき旨、情理を盡して懇請した。(256-257頁より)


新政府の命令によって土佐藩兵の一隊が別子銅山を占領し

 既に1ヵ月前には大阪の住友家本店の銅蔵なども差し押さえられていた

 

広瀬は早速、隊長の川田小一郎(後の日銀総裁)に会って

 夜を徹して住友の別子銅山の開坑以来の200年の苦難の歴史を説く
 

議論をもって嘆願し、

 「銅山経営は住友家の事業であること」、「別子を差し押さえると国家の損害になること」など詳々と説いた
 
広瀬は胆力と才知を兼ね備えた人物であり、

 その堂々の弁論によって深い理解と同情をもって話を聞いた川田は心が動かされる

 

川田は広瀬の協力者となって、大阪の太政官当てに別子銅山の差し押さえ解除の陳情に同行してくれる

 

広瀬は必死に陳情、交渉を繰り返し、そのかいあって、

 3カ月後に岩倉具視が解除を認め、別子銅山は何とか接収をまぬがれ、住友家のものとなったのである

 

この時、新政府は同時に生野銀山や佐渡金山など全国の鉱山を差し押さえたが、

 元のまま民営が認められたのは別子銅山だけであった
 
徳川時代に繁栄していたり、幕府と緊密であった大商人の大半は明治維新になって没落し

 何とか生き延びたのは、三井、住友ぐらいしかなかった

 

しかし、別子銅山の接収は免れたものの、住友家の危機はまだ去ってはいなかった
 
別子銅山の産出量は年々減る一方で

 山は暴動や騒動がたえず住友家の財政も大赤字

 

家財道具を担保にして約千両を借金し

 やっと別子に送金している四苦八苦の状態

 

住友家の逼迫は限界に近く、「銅山を売り払って本家を救え……」と

 10万両で別子銅山を売却する話が進み、役員の殆どがやむなしの態度

 

あとは広瀬を承諾させる為に最後の会議が開かれた
 
「住友百年の計を思えば、手放すなどもっての外……」と広瀬はただ一人反対し

 「文明開化をむかえて今後、鋼の輸出は増加し、政府も銅山の振興に力を入れる

 

別子が潰れれば住友もなくなる

 何とかこの窮地を凌ぐしかない」と熱弁を振るう

 
重役全員が反対し、ただ一人住友家当主が広瀬に賛同して、からくも身売りは免れるが

 広瀬が全責任を負って再建に取り組むことを条件に思い止まったのである
 
広瀬は給金を返上して、再建するまで家に帰らぬ覚悟で私財も投げ打ち別子銅山の大改革に取り組むことになる


太鼓を合図に就労する時間制や、住宅の年賦制を取り入れるなど労務関係を大幅に改善し

 予算制度、棲立金制度を導入、欧米の最新技術を取り入れる


明治6年(1873)にはフランスから鉱山技師のコワニーを招き

 鑿とタガネによる旧式な採掘法を改善して、ダイナマイトの使用、大型ポンプ、鉱山鉄道の導入、硫酸の企業化、湿式精錬法などの最新鋭の鉱山技術を大幅に取り入れる

 

「東延時代」の東延
 

  

山根の湿式製錬所


明治7年3月には、広瀬はフランス人の鉱山技師ルイ・ラロックを招き、銅山の抜本的な改革に取り組み

 ラロックには住友随一という広瀬の月給の6倍を与える
 
ラロックは全山の地質調査を行い、縦坑道の開掘、道路と運搬鉄道の敷設、洋式精練所の建設、洋式機械整備など近代化計画を提出したが、広瀬は70万円という巨費を投じてこれを実行する

 

工事は明治9年に着工され、28年に完成し

 この結果、別子の産銅量は9年は130万斤(一斤は600グラム)、18年は200万斤、23年には337万斤と飛躍的に増加し、住友財閥の繁栄の基礎が固まった
 

ラロックは前後2篇より成る別子銅山目論見所を完成して大任を果たす

 

「目論見書」の内容は

一、坑間の施設、すなはち坑道の開掘に関するもの

二、運搬上の施設、道路の建設、および鐵道布設に関するもの

三、製錬上の施設、熔解所の設置および之に要する煉瓦製造等に関するもの

四、採鑛上の施設、鑛石粉砕機その他洋式新機械器具の整備に関するもの

以上四つに分類され、その一より三に至る各施設中、最も刮目すべきは東延より傾斜に沿い一大斜坑を開掘してこれに数段の支坑道を連絡せしめ、別子全山の採鑛作業および鑛石運搬に画期的革新を齎すと共に一大製錬所を金子川に建設して、当時の別子山内の製錬所と、さきに大阪より移転せる立川中宿の製錬所とを統合統一し、金子川と別子との間に完全なる新運搬路を開いて、別子に於いて採取せる鑛石を、悉くここに搬入、処理せむとする一大設計案であつた。(310頁より)

 

ラロック、フレッシウイルの技師の案を広瀬宰平自身が突き合わせて

 牛車道、東延斜坑、第一隧道(第一通洞)の順で各その大工事に着手する

 

これらの大工事において特に異とすべきは、一人の外国技師の指揮監督をもうけずに、悉く邦人の営為に依って始められ、且つ最後まで遣り遂げたことであつた (325頁より)

 

牛車道はラロックの設計通りにすれば

 勾配は極めて緩やかになり車馬の通行には適するも

 

延長13里半余に渉り、物資の運搬に長時間を要する為

 迂回線を廃し勾配を急にして7里餘に短縮した

 

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 さきに總理廣瀨が外遊中、特に実施の必要を痛感した鑛山専用鉄道は、二十三年より翌年の春にかけて線路敷設地の実測並びに工事設計を終わり、二十四年の五月に端出場、惣開間六哩四十鎖の敷設工事を起こし、次いで二十五年五月より角石原、石ヶ山丈間三哩三十五鎖を同様起工した。最初急施の予定を立てながら斯く遷延したのは、後者は明治十一十二年の頃開通せる車道の下方に当たり、屈曲百三十三回におよぶ険峻の岨路であつたのと、前者は沿道の村民達が耕作中の田畑を使用せねばならぬのでその交渉に時日を要した為と謂われる。

 二十六年五月先づ端出場惣開間の竣工を見、次いで同年十二月に角石原石ヶ山丈間を竣工した。両社ともに二十八封度レール単線、軌間二尺六寸、機関車自重十噸で、速度八哩の時における牽引力は、前者は三十五噸、後者は十二噸であつた。(372-373頁)

 

先づ弟地で吹いた粗銅、および別子本鋪、東延鋪など別子において真吹にかけられた粗銅は、複線鉄軌による馬車に積載して第一隧道を北口の角石原へ搬出され、ここで処理せられた焼鑛と共に右の上部鉄道に依って石ヶ山丈駅に着き、ここより複式空架索道(明治24年4月竣工)によって山麓の端出場まで、斜距離五千二百尺、高低差二千二百四十三尺を一気に下降し、次いで端出場から惣開まで下部線に積まれて新居濱製錬所に達するのであるから、別子新居濱間の運輸はここに一貫して全然面目を革めると共に、之によつて後來製錬の中心を漸次新居濱に移すことにしたのである。(374頁)

 

国鉄新居浜駅が1921(大正10)年に誕生して今年で100年

 

新居浜では別子鉱山鉄道の上部線と下部線がそれより28年も早くに開業し

 鉱石や旅客の輸送を行なってました

 

上部鉄道は採掘場所の下部移行に伴って明治44年に廃止されますが

 下部鉄道は1977(昭和52)年まで運行されました

『探訪 別子鉱山鉄道下部線跡』

 探訪日 2017年3月26日

 

端出場石ヶ山丈間複式空架索道

 

かく鑛山専用鉄道の開通と、複式自動索道の布設とに依り、大別子の地上運搬機関が全面的に整備せられ、さらに東延斜坑も近く八番坑道へ貫通せむとして坑内採鑛の作業いよいよ活況を呈するにおよび、明治二十七年一月、銅山積年の大懸案たる第三隧道(第三通洞)開鑿の本鎚工事を起した。(375頁)
 
 
当時別子における採鑛業場は、専ら一番乃至五番坑道を中心として、底部は八番坑道以下におよんでゐたが、第三通洞の貫通に伴ひ、斯く運搬施設の整へる結果、以来三番坑道以上の堀場於いて採掘せる鑛石は、東延斜坑内の大巻揚機にて一番坑道に引き上げ、都間符より出づる鑛石と共に、角石原選鑛場へ送つてその処理を終わるや、上部鉄道および索道によつて下部鉄道終点、端出場に搬出し、また四番坑道以下のそれは自動機またはシュートにて八番坑道へ出だし、電車により東平選鑛場に運搬して処理すると共に、新設の自動架空複式索道にてこれを下部鉄道黒石へ送り、両者いづれも鉄道によつて新居濱へ、それよりさらに海上和船を以て四阪島製錬所に廻送されることとなり、選鑛ならびにその輸送系統に一段の進歩を見たのである。(414-415頁)
 
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明治10年(1877)、広瀬は住友の初代総理事となる

 

広瀬の声望は大阪の財界に広く知れ渡り

 明治11年には五代友厚とともに大阪商工会議所、大阪株式取引所などを設立し、その副頭取に就任

 

このほかにも大阪製鋼会社(明治14年)、大阪商船会社(同17年)などの設立にもかかわるなど関西財界のリーダーとして活躍する

  

別子銅山開坑二百年にあたる明冶23年には盛大な記念祭を行い

 別子の銅で制作した楠木正成の銅像を献上し宮城前広場に建てられました

 

住友家に55年間仕えた広瀬は、明治維新に住友家の存亡の危機を見事に救い

 別子銅山の建て直しによって住友財閥の発展の基盤を固め

 

明治27年に自らの甥にあたる伊庭貞剛に総理事をバトンタッチし、以後、住友を去って神戸・須磨に隠棲
 

広瀬は明治17年に住友家に仕えて以来半世紀に及ぶ自らの人生を振り返った自伝『半生物語』(住友修史室、1895年刊)を刊行し

 大正3年(1914)1月、85歳で亡くなった

 

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第四通洞入口
 
轉じてこの時代における坑外の新施設として、曩に大竪坑および第四通洞に依り、採鑛新運搬路の別子山麓に貫通されたるに伴ひ、大正八年二月以来、在来の東平選鑛場の外に、端出場第四通洞坑外において仮選鑛場を新設し、第十番坑道以下の鑛石の一部を大竪坑に依り第十四番坑道に下送し、此処にて粗鑛の大割および手選別を行うに至つたことが挙げられる。従ってそれ以来、既設の東平選鑛場は専ら十番坑道以上の鑛石処理に当たる事となつたが、東平においては翌大正九年九月、新たに比重選鑛の一部として粉鉱選鑛場を、また十一年三月には同じく粒鉱選鑛場を核増設し、さらに大正十四年九月、東平選鑛場の設備の一部を、角野町大字立川山字中尻に移転して現在の端出場選鑛場の建設に着手し、なお同年四月には豫ねて建設中の新居濱星越選鑛場の竣成を告げたるを以て、翌十五年九月東平選鑛場における前記比重選鑛設備を此処に移転したのである。(428頁)
 

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煙害および「煙害問題」

 

 製錬所を遠く陸地より隔絶し、四面環海の島にさへ移せば、煙害および之に伴ふ謂はゆる煙害問題は即時解決するものと監督官廳も、専門学者も斯業者も、地方人も、技師も農民も、すべて直接間接煙害なるものに関心をもつ有らゆる人々は、一様にかく思ひかく信じてゐた。-四阪島の煙突より放出せらるる煙は、陸地に達するまでに海上の大気中に拡散消滅してしまふであらう-、これが四阪島移転以前、および移転当時、我が國官民一般の煙害除去に対する考察の結論であった。

 しかし、かうした「結論」が冷酷なる事実の前に崩れゆく日が、あまりにも早く来た。(462頁より)

 

明治12(1879)年5月1日、伊庭貞剛は大阪本店支配人に就任し

 廣瀬宰平の片腕として住友家の事業や、財界活動に活躍していたが

 

明治26(1893)年5月頃から新居浜では

 製錬所の亜硫酸ガスが農作物を枯らす煙害が発生し、同年9月には農民暴動となる

 

廣瀬宰平の進退問題とも絡んで別子の騒動は暗雲を呈していた

また伊庭は荒廃した別子の山々を見て

 「別子全山を旧(もと)のあをあをとした姿にして、之を大自然にかへさねばならない」と山林保護の方針を立てた

 

まず、亜硫酸ガス発生の原因となる別子山中での焼鉱や製錬を止め

 早急に薪炭を石炭燃料に代替しなければならない

 

しかしそうすれば、新居浜の惣開製錬所を拡張する必要が生じ、平野部での被害が深刻化する

 かといって、このまま何もしなければ、別子の山も新居浜も煙害によって人心ともども荒廃してしまう

 

補償や慰撫といった手段では根本的解決にはならない

 まして大自然はそのようなことでは復旧しないと判断した伊庭は

 

山でも平野でもない、その影響の最も少ないところに製錬所を移す決断を下すことになる


明治28(1895)年11月、伊庭は新居浜沖約20キロにある四阪島をその候補地とし、秘密裏に自分名義で買い取った

 

12月1日、伊庭は、政府に四阪島製錬所の建設願を提出したが

 これを機に隣接町村の製錬所誘致運動が起こった

 

また翌年3月には、住友を引退していた広瀬宰平が

①煙害以外の損害にも目を向けるべきこと

②社会資本の整った新居浜から無人島に移転することは、費用の面、地域社会との信義上問題があること

③莫大な移転費用は、むしろ損害賠償に充てるべきこと

④移転は損害を拡大する可能性がある旨を忠告している

広瀬の忠告は、当時の経営者として常識的で

 水の出ない無人島に工場や港湾設備を建設し

 

社宅・学校・病院など社会資本を整備することは、はたから見ると「馬鹿な仕事」かもしれなかった

 

しかし、伊庭には将来別子の鉱石がなくなっても

 鉱石を買って製錬する買鉱製錬には、同島が便利という判断もあった

 

伊庭はひたすら将来を信じて他の言に惑わされず、四阪島への移転を断行する一方

 専門技師を雇い山林計画を策定、植林事業を敢行する

明治27(1894)年、伊庭の別子支配人就任まで毎年平均6万本に満たなかった植林本数は、毎年100万本を超えるようになった

 

明治38(1905)年11月には、鉱毒水を国領川水系に流さないよう、海抜750メートルの第三通洞から新居浜の海岸まで、全長16キロに及ぶ煉瓦製の坑水路を築造し、鉱毒を中和処理する収銅所を設けている

 

明治30(1897)年2月8日、着工された四阪島製錬所は、ようやく38年1月から操業を開始した

 当初の起業費は50万円余であったが、着工時には91万円余に、完成時には173万円余に膨張

 

この金額は別子鉱山純利益の2年分に相当する

 

伊庭の別子赴任前後から明治38年まで投資された起業資金は462万円余に達したが

 彼は四阪島への移転・植林・坑水路などの環境対策にその約半分を使い切ったのである

明治38(1905)年1月、四阪島製錬所が操業を開始すると

 煙害は予想に反して周辺部に拡大して大きな社会問題となった

 

廣瀬の不安は思わぬかたちで的中したのである

 

田中正造もいうように「予期せぬ被害」というのが20世紀初頭の公害問題であった

 

伊庭は製錬所の落成に際し「これぞ吾精神を凝して 勇断せし最後の事業也」と述べて20世紀の課題に果敢に挑戦したのである

 

しかし、四阪島製錬所の煙害問題解決は

 昭和14(1939)年、亜硫酸ガスの中和脱硫に成功するまで実に34年の歳月を要することになる


伊庭は生前に煙害解決の快挙を見届けられなかった

 

しかし彼は事業というものには絶えず現実問題がつきまとうが

 そうした現実に拘泥せず、理想という大きなビジョンを忘れてはならないと語っている


ちょうど100年前、田中正造は「住友ハ、山ヲ以テ之ヲ子々孫々ニ伝ヘテ、之ヲ宝ニシテ置クト云フノデアル」と演説した

 晩年の伊庭はよみがえった緑を見て、別子の植林こそが「わしの、ほんたうの事業」と述べている

 

今世紀の環境問題を先取りした重い言葉である
 

 

ペテルゼン式硫酸製造工場内の一部

 

斯くして大正初期以降、従来の通り操業場各種の制限を厳守しつつ煙害の軽減を計る一方、さらに積極的にその除外の根本的方策として鑛煙中の亜硫酸ガスを処理し、直接硫酸に転化する方法の研究を進めるとともに、硫黄分多き硫化鑛を選別して他に売却し、その焼滓を鎔錬することによって処理硫黄量を減少するに務め、逐年その効果を増大したことは、既に前章に記した通りである。殊に亜硫酸ガスの処理法については、大正十四年五月グリナワルト焼結工場の操業開始後、焼結爐よりの排ガス処理の爲め曩に大正十二年に改良せられたるペテルゼン式造酸装置を採用し、之が建設をなすに際しては、その創案者ペテルゼン博士を獨逸より聘して之に当らしめ、昭和四年七月に硫酸工場第一期工事を竣成、翌五月五日には、さらに之を拡張して転炉排ガス処理に及ぼし第二工場を建設して、夫々操業を開始したのである。しかもこのペテルゼン式硫酸製造設備は、当時僅かに獨逸および露西亜において試験の域を脱せざる小規模の工場を見るのみであつたことに思ひあわせ、世界に率先して斯く大規模の工場を建設した、この一事に徴するお煙害除去に対し、いかに住友が誠心を傾け、真摯なる態度を以て蒞んだかを察知するに余りあらう。(488頁より)

 
幸いにして昭和十三年七月以降、「中和工場」の竣工に依り、煙害の根本原因を完全に絶滅すると共に、既往三十有六年間、被害農民の為にし来れる住友家の誠意は、やうやくにして四郡代表者を動かし、謂はゆる煙害問題をも一切解決するの日は遂に来た。昭和十四年十二月十四日のことである。あたかも夫れは別子開坑二百五十年といふ、われら住友人はもちろん、広く本邦鑛業界にとつて、永遠に記念さるべき年を迎へむとする直前に相当するのであった。(497頁より)

 

1929年にペテルゼン式硫酸製造装置を導入することによって

 鎔鉱炉排煙中の亜硫酸ガス濃度は0.2%以下に激減する

 

僅かに残る亜硫酸ガスを完全に除去するためにアンモニア水を以て之を中和し

 亜硫酸ガスの全部を亜硫酸アンモニア溶液として回収することに成功します

 

文中にあったように中和工場が竣工したのは1939(昭和14)年12月14日

 記念すべき別子開坑二百五十年の前年の事でした

 

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最初に買った古書に切り取られたページがあってショック

 

もう一冊買ってコピーして補修しましたが

 2冊になっちゃった(^^;)

 

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長くなりましたが最後までご覧いただきまして有難うございました

 

では、またバイバイ

 

現代に息づく、住友の精神