丑年だった令和3年は、丑年生まれという事もあって

 別子銅山の近代化に大きく貢献した牛車道を辿るべし!

 

という、天からの啓示を聞いたような気がして…(笑)  

 

昨春に4回に亘りチャレンジして紹介して来たけど

 思うように捗らず、遂に年を跨いでしまったぜよ(;^_^A

 

丑年\(^o^)/オワタ

 

長々とアメブロにアップして、

 ご迷惑をおかけし続けましたが

 

それも今日まで

 遂に念願の最終回となりました

  

偏にお立ち寄り下さいました皆様方の御蔭と感謝しております

 

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こんにちは ∠(`・ω・´)

 お立ち寄り下さり、有難うございます

 

前回の「もしかして幻の第二次泉屋(仲持)道?」から続きます

 

 

2021年4月18日、幻の第二次泉屋道かも知れない古道から

 龍河神社を経て県道47号新居浜別子山線まで降りて来ました

 

元中央公論の編集長で、処女作「時刻表2万キロ」を初め

 鉄道紀行を文学の一ジャンルにまで広められた宮脇俊三氏

 

晩年には廃線跡探訪という

 これまで注目されることのなかった鉄道趣味を世に知らしめましたが

 

宮脇氏が最後に廃線跡探訪に訪れたのが住友鉱山鉄道の下部鉄道でした

 

平成13年12月4日(火曜日)

 「新道のバス停で車を降り、足谷川に架かる吊り橋を渡り、人家を抜け、急坂を登ると・・・」

と書かれてたのが昨日の事のようです

 

黒石駅から物言嶽トンネル、

 この2km余りが宮脇氏が歩いた最後の廃線跡となりました

この近辺には足谷川に吊り橋が2本架かっており、
 其々、温泉口と新道のバス停から吊り橋へと繋がってて
 
宮脇氏が渡った古い吊り橋は、
 これから渡る橋で、車屋橋と呼ばれています

 

年を跨ぐ、久々の別子銅山記事だったので、ちょっと戻り過ぎたみたい!

 そうだ、下部鉄道の軌道跡に到達した所からでした(;^ω^)

 

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別子鉱山鉄道は、海岸の新居浜と別子銅山の南麓を結ぶ輸送経路を確立するため、

 1893(明治26)年に建設された上部鉄道と下部鉄道からなる鉄道で、2つの鉄道の高低差680mを索道で結んでいました


下部鉄道は端出場(打除駅)から製錬所のある山根•惣開(新居浜)までの10.3kmを繋ぎ端出場-惣開間を約40分かけて走ってた

 

昭和4年には地方鉄道となり、旅客輸送も始め

 昭和11年には新居浜港線、昭和17年には国鉄新居浜駅との連絡線が増設されました

 

昭和25年には電化され、電気機関車は部品を日立製作所から購入、牽引力増強の為、別子鉱業所工作課で自社製作されました。 

 

しかし、バスの普及により昭和30年1月には元の専用鉄道に戻りました

 

廃線跡を端出場方面へと進むと

 装入庫の遺構が残る黒石駅の広い構内跡が現れます

下部鉄道が敷設された1893(明治26)年当初は、 

 端出場(打除)駅、板ノ元駅、土橋駅、惣開駅で黒石駅は設置されていませんでした

 

その後新居浜の工場地帯の発展により、

 1929(昭和4)年、別子鉱山鉄道が専用鉄道から地方鉄道に切り替えられたことにより

 

一般にも利用されるようになり、その際、(新)端出場駅、黒石駅、山根駅、星越駅が新設されたと思われます

⦅黒石駅は東平-黒石索道と鉄道を繋ぐ拠点として1905(明治38)年に既に設置されていた⦆

明治26年開通当初、黒石に駅はありませんでしたが、明治38年に東平~黒石間に索道が作られて、黒石駅が誕生

 特に上部鉄道が廃止された明治44年から、索道が新端出場へ移される昭和10年までの間に、黒石駅は鉱石運搬の拠点として活躍したと考えられます

 

 また黒石駅は、別子銅山の支山であった新居郡大保木村の西之川鉱山や、新居郡加茂村の基安鉱山の鉱石(手選精鉱)を昭和32年まで受け入れておりました

 

東平黒石索道の完成が明治38年で

 上部鉄道と石ヶ山丈-打除間の索道の廃止が明治44年

 

黒石駅の完成は索道の完成と同時であったことから

 明治38年から44年の6年間は2つの索道が併存する形になっていたと思われます

 

明治44年に上部鉄道と石ヶ山丈-打除間の索道が廃止され

 黒石ルートに一本化されると黒石駅は別子銅山を支える大動脈となります

 

昭和10年、向平の新端出場に完成した東平-端出場索道に統合され、黒石駅の隆盛期は終わりますが

 

明治22年に住友に買収された西之川鉱山からの、

 下津池-黒石「西之川索道」による鉱石や

 

昭和18年に住友に買収された基安鉱山からの、

 枝折-下津池「基黒索道」による鉱石も加わって

 

戦中戦後を通じ、規模こそ縮小されたものの、

 索道と鉄道を結ぶ基地としての命脈を保ち続けます

 

昭和32年、基安鉱山からの鉱石搬出は、

 枝折からの日通トラック輸送に切り替えられ、基黒索道廃止

 

その2年後の1959(昭和34)年、

 合理化という嵐の中で、黒石駅は廃止されました

 

別子銅山産業遺産の残存状況について pdf

~新居浜市端出場周辺~

1893(明治26)年から鉱石の運搬経路は、上部鉄道と石ケ山丈~端出場間の索道を経由して下部鉄道に搬出されていたが、1902(明治35)年、第三通洞(東平坑口~東延斜坑底間)の開通に伴い、輸送路の充実を図るために1905(明治38)年に東平~黒石駅(3,575m)にドイツ人の索道技師ブライヘルトにより自動複式索道が設置された。途中、新道と六号の2箇所に中継所が設置され、押し出し作業による中継ぎがされていた。新道の中継所跡の煉瓦造りの建物は今も残っている。その後、1935(昭和10)年には距離を短縮して東平~端出場間(2,717m)とした。東平~端出場間の索道には、26基の支柱が立ち、80器ほどの搬器が吊るされて分速150mで回転していた。同年に太平坑~東平間(1,312m)の索道が完成し、嶺北に搬出された鉱石も東平の索道基地に下りていた。
 索道では鉱石を輸送するだけでなく、物、生活品、木材なども輸送していた。

以上、新居浜南高HPより

 

1905(明治38)年に現在のマイントピアのある向平を飛び越えて
 東平から黒石まで索道が作られたのは
 
向平の造成が出来てなかった為で、
 第四通洞は1910(明治3)年に開鑿に着手して、1915(大正4)年に貫通し、通洞の延長は4,596m

 
そのズリで順次向平を埋め立て造成して端出場地区を作った様です
 
その端出場に選鉱場、貯鉱庫を作り、
 1935(昭和10)年に索道も黒石駅から端出場に切り替えるのですが
 
東平-黒石索道の直下に、新しく端出場索道場を設けて
 ルート変更をすることなく、2,717mに短縮した東平-端出場索道に切り替えております
 
何故、石ヶ山丈からの索道場だった打除駅(旧端出場)ではなく、
 遠方の黒石駅と結んだのかと疑問に思ってましたが
 
明治38年に既に、
 30年後の昭和10年の切り替えを想定したルートを選定していたと考えられ
 
常に10年先を見通すと云われてる住友さんですが、この先見性には驚くばかり
 

この地形図に新牛車道が載ってるけど・・・

 そななんあったの知らんかった

 

伊藤玉男・山川静雄両氏による「別子銅山端出場を探る 2」の

 旧端出場駅・第四通洞と新端出場地形の項によると

複式と単式の索道が架せられて大半の物品は索道によって運ばれたが、なかには索道では運べない長尺物や重量物があって、それらはなお牛車に頼らねばならなかった。そのうえ、明治35年から東平開発起業がはじまり、そこまでの物資の運搬は端出場-石ヶ山丈-一本松駅-東平と大きく迂回するルートであった。従って、36年頃から上げ荷が急増したので、牛車道は再度頻繁に使われるようになった。だから、第四通洞前の高い石垣は牛車道のために築かれたという事になる

 

やはり、牛車は残されてたのだ!

 上部鉄道の蒸気機関車も分解して牛車で運んだんやね

 

第四通洞の掘削がはじまると、順調にゆけば一日当たり40㎥ものズリが搬出されることになるから、造成地即ちズリ捨場をまず確保しておかねばならない。そのためには表面の石積は川石を使うとしても、裏込めの土は山土を掘ってモッコで担いで埋めてゆくなどより、坑道を掘って、そのズリで埋め立てた方が何倍も効率的だし、地盤も山土よりはるかに安定する。そのような見地からすると、向平の地形は大竪坑、第四通洞起業案が提起された時点で、もう既に下拵えが始まっていたように思われる。
 
採鉱場も更に下部へと移行し、
 鉱石の搬出は第三通洞から第四通洞に移り、
 
1930(昭和5)年には、
 採鉱本部が第三通洞のある東平から第四通洞のある端出場へ移転する
 
その後、筏津下部に向けて、
 延長5,100mの探鉱通洞が1935(昭和10)年から開鑿され、
 
1942(昭和17)年に貫通し、
 全長10,000mの大通洞となり筏津坑の操業にも大きく貢献する
 

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黒石駅跡から端出場方面に向かって歩いていると
 途中からギリシャ神殿の柱の様な物が沢山建ってる
 

下部鉄道が1977(昭和52)年に廃止されるまでは

 坑内排水路は山側に高架で続いてたみたいで、坑水路用桁のようです

下部鉄道を端出場へ向かう電車から撮った写真(1970年頃)にも写ってる

 コンクリートの坑水路用桁の上に乗ってる水路は木製なのかな?

 

コンクリートアーチ橋の檜尾川橋が見えてきました

 

最初は暗渠として造られていましたが、1899(明治32)年8月の別子大水害で流出し、I形鋼を使って鉄橋として復旧

 下部鉄道が1929(昭和4)年に地方鉄道に切り替わり、一般も利用することになったことで、1931(昭和6)年コンクリートアーチ橋として架け直されました

 

橋上でも坑水路は高架のまま続いてます

檜尾川橋を渡ると切通しが一直線に続いてる

 

切通の先は端出場跡ですが

 現在はマイントピア別子端出場ゾーンとなっており

 

柵が設置されてて、ここから先へは進めません

ここから下部鉄道は右へカーブして

 中尾トンネル、打除鉄橋を渡り打除駅へと続いてた

 

左へ進むと地方鉄道時代に使われたホームのある端出場駅

 さらに奥には鉱石を貨車に積み込んだ選鉱場へと続いてた

 

旧端出場の打除駅へと続く下部鉄道の元からの路線は

 早くからレールが撤去されたのか、下の写真には線路が写って無い

 

 

 

別子銅山は1973年の閉山で鉱石列車の運転は終了しますが

 その後も隔日2往復の砕石列車が運転されてたそうな

 

これも1976年秋の台風被害で運休となり

 1977年1月31日に廃止され、84年間の歴史を閉じました

 

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さて、時刻は15時37分になりました

 

ここから下部鉄道跡を内宮神社隣の山根収銅所まで折り返して

 内宮神社参道前から牛車道を辿り、パジェロデポ地点まで戻りたいと思います

先ほど、辿った黒石駅までは快速で通過しますw

 

 

牛車道からこちら側を眺めた時に見えた白い擁壁

 

この辺りは渡瀬と呼ばれる場所

 昭和51年9月の台風17号で土砂が崩落して運休となり、

 

別子銅山閉山後だった為か、

 下部鉄道は復旧しないまま翌年1月に廃止になります

崩落場所を越えると、すぐトンネルに入ります
 
このトンネルは落石防止のために造られた車屋トンネル

 

 

下部鉄道から立川中宿方面

 今朝辿った牛車道がよく見える

 

檜尾川橋とともに明治32年の別子大水害で流された眼鏡橋(不朽橋)は

 現在グランドになってる立川分店前に架かってた

朝一番の往路でも

 ここまで上って来ましたが…

 

物言嶽トンネルが見えてきた

 ここから牛車道へ降りる事も出来ますが

 

このまま廃線跡を山根収銅所まで辿ります

 

物言嶽トンネルの端出場側坑口から足谷川上流を眺める之図

1893(明治26)年に造られた物言嶽トンネルは煉瓦造りで

 蒸気機関車時代の煤と、直流600Vの電化鉄道時代の碍子が残ってました

 

物言嶽トンネルも落石防止目的で作られたそうな

 

端出場方面に向かって坑口を出る電気機関車

 

下部鉄道の4つのトンネルと打除鉄橋は

 鉄道関係の設計技師だった小川東吾の設計によるもので

 

建造されて既に約130年も経つ現在も

 煉瓦をしっかりと積んだ重厚な姿を残し

 

明治期を生きた人々の息吹きが伝わって来る

 

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山根製錬所は1886(明治19)年に着工し、1888(明治21)年に現在の山根グランドの辺りに建設されました
そして、工場横の生子山の斜面に約60mの煙道を設け、山頂に約18mの赤煉瓦造りの煙突を立てました
1890(明治23)年には塩化焙焼法(フント・ダグラス法)による湿式製錬に着手しています。また同年には廣瀬宰平の考えにより、製鉄試験係も設置されるなど、山根製錬所は新規有望事業として拡張過程にありました。
ここを通っていた住友鉱山鉄道下部線には、この製錬所の人員・資材の輸送基地として板ノ元駅が設置されていたほどでした。
しかし、煙突から出る亜硫酸ガスによって、付近一帯の農作物に被害を与える様になりました。
 
その後、1896(明治28)年に煙害と硫酸需要不振により、山根製錬所は廃止されることになり、
 下部鉄道の板ノ元駅も僅か1年9ヶ月で廃止されました
 
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住友共同電力(株)山根発電所

鹿森ダムに溜めた水を使って発電しています

 

下部鉄道跡は内宮神社の境内を通ります

内宮神社の参道は2本あって、

 北側の参道は太鼓台の登る参道になってます

 

この参道から北側を見下すと山根収銅所があった

 

山根収銅所は、1905(明治38)年に建設され、
 別子銅山休山後の現在も稼働しています
 
 坑内排水は山に降った雨が地中にしみ込み、鉱石に触れることによって、銅や鉄などの重金属を含む水になります。特に銅成分はそのまま河川に放流すると環境に影響を及ぼすため、取り除く必要があります。  
 銅成分を除くには、イオン化傾向の原理で鉄と触れさせることにより、銅イオンと鉄イオンの置換により、 鉄の表面に銅が付着することで行います。 
 
坑内排水と鉄の触れる時間を多くするため、水路をジグザグの構造にし、狭い範囲で長い距離を稼ぐ工夫をし、その水路に鉄のスクラップを入れることによって銅成分を取り除きます。坑内排水は、上方から下方まで流れるのに2~5時間程度かけて浄化していきます。
 
別子銅山内の坑内排水は、全て第四通洞に集約されます。坑水路は、第四通洞から山根収銅所まで約3.4km、更に磯浦まで約6.4kmの総延長約10kmに達します。 ところで、開坑当時の坑内排水の水素イオン濃度は、第四通洞口ではpH3.2~3.3とレモン汁の少し強いくらいの酸性でした。そこで、石灰を入れて中和処理もしていました。現在では、普通の水と同じくらいのpH7.3となっています。

山根収銅所は、鉄のスクラップを入れたトイ式置換槽とスギの葉を生け垣状に並べた箱式沈足槽を交互に組み合わせた構造で

第四通洞から排出される毎分3トンの坑水は、坑水路を通って山根収銅所に流され、銅が取り除かれます
 
坑水に溶けている銅イオンは、イオン化傾向の違いから鉄をイオン化して、鉄の表面に銅が析出する
 
この作用により、坑水中の銅を分離・除去して無害化します
 
 

山根収銅所で銅を除かれた排水は、再び下部鉄道跡の坑水路を通り、星越の選鉱所で水質チェック後、瀬戸内海に放流されます

 

 

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内宮神社の参道を横切り端出場へ向かう電車

 

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太鼓台の登る参道を降り、国領川沿いの牛車道へ

立川万徳山大師堂
 御本尊は弘法大師
 

石段の上から国領川(足谷川)上流方面

 

中央を横切る橋桁は松山自動車道

 この手前にパジェロをデポしてます

 

1834年、銅山の松井武衛門が瑞応寺に頼んで開山
 国領川の脇にあり、石段の上と下に大師堂があります

 

9時50分に出発して16時40分に戻って来ました

 

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2021年4月18日

本日の探訪は牛車道の前回の未踏破区間と

 幻の第二次泉屋道と思しき古道を尾根の牛車道分岐まで辿り

 

帰り道で県道から足谷川対岸に渡って

 下部鉄道の廃線跡(端出場-山根収銅所)を経て

 

パジェロデポ地点へ戻り

 所要時間は6時間50分で17.48kmの探訪でした

 

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4月18日のGPSトラックログ

 

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4月11日、18日、25日と3週連続で別子銅山を探訪

 一連のテーマは牛車道キラキラ

 

25日には咲き始めたアケボノツツジを見ることも出来ました

 

兜岩から満開のアケボノツツジを眺めたいと

 翌週も訪ねる予定でしたが

 

犬の具合が悪くて、あらためて5月9日に再チャレンジ

 

合計4回に亘る探訪を短期間に記事を纏める能力は無く

 時系列に投稿できませんでした

 

時系列に並べるとこうなります(;^_^A

1. はじめに 

2. 4月11日 ②・⑪・⑫・⑬・⑭・⑮

3. 4月18日 ③・⑯・⑰・⑱・⑲

4.4月25日 ④・⑤・⑥

5. 5月 9日 ⑦・⑧・⑨・⑩


長くなりましたが

 最後までご覧頂きましてありがとうございました

 

では、またバイバイ

 

おしまい(≧▽≦)

 

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