2021年4月25日、東平を起点に
上部鉄道(住友鉱山鉄道上部線)の一本松駅跡を経由して兜岩から西赤石山に登り
稜線を西へ下り、銅山峰の鞍部、銅山越に至りました
時刻は14時23分、日照時間も少し長くなり
旧別子と東平までの下山道は迷うところも無いので
まだ4時間位は十分歩けそう
ご訪問頂きましてありがとうございます(≧∇≦)/
前回の「兜岩・西赤石から銅山越へ」から続きます
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・
2016年11月に初めて旧別子史跡登山道を歩きました
旧別子を訪れるのはその時以来の5年振りです
前回寄り損ねたのが大和間符と大露頭
元禄4年の開坑時から残る歴史ある坑道と大露頭
開坑当時は、先ず山師が地表に現れている鉱石を探す(露頭探査)
銅鉱石の場合は赤黒く変色しており、腕利きの山師は、
その色や形状から鉱石の良否を判定していたそうな
この露頭は峰の巣焼けなので、上等の鉱石と判定されたのだろうという事です
元禄4年(1691)の開坑と同時に開かれた古い坑口で原形をほぼ止めていると思われる貴重な遺跡である。開坑して3年目の元禄7年に峰の向う側の立川銅山から掘り進んでいた採掘場と大和間符の坑道が地中で抜け合った。立川銅山は西条藩の領地であったから鉱業権をめぐって大論争となった。
小さい方の坑口は2•3の銀切(60cm×90cm)と云って、水平坑道としては最も小さいものだが、先進坑道としては経済的であった。
古い時代の鉱山は先ず地表に現れている鉱石を見つけることから始まる。それを鉉探し(露頭探査)というが、それが銅鉱石の場合だと大抵赫黒く変色している。技利きの山師は、その色や形状から鉱石の良否を判定していた。この露頭はいわゆる峰の巣焼けなので、上等の鉱石と判定されたのであろう。
西赤石山より下ってきた稜線から見えた牛車道で緩い勾配で上っております
ここを反対方向の歓喜・歓東坑経由 日浦登山口方面へ下ります
この登山道は旧牛車道と表示されていますが、なんか変です
牛車道としては勾配がきつ過ぎ、階段状になってる
背中から「騙されたらあかんで!」という声が聞こえて来たw
今回はうしろの百太郎ならぬ近江牛の牛使いさんが憑いとるけんね~(笑)
うしろの百太郎 つのだじろう
もぉ〜知っとる人おらんかもね(^^;)
わたしゃ怖くて、よぉ読まんかったぜよ!w
如何に従順な近江牛とはいえ、こんな急勾配の坂道を
重い荷を牽いて登れるハズがありません
この辺りの牛車道は、もっと九十九折(つづらおり)に緩い勾配で続いていた筈で
登山道として使っているうちにショートカットされたと考えられます
眼下の小高い山の頂に見える石囲いが蘭塔婆
1694(元禄7)年の大火災では132名の焼死者を出し、設備の大半も焼失しました
泉屋(住友の前身)ではその犠牲者を手厚く葬り、一祠を建てて供養したのが蘭塔婆で、
以来、職に殉じた御霊を合祠し、盆供養を欠かしたことが無いそうな
眼下に見える岩山の石囲いが蘭塔場である。後ろの谷間には木方役所があって、その左の斜面では無数の焼窯が年中白煙を吐き、右の山側には吹方(製錬関係者)の住宅が重なる様に建っていた。その手前の森が勘場で、下方の林の中には日出度町があった。開坑以来銅山の心臓部として繁栄した。然し、銅山の繁栄には尊い生命の代償があった。中でも元禄7年(1694)に発生した大火災は、山方の元締であった杉本助七をはじめ132名にのぼる焼死者を出し、設備の大半が焼失するという大惨事であった。泉屋ではその犠牲者を手厚く葬り、一祠を建てて供養したのが蘭塔場で、以来、職に殉じた御霊を合祠し、盆供養を欠かしたことはない。
※蘭塔法要
旧別子蘭塔法要: 毎年、住友金属鉱山㈱をはじめ住友関係者が登山し、盆供養が行われている。
瑞応寺蘭塔法要: 瑞応寺境内に移された墓碑の前で、住友金属鉱山㈱関係者による盆供養が毎年行われている。
旧別子蘭塔法要: 毎年、住友金属鉱山㈱をはじめ住友関係者が登山し、盆供養が行われている。
瑞応寺蘭塔法要: 瑞応寺境内に移された墓碑の前で、住友金属鉱山㈱関係者による盆供養が毎年行われている。
牛車道を下っていくと、第三次仲持道と合流しますが…
はて、さて?
牛車道は何処へ続いていたのか・・・
第三次仲持道と交差して、等高線に沿った緩い右カーブを描いていたのだろうか?
しばらく自然な線形を追って森の中を探索(迷走)しました
角石原から標高1,300mの銅山峰を越えて目出度町の重任局の銅蔵に至る牛車道は
交通の隘路で開通当初から短縮が求められていたようです
牛車道の開通から2年後(明治15年)には、第一通洞の開削に着手し、
火薬などの効果もあって予定よりも早い1886(明治19)年に貫通します
第三次仲持道は人道として使用され続けますが
角石原-目出度町間の牛車道は登山道として利用されている区間を除いて
135年前(明治19年)より辿る者は無く、完全に藪に埋もれてしまったと考えられます
これから先、目出度町へと続く痕跡も発見出来なかったのでここに降りることに・・・
この広場は歓東間符と歓喜間符前で、これ等の坑道の上を彷徨っていたのでしたw
別子本鋪(標高1,210m)
本鋪とは一山の主たる生産坑のことである。元禄4年5月9日、幕府の稼行許可を得て、泉屋は直ちに開坑の準備に取りかかった。その時点で、この谷間を利用して、掘り出した鉱石から銅を摘り出すまでの工程を組み込むために、ここに中心となる坑道を開けることにした。前年の秋に初めて調査にやって来た泉屋の番頭田向重右衛門が下した決断であった。かくして別子山中に最初に開いた坑口がこの歓喜間符と歓東間符である。重右衛門が考えた通り、以来明治になって東延斜坑が主たる生産坑になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。背後の平坦地には鋪方役所があって、負夫によって運び出された鉱石は重さを計って買い取り、砕女小屋へと運ばれた。
上方一帯、ヒノキの木立の中には、山方と呼ばれる坑夫の住宅が並んでいた。
※現在も稼行許可の日に大山積神社(新居浜市角野新田町)にて、在浜住友連系各社による例大祭が斎行されている。
本鋪とは一山の主たる生産坑のことである。元禄4年5月9日、幕府の稼行許可を得て、泉屋は直ちに開坑の準備に取りかかった。その時点で、この谷間を利用して、掘り出した鉱石から銅を摘り出すまでの工程を組み込むために、ここに中心となる坑道を開けることにした。前年の秋に初めて調査にやって来た泉屋の番頭田向重右衛門が下した決断であった。かくして別子山中に最初に開いた坑口がこの歓喜間符と歓東間符である。重右衛門が考えた通り、以来明治になって東延斜坑が主たる生産坑になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。背後の平坦地には鋪方役所があって、負夫によって運び出された鉱石は重さを計って買い取り、砕女小屋へと運ばれた。
上方一帯、ヒノキの木立の中には、山方と呼ばれる坑夫の住宅が並んでいた。
※現在も稼行許可の日に大山積神社(新居浜市角野新田町)にて、在浜住友連系各社による例大祭が斎行されている。
別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道であり、工都新居浜発展の礎となった場所!
牛車道の終点だった重任局の銅蔵前の永久橋(栄久橋)のあった目出度町へ向かいます
目出度町鉱山街入口
ここから足谷川の源流(風呂屋谷)を渡り、蘭塔場の裾を廻って土持谷を過ぎると広大な平坦地に出る。今そこは深い森の中だが、かっては別子銅山の中枢で勘場という大きな建物があった。大阪の泉屋本店から派遣された支配人や手代衆が多数詰めていた。また、勘場には銅倉や食料庫・資材庫・来客接待所などが附属していて、その周辺は厳重な柵が廻らされていた。
勘場の下の方はいわゆる目出度町という商店街で、今日のデパートにあたる伊予屋を始め料亭一心楼、饅頭の奥定商店等々軒を連ね、さらに郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった
ここから足谷川の源流(風呂屋谷)を渡り、蘭塔場の裾を廻って土持谷を過ぎると広大な平坦地に出る。今そこは深い森の中だが、かっては別子銅山の中枢で勘場という大きな建物があった。大阪の泉屋本店から派遣された支配人や手代衆が多数詰めていた。また、勘場には銅倉や食料庫・資材庫・来客接待所などが附属していて、その周辺は厳重な柵が廻らされていた。
勘場の下の方はいわゆる目出度町という商店街で、今日のデパートにあたる伊予屋を始め料亭一心楼、饅頭の奥定商店等々軒を連ね、さらに郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった
兜岩から休憩をとっていないので
蘭塔婆の山の上で休憩にしようかな
分岐を右に折れて目出度町へ向かいます
②現状は樹木に覆われ、完全に自然に還っておりますが
蘭塔婆は目出度町にある小高い山の上に
平べったい石をコノ字型に積み上げた塀で囲まれており
この山の周辺には、当時目出度町(めったまち)と呼ばれる鉱山街が広がっておりました
蘭塔婆
東平から兜岩・西赤石山を経て、
ここまで11.35km、時刻は15時20分
兜岩に次いで2度目の休憩ですが
水分を補給しようと思ったら、
2本携帯していたペットボトル(500ml)の残り一本が何処で落としたのか無くなってる~
10分程度、蘭塔婆で休憩しましたが・・・
水分摂れないまま蘭塔婆を下り、目出度街へ
写真撮り忘れたけど・・・(^^;)
蘭塔婆の登り口から永久橋跡までは牛車道の痕跡がありました
大山積神社跡は前に来たときは鬱蒼とした森の中だったけど
背後の住友共電の送電線の下の木々が伐採されて明るくなってる
明治25年の火災で焼失するまでは、ここに重任局があり
ここの銅蔵から牛車で運び出していました
重任局と大山積神社
元禄7年(1694)の大火の後、歓喜問符の隣にあった勘場がここに移され、明治12年に重任局と改称された。明治25年の火災で焼失するまでは銅山の指令所として重要な位置を占めていた。火災のあと重任局は木方に移ったが、その跡は元禄4年より銅山の鎮護の神として奉られていた大山積神社が、対岸の延喜の端から遷座した。また、モミの大木の向う側には別子山村役場があって村の行政もここで執行されていた。
左の広場には住友新座敷と言う来客接待所があったが、大山積神社の遷座と同時に、その跡が相撲場となり、5月の山神祭には大いに賑わった。
下方一帯は目出度町で商店の他に料亭や郵便局・小学校なども軒を並べ、対岸の一段高い所には住友病院もあった
元禄7年(1694)の大火の後、歓喜問符の隣にあった勘場がここに移され、明治12年に重任局と改称された。明治25年の火災で焼失するまでは銅山の指令所として重要な位置を占めていた。火災のあと重任局は木方に移ったが、その跡は元禄4年より銅山の鎮護の神として奉られていた大山積神社が、対岸の延喜の端から遷座した。また、モミの大木の向う側には別子山村役場があって村の行政もここで執行されていた。
左の広場には住友新座敷と言う来客接待所があったが、大山積神社の遷座と同時に、その跡が相撲場となり、5月の山神祭には大いに賑わった。
下方一帯は目出度町で商店の他に料亭や郵便局・小学校なども軒を並べ、対岸の一段高い所には住友病院もあった
蘭塔婆からここまで0.97km
銅山越より日浦登山口の方が近くになっちゃった
時刻は15時52分、微妙な時間になって来ました(^◇^;)
西赤石山以降で逢った人数は僅かに3人のみですが
この時間、周辺に人の気配は全くありません(^◇^;)
もうみんな下山してるよね〜
銅山越経由で東平へ向かいます
寛政谷を越えると石畳の道になります
日浦登山口から木方経由で銅山越までのルートは
よく整備されたハイキングコースとなっているので道迷い等の心配は無用かな
寛政谷を過ぎると、縁起(延喜)の端と呼ばれる大山積神社がかつて鎮座されていた小山がありますが
ここから銅山峰方面の前山を撮った写真が掲示されています
前山と牛車道
正面に見える範囲を前山という。稜線の窪んだ所が銅山越で、そこから左に一条の線が見えるのは明治13年に造られた牛車道である。峠からジグザグに下った道が昔からの仲持道で沢山の人々が行き交っていた。その下のヒノキ林の中には歓喜・歓東間符があり、辺り一帯は山方集落といって鉱夫さんが住んでいた。更に手前の雑木林の中には江戸時代に砕女小屋という選鉱場があって、ひねもす選鉱婦の嬌声がこだましていた。更に手前の方は鍛冶屋谷集落といって、採鉱関係者の住居がひしめいていた。
左の山肌にかすかに見える横線は牛車道の跡で、重任局の銅蔵を出発した牛車が2日がかりで立川精銅所へ粗銅を運んでいた。
左の山肌にかすかに見える横線は牛車道の跡で、重任局の銅蔵を出発した牛車が2日がかりで立川精銅所へ粗銅を運んでいた。
明治時代の地図を参考に比較してみると
Aは西赤石から銅山峰へ下る稜線からも見えていた
前山の尾根を巻く牛車道で、
現在も銅山越から笹ヶ峰方面へ向かう登山道として利用されてる
その下のBのピンカーブに向かって降りてくる牛車道は
先ほど大露頭から第三次仲持道との合流点へ向けて下って来た道と思われます
この地図を見ると、
5つのピンカーブで前山の斜面を九十九折に蘭塔婆の北側まで降りて来ていた
そうとは露知らず
B地点から歓喜坑に向けて等高線に沿って緩やかな右カーブで下って来てると・・・
全くの見当違いの場所を彷徨ってた事が判明しました
この地図を参考に今回のGPSトラックログと重ねてみると・・・
青い線が今日歩いたGPSの軌跡です
①大露頭近くの階段状になってた牛車道はやはり3折れ短縮されておりました
歩いて利用するならこんなに大回りは出来ませんものね~
その気で調査すれば、
谷でもないので、崩落も少なく石積み等も残ってるのではないでしょうか
風呂屋谷に架かっていたもう一つの橋の橋台もあるはずです
銅山越から角石原までの牛車道も調べてみました
アバウトですが、こんな感じだったみたいです
それにしても、ずいぶんと大回り
第一通洞の開削を急いだのも頷けますね~
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・
話を戻しまして(;^_^A
目出度町で永久橋の写真を撮り忘れたので
もう一度目出度町の永久橋までピストンします💦
蘭塔婆山裾の道は牛車道の痕跡を留めておりました
牛車が通る為、しっかり作られた永久橋の橋台
前回訪れた時は栄久橋って表示されてました
蘭塔婆山
鉱山街だった頃、裸山だった蘭塔婆山は樹木が茂り ミツバツツジが彩を添えており、下から見上げても蘭塔婆は見えません
第三次仲持道に戻り、銅山越を目指します
銅山越のすぐ手前で牛車道と合流しますが、
往路で大露頭と大和間符へ寄った為に、ここから大露頭近くの分岐までの牛車道を今回歩けていません
あとでルートを確認する上でもGPSの軌跡は是非とも残しておきたいので
ここから大露頭近くまでの牛車道もピストンしてGPSトラックログを記録
銅山越(標高1,294m)
開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702)別子銅山の粗銅は、ここを越えて新居浜の大江の浜まで2日で運びだせる様になった。それまでは村の東はずれの小箱峠を越えて宇摩郡天満の浦まで2継3日もかかっていた。以来、明治19年に第一通洞が開通するまでの184年間、粗銅と共に山内に住む数千人の食糧も中持人夫に背負われてこの峠を往来した。
しかし、海抜1,300mもある銅山峰は、しばしば厳しい表情を見せ、風雪のため行き倒れた者もあった。峰の地蔵さんは三界万霊、その仏を伺ったものてある。その地蔵さんの縁日は旧暦8月24日であった。明治の頃には道筋には幟がはためき、横の舟窪には土俵があって子供相撲に歓声が湧いたという。
開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702)別子銅山の粗銅は、ここを越えて新居浜の大江の浜まで2日で運びだせる様になった。それまでは村の東はずれの小箱峠を越えて宇摩郡天満の浦まで2継3日もかかっていた。以来、明治19年に第一通洞が開通するまでの184年間、粗銅と共に山内に住む数千人の食糧も中持人夫に背負われてこの峠を往来した。
しかし、海抜1,300mもある銅山峰は、しばしば厳しい表情を見せ、風雪のため行き倒れた者もあった。峰の地蔵さんは三界万霊、その仏を伺ったものてある。その地蔵さんの縁日は旧暦8月24日であった。明治の頃には道筋には幟がはためき、横の舟窪には土俵があって子供相撲に歓声が湧いたという。
現在、アケボノツツジは高度1200mラインまでといった所かな
植林の中に煙をたなびかせる焼鉱炉の写真が掲示されています
辺りを見回すと斜面を一直線に駆け上がる石積みがありました
写真の中にあるインクライン跡でしょうか?
角石原選鉱場と焼鉱場
この辺りの開発が始まったのは明治時代になってからで、明治13年(1880)に銅山と立川中宿を結ぶ牛車道が完成し、この先の大地形は中継所となっていた。その後、明治15年になって第一通洞の開削が始まり、そのズリで斜面を埋め立て、やがてそれが鉄道用地へと展開していった。明治26年上部鉄道が完成した頃、新居浜で稼働していた惣開製錬所の煙害問題がエスカレートしたので、その対策として鉱石を山元で焙焼することにして、この辺り一面、谷底から山上に至るまで焼窯やストール式という焼鉱炉で硫黄を取り除いていた。
この辺りには選鉱場があり、第一通洞から出た鉱石を選別し、横のインクラインで焼鉱炉へ上げ下げしていた。
色々調べてみると、
都間符の鉱石を角石原選鉱場へトロッコと傾斜道(インクライン)を使用して運んだようであり
地図で表すと高度1150mの等高線に沿ってトロッコの軌道が敷かれ
インクラインで選鉱場まで下ろしていた
第三次仲持道から右手に見た石積みの傾斜道はこのインクラインと思われます
山村文化9号
別子銅山の遺跡 都間符 高橋幹氏
上部鉄道角石原駅跡の銅山峰ヒュッテ前を通って 第一通洞北口まで辿ります
別子の高橋で製錬された粗銅は、第一通洞を経由してここに運ばれ、角石原で処理した焼鉱と共に貨車に積み込まれて、上部鉄道にて5.5km先の石ヶ山丈まで運ばれた。そこからは索道で端出場まで下ろされ、更に下部鉄道で新居浜の惣開まで輸送されていた。鉄道は明治26年(1893)に敷設され、同44年まで近代化した鉱山の象徴として走り続けたが、第三通洞が貫通して東平地区が中継拠点となったことにより、明治44年に廃止した。現在の銅山峰ヒュッテが建つ辺りが駅舎であった。
現在、角野の大山積神社境内には当時活躍していたドイツのクラウス社製蒸気機関車が展示されている。
第一通洞(八丁マンプ)北口(標高1,100m)
別子銅山の近代化が進むにつれて産銅の増加と生産物資や食料の輸送量が増大し、明治13年(1880)には立川中宿まで牛車道をつけたが、1,300mの銅山越は交通の隘路で、輸送路の短縮が求められていた。そこで、ここ角石原と別子の東延谷をトンネルで結ぶ計画を立て、明治15年第一通洞の開削に着手した。幸いこの年からダイナマイトを使用したことにより、予定より早く明治19年に代々坑に貫通した。全長1,020mであった。
構内には軌道が敷かれ、人車や馬車によって輸送を行っていた。明治44年、運搬の機能が第三通洞に移って廃止されたが、以後は人道として一般にも共用されていた。
第一通洞内部
真っ暗な通洞内を1kmも歩くなんて怖いがね〜
上部鉄道の角石原駅は第一通洞の開削で出たズリで埋め立てられた斜面にありました
馬の背の別れから喜三谷方面へ太平坑の確認に向かいますが
上部鉄道角石原駅跡から水平道が続きます
幅も広くて石積みを施された道はトロッコの軌道跡でしょうか?
新太平坑の坑口は石積で塞がれていました
途中の沢で鉄のアングルが僅かに残る坑口らしきものがあったけど
案内板が付いてなかったので坑道ではないと思い、写真も撮らなかった
後で確認すると太平間符だった
喜三谷経由で東平へ至るルートは、ここまで踏み跡もしっかりあったので
よっぽどこのまま辿って、東平へ帰ろうかと思いましたが・・・
寛永谷からひとつ尾根を越えた喜三谷を通るルート
もし途中で通行不能で引き返したり、迷ったりしたら山中で夜を明かす事になります
いくら何でも、現在の時間を考えれば、折り返して馬の背ルートで下りねば(;^_^A
馬の背ルートへ戻る途中、谷側の斜面にトロッコが引っかかってる
別子銅山ではこういった遺物は殆ど見たことが無くて珍しいです
やはり、この標高1,100mの等高線に沿った道にはトロッコの軌道が敷かれていたのでしょうか?
ここにトロッコの軌道が敷かれていたという資料は発見できませんでしたが
この50m上の1,150mの等高線沿いには
都間符から角石原選鉱場のインクラインに続く
トロッコの軌道があったので
そこから転げ落ちて来た可能性も否定できません
「現存する都間符の坑口が大黒間符のそれに比べて大きいのは、・・・中略・・・採掘された鉱石はトロッコと傾斜道(インクライン)を使って角石原に運ばれていた。」
山村文化9号 別子銅山の遺跡 都間符
高橋幹 氏
太平間符は1906(明治39)年より開坑され
5年後の1911(明治45)年には上部鉄道が廃止されておりますが
太平・東平索道が出来るのは1935(昭和10)年なので
この間、どうやって鉱石を搬出していたのだろうか
別子山の鉱床は上部において北四十五度の傾斜を以て、西北より東南に斜めに落ちており
その大部分が別子側に偏っており、富鉱帯も走向に對して四十五度の傾斜をなして底部へ延びているそうな
元禄8年には立川方だった大黒坑(間符)と峰に近い大和坑(間符)の廻切夫が偶然坑道を抜きあって境界争いが勃発した
17時40分、馬の背分岐を通過
尾根を下る馬の背ルートへ
夕闇迫る植林の中を駆け下り、約20分で柳谷ルートと合流(標高871m)
18時17分、第三通洞前に無事下りてきました
第三通洞(標高744m)
第三通洞は東延斜坑の下底部にあった三角という別子鉱床の富鉱部を狙って明治27年(1894)に開削に着手した多目的坑道である。同35年に完成しことにより、坑内水の排出と通気問題が一挙に解決し、出鉱量も飛躍的に増加していった。更に、明治44年に別子山側に日浦通洞が貫けたことにより、東平と別子山日浦が全長3,990mのトンネルで結ばれ、別子鉱山の北と南を結ぶ動脈となった。更に鉱山では籠電車という鳥籠の様な人車を連結して一般にも開放したので、利用者が多くて特別に人車を増結することもあった。昭和48年、その籠電車も別子鉱山の終掘と同時に廃止された。
大マンブ横の登山者用臨時駐車場には車が一台も残ってなかった
勿論、一般駐車場にも誰もいない・・・
東平(とおなる)に一人ポッチで日が暮れる
あっ!わっせとった(訳:忘れていました)
うしろに牛使いさんが憑いとったんやぁ〜
コレって同行二人…
じゃないよね〜(^◇^;)
明治35年(1902)に第三通洞が貫通し、明治38年(1905)に東平の中央に新選鉱場が、東平~黒石駅間に索道が、新選鉱場から第三通洞を経て東延斜坑底に連絡する電気鉄道がそれぞれ完成した。大正5年(1916)には、採鉱本部が東延から東平(第三地区)に移転して、東平が採鉱拠点となる。
第三通洞から搬出された鉱石は、大マンブ、福井橋、小マンブを通って終点の新選鉱場に運ばれた。鉱石と岩石とに選別された鉱石は貯鉱庫に貯められ、順次索道で黒石駅に下ろされた。後には距離を短縮して黒石駅から端出場へと変更して下ろされ、四阪島製錬所に運ばれた。
貯鉱庫前から新居浜方面
小女郎川の谷越しに見える新居浜の街はまだ明るいけど
東平はもう薄暗くなりました
索道場から下部鉄道の黒石駅へ、後には手前の端出場まで距離を短縮して索道で鉱石が下ろされました
現在地は保安本部のちょうど正面辺り(笑)
今回も長くなりましたが、最後までご覧いただきましてありがとうございました
では、また
次回に続きます
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