こんにちは(*・∀・)ゞ

 

山笑う頃も終わり、青々と山滴る季節へと変わりゆく・・・

 

頃となりましたが、

 まだアケボノツツジの花弁が散らばる兜岩に居ますw

 

というか、取り残され感が半端無いですあせる

 

前回の「石ヶ山丈藪漕ぎ線?で兜岩へ」から続きます

 

 

昼食休憩後、12時40分に上部鉄道石ヶ山丈駅索道場跡を出発し

 初めての石ヶ山丈尾根ルートに取付きました

ボリュームがあって地形も変化に富んでいる

 と聞いていた石ヶ山丈の尾根ですが

 

何とかピンクのリボンに助けられて

 標高1516mの橄欖岩の上に立つことが出来ました

 

現在の時刻は15時15分ですが

 鹿森ダム登山口の県道47号線に19時迄に出ることを目指して下山開始

 

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上部鉄道跡の兜岩ルート分岐までの予定タイムは50分で

 16時05分に辿り着く予定ですが、少し遅れている様ですアセアセ

 

この鉄塔跡を越えるともうすぐ♪

 

さすがに勾配がきつくなると膝が痛みペースダウンもやもや

 

上部鉄道跡の上にほぼ平行に続いてる幻の牛車道を横切ります

 

探訪日:2018年6月3日

 

牛車道の上部鉄道跡と並走する区間を辿る酔狂な人も居らず

 この区間の牛車道がどの程度残っているのかは定かではない

(この区間を辿った資料は今まで見た事がありません)

 

元々の牛車道は現存する上部鉄道跡で

 牛車道を改良して鉄道を敷いたとの推論も可能で、私もそう考えます

 

10年余り輸送路として踏み固められた牛車道に鉄道を敷設する為

 牛車道の真上に新牛車道を造り、工事中の輸送路を確保するとともに

 

新牛車道から元の牛車道に資材等を降ろして搬入、短期間で鉄道工事を完了した(仮説)

 

石ヶ山丈分岐(JC)から新牛車道への取り付きも不明ですが

 将来、誰かが歴史の事実を解明する日がやって来るのでしょうか?

 

それとも埋もれゆく遺構と共に

 歴史の事実も埋もれてしまうのかな

 

ルイ・ラロックの詳細な設計図が発見されないかな〜

 

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16時14分、9分遅れで上部鉄道跡に入りました

 

旧別子の高橋で精錬された粗銅は、第一通洞を経由して角石原に運ばれ、

 ここで処理した焼鉱と共に貨車に積み込まれて、

 

上部鉄道にて5.5㎞先の石ヶ山丈駅まで運ばれます

 

石ヶ山丈駅から索道で打除駅へ下ろされ

 下部鉄道で新居浜の惣開まで輸送されました

 

これから辿る一本松駅跡までの水平道は

 1893(明治26)年から1911(明治44)年までの18年間

 

別子銅山の大動脈であったわけです

 

上部鉄道跡は蒸気機関車の走った軌道跡なので
 ここは膝の痛みも無く、快速運転でダイヤの回復を図ります(笑)

 

渡っても大丈夫そうな小さな橋台に架けられた仮橋

 

裏谷の谷側に積まれた立派な石積みが見えてきました

 

裏谷にも仮橋が架けれていますが
 今度は高いし朽ちてて今にも落ちそう滝汗
 
ロープが張られて迂回路が設定されてます

大きな石積みの上に煉瓦を積んで橋台を作ってます

 谷にもびっしりと石が敷き詰められて崩壊を防いでる

 

建設されたのが1893年で廃止されたのが1911年

 廃止されて既に110年以上経ってるけど橋台の遺構はしっかりしてる

 

思い出すと足が震えます滝汗

 今にも落ちそうなこの木製の仮橋

 

実は無謀にも5年前に渡ってしまったのでした煽りあせる

 

これより2年程前までは普通に渡れていたみたいですが

 2016年には迂回路が設定されていたようです

 

この時は市道河又-東平線が冬の通行止めで

 河又のゲートから歩いて東平経由で上部鉄道の探訪

 

裏谷へは初めて訪れたので積雪で迂回路には気付きませんでした

 

東平から上部鉄道跡に登り、一本松駅側からアクセスしたのですが

 こちら側にはロープが張られて無く、

 

雪の下にはアルミ板も見えていたので大丈夫かと渡ってしまいました

 

渡り終えるとロープが張られていたので

 え~!これムリやったんちゃうん驚き

 

裏谷を越えて次の橋が雪で渡れなかった場合

 戻って来なきゃならんけど、その時はまたこの橋を渡るんかいと思うと・・・

 

緊迫感が一気に高まりました注意

 

 

探訪日:2017年1月1日

 

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次の谷は七釜谷です

 

上部鉄道は、標高835mの石ヶ山丈停車場から、標高1100mの角石原停車場まで、
 最大傾斜18分の1、最小曲線半径 50呎(1呎フィート=約30.48cm)
 

全長5、532mの中に、橋梁が22箇所とカーブが112箇所あったそうな

煉瓦の遺構は何時眺めても心が落ち着きます

 

あらゆる所から芽を吹き、木々が成長して根を張り

 人造物である遺構を破壊して元の自然に還すのだろうけど

 

ゆっくりした時の流れとともに還流する

何度見返しても美しい石と煉瓦の橋台

 

七釜谷を越えると上部鉄道では珍しい直線区間が延びてます

 

といっても、峻険な山肌にこれだけの平地を確保する為に

 谷側にはもの凄い石積みを下から築き上げてます

 

上部鉄道の建設期間は僅か1年半

 5.5kmにわたってこれだけの構造物を短期間で築きあげたというのは

 

やはり牛車道を改良したという説の真実味が増します

 

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16時39分、一本松駅跡を通過します

 

16時25分の通過予定でしたが

 兜岩分岐の9分遅れから、さらに5分遅れて14分に拡大しました

一本松駅にも索道場があったの?
 
東平に採鉱本部が移る前、
  一本松駅から東平の小マンブ上のプールがあった場所に索道がひかれ
 
第三通洞の開削に必要な資材などを上部鉄道を経由して搬入しました
 

第三通洞の開削に当たって、

 未だ電気の通じてない東平ではペルトン水車で圧縮空気を作って削岩機を動かしたそうな

 

昭和26年の東平周辺の地図

 

この頃には上部鉄道跡には既にレールが無いので

 地図には載ってるけど一本松・東平索道もいつまで使われていたかは不明です

 

第三変電所建設の為の煉瓦も上部鉄道で一本松駅まで運ばれて索道で東平へ降ろされたそうな

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17時11分、第三広場通過

 予定より26分遅れてます(;^_^A

 

20分で降りてくる予定でしたが、32分要して12分遅れが拡大

 

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第三広場は1915(大正5)年から1930(昭和5)年まで

 採鉱本部があった場所で、かつては深い渓谷でした

 

100mにも及ぶ暗渠を築き、右の寛永谷と左の柳谷の流水を伏流させ、第三通洞の開削ズリを堆積して、通称第三広場と呼ばれている鉱業用地を造成しました

 

元禄時代の第三次泉屋道では此処に橋が架けられており

 「上の橋」または「蘭干橋」と呼ばれていたそうな

第三広場にある標識では

 「登山口まで約1時間」ってなってる

 

昭和38年に自動車道が出来るまで

 標高差400mのこの山道が生活道でした

 

登山口には1時間半って表示されてたけど・・・

 登りだからでしょうか?

 

私は1時間30分をみて、18時15分に登山口に至る予定だけど

 現時点で26分遅れなので18時41分には着けるだろうか?

小女郎川の右岸を下ります

 川底は果てしなく深いです

 

小女郎川の対岸には、東平の街が広がっていました

 

東平は、第三通洞の完成した1902(明治35)年に幕を開けます。さらに1916(大正5)年に別子山地区の東延から採鉱本部が移され最盛期を迎えます。最も多い時で人口約3、800名を数えました。 その後1930(昭和5)年に採鉱本部が端出場へと移されますが、昭和43年までの約67年間、別子銅山にとって重要な役割を果たし、この期間は『東平時代』と呼ばれます。

 

※追記 昭和元年の調査では5、813人が住んでいたそうな

 

 

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第3次泉屋道は小女郎川の右岸を下っていく

仲持道時代は「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた場所にペルトン橋が架かってる

 

ここにはペルトン水車があったらしい

 現在でもその石垣や排水口が残っているようです

 

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ペルトン橋を渡って左へ折れると

 辷坂の社宅の間を抜けて東平の中心地へ

 

ここから左へ進んだ記事↓

探訪日:2019年1月1日

 

右へ折れると小女郎川の左岸を下り、遠登志(オトシ)へ向かう東平道

 

この生活道は東平街道と呼ばれており

 昭和43年に東平が閉鎖になり、誰も居なくなると荒れ放題になりましたが

 

現在は登山道として利用されています

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東端索道からの落石除け
 

東平街道は生活道でしたが・・・

 

東平以前の江戸時代には人力(仲持)による

 第3次仲持道(泉屋道)として粗銅輸送の大動脈でもありました

 

東平時代になると、上部鉄道に代わる新たな輸送路として

 1905(明治38)年に東黒索道(3,575m)が完成し

 

この道と共に小女郎川の左岸を新道の索道場(中継所)まで通じてた

 

セリ割の石仏さん

 

ルート的に最短な、深くて険峻な谷沿いに

 岩を穿ち、深い谷から石垣を積み上げて道を通してる

 

1691(元禄4)年に別子銅山請負稼業が認可され採鉱が開始されますが

 それ以前から銅山峰の北側では西条藩の立川銅山が稼業してました

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新興の泉屋(住友)側の鉱脈が恵まれていたのに対して

 古くから稼業する西条藩の立川銅山側の鉱脈は限られていた

 

泉屋に対する立川側の反感が

 新来者の成功に対する嫉妬とともに湧き起こったことは想像に難くありません

 

泉屋は鉱石の運搬に銅山越(標高1,291m)北側の立川銅山内を通らせては貰えず

 遠く四国中央市の小箱(おばこ)越えまで大回りを余儀なくされ、土居町天満浦の港から船積されました(第1次泉屋道35km)

山村文化1号8ページ 泉屋道と立川銅山道筋より 第1次泉屋道

 

※伊藤玉男氏は、「元禄15(1702)年に別子-雲ヶ原-石ヶ山丈-立川山村渡瀬を経て新居浜浦に至るコースが許可され、別子から立川までの12kmを仲持で、立川から新居浜浦までの6kmを牛馬での輸送されたとする第2次泉屋道は実際には使用される事は無かった」とする説を提唱しておられ、一般に第3次泉屋道と云われているルートを第2次泉屋道と表記されておられます

 

幕府の仲介により1749(寛延2)年に立川銅山を合併

 第3次泉屋道で真っ直ぐ新居浜へ運び出す事が可能になりました

愛媛県生涯学習センター

データベース「えひめの記憶」別子銅山と泉屋道

 

この第3次泉屋道が立川銅山時代から使用されていたものなのか

 この山村文化1号の地図の如くに泉屋によって新しく別に作られたのか?

 

この辺の事情は私にはよくわかりませんが

 

いずれにしても元禄以前の江戸時代に

 この小女郎川の険峻な谷に輸送路が切り拓かれたとは驚きです

 

昭和16年発行の「別子開坑二百五十年史話」には以下の様な記述があります

 

「寛延2年12月に別子立川の両銅山ともに、住友家の一手稼となったその日から、たちまち目に見えてよくなったのは、産銅その他物資の運搬と上下の交通とであった。彼の元禄15年、おばこ越え9里の難路(第1次泉屋道)を廃して、西赤石、上兜中間を越え、石ヶ山丈を経て立川渡瀬へ出で、それより新居濱に達するおよそ4里半の路(第2次泉屋道)に改められたものが、此の時以来さらにニたびこれを改めて別子本舗よりただちに、まへよりも数百尺低い銅山峰を越え、立川銅山の本舗を俯瞰しつつ、角石原、馬の背を経、33曲がりの急坂を下って立川村、新居濱に至る約3里の路(第3次泉屋道)を使用することになったからである。」

「此路も可成り険峻ではあるが、距離が前よりも短縮され高さも減じただけに労力と経費を減ずると共に、運搬上の能率を高め得たので、明治13年別に車馬道を開通する迄は別子の運搬路に充てられた。」

別子開坑二百五十年史話 165頁より

 

 

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さて、さて
 
東平街道と並走する索道ですが
 
東端索道は1905(明治38)年7月の建設当初は
 東平~黒石間(3,575m)を繋いでいましたが、1935(昭和10)年に東平~端出場間(2,717m)に変更されました
 

東端索道は自動式といって、モーターを動力とせず、鉱石を降ろす自重で動かしており

 そのため、ブレーキをかけて調整することが必要だったそうな

 

東端索道のポストは26基あり、高いポストは30m余り、低い所は2~3m

 搬器の間隔は75m、搬器のスピードは秒速2.5m、一日の鉱石搬出量は900tでした

東平の索道基地の先に

 珍しい索道用のトンネル(迫割:せこわり)が見える

 

17時40分にセリ割の石仏を通過すると
 すぐ先に住友共電の鉄塔路があります
 
この鉄塔路を5分程登ると珍しい索道トンネルがあると聞いていた

鉄塔路を辿って登っていくと・・・

 

ありました飛び出すハート

 新道制動所側の坑口です

 

痛む膝を騙しつつ登った甲斐があったぞね

 

出来れば東平側の坑口も確認したかったですが・・・

 

さすがに時間も膝も限界です

 次回の楽しみに残シテオキマス

住友共電高薮西線の鉄塔路を下り、再び東平街道へ
 
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昭和30年代までは宇摩郡別子山村から他の市町村に出るにもこの東平街道を利用していたらしい
 
現在は県道47号の大永山トンネルや
 県道6号線・国道319号経由して四国中央市の法皇トンネルで瀬戸内海側に抜けれますが
 
昭和30年代に交通手段は無く、東平経由遠登志のルートで
 日浦から日浦通洞・第三通洞を籠電車に乗って抜け、東平から徒歩で東平街道を下ったそうな
 
因みに法皇トンネルの竣工は1960(昭和35)年で、
 道路トンネルとしては国内で4番目に長いトンネルだったそうな
 
大永山トンネルは1990(平成2)年に完成し
 県道9号主要地方道新居浜山城線が全通しました

崩落個所もありましたが、いい感じの登山道が谷沿いに続きます

 

東洋のマチュピチュへの電線も東平街道に沿っており

 電柱管理路?として、ある程度の補修はされるかも

 

ほんの数時間前に辿った石ヶ山丈の尾根が小女郎川越しに見える

 

尾根の下には急峻な地形を克服して

 牛車道、上部鉄道、旧端出場水力発電所の導水路といった輸送路が幾重にも横切ってる

 

別子銅山の近代化と共に変遷を遂げた輸送路の遺構が隠れてる

 

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東平街道脇に東端索道中継所の写真が掲示されてました

 

右手の谷側に索道の方向転換の為に中継所が設けられていました

今でも中継所の煉瓦の遺構を確認出来ます

新道の索道場の探訪は↓

探訪日:2019年1月1日

 

東平~端出場間は直線では無かったために

 途中で方向を少し変えてやる必要がありました

 

東端索道中継所(新道索道制動所)は

 索道のロープの方向を転換する役割を持っていました

 

この場所から下側を端出場が管理

 上側を太平坑の大東索道も含み、東平で管理してたそうな

 

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新道索道制動所でルートが少し右に振られて

 小女郎川の右岸に渡った東端索道は六号中継所で

 

左に方向転換して黒石駅へ向かってた

蛇行する足谷川流域の向平を第四通洞開削のズリで埋め立てて

 新しい端出場(現マイントピア別子端出場ゾーン)を造り上げ

 

東黒索道のライン直下に索道停留所を設けて短縮し

 1935(昭和10)年東端索道(2,717m)となりました

東端索道には方向転換の為の2か所の中継所を設けており

 六号中継所は「丸尾」という牛車道の①番目のピンカーブ近くの平らな場所に設置されていたようです

 

この場所はなんと昨年の4月11日に上部鉄道と下部鉄道を結んでいた

 石ヶ山丈-打除間の索道ポスト跡を探索した場所じゃんかびっくり

 

そういえば、石垣や何らかの施設跡と思われる敷地があったぞなもし

 

石ヶ山丈-打除間の索道ポストの探索↓

探訪日:2021年4月11日

 

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東平街道は新道の索道場を過ぎて

 東端索道と離れ長尾の尾根に向かってる

 

すると煉瓦の遺構が現れました

坑内排水路の煉瓦造りの会所です

 

第三通洞開通後は瀬戸内海まで16kmの木製と煉瓦製の坑水路を繋ぎ

 東平、黒石、山根に収銅所を設けました

 

別子銅山の坑廃水処理について PDF

住友金属鉱山(株)別子事業所

今回は長尾の尾根を一直線に下る直登ルートを辿りましたが

 

仲持道だった第3次泉屋道は急勾配を避けて大きく迂回して

 つづら折に高度を下げ、遠登志(おとし)橋で再び小女郎川の右岸へ渡ります

 

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この遠登志橋にも木製の坑水路が併設されておりました

 

この橋は「別子銅山の採鉱本部があった東平への生活道として作られた」と

 ありますが坑水路のルートとしても、大きな役割を担っていたと思われます

 

江戸時代の第3次泉屋道がどの様にして谷を渡っていたかは分かりませんが

 もっと低くて狭い箇所で渡っていたと思われます

 

前回訪れた時は遠登志から仲持道を辿ったので

 尾根を真っ直ぐに下るのは初めてでしたが急登の石段で、限界の膝を抱えて難儀したがね〜

 

石段を降るのに相当時間掛かりましたが

 

ギリギリで19時01分

 県道47号線に出ました

 

予定の18時15分を46分オーバー

 

第3広場から更に20分遅れとなりましたが

 途中で予定外のセリ割隧道にも立ち寄ったのでまぁ頑張った方かも

 

ここからは県道47号線を辿って

 パジェロデポ地の龍河神社を目指します

 

ガーミンは既にこの場所で18.01kmを記録しています

 

県道47号線の青龍橋のループ橋までは歩道が付いてる
 
ループ橋を渡った処で真っ暗になりヘッドランプを装着
 
ここからは歩道も無く、路側帯も草が茫々で車道を歩かざるを得ません
 

県道47号線を3.43km

 対向車に注意を払いながら37分歩いて龍河神社前のパジェロに到着

 

長い一日が終わったぜよ!

 

 

 

長くなりましたが

 最後までご覧頂きましてありがとうございました

 

では、またバイバイ

 

お終い

 

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