第6の権力 logic starの逆説 -5ページ目

麻生総理のホテルのバー通いについて

このブログでは、政局関係は書かないという方針です。それを前提に、麻生総理のホテルのバー通いに関する報道について、少しひどいと思いますので、書いてみたいと思います。


まずは正確に記者の発言と総理の発言を把握する必要がありますが、これがなかなか見つかりません。マスコミは、批判をするなら、まず正確な発言を掲載してほしいところです。いくつかの新聞記事やサイトからみると、どうやら、次のようなやりとりのようです。


●記者

夜の会合に連日行っていて、一晩で何万もするような高級店に行っているが、それは庶民の感覚とはかけ離れていると思う。首相はどのように考えるか

●総理

庶民っていう定義をよく使われるのですか。僕は少なくともこれまでホテルというものが一番多いと思いますけども。あなたは今、高級料亭、毎晩みたいな話で作り替えてますけど、それは違うだろう

●記者

あの高級…

●総理

そういう言い方を、引っかけるような言い方やめろって。事実だけ言え。事実だけ

●記者

ホテルが…

●総理

馬尻がいつから高級料亭になったんだ。言ってみろ。そういう卑劣な言い方だめ。きちんと整理して、ね、言わなきゃ。いかにも作り替えられるような話はやめたほうがいい

●記者

高級店というか、一晩に一般の国民からすると高いお金を払って食事をする場所という意味で申し上げた。首相は批判があることについてはどう考えるか

●総理

僕はこれまでもずーっと、あの少なくともホテルというところは安いとこだと思ってますね。正直言って、たくさんの人と会うときにホテルのバーっていうのは、安全で安いとこだという意識がぼくにはあります。正直なところです。事実その、どれが安いかどれが高いかと言われると別ですよ。だけどちょっと聞きますけど。例えば安いとこ行ったとしますよ。周りに30人の新聞記者いるのよ。あなた含めて。警察官もいるのよ。営業妨害って言われたら、なんと答える?あなたのおかげで営業妨害ですって言われたら、新聞社として私たちの権利ですっていって、それずーっと立って店の妨害をして平気ですか?今、聞いてんだよ。答えろ。

●記者

私が伺いたいのは…

●総理

いや、俺の質問に答えてくれ。俺、それ答えてんだから。今度俺が質問してる。平気ですか?

●記者

われわれは営業妨害はしないように取材している

●総理

現実にはしてるって言われているから、俺。だからうちはこねーでくれって。ホテルが一番言われないんですよ

●記者

なるほど

●総理

分かります?だから、あなたは自分の都合だけで聞いてるように聞こえんだね。俺には。ホテルが一番人から文句言われないと僕はそう思ってます。だからこれまでのスタイルでしたし、これからも変えるつもりは今のところありません。

●記者

お金に色は付いていないが、政治献金や政党助成金という形で金を出すのは高級な食事をするだけのためではないと思うが…

●総理

自分でお金出します。幸いにして自分のお金もありますから、自分で払ってます

●記者

そしたらそれで返上するという…

●総理

返上?


ということのようです。

以上のやり取りをみると、総理は、記者の質問にきちんと答えています。

・高級料亭に行っているわけではない。

・たくさんの人と会うときに、ホテルのバーは安全で安い。

・30人もの記者や警察官が周りにおり、ホテルが一番文句をいわれない。

・自分で払っている

これに対して記者は、

・30人もの記者や警察官が周りにいて安い店にいけば営業妨害になるのではないか

という総理の指摘に対して答えていません。

マスコミが総理を批判するのであれば、この指摘にちゃんと答えてからにするべきです。記者は「なるほど」と言っているのです。それにもかかわらず批判的な記事を書くのでは、根拠のない誹謗中傷と言われてもしかたがありません。しかも、記者をはりつけているのはマスコミなのです。

また、この文脈から「ホテルのバーは安い」ということだけ取り上げるのもフェアではないでしょう。

最後に、「自分で払ってます」という総理に対して、政治献金や政党助成金の話や、その返上を持ち出すのは、まったくナンセンスです。

そもそも、「一晩で何万もするような高級店に行っている」というのは正確ではなく、総理のいうとおり「卑劣な言い方」です。「批判があることについてはどう考えるか」というが、批判をしているのは記者自身ですので、これもフェアな発言とは言えません。


総理が自分でお金を払ってどこで夕食をとろうが、そんなことで批判を受けることもないし、多少お金が高くとも、ホテルが安全であり、安全を考えれば安いというのも、多くの人は納得できるのではないでしょうか。

むしろ、総理は、総理という職業であるからこそ生じてくる安全問題に対して、自分のお金を切って対応しているわけです。

庶民感覚とは当然違いますが、総理である以上は、庶民と同じようには生活できないのです。総理はきちんとそれを説明しました。総理の指摘に答えずに批判するのは、フェアではないでしょう。


「庶民感覚からズレている」と批判している野党議員もいるが、政治家であるならば、「そんなことを問題にすべきではない。もっと大切なことを書いてほしい」と逆にマスコミに自制を求めるべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか。


たぶん、国民のほとんどは、この件に関心を持っていないし、報道で麻生総理を否定的に見ることもないと思いますが、「批判票」は多いほうがよいと思いますので、念のために書いておきました。

鳩山法務大臣の死刑執行署名と朝日新聞「死に神」報道について

鳩山法務大臣が署名をし、6月17日に3名の死刑が執行されたことについて、鳩山法務大臣を批判する報道や見解が示され、特に、朝日新聞が18日付夕刊「素粒子」欄は、鳩山法相について「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」などと記載しました。


鳩山法務大臣は、法律の定めと、裁判に従って、執行の署名をしたにすぎません。誰も好んで死刑の署名をするはずがなく、職務として、しなければならないから、署名をしたのだと私は思います。


本ブログの趣旨からは、当然鳩山法務大臣を擁護する論陣をはるべきであり、朝日新聞の報道姿勢を批判するところですが、この朝日新聞の記事には、すでに多くの批判が示されました。


鳩山法務大臣も、朝日新聞の記事に対して、「社会正義のために、わたしも苦しんで執行した」「死刑囚にだって人権も人格もある。執行された方々に対するぼうとく、侮辱でもある」「大変問題だと思う。軽率な文章については心から抗議したい」と的確に問題点を指摘したうえで、強く抗議しました。


鳩山法務大臣の兄にあたる民主党の鳩山幹事長も、「法相には死刑を執行しなければならない責務がある。死刑をやりたいと思っているわけではないと思う」「弟は死に神ではない」「死に神の兄と呼ばれたくもない」と語り、鳩山法務大臣を擁護しました。


朝日新聞にも多くの批判が寄せられたらしく、21日付夕刊「素粒子」欄で、釈明記事が掲載されました。全文を引用します。

「鳩山法相の件で千件超の講義をいただく。『法相は職務を全うしているだけ』『死に神とはふざけすぎ』との内容でした。法相のご苦労や、被害者遺族の思いは十分認識しています。それでも、死刑執行の数の多さをチクリと刺したつもりです。風刺コラムはつくづく難しいと思う。法相らを中傷する意図はまったくありません。表現の方法や技量をもっと磨かねば。」


18日付朝日新聞夕刊のような扇動的な報道に対して、読者から健全な批判がなされたということで、安心しました。こうした扇動的な報道を批判し、違う観点があることを示し、また、多様な考え方を示すのが本ブログの趣旨ですが、この件については、あまりつっこんで書く必要がないかもしれません。


鳩山法務大臣は、非常にまじめに法を順守して執行しなければならないと考えており、また、人権ということについても確固とした考え方を持っていると私は思います。鳩山法務大臣は、マスコミがどう報道するか、世間でどう受け止められるかということをあまり考えずに、自分が正しいと思っている考え方を発言してしまうので、よく報道機関や野党から批判が叩かれます。過去にこのブログで鳩山法務大臣擁護の論陣をはったことがあります。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10072939701.html

このときは鳩山法務大臣へのバッシングが強く、擁護の論調は圧倒的な少数派でした。


今回の18日付朝日新聞夕刊は、その内容があまりに酷く、鳩山法務大臣の反論も的確で、かつ、ある意味で情に訴えるものであったため、世論は鳩山法務大臣擁護に動いたと思います。朝日新聞の記事があれほど酷くなければ、鳩山法務大臣が叩かれていた可能性はあります。


しかし、本来は、死刑執行の是非について法務大臣が判断するということがおかしい、というのが鳩山法務大臣の主張であり、わたしはその主張は全面的に正しいと思います。しかし、その正論がこれまで強く批判を受けてきたため、鳩山法務大臣も今回は「作戦」を変えて、、「社会正義のために、わたしも苦しんで執行した」と情に訴える戦術をとり、それが成功したといえるのではないでしょうか。朝日の扇動的な記事が失敗し、鳩山法務大臣の情に訴える戦術が成功した。今回は、鳩山法務大臣の作戦勝ちかもしれません。そういう点では、現在の死刑制度について、冷静に、客観的に、多面的に考えて鳩山法務大臣の死刑執行署名が支持され、朝日新聞が批判されたわけではないということに、留意しておく必要があるかもしれません。


死刑は国会で定めた法律で認められていること、そして、個々の事件における死刑は裁判所が決定していること、そうであるならば、行政を担う大臣は法律と裁判にしたがって執行しなければならないはずで、そこに個人の判断を差し入れてはいけないはずです。「法相には死刑を執行しなければならない責務がある」という鳩山民主党幹事長の指摘が端的に正しく、「死刑をやりたいと思っている」か否かにかかわらず、執行しなければならないのです。その点を理解すれば、死刑の是非を、大臣の問題にするということ自体のおかしさがわかるはずです。


21日付の朝日新聞の釈明記事について、最後に批判をしておきたいと思っています。18日の記事は、どう考えても、「法相のご苦労や、被害者遺族の思いは十分認識」したうえで書いたものとは思えません。「法相らを中傷する意図はまったくありません」と釈明していますが、中傷以外のなにものでもないと思います。「それでも、死刑執行の数の多さをチクリと刺したつもりです」ということは、死刑執行について法務大臣を刺すことが当然であるという前提にたったものいいであり、それ自体が誤っていると私は考えますが、そうでなくとも、刺すこと自体の是非について考えた様子が見られません。「表現の方法や技量をもっと磨かねば」といいますが、「表現」の問題ではないはずです。扇動的に個人攻撃をして、鳩山法務大臣を中傷しようとしたことを認め、それを謝罪し、撤回すべきであったと思います。それは、世論の賛同が得られなかったからではなく、そもそも個人攻撃をしようとする報道の姿勢として問題があるものだというのが、わたしの意見です。


また、朝日新聞広報部は、「社としてコメントすることはない」という見解を発表しましたが、それも大きな問題であり、このような個人攻撃の中傷記事を掲載しておいて、「社としてコメントすることはない」というのであれば、もはや「公益を担う」「公器」というべき存在とは認められないと思います。


なお、誤解されたくないのであえて書いておきますが、わたし個人は、立法や政策としては、死刑廃止を支持しています。それでも、現状においては法律に死刑があり、法律にもとづいて死刑判決がなされたのであれば、大臣が死刑執行署名をするのは当然だし、署名をした大臣を批判するのはおかしいと思っているのです。ましてや、報道機関が大臣個人を誹謗中傷することは、絶対に許されることではないと考えます。

最高裁 国籍法違憲判決について

少し時間がたってしまったが、6月4日に、国籍法の規定について、最高裁で違憲判決がありました。

ほとんどの報道が全面支持あるいは極めて好意的なスタンスで記事を書いていますので、本ブログの趣旨から、違う立場で、少しコメントしておきたいと思います。最高裁の違憲立法判決は、これまで7件しかなく、これが8件目であり、そうした点でも非常に重要です。


国籍法によれば、未婚の日本人父と外国人母との間で生まれた子については、父の認知だけでは日本国籍を取得できず、父母の婚姻(結婚)が日本国籍取得の要件とされていました。この父母の結婚は、当人に関係がないことで、夫婦の間に生まれた子(嫡出子)と、夫婦関係にない男女間で生まれた子(婚外子・非嫡出子)との間に、差別をするものです。最高裁判決は、この点について、憲法14条、法の下の平等に反し、違憲としたわけです。

この結論についてこのブログで異議を述べるつもりはありませんが、判決の理由づけには、いくつか問題があると考えます。そのうち、3点、以下で指摘しておきたいと思います。


判決全文が、最高裁判所のホームページにすでに掲載されています。長くなりますが、できるだけ要点をしぼって最後に引用しておきますので、気になる方はご覧ください。


(1)国籍法が定められた当時は理由があったとしていること


問題点の一つは、判決が、国籍法の非嫡出子差別の規定は、定められた当時には相当の理由があったが、現在は合理的な理由のない差別だとしている点です。

ということは、以前は合憲だった法律が、憲法も法律も変わっていないにもかかわらず、社会状況が変わると違憲になるということになります。しかし、社会状況がどう変わったかということは、憲法にも法律にも書いてありませんので、それは、憲法や法律に根拠を持たない、裁判官の個人的な判断になります。裁判官の個人的な判断で、合憲であった法律が、急に違憲になるというのは、どう考えてもおかしなことです。

この点、この判決の報道についても、「時代読んだ画期的判決」といった社説も書かれていましたが、判決は法律と事実に基づいてなされるべきであり、裁判官が勝手に時代を読んで判決するなどというとんでもないことがあってよいはずがない、というのが私の意見です。

社会状況や「人情」を法制度に反映させるのは、政治=立法の仕事です。裁判所や行政の仕事では決してないということを確認しておく必要があります。


判決は、「我が国における社会的、経済的環境等の変化」「国際化の進展」「諸外国においては、非嫡出子に対する差別的取扱いを解消する方向」といったことを理由にあげていますが、裁判官をはじめとする法律化は、社会政策・経済政策・国際政治の専門家ではありませんし、外国法制について裁判において充分検討する機会があったわけでもありません。


そもそも、国籍法の規定で父母の結婚を日本国籍取得の要件としていたことについては、父母の結婚は当人に関係がなく、夫婦の間に生まれた子(嫡出子)と、夫婦関係にない男女間で生まれた子(婚外子・非嫡出子)との間に、差別をするものだったということは、制定当時から変わりません。社会状況がどのように変化しようと、制定当時から明らかな差別であったのです。

したがって、あえて社会状況の変化だとか、制定当時には相当の理由があったとか判決で書く必要はなく、たんに、非嫡出子に対する不合理な差別であると書けばそれで十分であり、そのほうが明解であったと考えます。


本判決について「子どもの利益を第一に考えた」といった評価もありましたが、判決理由をみる限り、その評価には賛成できません。子どもの立場は、法制定時も現在も変わりません。子どもの利益を第一に考えれば、社会状況がどうあろうと、最初から違憲だという結論になるでしょう。裁判官が、子どもの利益と社会状況を比較しつつフィーリングで決めた判決というのが正しい評価ではないでしょうか。



(2)違憲の根拠条文として憲法14条をあげていること


次に、違憲の根拠条文として、憲法14条、すなわち「法の下の平等」をもってきているところに問題があります。「法の下の平等」は、その言葉どおり、「法の下」で、法律の適用において、平等でなければならないということにあり、法律自体に不平等がある場合に適用すべき条文ではないことは明らかです。(判例と学説において、法律の不平等についても、憲法14条の「法の下の平等」が適用できるというのが、通説的見解になっているのは承知のうえですが、それが法解釈として誤っていることは明らかですので、あえて書きました。)また、判決は、「両性の平等」にも言及していますが、嫡出子に対する非嫡出子に対する差別は、両性の平等とは違う問題だということも明らかでしょう。

判決は、国籍取得が基本的人権の問題だとわざわざ述べているのですから、基本的人権の規定、あるいは、立法における個人尊重(両親の結婚ではなく本人の血統を尊重)の規定などを根拠条文とすべきであったと考えます。

また、憲法第10条「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」の意味するところをきちんと解釈しておく必要があったと思います。すなわち、「法律で自由に定めてよい」ということではなく、「法律ではない政令や規則で定めてはいけない」ということを意味するにすぎない、といったように、解釈を示す必要があったと思います。それがなかったことが最高裁裁判官の中にも反対意見が出ることにつながったと思います。




(3)立法の裁量について


本判決は、「立法の合理的な裁量」や「立法府に与えられた裁量権」といった言葉を使ってますが、憲法や法律にどこを見ても、立法府の裁量権については書かれていません。立法府は、憲法に違反しない限り、自由に立法できるわけです。すると、立法の合理的な裁量の範囲内というのは要するに合憲ということであり、立法府に与えられた裁量権を考慮してもなお合理性を欠くというのはたんに違憲ということにすぎません。このような、合理的だとか、裁量といった抽象的で条文にない言葉を使うのではなく、憲法の条文によって、説明をすべきであったと考えます。(そうすれば、前は合憲だったが、今は違憲だというようなおかしな説明になるはずはなかったともいえます。)



判決の引用

「国籍法・・・の規定が設けられた当時の社会通念や社会的状況の下においては,日本国民である父と日本国民でない母との間の子について,父母が法律上の婚姻をしたことをもって日本国民である父との家族生活を通じた我が国との密接な結び付きの存在を示すものとみることには相応の理由があったものとみられ,当時の諸外国における前記のような国籍法制の傾向にかんがみても,同項の規定が認知に加えて準正を日本国籍取得の要件としたことには,上記の立法目的との間に一定の合理的関連性があったものということができる。

しかしながら,その後,我が国における社会的,経済的環境等の変化・・・に加えて,近年,我が国の国際化の進展に伴い国際的交流が増大することにより,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生する子が増加しているところ・・・その子と我が国との結び付きの強弱を両親が法律上の婚姻をしているか否かをもって直ちに測ることはできない。・・・また,諸外国においては,非嫡出子に対する法的な差別的取扱いを解消する方向
にあることがうかがわれ,我が国が批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約及び児童の権利に関する条約にも,児童が出生によっていかなる差別も受けないとする趣旨の規定が存する。さらに・・・多くの国におい
て・・・父子関係の成立が認められた場合にはそれだけで自国籍の取得を認める旨の法改正が行われている。
・・・日本国籍の取得が・・・我が国において基本的人権の保障等を受ける上で重大な意味を持つものであることにかんがみれば・・・差別的取扱いによって子の被る不利益は看過し難いものというべきであり,このような差別的取扱いについては,前記の立法目的との間に合理的関連性を見いだし難いといわざるを得ない。とりわけ,日本国民である父から胎児認知された子と出生後に認知された子との間においては,日本国民である父との家族生活を通じた我が国社会との結び付きの程度に一般的な差異が存するとは考え難く,日本国籍の取得に関して上記の区別を設けることの合理性を我が国社会との結び付きの程度という観点から説明することは困難である。また,父母両系血統主義を採用する国籍法の下で,日本国民である母の非嫡出子が出生により日本国籍を取得するにもかかわらず,日本国民である父から出生後に認知されたにとどまる非嫡出子が届出による日本国籍の取得すら認められないことには,両性の平等という観点からみてその基本的立場に沿わないところがあるというべきである。・・・上記・・・事情を併せ考慮するならば,国籍法が,同じく日本国民との間に法律上の親子関係を生じた子であるにもかかわらず,上記のような非嫡出子についてのみ,父母の婚姻という,子にはどうすることもできない父母の身分行為が行われない限り,生来的にも届出によっても日本国籍の取得を認めないとしている点は,今日においては,立法府に与えられた裁量権を考慮しても,我が国との密接な結び付きを有する者に限り日本国籍を付与するという立法目的との合理的関連性の認められる範囲を著しく超える手段を採用しているものというほかなく,その結果,不合理な差別を生じさせているものといわざるを得ない。・・・ 以上によれば,本件区別については,これを生じさせた立法目的自体に合理的な根拠は認められるものの,立法目的との間における合理的関連性は,我が国の内外における社会的環境の変化等によって失われており・・・本件区別は,遅くとも上告人らが法務大臣あてに国籍取得届を提出した当時には,立法府に与えられた裁量権を考慮してもなおその立法目的との間において合理的関連性を欠くものとなっていたと解される。したがって,上記時点において,本件区別は合理的な理由のない差別となっていたといわざるを得ず,国籍法・・・の規定が本件区別を生じさせていることは,憲法14条1項に違反するものであったというべきである。」

自衛隊海外派遣差し止め却下判決について

4月17日に、名古屋高等裁判所で、自衛隊の海外派遣差し止めを認めなかった判決がありました。

この判決や、この判決を受けた反応・報道には、いろいろと問題を感じますので、少し書いてみたいと思います。


まず、このエントリーのタイトルですが、違憲という言葉を使いませんでした。あえていうなら「自衛隊の海外空輸活動について違憲と言及した判決」という、もってまわった言い方になっています。

あくまで、自衛隊派遣の差し止めを求めた原告が敗訴し、国が勝訴した判決だということを、まず認識する必要があります。

したがって、この「自衛隊の海外空輸活動について違憲と言及した」部分は傍論にすぎず、法的な効果はありません。「違憲判決」というとショッキングですが、それは正確ではありません。

実際は、自衛隊派遣を差し止めなかった判決なのです。

原告団は「違憲の司法判断が示された」と発言したようですが、それは誤りです。

福田首相のコメント「傍論だ。判決は勝った。」というのは、簡潔にして的を得た発言です。

この判決は派遣の差し止めを認めなかった。

裏をかえせば、この判決によって「自衛隊派遣が司法によって認められた」といってもよかったくらいです。


したがって、この「違憲と言及した部分」に、過度に反応すべきではありません。

政府として静観する、というのは、良識的な対応でしょう。

この判決をもって政府を追及する、といった発言をした野党議員もいたようですが、まったく問題外です。

そもそも、裁判所の判決は法律にしたがってなされるものですから、法律をつくる立場にある国会議員が裁判所の判決で政治的見解を左右されるというのは、情けない話です。

国権の最高機関としての誇りや自負があれば、判決を根拠に政治的見解を主張したり、批判したりすることはないと思います。


違憲に言及した部分について、田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長が、「私が心境を代弁すれば『そんなの関係ねえ』という状況だ」と発言した、という報道がありました。判決の傍論にすぎず、法的な効果はないということから「そんなの関係ねえ」というのは、正しい見解です。判決は派遣を差し止めなかったのですから、傍論で言われたことには関係なく、職務を遂行する、というのも、正しいでしょう。そして、現場の自衛官としては、命令にしたがって職務を遂行するしかないわけであり、裁判官になにをいわれようが、「そんなの関係ねえ」と思うしかありません。


この「そんなの関係ねえ」という発言を批判したり、現場の自衛官や基地に対して抗議を申し入れるというのは、やはり筋が違うと思います。個々の自衛隊員が、命令を無視して、自分の判断で行動しては、軍隊としては成り立ちません。自衛隊員の父親が「息子は国が決めたことに従わざるを得ない」と発言したという報道がありましたが、そのとおりだと思います。自衛隊員は、わが国の安全のために、まさに命をかけて職務を遂行しているのです。なぜ、そうした人たちを非難できるのか、わたしにはまったく理解できません。

批判をし、争うとすれば、命令を出した人に対してのはずです。そして、実際に命令を出した人を相手に裁判で争って、敗訴した、というのが今回の判決なのです。


さて、町村官房長官は、「判決の結論を導くのに必要のない部分で裁判官のが意見を述べるというのは判決のあり方としておかしい」と批判しましたが、そのとおりだと思います。

あえて違憲であると書くのであれば、差し止めを認めるべきだったのです。

中山成彬衆院議員が、「問題のある裁判長で、変な判決だった。3月末で辞め『最後っぺ』(おなら)を出したようなものだ」などと語ったそうですが、わたしも同感です。

もう辞めるということが決まってから、わざわざ判決の結論とは逆の内容の物議をかもすようなことを傍論で述べたわけですから、まったく非常識としかいいようがありません。

この青山邦夫裁判長の過去の判決を参照してみるべきです。これまで、これまで、どのような判決を出していたのかを調べれば、この判決が「画期的」でもなんでもなく、「おならを出したようなもの」だということがわかると思います。

自分の政治的な見解を主張したい、そして、採用してほしいというのであれば、裁判官ではなく、政治家になるべきです。

こうした判決をとりあげて、さわぐことが、まさにこの裁判官のねらいどおりということになります。黙殺するのが一番です。


航空幕僚長や中山成彬衆院議員の発言を「ふざけている」と批判した人もいますが、国会など、本当に職務遂行の場で発言したわけではありません。この裁判官は、判決文という職務遂行において、このような「ふざけた」行為に及んだわけですから、批判されるべきは誰かを間違えるべきではないと思います。


なお、判決の論理展開にも問題があると思います。

これも報道によるところですが(報道は通常は裁判官がマスコミ向けに出す判決をまとめたペーパーにもとづいています)、「国際的な武力紛争が行われ、特にバグダッドは戦闘地域に該当する」ことを前提に、「多国籍軍の戦闘行為に必要不可欠な軍事上の後方支援」をしたのであるから、「自らも武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ず、憲法第9条第1項に違反する」という展開だったようです。

さて、憲法第9条第1項は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めています。

「戦争」「武力による威嚇」「武力の行使」のいずれかを、「国際紛争を解決する手段」として用いた場合に、違憲になる、ということになります。

本判決は、「戦争」「武力による威嚇」を認定していません。それでは、「武力の行使」を認定したかといえば、それははっきりしておらず、「武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」といっているようです。この「評価」は、誰がするのでしょうか。違憲だというのであれば、こうしたあいまいな言葉を使うのではなく、裁判官の責任と判断で「戦闘行為に対する後方支援は、武力の行使にあたる」というべきでした。

そして、仮に「武力の行使」にあたるとしても、それが「国際紛争を解決する手段」に該当するということを、認定する必要があります。今回のケースは、政府対政府の紛争ではないのです。いったいどのような場合に「国際紛争」になるのか、という点について、相手方は武装勢力は組織的であり海外の勢力からも援助を受け相当の兵力を持っていることをもって、国に準じるとして、「国際紛争」になると、判決は論じているようです。しかし、この判決の考え方によれば、国際的な武装テロ組織はすべて国に準じるということになり、そうした組織に対応するのは、すべて国際紛争への武力行使として違憲ということになってしまいます。もちろん、わが国の国内で、国際的な武装テロ組織が武力闘争をおこした場合でも、「国際紛争」になってしまい、それを自衛隊が制圧すれば、それは後方支援などではなく、武力の行使そのものですから、憲法違反ということになります。

国際的な武装テロ組織への対抗が国際紛争になるというこの判決は、難しく考えなくても、間違っていると多くの人は思うでしょう。

要するに、兵力を判断基準とした点が誤りだったのです。逆に、兵力が非常に小さい国家に対して、わが国が攻撃をするとすれば、それは「国際紛争」にならないというのでしょうか。


なお、(まさに傍論であり、これを書くとここに批判が集中しそうな気もしますが)わたしは、自衛隊は、明らかに憲法第9条第2項に違反すると思っています。

自衛隊はあきらかに戦力であり、「戦力は保持しない」と憲法第9条第2項は明示しているわけですから、海外派遣とか、戦闘地域とか、いうまでもなく、そもそも自衛隊の存在自体が、憲法違反です。難しいことを言わなくても、誰にでもわかります。

(読めばわかるのですが、第9条第1項は、ただの宣言文です。第2項が意味を持ちます。それで、第1項に違反するというのは、論理展開が難しくなります。本判決も違憲というなら第2項の「国の交戦権はこれを認めない」という規定に違反するとしたほうがわかりやすかったと思います。)


しかし、わたしは、自衛隊が日本の平和を守ってきたと思っており、これからも日本の平和のために自衛隊は必要だと思っています。

日本の平和を守るために活動している自衛隊員を尊敬しています。


憲法や法律に違反するかどうか、ということは、たんなる言葉の問題です。

自衛隊が必要かどうか、というのは、政策的判断、すなわち政治の問題です。こちらのほうが重要です。

憲法違反だからやめるべき、と政治家がいうのは、わたしにはまったく理解できません。先にも述べましたが、国権の最高機関を担う者として、それは情けないと思います。

必要かどうか、やるべきかやめるべきかという判断が先にあり、それにしたがって、憲法や法律をつくっていくのが政治家の仕事のはずです。


違憲かどうか、違法かどうか、「そんなことに関係なく」、やるべきかやめるべきかということを、しっかり検討してほしいと思います。

しっかり検討したうえでの判断が、違憲といわれたり、違法といわれたのなら、憲法や法律を変えればいいのです。もちろん、違憲といわれたり、違法といわれたりしないように、変えておくというのがより望ましいことは、いうまでもありません。

ガソリン税の暫定税率と道路特定財源について

ガソリン税(揮発油税)はじめ暫定税率の維持が困難な状況になってきました。


道路の問題については、住んでいる地域によって、意見が異なるのではないでしょうか。


関東、関西、そして、長野や愛知などでは、これまで国策として道路などのインフラ整備が進められているので、「これ以上自分の住んでいる地域に道路はいらない。自分の住んでいない地域の無駄な道路のために税金を使うな。それよりも税金を下げてほしい」という住民が多いのではないでしょうか。道路整備不要論です。


それ以外の地域では、「関東や関西の人にとっては不要な道路でも、地域住民にとっては必要な道路。それを無駄な道路だというのは自分のことしか考えていない意見だ。関東、関西から整備が進んで、後から順番がまわってくると思ってがまんしていたのに、途中で打ち切りなんて許せない。ここで打ち切って、地方を切り捨てるのであれば、これまで関東や関西の道路整備につぎこまれた国の財源や、ほとんどが関東に(そしてわずかに関西にある)国立施設の整備にかかった費用などを、関東や関西の住民が国に返却して、その財源をあらためてすべての地方に分配せよ」と思うでしょう。道路整備維持派の意見です。


日本にとってなにがよいのか、という問題よりも、自分にとって必要なのかどうか、という観点から、意見の違いがでてしまう性格の問題なのではないでしょうか。


わたしの住んでいる地域は、インフラの整備がすすんでおり、もう道路整備も十分だと思っています。しかし、公平という観点からいえば道路整備不要論は分が悪く、道路整備維持派のほうが正論だろうと思います。


地域間のエゴの争いということではなく、日本にとってなにがよいのかという問題としてとらえるのであれば、最後は都市集中の是非ということになり、都市集中型の国をつくるのであれば地方自治のあり方から考え直すということになるのかもしれません。


ただ、暫定税率については、暫定税率を維持しないと困る、というのは、暫定という趣旨からいえばおかしいので、必要な税率を一般税率化するのがよいと思います。


また、道路特定財源の一般財源化というのは、特定財源だと予算のチェックが甘くなるので、一般財源にしたほうがよい、ということなんだろうと思います。本当は、特定財源であっても予算のチェックが甘くなる理由はないのですが、現実問題としてそういうことがあるのであれば、一般財源にするということも理解できます。そうだとすれば、道路特定財源が余るか、余らないか、ということにこだわるべきではないはずです。


なお、道路特定財源がなくなれば道路は作れなくなる、というわけではありません。道路特定財源は、道路にしか使えませんが、一般財源を道路に使うことはなんら問題ありません。したがって、特定財源の縮小と、道路整備の進捗を、当然に一体のものと考えるべきではないと思うのです。


暫定税率がなくなれば、道路特定財源は減ります。しかし、一般財源で道路をつくることもできますので、道路整備が縮小すると決まったわけではありません。それでは、なにをやめるのでしょうか。収入が減れば、支出が減ります。収入を減らせと主張するのであれば、どの支出を減らすのか、当然あわせて議論すべきだと思います。もし、道路整備を減らすのではなく高齢者福祉を減らすのだ、ということであれば、費用と負担との関係を考えれば暫定税率を維持して消費税を減税すべきだ、いや自動車使用者の負担はもともと高すぎるのでやはり暫定税率を廃止すべきだ、といったことも議論できるはずです。そうした議論を国政の場でしてほしいと思っています。しかし、報道されるのが「政局がらみ」ばかりで、心配しています。


税制全般については、わが国の税金は、多岐にわたり複雑ですので、もっとシンプルにしたほうがよいと思っています。シンプルにしたほうが徴税コストも低くなります。たとえば、先に述べたように、暫定税率といったものはやめたほうがよいと思います。自動車に関する税は、重量税などは廃止してしまい、ガソリン税(揮発油税)に一本化してはどうでしょうか。また、印紙税、登録免許税、不動産取得税などは廃止してしまってよいのではないでしょうか(そのかわりに消費税などは増税してもよいと思います)。さらに、国税・県税・市民税の徴税システムの重複も排除して、市町村がすべての税金を徴収してはどうかと思っています。市町村がすべての税を徴収し、県や国に分配するとすれば、コストも削減でき、地方分権も進むのではないでしょうか。(国が地方に無理なことをいうと、地方は「だったらその分の経費をさっぴいてから国税を国に渡すね」といったり、「国が地方に協力しないのなら、国税の徴収にも協力しないよ」といったりして、逆襲するのです。)

河川水害と行政の責任について

いわゆる東海豪雨の河川水害について、住民敗訴の地裁判決がありました。

この判決は新川流域のもので、天白川流域のものはすでに最高裁で住民敗訴が確定しています。

河川水害と行政の責任については以前から考えていたことがありますので、今回は、この裁判から離れて、一般的なことを、あまり報道等でみられない視点化から、書いてみようと思います。


行政が建設した建築物が倒壊して隣家が下敷きになったという場合には、行政の責任は容易に認められます。

その建築物を建築したのが行政ではなく、個人であっても、その個人の責任は容易に認められるでしょう。

しかし、河川水害は、被害が生じたからといって、簡単に行政の責任を問えるものではありません。

もともと河川は洪水するものであったところ、行政が治水のために手段を講じて、洪水を少なくしている、というのが現状だからです。

行政がなにもしなければ、洪水による河川水害はもっと頻繁におこっているでしょう。

河川水害は、自然に発生するものです。

それを、行政が努力をして治水をしており、その効果もたしかにあがっているのです。

それにもかかわらず、その「努力が足りない」として、行政の責任を問うているのです。

センセーショナルに「人災」という言葉が使われることもあります。


さて、ここで、「努力が足りない」とは、どういうことでしょうか。

河川水害防止にかける費用が少ない、ということにほかなりません。

もっと、河川水害防止に税金を投入すべきだった、ということです。

そして、被害が発生した場合に行政の責任を問うということは、税金から補償をせよということです。

すなわち、河川水害について行政の責任を追及するということは、河川付近の住民のために、もっと税金を使うべきだ、ということなのです。

河川水害防止のために、そして、被害が発生したら補償のために。


河川水害が発生してしまったときの補償について考えてみます。

Aさんは、河川水害で家屋が全壊したため、税金での補償を求めたとします。

Bさんは、河川水害で同様に家屋が全壊したのですが、河川に近いからということから、高額の保険料を支払って保険に入っており、この保険金が出たために損害がなかったとします。

このBさんの支払う税金から、Aさんの家屋のために補償がなされることが公正でしょうか。

またCさんは、河川に近いということから、高額の費用をかけて、土地を高くしたうえに家を建てたため、洪水にもかかわらず、家屋に損害が発生しなかったとします。

そして、Dさんは、河川に近いということから、ここに家を建てるのをやめて、はるかに土地代が高額になったにもかかわらず(河川に近く低い土地は安いのです)、もっと河川から遠い土地に家を建てたとします。

このCさんやDさんが支払う税金から、Aさんの家屋のために補償がなされることが公正でしょうか。

Eさんは、資産がなく、収入も少ないため、土地も家も持つことができず、賃貸アパート住まいだったとします。

このEさんが支払う税金から、Aさんの家屋のために補償がなされるということは、持たざる者の負担で、持てる者の財産を保護するということになるのですが、それが公正でしょうか。


最後のEさんとAさんとの関係を考えてみると、家屋や家具といった財産への補償と、生命や傷病への補償を分けて、生命や傷病への補償は行政が手厚くおこなう、という選択もあるのかもしれません。


今回は、税金の流れに注目をして、河川水害と行政の責任について書いてみました。

あまり論じられていない点ではないかと思いますが、いかがでしょうか。


なお、河川水害防止のために費用をかけることについても、少しだけ書いてみます。

先のAさん、Cさん、Dさんの関係は、水害防止に税金を投入する場合でも、同じです。

たとえば、Cさんは、高額の費用をかけて土地を高くしたうえに家を建て、洪水に万全の備えをしたとします。その後、Aさんの強い訴えで堤防をつくることになり、まったく堤防を必要としていないCさんの払う税金から、その建設費用を支出することは公正でしょうか。

Dさんは、河川に近い土地を避けて、はるかに土地代が高額になったにもかかわらず河川から遠い土地に家を建てたとします。その後、Aさんの強い訴えで堤防をつくることになり、まったく堤防を必要としていないDさんの払う税金から、その建設費用を支出することは公正でしょうか。


また、もう少し違う視点からも、河川水害防止にかける費用について、考えてみます。

仮に、10億円の堤防をつくれば、河川水害が絶対に防止できるとします。

ただし、10年たったら、また10億円かけて堤防をつくりなおさなければなりません。

他方、堤防をつくらなければ、10年に1回水害が発生するおそれがあり、そのときの損害は5億円とみこまれるとします。

この場合でも、10億円をかけて堤防をつくるという選択が正しいのでしょうか。

裁判などでは、水害が予測できたかどうか、がよく争われていますが、水害が予測できたとしてもあえて完璧な対策をしないこともありえる、とわたしは思うのですが、いかがでしょうか。

住基ネット最高裁合憲判決について

いわゆる住基ネットについて、最高裁で憲法に違反しないとの判決が出されました。この判決には、一部で、批判的な報道や発言もなされていますので、少し書いてみたいと思います。先日の薬害エイズ刑事事件では判決に批判的な立場で立論でしたが、今回は、このブログの趣旨からは、判決を擁護するスタンスになります。例によって、判決本文を読んだわけではなく、新聞報道等から得た情報の範囲で書いています。


まず、この判決から離れて、住基ネットについては、注意しておくべき点があります。

住基ネットのもととなる住民基本台帳は、行政法ではなく、民事法のなかに位置づけられています。

たとえば、私が、ある人から、なにかを買うときに、代金だけとられて商品を渡さずに逃げられたとか、粗悪な商品を売りつけられたとかいったことがあると困ります。相手の身元をちゃんと調べて取引したいと考えたときに、調べる手段として、住民基本台帳が整備されているのです。民と民の取引の安全をはかるために、整備されているわけです。したがって、住民基本台帳は公開が原則です。これを非公開とすれば、詐欺がしやすくなります。

戸籍も同じく民と民の取引の安全をはかるために整備され、公開されています。この土地を相続したと自分でいっている人から、その土地を買うとすれば、その人の戸籍を見て、それが本当かどうか確かめたいと私は思います。戸籍を非公開とすれば、やはり詐欺がしやすくなります。

つまり、住民基本台帳や戸籍の情報は、公開を前提として、収集されているものなのです。そもそも、守られるべき秘密ではないのです。そして、もともとは、行政が利用するものではなく、市民が利用するものなのです。

たとえ詐欺が増えてもこうした情報を公開すべきではない、と考える人もいるかもしれません。しかし、だからといって、現在の法律に基づいて判断した裁判官を非難するのは、筋違いです。そう考える人は、民事法の改正によって、その主張の実現をはかるべきなのです。



さて、住基ネットが憲法に違反するかどうか、という問いについては、どう考えても、違反しない、ということになると思います。憲法のどの条文を見ても、住基ネットが抵触するような文言はありません。

報道のなかでも読売新聞の社説は「当然の判断」としていますが、まったくその通りだと思います。

(そもそも、憲法には、「プライバシー」も、「自己情報コントロール」も、まったく記載されていません。だから憲法を改正しよう、という議論がありましたね。しかし、まだ改正はされていません。)


したがって、住基ネットが憲法に違反しない、という今回の判決は、まったく正しいものです。

何度も繰り返しましたが(そしてこれ以下でも繰り返しますが)、この裁判で問われたのは、住基ネットが憲法に違反するかどうか、ということであり、判決が示したのは、住基ネットが憲法に違反しない、ということです。それ以上でも、それ以下でもありません。

いいかえれば、住基ネットがよいものかどうかということ、すなわち「よしあし」を問題としたわけではなく、住基ネットはよいものだと判決が示したわけではない、ということです。


具体的に、判決に対してどのような批判がなされているかをあげ、その批判が妥当なものか検討してみます。

「最高裁は歴史に汚点を残した」というのは、なぜ汚点になるかを述べていません。最高裁は現在の憲法にもとづいて判決をしたわけですから、将来、憲法が変われば、また違う判決になるかもしれません。だからといって、それが汚点になるものではありません。「汚点」といった、悪い印象の「フレーズ」を使うことにより、悪いイメージを喚起させる発言ですが、こうした言葉には留意する必要があります。こうした発言があったのが事実だとしても、そのまま報道するべきかどうか、報道機関はよく考えてほしいと思います。

「あまりにもお粗末な判決」というのも、なぜ「お粗末」なのか述べていません。「汚点」と同じ、「フレーズ批判」です。

「国のいいなりだ」というのも、「フレーズ批判」だとは思いますが、一応もう少し論じてみます。国というのが、行政府か、国会か、わかりませんが、行政府は国会の決めた法律どおり住基ネットを運用しています。国会は、憲法に合致するものとして、住基ネットを整備する法律をつくったわけです。裁判所は、その法律が違憲ではないとみとめたにすぎません。

「司法権を放棄して行政に追随している。憲法について何らの研さんも積んでいない」というのも「国のいいなりだ」というのと変わりないでしょう。

「独自の判断がゼロに近い」というのは、裁判所は憲法にもとづいて判断したわけですから、自分の意見を述べているわけではないので、独自の意見があるというほうがおかしいでしょう。また、政府は憲法と法律にしたがって行政をおこなっており、裁判所も憲法と法律にもとづいて判決を示すわけですから、同じ判断になるのが通常だといってよいはずです。

「国の主張は全部正しいといっているだけ」というのは、実際に全部正しければ、そういうでしょう。判決に対する批判にはなりません。

「素人がみても情けない」というのも「フレーズ批判」ですが、素人だからわからないだけかもしれません。

「公権力が、本人の同意を得ずに国民の情報を自由に収集、利用する道を容認するもので、絶対に認められない」というのは、そもそも批判にさえなっていません。なぜ認められないか、ということをまったく述べていないからです。また、憲法に違反するかどうか、によって裁判はなされたのですから、容認するか容認しないか、あるいは、認めるか認められないか、という問題設定自体が誤っています。そして、住基ネットの収集・利用する情報は、これまでの住民基本台帳となんらかわりがないわけですから、なぜネットになると違憲になるのか、ということを説明していません。住民基本台帳のときから違憲だったということでしょうか?論旨不明です。

「自己情報コントロール権が憲法で保護されるかどうかが重大な争点だったのに、判決はそれに触れず、憲法の番人の責務を放棄してしまった」ということについては、「自己情報コントロール権が重大な争点だった」という根拠がありません。あくまでも住基ネットは憲法違反かどうかということが争われたのですから、それについて判断できれば、他のことを判断する必要はとくにないはずです。なお、自己情報コントロール権が憲法に記載されていないことは、憲法を読みさえすれば、誰の目にも明らかですから、判決が触れなくても当然です。また、この批判も、やはり、なぜネットになると急に違憲になるのか、ということを説明していません。

「住基情報の流出事故に触れていない」ということについては、住基ネット自体の違憲性と、情報の流出とは関係がないということにすぎません。住基ネットの違憲性について争うという選択をしたのは原告です。

「合憲判決で安心できるか」「住民側の不安や疑問に十分答えたとは言い難い」ということについては、何回も繰り返しになりますが、この裁判は、住基ネットは違憲でないか判断してほしいという原告の求めた裁判で、住基ネットは違憲ではないと判断したものです。住民の安心を保障し、不安や疑問を解消するためのものではありません。

「不人気住基カード」「住基カードの普及も進まない」「システムは金食い虫」というのは、住基ネットの違憲性とは無関係です。裁判では、費用対効果を問題とするわけではありません。違憲か、違法か、を問題とするのです。費用対効果は、政治の問題です。

「個人情報の保護を訴える住民側の主張が受け入れられずに残念」「合憲判決はらむ危険」ということについても、問題設定が誤っています。原告は「憲法違反を訴えた」のです。そして、「個人情報の流出の危険」と「利便性の向上」のバランスをどうとるかは、政治の問題です。判決に危険性があるわけではありません。「フレーズ批判」に近いものです。


結局、判決に対する批判は、いわば「フレーズ批判」と、住基ネットの「よしあし」についての見解ばかりです。

住基ネットの「よしあし」は、政治が判断すべきものです。もし、住基ネットに利便性を上回る危険性があるので反対だというのであれば(利便性と危険性の比較)、あるいはコストが見合わないので反対だというのであれば(費用対効果の比較)、住民運動、選挙、被選挙(立候補)という、民主的な手段によって、主張を実現すべきものなのです。議会制民主主義のもとで、どちらを選択するか、選挙し、議論して、決するべきことです。少人数の原告と被告の発言だけをもとに、選挙で選ばれたわけではない、わずか数人の裁判官が決めることではないはずです。

こうした圧力・プレッシャーが裁判官にかかることによって、裁判が事実と法律にもとづいてなされるのではなく、裁判が世論や「空気」や風潮によってなされるようになってしまうことを、わたしは危惧するのです。


また、政治の場で決めるべきことが、選挙や政策論争で勝てなかったからといって、裁判にもちこむという風潮にも危惧を感じます。ましてや、自分の思い通りいかなかったからといって裁判官を非難するというのは、いかがなものかと思います。それを煽るような報道がなされていないか、そのような報道が正しいあり方なのか、報道機関にはよく考えてほしいと思います。

逆に、判決は、憲法についての判断を示しただけですから、住基ネットの「よしあし」は、また別の問題です。別に、判決が住基ネットの安全性を担保するわけではありません。住基ネットの活用を推進する理由にはなりませんし、政治の場で廃止することを否定する根拠にもなりません。「判決を機に推進する」ということには、根拠がないということも指摘しておきたいと思います。

薬害エイズ事件の元厚生省課長の有罪確定について

いわゆる薬害エイズ事件について、元厚生省課長の刑事裁判で最高裁判決があり、有罪が確定しました。執行猶予がついており、実刑ではありません。

この判決は、二つの観点から注意しなければならない問題があると思います。ひとつは、多くの新聞などのメディアが書いているように、行政判断の不作為により有罪が確定したはじめて(ということは当然唯一)の事件だということです。もうひとつは、薬害にはかなり難しい問題があるということです。そこで、少しこの事件について書いてみようと思います。このブログの趣旨からは、元厚生省課長を擁護するスタンスになります。なお、判決文を読んだわけではなく、新聞等の報道をもとにしています。


まず、薬害には難しい問題があるということは、すでに薬害肝炎について書いたところです。

これが、たんなる食品であれば、疑わしきは食せず、でよいのだと思います。疑わしいと思えば、その情報をすばやく発信するのがよいはずです。最近は、中国での加工食品の危険性が問題になりましたが、それは客観性のない差別的で行き過ぎた非難だという人もいます。かなり前ですが、「O157」について厚生省がカイワレ大根が原因食材であるかのような公表をしたことが問題とされたことがあります(これは国が民事訴訟で敗訴しています)。しかし、食品は、疑わしければ避ける、というのが正しいはずです。食品については、その安全性を生産者が保証すべきだと思います。食べるものについて「危険であるとは証明されていない」というのは通用しないはずです。生産者は、サンプルをとって検査するなど、常に安全性を確保し、安全性を証明できるようにしておくべきだと思います。そうすれば、疑われても、「潔白」を証明できます。「潔白」を証明できないのであれば、疑われてもしかたがありませんし、避けられてもしかたがありません。それは、疑った側に問題があるのではなく、「潔白」を証明できない生産者側に問題があるのです。国は、疑わしければ、それを公表し、排除してよいと思います。

しかし、薬品は、そう簡単にはいかないのです。

もし、薬害について、行政や、公務員が強く責任を問われるとすれば、少しでも安全性に疑義がある薬は認可しない、少しでも安全性に疑義がでた薬は認可が取り消される、ということになりかねません。その結果、その薬があれば助かった人たちが、死んだり、病に苦しんだりすることになるかもしれません。それが「正しい」のでしょうか。また、もともと薬というのは、必ず副作用があります。薬を使うことで病気がなおったり軽減されることもあるが、逆に、健康に害を及ぼすこともある、というのが普通なのです。難しい判断をしなければなりません。刑事責任まで問うのが本当に国民の幸福につながるのか、よく考える必要があります。

薬害肝炎について書いたエントリーをご覧ください。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10061907793.html

なお、薬害エイズについては、エイズウイルス(HIV)が混入した非加熱血液製剤が危険なのであって非加熱製剤自体が危険というわけではないことにも留意が必要です。非加熱製剤を使用しないというのは手段であり、その目的は、一部の危険な非加熱製剤を排除するということです。少しまわりくどくなりましたが、仮に一部に危険な非加熱製剤があるかもしれないといった危惧があったとして、非加熱製剤を一切使わないという思い切った手段をとるのは、おそらく、簡単にできる選択ではなかっただろうと想像されるということです。


次に、行政判断の不作為については、まず、これが、たんなる「不作為」ではなく、「判断の不作為」である点に注意が必要だと思います。たとえば、ある薬が危険であるとして、その薬の効能や副作用を調べろと命令されているにもかかわらず調べなかったとか、認可を取り消せといわれているのに手続きをしなかったとか、法律や規則に定められた基準や手続をせずに放置したというのであれば、すべき行為をしなかったということは明白です。この事件については、そうした状況はなく、当時の課長は、組織として、上司の命令を守り、法令を守り、仕事をしていた、といってよいのではないでしょうか。それにもかかわらず、「判断しなかった」ことについて刑事責任があるとしたのが、今回の判決なのです。

しかし、なぜ判断しなかったとして刑事責任を負うのが、課長なのでしょうか。係長や、担当者ではないのでしょうか。あるいは、部長や局長や大臣ではないのでしょうか。それについて合理的な説明ができるとは思えません。

そして、三権分立の基本的な考え方からいえば、判断するのは、政治の役割のはずです。行政官が、判断しなかった責任を問われるというのは、どこかおかしくないでしょうか。判断しなかったのは、政治家も同じですし、政治家を選んだ国民も同じなのではないでしょうか。


判決の具体的な内容にそって、もう少し論じてみます。


新聞報道によると、判決は、「当時の医師や患者が汚染を見分けるのは不可能だった。国は製剤を承認する立場。回収を製薬会社任せにせず、危害発生を防止する義務が刑法上も生じた」と論じているようです。

しかし、「当時の医師や患者が汚染を見分けるのは不可能だった」のであれば、たんなる行政官であった課長にも「汚染を見分けるのは不可能だった」はずではないでしょうか。

次に、「国は製剤を承認する立場」という点についてですが、今回の裁判は、国の責任や立場が問題となっているのではなく、課長個人の刑事責任を問うものです。国がどのような立場であろうとも、課長個人の責任や義務にはつながりません。このような判示があったとすれば、この判決は、明らかな誤りであり、誤判といわざるをえません。

そして、「危害発生を防止する義務が刑法上も生じた」というのは、かなり問題の核心となる言葉です。これも新聞報道等を見る限りですが、「薬務行政担当者には薬害防止の業務に携わる者としての注意義務が生じた」「エイズ対策の中心的立場にあった被告には、他の部局と協議して必要な措置を促す義務もあった」と判決は論じていますが、これらは職務上の義務について述べているにすぎません。管理職である以上、職務の上では、結果責任は免れない、とわたしは思っています。この課長が、降格されたり、減給されたりしても、それはやむをえないかもしれません。職務上は、義務がない場合であっても、結果に責任を負うのです。義務違反があれば、厳しく責任を問われるのは当然です。しかし、職務上の義務違反については、降格や減給といった職務上のペナルティが課されるべきです。職務上の義務違反があったとしても、ただちに犯罪になるわけではありません。判決全文をみなければはっきりしたことはいえないのですが、法律や上司の命令を守って職務をおこなってきたなにも悪い行為を積極的にしていない個人を犯罪者とするのに、もし、この程度の論拠しかないとすれば、あまりにもずさんな判決だといわざるをえないと思います。


判決の、ほかの部分の言葉も見てみたいと思います。

「薬務行政上必要かつ十分な対応を図るべき義務があったことは明らか」という言葉もあったようですが、まさしく、この言葉どおり、それは「行政上」の国の責任であり、それを、「個人」の「犯罪」の根拠とすることはできません。「国」と「個人」を混同し、「職務上の責任」と「刑事上の責任=犯罪になるかどうか」ということを混同した、二重の誤りがあり、先の「国は製剤を承認する立場」という言葉もあわせると、やはり、誤判である可能性がかなり高いのではないかと危惧します。

「医学的には未解明の部分があったとしても、非加熱製剤によるエイズ発症者がすでに出ており、感染で死に至ることも予測できた」といった判示もあったようですが、「予想できた」程度で、犯罪が成立するのでしょうか。他方、「非加熱製剤によるエイズ発症者がすでに出ており、感染で死に至ることも予測できた」のであれば「当時の医師や患者が汚染を見分けるのは不可能だった」はずはないのではないでしょうか。判決に矛盾はないのでしょうか。本当に、客観的な証拠にもとづいて事実関係を明確にして導いた結論なのでしょうか。なぜ医師や患者や議員や大臣や局長や部長か係長や国民には予測不可能で義務も責任がなく、この課長にだけ予測可能で義務があり責任があるということになるのでしょうか。

また、判決は一般論としてまず「第一次的には製薬会社や医師の責任で、国の監督権限は第二次的なものであり、行政の不作為が直ちに公務員個人の刑事責任を生じさせるものではない」とも述べているようですが、これは正確ではありません。「第一次的には製薬会社や医師の責任で、国の監督権限は第二次的なものである。かつ、行政の不作為が直ちに公務員個人の刑事責任を生じさせるものではない」が正しいでしょう。この部分の整理ができていなかったことが、「国」と「個人」の混同、「職務上の責任」と「刑事責任」との混同を招いたと思われます。




また、安部英・元帝京大副学長のことも少し書いておきたいと思います。ずいぶん前のことで、記憶を頼りに書きますが、安部氏は、事件が大きく報道された当時、まさに徹底的にバッシングを受け、批判の矢面に立ちました。しかし、安部氏がいることにより、薬害エイズ患者は増えたといえるのでしょうか。むしろ、安部氏の研究は、非加熱血液製剤の危険性を認識するのにプラスになったのではないでしょうか。安部氏がいなければ、薬害エイズ患者は、かえって増えていたのではないでしょうか。安部氏は、この分野の研究を進めていて、知識を持っていたために、危険性を認識して避けることができたかもしれません。しかし、勉強や仕事をしっかりして知識を持っていた人が責められ、怠惰にも勉強をせず知識もなく漫然としていた人は知らなかったのだから仕方がない、というのは、どこかおかしいのではないでしょうか。当時、わたしはそんな印象を持っていました。

海上自衛隊艦船の衝突と防衛大臣の責任について

海上自衛隊の艦船「あたご」と漁船の衝突事件について、石破防衛大臣の責任問題が、マスコミや政治の場で書かれたり発言されたりしています。これまでの、そして現在の報道の状況や、一部の政治家の発言には疑問がありますので、書いておきたいと思います。


今回の事件では、まず第一に優先されるべきは、被害者の探索です。第二が、事故原因の究明です。これは、まず誰にミスがあったのかという直接的な原因と、次にそのようなミスが発生した背景(訓練に問題はなかったか、マニュアルに問題はなかったか、組織全体の認識や雰囲気に問題はなかったか等)を究明する必要があり、今後の防止策につなげていかなければなりません。第三が、迅速かつ正確に情報伝達がなされたなかったことの反省と、その原因の究明です。誰にミスがあったのか、なぜミスがおこったのかを究明して、今後の改善につなげていかなければなりません。そして、最後、第四に、誰がどのような責任をとるのか、ということになるのだと思います。

しかし、現在の報道では、石破防衛大臣の責任論が第一にとりだたされ、第二に情報伝達の問題となっており、事故原因の究明はほとんど論じられず、被害者の探索状況については情報を見つけることも困難です。優先度が逆転しているのではないでしょうか?


情報伝達の問題については、「隠ぺい」「虚偽」という言葉が使われていますが、これは誤解を招く言葉だと思います。どちらの言葉も「悪いこと」だというイメージがある言葉です。使っている人は、あえて誤解を生じさせようと使っているのだろうと思います。

まず、確認しておくことは、石破大臣や防衛省が隠していた情報が、他のソースから漏れたためにわかった、ということはありません。すべて、防衛省から隠されずに情報が出ています。普通は、「隠ぺい」とか「虚偽」といった言葉を使うケースではありません。

問題があるとすれば二つです。一つ目は、誤った情報が出され、それが後で修正されたということです。二つ目は、情報が出るのが遅かったということです。

情報伝達は、早ければ正確性が損なわれ、正確性を重視すれば遅くなります。正確性が損なわれていることを「虚偽」といい、遅いことを「隠ぺい」だと、一部の人が言っているわけですが、この言葉使いの問題はすべに述べたとおりです。

有事の対応としては、スピードが優先されるべきだと思います。不正確でも、未確認でも、早く責任者に情報が伝達されることが必要です。後で修正したり、確認すればよいのです。情報の遅れは致命的になりえます。

今回の事件は、大臣への情報伝達が遅かったという点では、問題があったと思います。逆に、誤った情報が伝えられたということは、あまり強く責めるべきではないと思います。

そして、スピードが優先されるべきなかでも、緊急性のある情報と、そうではない情報があるはずです。

この事件では、衝突の事実がまず迅速に責任者である大臣に伝えられるべきであり、次に、自衛隊艦船と漁船の被害の現況が伝えられるべきであり、その時点で、なにをおいても探索優先という意思決定がなされ、探索が迅速かつ徹底的におこなわれるべきである、ということは、おそらく異論がないのではないでしょうか。

事故原因に関する情報、たとえば自衛隊艦船がいつ漁船を認識したのか、といった情報は、緊急性のある情報ではないはずです。また、事故原因に関する情報は、後から修正されたとしても、とくに問題のない情報のはずです。

それにもかかわらず、事故原因に関する情報に、報道が集中しているのはなぜでしょうか。

事件が発生したとき、報道機関に提供された事故原因に関する情報は必ずしも正確性が担保されたものではなかったのではないでしょうか?報道機関は、強く要求し、事故原因について、未確認の情報を聞き出したのではないでしょうか?そうした情報であったにもかかわらず、報道機関は断定的に報道してしまったことはないでしょうか?ところが、情報が修正されたために、報道機関は誤報をしたことになってしまい、その誤報の責任を情報ソースにぶつけることによって、自らの責任を回避しようとしたということはないのでしょうか?

そうした自己防衛や責任転嫁が本当にないのか、報道機関はよく考えてほしいと思います。


なお、ここで、情報伝達について気をつけておくべきことがあります。現場から責任者である大臣への情報伝達がスピード優先だとしても、責任者である大臣から報道機関や国民に対して情報を伝達する場合には、スピード優先とは一概にはいえないということです。情報が錯そうしたときに、確認がとれるまでは情報伝達を待つ、あるいは、修正を待つということが、一概に悪いことだとは思えません。


最後に、石破防衛大臣の責任について書いておこうと思います。

このブログの趣旨からは、石破防衛大臣を擁護する論陣をはるべきなのですが、この事件は、石破防衛大臣の責任問題となりうる事件だとわたしは思います。

自衛隊艦船は軍事力という強大な力を持っています。国民の生命と生活を守るために、その力が与えられているのです。力が与えられた者は、その力を濫用してはならず、その力の「暴走」がないようにしなければならないのです。これは、非常に重要なことです。警察官や、ライフルの使用許可を得ている人が、銃の管理や発砲について厳格なルールが課されているのと同じです。

さらには、自衛隊が軍事力を与えられたのは、国民の生命と生活を守るためですから、その力によって国民の生命や生活が脅かされるとすれば、それは自衛隊や軍事力自体の信頼低下につながります。軍隊への信頼がなくなることは、自衛力の低下につながりますので、国家の安全は危機に直面することになります。

したがって、この事件は、大臣の結果責任が問われうるほどの大きな事件です。そのくらい大きな事件であり、問題なのだということを、自衛隊関係者が認識するためにも、大臣の結果責任を問うのだということには、合理性があると思います。

他方、問われるべきなのは結果責任であって、石破防衛大臣の資質や能力に問題があるとされたわけではありません。辞任という責任のとり方が正しいのかどうか考える必要があります。また、仮に、石破防衛大臣が、結果責任をとって大臣をやめたとしても、将来また挽回・登用のチャンスが与えられてしかるべきだと思います。

公約は絶対に守らなければならないのか?

tadurabeさんのブログ「人生いろいろ」で、橋下大阪府知事と報道2001の黒岩キャスターとの議論について書かれていたので、少し、公約というものについて書いてみたいと思います。


橋下大阪府知事は、当選後、公約を修正したわけですが、これに対して、黒岩キャスターが「投票してくれた府民に対する裏切りだ」「起債は止めると言ったのに、起債をする事に方針を変更したのは、許せない行為だ」と非難したようです。(わたしは番組を見ていないので、tadurabeさんのブログ「人生いろいろ」をみて、他のサイトなども参照して、想像で書いています)


さて、当選後に公約を修正したり、撤回することは、本当に許されないのでしょうか。公約は絶対に守らなければならないのでしょうか。


政治家は、いったい誰を代表するのか、誰の利益のために政治をおこなうのでしょうか。


それが自分に投票してくれた人のためであるとすれば、公約は絶対だといえるかもしれません。公約を守らなければ、投票してくれた人に対する裏切りといえるでしょう。しかし、この考え方だと、自分に投票してくれなかった市民や国民は、どうなってもよい、ということになりかねません。

また、未成年者など、はじめから選挙権がない人もいます。自分に投票してくれた人のためだけに行動すればよいとすれば、未成年者など、選挙権のない人の利益は、はじめから守られないということになるおそれがあるのではないでしょうか。


自分に投票してくれた人のためだけではなく、市民全員、県民全員、国民全員のために政治をおこなうとすれば、公約を修正することも許されるのではないでしょうか。もちろん、公約は、市民全員、県民全員、国民全員にとって、もっともよいと思われるものを示すべきです。しかし、選挙で、全得票を1人がとるということはありません。たとえば、知事選挙で、対立候補と紙一重の差で当選したという場合、対立候補に投票した人を尊重し、対立候補の主張を取り入れるかたちで、自分の公約を少し修正する、ということは、一概に悪いことだと決めつけることではないと思います。

国会議員、地方議会議員については、もっとわかりやすいことです。自分が当選しても、同じ考え方の人が議会で少数派だった場合に、公約だからといって自分の主張をいっさい曲げずにいては、多数決で負けるだけであり、なんら政策の実現はできません。それよりは、少しでも自分の公約に近いものになるよう多数派の意見の修正を求め、自分の公約とは違っていても、より近いものに賛成していくというほうが、意味があるのではないでしょうか。場合によっては、ある公約はあきらめるかわりに、別の公約の実現に協力してもらうというこかたちで、多数派と妥協することも必要かもしれません。

他方、当選して、議会で多数派になった場合には、多数派だからといって少数派の意見を無視して公約実現に邁進するというのが、ただしいありかたなのでしょうか?会議の基本的ルールは、少数意見の尊重です。少数意見を尊重する必要がないのであれば、いきなり多数決をとってしまったほうが効率がよいのです。議論をかわすのは、少数意見を尊重し、場合によっては、多数意見が少数意見にあゆみよるためなのではないでしょうか。多数派になっても、少数派(に投票した人)の意見を聞いて、ときには少数派の意見を取り入れ、公約を修正するということも、必ずしも悪いことではないのではないでしょうか。

また、投票は、投票する人の考え方については、必ずしも市民全員・県民全員・国民全員にとってなにがよいのかではなく、投票した人自身にとってなにがよいのか、ということから決断されることもあると思います。そうであるならば、自分に投票しなかった人の意見や、自分とは違う考え方の意見もよく聞いて、修正し、妥協することは、絶対に否定されることではないと思います。

実際に投票するさいには、すべての公約をよいと思って投票するわけではないと思います。よいところもあるが、そうでないところもあり、トータルで考えて、この人の目指す方向がおおむねよいのではないか、というのが、普通の判断ではないでしょうか。

したがって、目指すおおむねの方向まで変更しては問題だと思いますが、個々の公約をすべて守らなければならないということでもないのではないかと思うのです。


日本国憲法第43条は、なぜわざわざ国会議員について「全国民を代表する」という規定を置いているのでしょうか。

未成年者という選挙権なき国民がいる以上、全国民で選挙をして選ぶ、という意味ではないことは明らかです。

東京都の選挙区から選ばれた議員が東京都民のことだけを考えてはいけないし、北海道の選挙区から選ばれた議員が北海道民のことだけを考えてはいけないし、労働組合の支持を受けて当選した議員が労働組合のことだけを考えてはいけないし、経営者の支持を受けて当選した議員が経営者のことだけを考えてはいけないのであり、全国民を代表するのだ、ということを定めているのではないでしょうか。


一見、明白に妥当だと思われることも、裏を返せば、必ずしもそうではないのだ、ということを、常に念頭に置いておきたいと思います。

あえて、公約は守らなければならない、という一見明白に妥当なことについて、書いてみました。