住基ネット最高裁合憲判決について
いわゆる住基ネットについて、最高裁で憲法に違反しないとの判決が出されました。この判決には、一部で、批判的な報道や発言もなされていますので、少し書いてみたいと思います。先日の薬害エイズ刑事事件では判決に批判的な立場で立論でしたが、今回は、このブログの趣旨からは、判決を擁護するスタンスになります。例によって、判決本文を読んだわけではなく、新聞報道等から得た情報の範囲で書いています。
まず、この判決から離れて、住基ネットについては、注意しておくべき点があります。
住基ネットのもととなる住民基本台帳は、行政法ではなく、民事法のなかに位置づけられています。
たとえば、私が、ある人から、なにかを買うときに、代金だけとられて商品を渡さずに逃げられたとか、粗悪な商品を売りつけられたとかいったことがあると困ります。相手の身元をちゃんと調べて取引したいと考えたときに、調べる手段として、住民基本台帳が整備されているのです。民と民の取引の安全をはかるために、整備されているわけです。したがって、住民基本台帳は公開が原則です。これを非公開とすれば、詐欺がしやすくなります。
戸籍も同じく民と民の取引の安全をはかるために整備され、公開されています。この土地を相続したと自分でいっている人から、その土地を買うとすれば、その人の戸籍を見て、それが本当かどうか確かめたいと私は思います。戸籍を非公開とすれば、やはり詐欺がしやすくなります。
つまり、住民基本台帳や戸籍の情報は、公開を前提として、収集されているものなのです。そもそも、守られるべき秘密ではないのです。そして、もともとは、行政が利用するものではなく、市民が利用するものなのです。
たとえ詐欺が増えてもこうした情報を公開すべきではない、と考える人もいるかもしれません。しかし、だからといって、現在の法律に基づいて判断した裁判官を非難するのは、筋違いです。そう考える人は、民事法の改正によって、その主張の実現をはかるべきなのです。
さて、住基ネットが憲法に違反するかどうか、という問いについては、どう考えても、違反しない、ということになると思います。憲法のどの条文を見ても、住基ネットが抵触するような文言はありません。
報道のなかでも読売新聞の社説は「当然の判断」としていますが、まったくその通りだと思います。
(そもそも、憲法には、「プライバシー」も、「自己情報コントロール」も、まったく記載されていません。だから憲法を改正しよう、という議論がありましたね。しかし、まだ改正はされていません。)
したがって、住基ネットが憲法に違反しない、という今回の判決は、まったく正しいものです。
何度も繰り返しましたが(そしてこれ以下でも繰り返しますが)、この裁判で問われたのは、住基ネットが憲法に違反するかどうか、ということであり、判決が示したのは、住基ネットが憲法に違反しない、ということです。それ以上でも、それ以下でもありません。
いいかえれば、住基ネットがよいものかどうかということ、すなわち「よしあし」を問題としたわけではなく、住基ネットはよいものだと判決が示したわけではない、ということです。
具体的に、判決に対してどのような批判がなされているかをあげ、その批判が妥当なものか検討してみます。
「最高裁は歴史に汚点を残した」というのは、なぜ汚点になるかを述べていません。最高裁は現在の憲法にもとづいて判決をしたわけですから、将来、憲法が変われば、また違う判決になるかもしれません。だからといって、それが汚点になるものではありません。「汚点」といった、悪い印象の「フレーズ」を使うことにより、悪いイメージを喚起させる発言ですが、こうした言葉には留意する必要があります。こうした発言があったのが事実だとしても、そのまま報道するべきかどうか、報道機関はよく考えてほしいと思います。
「あまりにもお粗末な判決」というのも、なぜ「お粗末」なのか述べていません。「汚点」と同じ、「フレーズ批判」です。
「国のいいなりだ」というのも、「フレーズ批判」だとは思いますが、一応もう少し論じてみます。国というのが、行政府か、国会か、わかりませんが、行政府は国会の決めた法律どおり住基ネットを運用しています。国会は、憲法に合致するものとして、住基ネットを整備する法律をつくったわけです。裁判所は、その法律が違憲ではないとみとめたにすぎません。
「司法権を放棄して行政に追随している。憲法について何らの研さんも積んでいない」というのも「国のいいなりだ」というのと変わりないでしょう。
「独自の判断がゼロに近い」というのは、裁判所は憲法にもとづいて判断したわけですから、自分の意見を述べているわけではないので、独自の意見があるというほうがおかしいでしょう。また、政府は憲法と法律にしたがって行政をおこなっており、裁判所も憲法と法律にもとづいて判決を示すわけですから、同じ判断になるのが通常だといってよいはずです。
「国の主張は全部正しいといっているだけ」というのは、実際に全部正しければ、そういうでしょう。判決に対する批判にはなりません。
「素人がみても情けない」というのも「フレーズ批判」ですが、素人だからわからないだけかもしれません。
「公権力が、本人の同意を得ずに国民の情報を自由に収集、利用する道を容認するもので、絶対に認められない」というのは、そもそも批判にさえなっていません。なぜ認められないか、ということをまったく述べていないからです。また、憲法に違反するかどうか、によって裁判はなされたのですから、容認するか容認しないか、あるいは、認めるか認められないか、という問題設定自体が誤っています。そして、住基ネットの収集・利用する情報は、これまでの住民基本台帳となんらかわりがないわけですから、なぜネットになると違憲になるのか、ということを説明していません。住民基本台帳のときから違憲だったということでしょうか?論旨不明です。
「自己情報コントロール権が憲法で保護されるかどうかが重大な争点だったのに、判決はそれに触れず、憲法の番人の責務を放棄してしまった」ということについては、「自己情報コントロール権が重大な争点だった」という根拠がありません。あくまでも住基ネットは憲法違反かどうかということが争われたのですから、それについて判断できれば、他のことを判断する必要はとくにないはずです。なお、自己情報コントロール権が憲法に記載されていないことは、憲法を読みさえすれば、誰の目にも明らかですから、判決が触れなくても当然です。また、この批判も、やはり、なぜネットになると急に違憲になるのか、ということを説明していません。
「住基情報の流出事故に触れていない」ということについては、住基ネット自体の違憲性と、情報の流出とは関係がないということにすぎません。住基ネットの違憲性について争うという選択をしたのは原告です。
「合憲判決で安心できるか」「住民側の不安や疑問に十分答えたとは言い難い」ということについては、何回も繰り返しになりますが、この裁判は、住基ネットは違憲でないか判断してほしいという原告の求めた裁判で、住基ネットは違憲ではないと判断したものです。住民の安心を保障し、不安や疑問を解消するためのものではありません。
「不人気住基カード」「住基カードの普及も進まない」「システムは金食い虫」というのは、住基ネットの違憲性とは無関係です。裁判では、費用対効果を問題とするわけではありません。違憲か、違法か、を問題とするのです。費用対効果は、政治の問題です。
「個人情報の保護を訴える住民側の主張が受け入れられずに残念」「合憲判決はらむ危険」ということについても、問題設定が誤っています。原告は「憲法違反を訴えた」のです。そして、「個人情報の流出の危険」と「利便性の向上」のバランスをどうとるかは、政治の問題です。判決に危険性があるわけではありません。「フレーズ批判」に近いものです。
結局、判決に対する批判は、いわば「フレーズ批判」と、住基ネットの「よしあし」についての見解ばかりです。
住基ネットの「よしあし」は、政治が判断すべきものです。もし、住基ネットに利便性を上回る危険性があるので反対だというのであれば(利便性と危険性の比較)、あるいはコストが見合わないので反対だというのであれば(費用対効果の比較)、住民運動、選挙、被選挙(立候補)という、民主的な手段によって、主張を実現すべきものなのです。議会制民主主義のもとで、どちらを選択するか、選挙し、議論して、決するべきことです。少人数の原告と被告の発言だけをもとに、選挙で選ばれたわけではない、わずか数人の裁判官が決めることではないはずです。
こうした圧力・プレッシャーが裁判官にかかることによって、裁判が事実と法律にもとづいてなされるのではなく、裁判が世論や「空気」や風潮によってなされるようになってしまうことを、わたしは危惧するのです。
また、政治の場で決めるべきことが、選挙や政策論争で勝てなかったからといって、裁判にもちこむという風潮にも危惧を感じます。ましてや、自分の思い通りいかなかったからといって裁判官を非難するというのは、いかがなものかと思います。それを煽るような報道がなされていないか、そのような報道が正しいあり方なのか、報道機関にはよく考えてほしいと思います。
逆に、判決は、憲法についての判断を示しただけですから、住基ネットの「よしあし」は、また別の問題です。別に、判決が住基ネットの安全性を担保するわけではありません。住基ネットの活用を推進する理由にはなりませんし、政治の場で廃止することを否定する根拠にもなりません。「判決を機に推進する」ということには、根拠がないということも指摘しておきたいと思います。