第6の権力 logic starの逆説 -3ページ目

鳩山総理の献金問題

しばらくブログの更新を差し控えていました。

このブログは、マスコミなどの多数意見にあえて反対のことを書いてみるというのが趣旨で、政争については書かないという方針ですので、政権交代時に書くと、党派的な意見というイメージになってしまうのではないかと危惧をしたからです。

平成22年度の政府予算案も出て、政権交代にかかわる動きも一段落といってよいと思いますので、また再開したいと思います。


さて、鳩山総理の献金問題が話題になっています。

これについて、鳩山総理を擁護するスタンスが書いてみたいと思います。


この問題の概要は、

本当は、鳩山氏の実母および鳩山家から、政治資金団体に、約10億円の収入(贈与)があった。

しかし、政治資金の報告書には、それらは個人献金やパーティ収入として記載されていた。

ということです。

法律違反は、虚偽記載と、贈与税の未払い(脱税)が問題となっています。


しかし、このように問題を整理すればわかるように、要するに、実家(家族)の財産を政治に使ったということなのです。

言い方を変えれば、自腹を切って、個人の財産を、政治に使ったということです。

道徳的に「悪いこと」とはいえないのではないでしょうか。

「私腹を肥やしたとか、不正な利得を受けたことはない」というのは、そのとおりで、むしろ、私財を政治に使ったのです。


お金の出所は個人財産として、使い道に問題があったのではないか、という疑問を持つかもしれません。

しかし、もともと個人財産なのですから、政治資金に入れることなく、個人が使えば、なんら痕跡はのこらないのです。

それを政治資金にわざわざ入れたわけですから、悪い使い道を考えていなかったということは推定できます。


贈与税については、知らなかった(貸付金として処理されていた)というのは、本当でしょう。

鳩山家の財産は、上記の資金提供からわかるように、とてつもないものです。

9億円程度の政治資金提供は、それほど気にとめていなかった、というのは、ありえることです。

一般人の感覚とは違いますが、一般人ではなく、とてつもない富豪なのですから、違って当然です。


とてつもない富豪が、自腹を切って、政治にお金をつぎこんでいる。

それが非難されるべきことなのでしょうか。

それに対して、税金を払え、税金を払わなかったから悪い奴だ、というのが、正しいのでしょうか。


むしろ、自腹を切って政治につぎこんでいる人からさらに税金をとるのはおかしい、と思えませんか?


お金持ちに対しては、私も、ねたみ、ひがみを持ちがちですが、、落ち着いて考えるべきではないでしょうか。

貧困・困窮者対策とワンストップ・サービス・デイについて

昨年「派遣村」が話題になったが、派遣村の村長をつとめた湯浅誠さんが内閣府参与となりました。

この湯浅さんのインタビューが朝日新聞に記載されていました。

・貧困・困窮者対策として、ハローワークでいろいろな相談を一度に受けられるワンストップ・サービス・ディを実施する。

・本当は、そこで生活保護も受けられるようにしたかったが、相談だけとなった。

という内容の記事でした。


この記事に、自治体の首長が抵抗したので、ワンストップ・サービス・ディで生活保護の手続ができるようにならなかったというトーンが出ていたように感じましたので、少し書いてみたいと思います。


まず、自治体がなぜ生活保護をワンストップ・サービス・ディでおこなうことに否定的だったかといえば、2つ理由があると思います。


ひとつは、湯浅さん自身が別のところで詳しく書いているように、住所がない方については、事実上、最初で受け付けたところで対応せざるをえないということです。

したがって、ワンストップ・サービス・ディの場で受け付けてしまったら、他の自治体で職と仕事を失った人でも、その自治体の住民の支払う税金で対応をしなければならないということです。

湯浅さんは、雇用は流動化しており、こうした方は自治体の税金で対応するのに限界があり、全額国費という制度設計も考える必要がある、とコメントしています。

また、湯浅さんは、たとえば昨年生活保護窓口への来訪者が急激に増えた名古屋市では、生活保護の窓口に来た人の半分は市外から来て、4分の1は県外から来ており、そうした懸念をするのはわかる、ということも発言しています。


しかし、これよりも、もう一つの理由のほうが大きいと思います。

それは、ハローワークは自治体単位であるわけではない、ということです。

A町の職員がハローワークに出て行って、生活保護の相談を受けても、隣のB市に住民票のある人が来た場合には、法律上、生活保護を受け付けるわけにはいかないのです。

したがって、ハローワークで、生活保護をすべて受けるということは、そもそも無理だったのです。

自治体の抵抗とか、そういったレベルの話ではありません。

本当に生活保護の受付までしようとするなら、ハローワークではなく、自治体の窓口でやるしかありません。


昨年、先ほどの湯浅さんのコメントにもあったように 名古屋市には、市の生活保護の窓口である福祉事務所に仕事と住まいを失った方が大量に来たために、当時の名古屋市長によれば、ハローワークの職員に福祉事務所に来てほしいと言ったが、来てくれなかったとのことでした。

その場で生活保護を受け付けるのであれば、市町村の窓口に集約するのが一番であるはずですが、ワンストップ・サービス・ディは、厚生労働省の窓口であるハローワークでおこなうことになっています。

職員を派遣をするほうが負担が大きく、職員の派遣を受けるほうはむしろ助かるということは、明らかだろうと思います。


また、自治体側は、何年の前から、「生活保護自体は全額国費でおこなうべきであり、働ける人と、働けない人とを区分して、雇用行政と一体化した制度に抜本的に改正すべきだ」ということも主張していますが、厚生労働省はその主張を受け入れていません。


さらに、比較的大きな都市は、自治体窓口で職業紹介業務を行うことを前提に権限と財源を移譲するよう主張しています。それが実現すれば、あえてワンストップ・サービス・ディをつくらなくとも、常に、ワンストップになりますが、厚生労働省は権限と財源を地方に移譲することに、強く抵抗をしています。


こうした状況をみれば、自治体の首長の抵抗といったり、自治体を悪者にするかのような報道は一方的であると考えます。

先に引用したとおり、湯浅さんの発言は公平であり、こうした報道は新聞サイドの意向か、取材不足によるものではないかと思います。

民法の改正について

民法の改正については、直接はこのブログの趣旨には関係がありませんが、国民の生活に大きなかかわりを持つものであるのに、政争に比べて、あまり報道されないので、ウォッチしていくこととしています。


平成21年夏までは、民法改正は、財産法の改正が主に論じられていました。

なぜ、民法の改正が議論されているのか、その必要性は、私は実はよくわからないのですが、

(1)今の民法をみても、よくわかならいということ

(2)今の民法と、実際の裁判での結論(判決)との違いが大きいこと

の二つが理由であると思います。


しかし、今の民法と、実際の裁判で結論(判決)が違うということが、そもそもおかしいわけで、裁判の判決は、民法にそってなされなければならないはずです。

勝手に民法を無視する判決を裁判官がしており、それを法学者やマスコミが批判をしないので、民法と判決との違いがどんどん大きくなってしまったのではないでしょうか。

その結果、今の民法をみても、実際の裁判になったらどうなるか、わからなかくなってしまったのではないでしょうか。


すなわち、民法を改正する必要はあまりなく、ちゃんと法律にもとづいて判決をするように、裁判のほうをあらためる必要がある、というのが、私の基本的な考えです。

それが、裁判の結果にあわせて法律を改正し、へんな民法になってしまうのではないか、ということを危惧しています。


民法改正で最も大きく論じられているのは、契約を守らなかったとき、守らなかったことに過失がなくても、責任を負うことにしよう、ということです。

しかし、現在の民法をみても、契約を守らないことによる損害賠償責任については、「過失があった場合に」ということは記載されていないのです。

現在の民法を素直に読んで、あてはめれば、契約を守らなかった場合には、過失の有無にかかわらず、責任を負うということになるのです。

それを、過失がある場合のみに責任を負うというような判決がなされ、法学者もマスコミもそれを否定せずにいたために、定着してしまったということなのです。

ですから、民法改正は、もともとも民法の内容をより明確にして、これまでの誤った裁判や、法学者の意見を修正するものととらえるべきだと思っています。


また、民法改正が必要な理由として、よく「詐害行為取消権」が取り上げられます。

100万円の借金がある人がいて、その人の唯一の財産である宝石が時価100万円であったとします。しかし、その人はその宝石を100万円で売っても、全部借金の返済にまわさなければなりません。それで、やけになって50万円という安い値段で売ってしまったとします。そうすると、その人に100万円を貸していた人は、借金を回収できずに困ってしまうので、この50万円での売買を取り消すことができるようにするというのが、「詐害行為取消権」です。

民法改正が必要だ、という人は、この「詐害行為取消権」が「腐っている規定」だといいます。

しかし、はじめてこの規定をこのブログで知った方は、どう思われるでしょうか。

この説明を見て、「腐っている」と思いますか?

そんなことはない、有意義な規定だと思うのではないでしょうか。

この「詐害行為取消権」が「腐っている規定」だという人は、ただ取り消すだけでは、また同じようなことを繰り返すのを止めることができない、と言います。

しかし、その場合には、また「詐害行為取消権」を使えばよいわけです。

それでも不十分だと考えるのであれば、財産の処分を制限するしかありません。それは、「詐害行為取消権」が不十分だからではなく、「詐害行為取消権」とは別の「財産処分制限制度」をつくるかどうか考えるべきなのです。(そうした「財産処分制限制度」は、本当は民法ではなく、民事執行法や破産法といわれる制度の領分であり、わたしは現行法の規定で十分だと考えていますが、不十分だとしても、それは「詐害行為取消権」の問題では本来ありません。)

それを「詐害行為取消権」という民法の規定で解決しようとして、へんな判決がでたり、法学者がへんなことを言い出したために、おかしなことになってきたのではないかと思うのです。


他方、政権交代ののち、民法の財産法ではなく、家族法関係の改正が論じられるようになってきました。

12月24日の千葉法務大臣も記者会見で意欲を示しているようです。

改正の議論にあがってきそうなものは、

(1)成年を20歳とする規定をあらため引き下げる

(2)婚姻外の子における相続差別の撤廃

(3)離婚後の女性の婚姻制限期間の短縮

(4)夫婦の氏を同姓強制から、同姓別姓選択制にする

(5)夫婦貞操義務を定める

(6)夫婦財産契約の法定化

(7)婚姻外カップルの制度化および保護

といったことです。


家族法分野については、どちらが正しいというよりも、価値観の問題が強いと思われます。

もともと、家族法について熱心に取り組んでいる人は、家族法を変えたいと考えている人ですから、価値観としてバイアスがあるといわざるをえません。

価値観を排除して考えると、


(1)民法上の成年は20歳ですが、刑法はもっと若く、税金は、何歳であってもおさめなければなりません。刑法や税は義務で、民法や選挙権が権利であると考えれば、権利がない者に義務を課すというのはフェアではありません。民法や選挙法上の成年は引き下げるというのがフェアであろうと思われます。


(2)婚姻外の子についての相続差別は、もともとまったく根拠がないといわざるをえませんので、はじめから問題があったと言わざるをえないでしょう。


(3)離婚後の女性の婚姻制限は、子の父親を明確にするためにあったわけですので、DNA鑑定なので、父親の判別が科学的になされるようになった現代では、撤廃してもよいでしょう。もともと、民法上の親子は、形式主義をとっています。科学的に血縁関係を証明することが難しかったからです。ですから、民法上の親子について、形式主義をあらためて血縁主義をとすることが前提で、それにあわせて婚姻制限期間も撤廃するのが整合性があります。婚姻制限期間のみを撤廃・短縮すると、他の規定との不整合が生じます。


(4)夫婦の氏については、同姓別姓選択制は別姓を強制しないという点で優位です。同姓強制は別姓を望む人にも同姓を強制するということから、同姓強制論者が選択制を否定する根拠を示していない以上は、強制のない選択制を否定することはできないと思われます。


(5)現在の民法には、夫婦貞操義務はありません。まるで、貞操義務があるかのような判決がなされていますが、明らかな誤りです。その誤った判決に合わせて民法を改正しようという、おかしな議論です。貞操義務は、法律上強制することはできません。法律とは無関係の、倫理・道徳の問題とみるべきです。法律上の婚姻とは、相互扶養と相続の発生という、外形的なものです。法律が倫理・道徳を規定することはできないし、すべきではないと考えます。


(6)夫婦財産契約というのは、今でもできることで、普通の契約と変わりありません。それを、夫婦以外の第三者にも主張して、優先できるようにしようということですが、これは、第三者を犠牲にして、夫婦間の取り決めを保護しようということです。密接な関係がある夫婦よりも、むしろ第三者を保護すべきであると私は考えます。


(7)婚姻外カップルは、法律上、一切保護されない、ということでよいと私は思っています。法律上の婚姻とは、相互扶養と相続の発生という外形的なもので、それを選択しなかったのですから、法律上の保護がないのは当然だと思われます。夫婦は、婚姻届を提出することによって戸籍に記載され、誰にでも明らかになるために、第三者に対しても主張できるのであり、戸籍に記載されいてない夫婦関係は、登記されていない土地の取引と同じで、当事者間では約束を守るよう主張できても、第三者に対してその約束を主張することはできないはずなのです。


要するに、民法は、家族法であっても、道徳法でもなく、倫理法でもなく、相続をはじめとする家族間の権利と義務を定める財産の法律であるということを、忘れるべきではないと考えます。

感情的な主張ではなく、事実を整理して、客観的に考えることが必要です。

また、国民におおきな影響を結果的に及ぼすものであるので、国民がよく知ることも大切だと思っています。


このテーマに関する過去のエントリー

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10279938493.html

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10279917449.html

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10159508529.html

神戸市長に55億円の賠償を認めた判決について

しばらくブログの更新を差し控えていました。

このブログは、マスコミなどの多数意見にあえて反対のことを書いてみるというのが趣旨で、政争については書かないという方針ですので、政権交代時に書くと、党派的な意見というイメージになってしまうのではないかと危惧をしたからです。

政権交代の動きもそろそろ一段落したと思いますので、再開したいと思います。


さて、11月27日に、住民訴訟で、神戸市長に55億円の賠償を認める判決が大阪高等裁判所でありました。


おおむね報道は客観的ではありますが、住民・判決サイドの主張しか掲載をしていないところに偏りが見られますので、神戸市長を全面的に擁護するスタンスで書いてみたいと思います。


新聞記事等をもとにこの事件の概要をまとめますと、

(1)神戸市は外郭団体に職員を派遣し、その団体に人件費を補助金として支出していた

(2)この補助金の支出を違法として、その支出額全額を神戸市長が個人で神戸市に支払うよう住民訴訟が提起された

(3)1審では、神戸市長が敗訴し、約47億円を、神戸市長が神戸市に支払うべきとの判決がなされた

(4)神戸市議会では、1審判決後、神戸市長の賠償請求を放棄する条例を議決した

(5)大阪高等裁判所では、この議会の条例の議決を「住民訴訟制度を根底から否定するもの」として、「議決権の濫用」であり、無効として、神戸市長に対し神戸市に55億円の支払いを命じた。

ということのようです。


しかし、そもそも、なぜ、この事件が、神戸市長個人が、神戸市に対して、50億円もの支払いをしなければならないのか、私には、まったくわかりません。

神戸市長は、個人の利益をはかったわけでもなく、補助金の支出も神戸市長が個人で判断・決定したのではなく、市の職員が手続きを踏んで、予算について議会の議決を経て、隠すことなく支出していたわけです。


今回の事件の最大の論点である、議会の請求権放棄を考えてみます。

なぜ議会が請求権を放棄したのでしょうか。

これは、議会自らがその支出を承認していたわけですから、その責任を市長ひとりに負わせるべきではない、という判断をしたものと思われます。

この判断は、おかしいでしょうか。

あなたが、あるグループの役員であったとします。ある役員が、リーダーに、「みんなの会費から、これだけ、これに使っていい?」と聞かれたので、リーダーは何人かの役員を集めて、オープンに議論して、「それでよい」と判断して、使い道も会員に公開したうえで、支出をしたとします。

支出後に、突然、会員の一部が、「それは違法だ。リーダーが1人で全額返却すべきだ」と言ってきたとします。

あなたはどう考えますか?

「役員会で議論して、決めたことではないか。リーダー個人が返却することではないではないか。役員会で、その点をはっきりしよう」というのが、おかしなことでしょうか。趣旨を根底から覆すことでしょうか?


そして、法律において、議会の議決により、賠償請求放棄ができるということも定められているのです。

それにもかかわらず、議会の議決を無効とする高裁判決こそが、いかに「趣旨」や「濫用」をもちだそうと、法律を無視する、誤った判決ですl。

そして、なぜこのような議会の議決がなされたのかも理解しておらず、この判決は、住民訴訟制度の根本をわかっていないものといわざるをえません。


本当は、議会の議決の前に、ちゃんと裁判所が判断をすれば、今回の事件で個人賠償ということになるはずがないのです。


個人の賠償は、市長や職員個人が独断で違法行為をおこなって自治体に損害を与えた場合に限定すべきです。

議会を含めて自治体の多くの人が判断した結果を市長個人一人に押し付けるようなことは誤りです。

そして、とても個人に責任を負わせるべきではないという議会の判断を無効とするような、今回の判決は明らかに誤りです。

それ以前に、この判決は、神戸市の「損害」と神戸市長の「責任」についても、まともに判断していません。

しばしば、行政法上「なんらかの」違法があるとして、ただちに、市長個人の故意・過失や、因果関係や、民事賠償上の違法や損害の有無を検討せずに、市長の個人賠償を認める判決がしばしばなされており、この判決も、そうした判決の一つであるように思われます。


本来は、個人賠償は、職員が違法行為にり自治体の損失によって個人の利益を得たような事案について、法律用語でいえば、自治体に「損害」が発生し、それが個人に「起因」し、その「責任」が個人にあるとされる場合に、求められるべきものです。

そうした損害の回復を、自治体がおこなわない場合に、自治体に代わって住民が裁判をおこすという、住民訴訟というものが認められるはずです。

しかし、神戸市長は、私腹をこやしたわけでもなく、個人の独断をしたわけでもありません。

住民訴訟は、神戸市に代わって、住民が提起するものです。

神戸市が神戸市長を訴えるものです。

仮に、今回の支出になんらかの違法があったとしても、それは、神戸市ではなく、神戸市長にすべて責任があるといえるでしょうか。

先に説明したように、とてもいえないと思います。

また、仮になんらかの違法があったとしても、繰り返しますが、ただちに神戸市に損害があったことにはなりません。

今回の判決は、神戸市に損害があったということも、まともに判断をしていません。


住民訴訟では、この判決のような、ちゃんとした法律上の判断をしない、ひどい判決がしばしばなされます。

行政法の手続違反があっただけで即高額の賠償を市長に認める、あるいは、どちらをとるかという政策の判断を市長がきちんと法律の手続きを踏んで議会にもはかって進めたにもかかわらずそれが誤っていたとして即高額の賠償を市長に求める、といったものです。

こうした判決がでるために、住民のほうも、住民訴訟で政策的主張をしたり、あるいは、是正を求める訴訟ではなく、高額の個人賠償を求める住民訴訟を提起したりするようになりました。

わたしからみれば、こうした住民訴訟や、判決こそが、住民訴訟の趣旨を根底から覆すものです。


こうした酷い住民訴訟が乱発し、また、客観的な法律判断をせず、「趣旨」や「濫用」ということから、高額の個人賠償を認める判決裁判官が乱発してしまったために、住民訴訟制度は見直さざるをえなくなりました。

住民訴訟制度は改正され、住民から直接個人への訴訟ができなくなってしまったのです。

政策の是非や、手続的・形式的な違法を争うのではなく、自治体の損失により個人の利益をはかった者を追求するのが、本来の住民訴訟の個人賠償請求です。

それができなくなってしまったのです。

わたしはこの改正には反対であり、むしろ改悪だと思っていますが、その原因は、酷い訴訟の乱発と、ひどい判決が相次いだための、やむをえない措置であり、責められるべきは、裁判官と、その判決を是認してしまった法学者、住民訴訟を濫用した一部の弁護士、住民であると思っています。


ところで、裁判官がどれほど誤った判決をしたとしても、裁判所や裁判官個人の賠償責任を認めた判決はありません。

法律のプロである裁判官が間違えても責任は問われず、法律のプロとはいえない市長が法律の判断を誤った場合にはただちに全額を個人で払えというのです。

明らかに、不合理で、不可解であると思います。


こうした酷い判決をする裁判官がいるために、政治・行政も裁判をおそれて十分に機能しなくなり、ひいては国民が不幸になるのではないか、と危惧します。

住民票の写しを交付しなかったことを違法とした判決

平成21年6月30日に、住民票の写しの交付を求められた自治体が、その理由について確認を求め、相手方がそれを拒否したために、交付をしなかったことを違法とし、賠償請求を認めた判決が福岡高等裁判所でありました。


前のエントリーで書きましたが、もともと戸籍や住民基本台帳は公開のものであり、誰もが閲覧でき、また、写しの交付を求められるものでした。

それが、法改正により非公開に変更になり、戸籍や住民基本台帳の性格が一変したわけです。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10197304011.html

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10078189381.html


この判決は、改正前の法律での、住民票は原則公開ということを確認したものととらえられます。


しかし、住所、氏名、性別、生年月日が、本当に、秘匿を必要とするプライバシーなのか。

メリットとデメリットをしっかりと比較して、検討された様子がないのが気にかかります。

議員の世襲制限について

最近、議員の世襲制限についての記事が掲載されています。

マスコミの論調は、世襲制限を支持するものが多いようです。

このブログの趣旨から、世襲制限に反論する立場で書いてみたいと思います。


世襲制限を主張する立場の根拠は、議員の世襲が、他の人が議員になることの障壁になっている、ということです。

しかし、世襲制限がなかったら議員に立候補するという人は、どれほどいるでしょうか?

ほとんどいないのではないでしょうか。

マスコミは、こうした点もあわせて調査して報道してほしいものです。


一般の人の議員への立候補が少ないのは、議員は、リスクが高く、リターンが少ないからだと思います。

議員厚遇をよくマスコミが話題にしますが、本当に厚遇であれば、立候補者が多いはずです。

選挙に落ちれば失業者、プライバシーはない、マスコミからは非難される、そして報酬はそれほど多くなく、厚生年金もない。

これでは、一般の人は、立候補しようとしないのが当然でしょう。


一般の人の立候補を増やすには、選挙に落ちた場合でも、リスクが少ない社会制度をつくる必要があります。

それは、転職しやすい社会をつくるということです。

いまの日本は、いったん正社員になれば簡単に解雇されませんが、いったん失業すると、再就職することは非常に難しい社会になっています。

きわめて特殊な、わが国の、終身雇用制度の影響があります。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10185637139.html

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10064501512.html

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10063441570.html


この転職しやすい社会をつくるということは置いておいて、別のことを考えてみます。

まず、誰もが議員になれるという被選挙権を否定するわけにはいかないでしょう。

世襲が一般の人の立候補の障壁になるといいますが、それよりも、現職の議員が同じ選挙区に長くいることのほうが一般の人の立候補の障壁になります。

そこで、一度当選した議員は、同じ選挙区から立候補することはできない、としたらどうでしょうか。

そうすれば、議員は、地盤で当選するのではなく、政策や活動実績で当選することになります。

また、特定の地域(自分の選挙区)のことを考えるよりも、日本全体のことを考えやすくなります。

仮に世襲したとしても、地盤というものがなくなるわけですから、地盤を引き継ぐということもなくなるのです。


都道府県知事や市町村長の多選を制限しようという主張をする国会議員がいますが、それならば、国会議員も多選を制限すべきではないでしょうか。少なくとも、同じ選挙区からの多選は制限されるべきではないかと思うのです。

派遣の雇い止めの対策について

前に、派遣の雇い止めについて、このブログに書いたことがあります。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10185637139.html


最近、派遣の雇い止め対策について、報道されるようになってきました。

派遣労働の制限をかけようという方向です。

これについて、少しだけコメントしておこうと思います。


派遣労働は、労働者は、派遣会社(派遣元)と契約します。

そして、派遣会社(派遣元)と派遣先との契約により、労働者は派遣先で働くことになります。


派遣先の会社は、なぜ直接社員を雇うのではなく、派遣を活用するのでしょうか。

それは、業務には繁閑があり、今は業績が好調でも、将来は業績が悪くなる可能性があるからです。

わが国のきわめて厳しい解雇制限にもとづく、終身雇用制のもとでは、いったん正社員を雇用すると、解雇することができません。

そこで、忙しいときだけ、派遣社員を活用するわけです。


もっとわかりやすい例をあげると、社員が育児休業をとったときに、その社員の分の仕事をどうするかと考えたときに、そこで新しい人を雇用すると、育児休業から復帰したときに人が余ってしまいます。

そこで、育児休業の期間だけ、派遣を活用するわけです。


こうして考えると、派遣労働を活用すること自体は、悪いことではありません。


問題は、労働者と派遣会社(派遣元)との関係にあります。


派遣労働で考えられていたのは、労働者は派遣会社(派遣元)の正社員として、労働契約を締結しているというかたちです。

派遣会社(派遣元)は、たくさんの労働者をかかえて、必要な派遣先会社に、派遣をする。

派遣がない場合には、派遣会社(派遣元)で労働者はスキルアップのためのトレーニングをする。

それで、派遣労働者は、即戦力として、働くことができるわけです。

派遣先会社は、正社員を雇用するよりも、むしろ高いお金を派遣会社に支払う。

それで、派遣会社(派遣元)は、派遣依頼がない場合でも、労働者に給料を支払うことができるわけです。


しかし、現実には、登録派遣という形態が常態化しています。

すなわち、派遣会社(派遣元)と派遣労働者との関係が、正社員ではなく、契約社員という非正規雇用の関係にあるということです。

派遣自体が非正規ではなく、派遣会社(派遣元)が非正規雇用というかたちをとっているということなのです。


派遣先企業が、直接契約社員を雇用するのではなく、派遣を活用するのは、即戦力としてのスキルと、雇用のための手続きの省力にあるわけです。


いずれにしても、派遣の雇い止めは、派遣労働であるからの問題ではなく、契約社員であるからの問題です。

そうだとすれば、派遣労働自体の制限では解決できないのではないでしょうか。

鳩山総務大臣の辞任と郵政問題について

郵政社長の西川氏の再任問題にからんで、鳩山邦夫総務大臣が辞任しました。


これまで、このブログの趣旨により、鳩山大臣の「発言」を擁護する立場で書いてきましたが、今回は、鳩山大臣(当時)の言動を否定する立場で書くことになります。


まず、総理大臣と総務大臣はじめ各国務大臣との関係について、書いておきます。

実は、総理大臣には総務大臣はじめ各国務大臣への指揮命令権もありませんし、総理大臣は各省庁の国家公務員に対して直接指揮命令することもできません。

だからこそ、国や政府においては、「抵抗勢力」というものがありえるのです。

これに対して、都道府県や市町村においては、すべての職員は、知事や市町村長を補助する立場であり、知事や市町村長は指揮命令をすることができます。(独立性を保つための委員会は例外です)

都道府県知事や市町村長が直接選挙で選ばれることもあわせて、地方自治体は国ほどは縦割りではないのです。


しかし、総理大臣は、いつでも各国務大臣をいつでも罷免することができます。

都道府県知事や市町村長は、部長を任意に罷免することができません。部長は、知事や市町村長の命令を聞くことが前提だからであり、命令を聞かなければ職務命令違反で処分できることになります。


したがって、総理大臣と国務大臣が意見を異にするに至った場合には、最終的には総務大臣はその大臣を罷免するしかないのです。

今回は、罷免の前に辞任に至りましたが、総理大臣と国務大臣が意見を異にし、その結果、国務大臣が辞めるというのは、まさしく制度にそった、あるべき結果なのです。

このこと自体は問題視することではなく、麻生総理大臣や鳩山総務大臣を批判したりすることでははないでしょう。


さて、本題に入り、鳩山大臣の言動について、否定的なスタンスで書いてみたいと思います。


今回の問題は、

(A)郵政が民営化されて株式会社となった

(B)株式会社となった後、「かんぽの宿」を一括売却する契約がなされた

(C)鳩山大臣は、売却価格が不当に安く、また一括売却ではなく施設ごとに売却されるべきであり、売却手続も競争性のないものであったと主張した

(D)郵政会社は、博報堂と包括的な広報業務契約を締結していた

(E)鳩山大臣は、従来は包括的な契約ではなかったことを指摘し、また、博報堂の子会社職員が逮捕された後も契約を継続しようとしたことを「癒着」であると批判した

(F)財務大臣は日本郵政の株主として取締役選任を否決することができ、また、これとは別に総務大臣は郵政会社の社長の認可権があるため、総務大臣単独で郵政の西川社長の再任を阻止できる

(G)民営化後、郵政会社は一定の利益を出しており、経営的には一定評価できる状況にあって、西川社長を再任させるべきという主張が与党内でも出ていた

(H)鳩山総務大臣は、西川氏を再任させないことが「正義」にかなう「正しい」判断であり、妥協はありえず、「総理を信じている」。西川氏が続投するのであれば自分の罷免・辞任もありえると発言した


という経緯から、結局、総務大臣が辞任することになったわけです。


ここで最大の問題は、(H)であると思います。

鳩山氏は、「正義」「正しい」という言葉を繰り返し主張し(辞任後も使っています)、「自分がやめるか、西川氏がやめるか」を総理に迫ったわけです。

しかし、本当であれば、総務大臣は、西川氏の功罪を評価し、西川氏が郵政社長にふさわしくないことを説明すべきでした。また、「かんぽの宿」や「博報堂との広報業務契約」が、社長の辞任に値する問題だということを、しっかりと説明すべきでした。

それを、「正義」「正しい」という感情的な言葉に終始し、「自分と西川氏のどちらをとるのか」という西川氏の業績や資質とは無関係の言動は、まさしく、国民にとって大事な郵政会社をどうするのかということを議論するに、ふさわしいものではなかったといわざるをえません。

特に、「かんぽの宿」を「国民の大切な財産」といっていますが、それなら民営化すべきではなかったのではないでしょうか。

また、「かんぽの宿」は政府で売却してから、民営化することもできたはずであり、売却方法を民営化後に任せたのは政府ではなかったのでしょうか。

不当に安いというのであれば、いまでも「かんぽの宿」を政府で買い取って、正しい価格で転売すればよいのではないでしょうか。それで国民の財産は確保できます。

要するに、自分ではうまくできずに丸投げをしておいて、その処理を批判をするというのは、いかがなものでしょうか。

責めを負うべきは、西川氏ではなく、政府ではないのでしょうか。

東京中央郵便局も国として保存する価値があるのであれば、政府が買い取るのが筋ではないでしょうか。


西川氏にしてみれば、「かんぽの宿」については、多少安くなっても、素早く処分して、違う業務にエネルギーを集約するほうがメリットが大きいと判断したのではないでしょうか。

一括売却や一括契約を鳩山大臣は批判していますが、それこそ、民営化して、民間の知恵と効率的な経営に任せたことではなかったのでしょうか。

そして、仮に「かんぽの宿」ではマイナスだったかもしれませんが、郵政会社の利益拡大により、「国民の大切な財産」を増やしたのも、西川氏の経営下ではなかったのでしょうか。


このように、鳩山氏の言動は、その態度においても、内容においても、支持することができません。


鳩山氏が法務大臣であったさいの「ベルトコンベアー」発言や「冤罪」発言は、その内容には「理」がありましたが、マスコミからバッシングされることになりました。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10072939701.html

そして、「死神」報道のさいには、「情」に訴えて世論を味方につけることができました。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10108872233.html

その体験により、今回も、感情論を前面に出したとすれば、まったく残念なことだと思います。


なお、もともと鳩山邦夫氏は、自民党から離党するつもりであり、その大義名分と、世論の支持を得るためのパフォーマンスとして、このような行動に至ったという可能性もないわけではありません。

そうした可能性に、ほとんどのマスコミが言及あるいは示唆していたと思います。

西松事件の民主党第三者委員会報告とマスコミの反応について

平成21年6月10日、西松建設から民主党の小沢一郎代表(当時)側への献金について、民主党の第三者委員会の報告がなされました。

そこでは、マスコミの報道に対する批判がなされているようであり、マスコミもこれに対して反論を掲載しています。

新聞報道でわかる範囲でまとめてみると、第三者委員会のマスコミに対する指摘は

(1)「巨額の違法献金事件」と決めつけ判決確定前に容疑者である秘書を「有罪視」した報道がなされた

(2)西松建設の東北地方における公共工事受注(仮になんらかの問題があったとしてもすでに時候が成立しており刑事事件になりえない)と政治献金が関連しているような印象が過大に強調された報道がなされた

(3)検察サイドの情報を大きく扱い、関係者といった情報源が明示されていない表記で表現した

ということになるようです。


マスコミは、当然、第三者委員会の報告に対して反論し、非難しています。

(A)小沢前代表は公人である

(B)逮捕された秘書が有罪と決めつけるような報道はしていない

(C)政治とカネの問題は報道する責務がある

(D)多方面に取材して複数の証言等から裏付けがとれている

(E)取材源の秘匿の必要性から「関係者」との表現をしている

(F)民主党・小沢サイドが反省すべきであるのにマスコミを批判するのはおかしい

といったことのようです。


しかし、

(A)小沢前代表は国会議員以外に公職についておらず大臣等に比べれば公職度は低く、また、秘書は公職ではないことは明らかであるが、その点をどのように考えたのかマスコミは応えていないのではないか。

(B)たしかに秘書を有罪と決めつけるような表現は微妙に避けているが有罪であるという印象を抱かせるような表現をしているのではないか。

(C)政治とカネの問題を報道すること自体を第三者委員会の報告書は否定しているのではなく、要するに報道が偏っていることを指摘したのであり、それに対してはマスコミは応えていないのではないか。

(D)政府の要職についているわけではない小沢氏には職務権限がないことは明白であるが、それにもかかわらず小沢氏の事務所がどのように談合組織にかかわることになったのか、具体的にどのようにかかわったのかは報道されておらず、「影響力」といったあいまいな表現がなされたのはなぜか。そうした表現が許されるのか。裏付けがとれているのであれば新聞社の責任により「事実」として客観的に報道し、具体的なかかわりを証明して「事実」であると反論すればよいにもかかわらず、そうした態度を示していないのはなぜか。(E)「関係者」では、検察サイドからの情報か否かが明確ではなく、検察サイドの情報ばかり報道したのではないかという懸念が払拭できない。また、検察サイドではないのであれば、それを明確にすべきではなかったのか。そもそも、検察サイドからの非公式情報を報道することは適切なのか。


という疑問が残るように、マスコミが批判に答えたとは言い難いと思われます。

なお、(F)は感情論であり、論評するに値しないでしょう。


検察・警察サイドの情報を大きく扱い、判決確定前に有罪であるかのような印象を与えるような記事を掲載し、本来の事件とは直接関係のない疑惑や過去についても記述するというのは、西松事件に限らず、いつものマスコミの報道姿勢なのではないでしょうか。

それをあえて指摘し、批判したのが、この第三者委員会の報告であったのではないでしょうか。

それは、西松事件において、容疑者が有罪であるか、小沢代表(当時)や民主党に責任があるかどうか、とは別の問題であるはずです。

法科大学院と弁護士の数と新司法試験について

最近、法科大学院に関する新聞記事をしばしば見るようになりました。


法科大学院修了者がほとんど合格するというのが新司法試験の考え方であったのに、合格率は30%ほどになっている。(受験者数と合格者数の比率による合格率ではなく、出願者数からみた合格者数の割合はもっとはるかに低い)

新司法試験の合格率の高い法科大学院と、合格率の低い法科大学院とに二分されている。

新司法試験の合格率の低い法科大学院を中心に、法科大学院の定員割れがおきている。

こうした状況を受けて、法科大学院の入学定員を減らすよう国ははたらきかけており、さらには、新司法試験の合格率の低い法科大学院を廃止すべきという主張がなされている。

新司法試験に合格者数が増えているため、新司法試験に合格しても、弁護士事務所に就職できないものが増えている。

こうした状況を受けたうえで、弁護士会は、弁護士という職業の魅力を向上しなければ、よい人材が集まらないため、質が低下するとして、新司法試験の合格者数を減らすように主張している。


こうした状況にあるようです。


しかし、新司法試験の合格率が低くなる、というのは、わかっていたことでした。

合格者数は決まっており、それよりも大幅に法科大学院の定員が多いわけですから、当然、合格率は低くなります。

合格率を高くしようとするならば、合格者数を増やすか、法科大学院の定数を減らすか、どちからしかありません。

国は、合格者数を増やすのではなく、法科大学院の定数を減らす方向で調整をしているわけです。

そして、弁護士会も、合格者数を増やすことには反対しています。


これらの主張とはまったく逆の考え方を、提示してみたいと思います。(逆説ですので)

すなわち、合格者数を増やすということです。

まず、新司法試験は、合格者数を決めた競争試験にするのではなく、一定のレベルがあると認められれば合格する能力試験にします。

法科大学院で一定レベルの教育がなされ、修了が認定された人であれば、ほとんど合格するはずです。

司法修習制度は廃止して、実務は実際に仕事をしながら習得します。

多数の弁護士が競争することにより、弁護士の質は高まり、能力が低いレベルの弁護士は淘汰されます。

それでは、せっかく新司法試験に合格しても、たいへんではないか、という声が聞こえてきそうですが、公認会計士も税理士も司法書士も、みな、こうした条件です。弁護士だけ違うシステムにする理由はありません。


経済界は、一般の企業が「高い質のサービスを維持するために参入を減らして競争のない状況にすべきだ」といっても支持されないのであり、それは法曹も同じだ、と主張しています。

この経済界の主張はもっともであり、質を維持するために競争を減らせという弁護士会の主張のほうが、分が悪いのではないでしょうか。