第6の権力 logic starの逆説 -4ページ目

なぜ民法を改正しなければならないのか

このブログでは、民法改正の動きについて、ときどきとりあげていますが、法律時報という雑誌の2009年6月号(第1009号)に、平成21年2月に開催された「民法改正フォーラム」がとりあげられていました。


そこでは、「なぜ、今、民法改正か」という根源的な問いがなされたということが紹介されていました。


そこで、星野英一さんという著名な民法学者が、

・「なぜ、今か」というような、社会の中のターニングポイントはないかもしれない

・民法が国民から程遠いところにあるので、一般の人にわかりやすい民法をつくる必要がある

・「民法とはなにか」ということが忘れがちになっているので、再検討するよい機会である

と述べています。

これに対して

・ピンポイントの時期ではないかもしれないが、現代は、長い周期でみたときのなだらかな変化の曲線の中の一つのターニングポイントとしての改正時期というべき

という考え方も示されたようです。


わたしは、民法を改正する理由があるとすれば、それは、現在の民法を無視した判決がたくさんなされているということだと思います。

本当は、法律をみれば、裁判になったらどのような判決がなされるか、わかるはずです。

しかし、実際には、法律の規定とは違う判決がたくさんなされています。

これは、放置すべきではない、ということです。


そうすると、改正の方向性は、次の2つになります。

(1)法律とは違う判決がたくさんなされているので、そうした判決にあうように法律の内容を変える。

(2)法律とは違う判決がたくさんなされているので、そうした判決がなされないよう、法律の内容は変えずにもっと明確に記述する。


前のエントリーでも書きましたが、法律学者のあるグループから(1)の方向の提案がなされています。

星野英一さんは、判決の内容をそのまま法律に書くのではなく、「判決の再吟味が必要」との発言をされたそうですが、まったく同感です。


わたしは改正するのであれば(2)の方向の改正のほうがよいと思っています。

わたしは、現在のわが国の民法の内容は非常に優れており、とくに大きく民法の内容を改正する必要はないと思っています。

それにもかかわらず、たまに裁判官が、直感的な思いつきで法律を無視したり、法律の規定に気づかずに、おかしな判決を書いている、というのが実態だと思っています。

判決をそのまま法律に書くのではなく、判決が妥当なのかどうか、再検討すべきです。そうすれば、ほとんどがおかしな判決だとわかると思います。


なお、現在、国で検討されているのは(2)の方向の改正のようです。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10279917449.html

民法改正の新聞記事について

平成21年4月19日の日本経済新聞の朝刊に「民法、抜本改正へ」という見出しの記事が掲載されました。

民法改正は、市民生活や、社会のあり方に大きな影響を及ぼすものであるため、チェックしていきたいと思っていますので、紹介したいと思います。


記事の内容によりますと、改正の焦点となるのは契約の賠償責任で、「『過失の有無』を重視してきたこれまでの考え方を『契約を守れなければ一定の責任が生じる』という原則に改める。例えば売り手が期日までに商品を引き渡さないトラブルの場合、現行法では『仕入れ先の納品遅れ』など売り手に過失がなければ賠償責任もない。改正法では、売り手に一定の賠償責任を負わせる」とのことです。


しかし、実は、現行の民法でも、契約が守れなかった場合の賠償責任については、過失がなければ賠償責任もない、とは書いてありません。


民法415条は、このように定めています。

「債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。債務者の責めに帰すべき事由によって履行をすることができなくなったときも、同様とする。」


1文目を見れば、明らかに、契約を守れなければ、常に損害の賠償を請求されると読めます。

なお、2文目では、「履行をすることができなくなったとき」は、「債務者の責めに帰すべき事由」がある場合には、賠償責任を負うとありますので、「債務者の責めに帰すべき事由」がない場合には、賠償責任を負わないように読めます。 しかし、これは「履行をすることができなくなったとき」に限ります。「仕入れ先の納品遅れ」があっても、「履行ができなくなった」わけではありません。仮に仕入れ先が倒産したとしても、他の仕入れ先を探したり、手をつくせば、履行は可能です。たとえば世界で1つしかない美術品を売買する場合で、その美術品が焼失した場合には、「履行をすることができなくなったとき」に該当しますが、引き渡し前に焼失した場合には、ほとんどの場合が、債務者の責めに帰すべき事由があったといえるでしょう。(例外は天災や戦争でしょうか)


これに対して、契約がない場合の賠償責任(いわゆる不法行為)については、過失の有無が重視されます。

民法709条は、「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と定めています。


民法415条と民法709条を比べれば明らかなように、契約が守れなかった場合には過失がなくても賠償する、契約と無関係に他人に損害を発生させたときには故意か過失があった場合に賠償する、というように、民法は定めているのです。


しかし、それを、なぜか、契約がある場合も過失がある場合に限って賠償責任が生じる、というように法律学者が勝手に主張し、裁判所も法律を無視してそのような判決を出してきたというのが、これまでの経緯なのです。


民法415条は、平成16年に改正されています。

これは、「口語化」といわれるもので、わかりやすい言葉に改正しようとするものです。

平成16年改正前の民法415条は次の規定でした。

「債務者カ其債務ノ本旨ニ従ヒタル履行ヲ為ササルトキハ債権者ハ其損害ノ賠償ヲ請求スルコトヲ得
債務者ノ責ニ帰スヘキ事由ニ因リテ履行ヲ為スコト能ハサルニ至リタルトキ亦同シ」


現在の民法415条は先に書いたように

「債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。債務者の責めに帰すべき事由によって履行をすることができなくなったときも、同様とする。」

ですから、意味は同じです。


この平成16年の改正のさいに、当初は、

「債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき、又はその履行をすることができなくなったときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし、その債務の不履行が債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。」

というように改正する案が示されました。

2文目を見るとわかるように、「債務の不履行が債務者の責めに帰することができない」場合には、履行ができなくなったときに限らず、賠償責任がないとするものです。

改正前の民法の定めを無視した法律学者の主張や裁判所の判決にあうように、内容まで改正しようとしたのです。

しかし、最終的にはこの改正案は採用されず、意味を変えない口語化の改正がおこなわれたわけです。


それにもかかわらず、まだ、契約が守れなくても過失がなければ責任がないという考え方が法律学者や裁判所の判決では当然のようにまかりとおっているのです。


平成21年4月19日の日本経済新聞に掲載された記事は、契約が守れなかった場合には過失がなくても賠償責任が生じるということをもっとはっきりと法律に書き込むことによって、法律を無視してきた裁判所の判決を正そうとするものです。


このブログの前のエントリーでは、法律を無視して裁判所が法律とは違う判決してきており、この判決にそって法律を改正しようという提案が法律学者からなされている状況について紹介しました。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10159508529.html

これとはまったく逆の動きです。


前のエントリーにも書きましたが、わたしは、どちからといえば、法律を無視した判決にもとづいて法律を改正するよりも、法律を無視した判決がなされることのないよう現在の法律の内容を変えることなくより明確にするほうを支持します。

日本の法律は高度に整合性がとれており、それにもかかわらず、たまに裁判官が、直感的な思いつきで法律を無視したり、法律の規定に気づかずに、おかしな判決を書いている、というのが実態だと思っています。


今朝の新聞記事をみて、少し安心したところです。


耐震偽装訴訟の判決について

2月24日に、姉歯元建築士による耐震偽装事件について、強度不足が判明してホテルを建て替えたホテル経営者が、建築確認をした愛知県を相手取って提起した訴訟で、愛知県の損害賠償を認める判決が名古屋地方裁判所でありました。

多くの新聞がとりあげていますが、現在のところ、客観的なスタンスでの報道が大勢のようです。

このブログの趣旨から、この判決を批判する立場で、少し書いてみたいと思います。


要するに、十分な審査をすれば、設計が安全でないことは把握できたにもかかわらず、把握できなかった、というところに、判決は、愛知県の責任を認めているようです。

判決は、建築主事は建築物の安全性を確認する専門家であり、建築主の信頼にこたえるための注意義務があるとしています。

しかし、本当、愛知県が建築主に対して法的な「義務」を負っているのでしょうか。


愛知県が建築確認をしているのは、誰のためでしょうか。

建築主であるホテル経営者のためにおこなっているのでしょうか。

そうではありません。

愛知県が「義務」を負っているのは、県民、国民に対してです。

この建物が地震により倒壊し、通行人に被害が出ないようにするために、建築確認をおこなっているのです。

もし、本当に建物が地震によって倒壊し、通行人に被害が出た場合に、その被害者が愛知県に対して損害賠償を求めるというのであれば、理解できます。

しかし、建築主が愛知県に損害賠償を求めるというのは、理解できません。


建築主こそが、本来、安全な建物を建てる義務があるのです。

他人を危険にさらすような、危険な建物をつくってはならないのです。

その義務に違反した建築主が、愛知県に、税金から、損害の補てんを求めるというのは、なにかおかしくないでしょうか。

安全な建築物をつくるということでは主体が建築主で、そのチェック・サポートをするのが県です。

整備不良の車で事故をおこしたり、スピード違反で事故をおこしたドライバーが、ちゃんと事前に取り締まってくれれば、事故はおこさなかった、と言って、警察を相手に損害賠償を求めたら、その請求は認められるでしょうか?

それとよく似た状況だと思っています。


なお、この件で最も責任があるのは、姉歯元建築士であることは間違いありません。

ホテル経営者は、姉歯氏を相手どって訴訟をすれば、絶対に勝てるのです。

しかし、姉歯氏には、損害を賠償できるだけのお金がありません。

それで、税金による補てんを求めた、というのが、今回の訴訟なのです。


このような判決がなされれば、建物を建てようとする人は、どんな建築士に依頼をするようになるでしょうか。

能力が高く、資金もある建築士は、報酬も高いと思われます。

そういう建築士にホテル経営者が依頼をしていれば、耐震偽装などおこらなかったし、仮におきても、ホテル経営者の損害は建築士からの損害賠償で解決ができます。

しかし、最終的に損害が発生しても税金から損害が補てんされるのであれば、能力がなくても資金がなくてもよいので、報酬の安い建築士に依頼をすればよい、ということになりはしないでしょうか。

結果的に、安全に問題のある建築物が増える、誠実で能力のある建築士は高い報酬のために依頼がなくなり廃業せざるをえなくなる、ということになってしまいます。


さらに、判決は、法定の項目以外も県は審査して安全を確認する必要があると言っています。

建築確認は、行政の規制ですので、できるだけ範囲を狭くして、裁量をなくするほうがよいはずです。

このように、県は法定項目以外の審査をすべきとして、県の賠償責任を認めると、建築確認審査はきわめて厳しくなるでしょう。


こうした社会全体の影響を考えることを裁判官はしていませんし、そのためのトレーニングもしていませんので、それ自体を批判するつもりはありません。

だから、裁判官は、こうした社会全体のことを考えてつくられた(はずの)法律のみに基づいて判断をするわけです。

ところが、「愛知県がホテル経営者に対して義務を負っていたか」という、もっとも基本的な法律判断をせずに、おそらくフィーリングで、<しっかり審査していれば防げた>ということのみから判決を書いてしまったと思われます。わたしは、そこが問題だと思います。


判決は、建築確認審査は危険な建築物を出現させないための「最後の砦」だと言っています。

しかし、「最初の砦」が建築主なのであり、そもそも、建築主に安全な建物をたてる義務があるのです。

「最初の砦」を守らなかったホテル経営者が、「最後の砦」を守れなかった県を訴えたのが、今回の裁判です。

その「砦」は建築主の利益を守るためのものではなく、県民・国民の安全を守る砦であるはずなのです。

民法改正試案について

平成20年11月3日の毎日新聞の朝刊に、民法改正についての記事が掲載されました。

法務省が、民法の大改正に着手するとの記事です。

改正の対象は債権法で、消滅時効を5年か3年に統一するということなどが検討されるようです。

こうした、シンプルさを目指す改正の方向を、わたしは支持します。


ところで、民法改正については、大学の学者でも議論がなされ、試案が提示されています。

平成21年1月1月発行の判例タイムズ1281号にその内容が掲載されています。

現在のシンプルな民法を規定を、複雑にしようとするものだというのがわたしの評価です。

http://www.h6.dion.ne.jp/~law/min/minsian.html

わたしは、こうした方向の改正は、基本的な考え方に問題があると思っています。

いくら詳細に規定しても法律や裁判ですべての問題を解決することはできないし、ほとんどの市民にとっては法律がわかりにくくなるだけだと思うのです。


また、改正試案では、これまでの裁判の結果を、法律に盛り込もうとしています。

しかし、裁判の結果を法律に盛り込むのは話が逆で、法律にしたがって裁判がおこなわれるのが、本当のはずです。

裁判の結果を法律に書く必要があるということは、法律とは違う裁判がされているということです。


わたしは日本の法律は、高度に整合性がとれていると思っています。

本当に、法務に携わる国家公務員の方々や、国会で法案審議をする政治家の方々は、たいへん優秀だ、と感じます。

それにもかかわらず、たまに裁判官が、直感的な思いつきで法律を無視したり、法律の規定に気づかずに、おかしな判決を書いている、というのが実態だと思っています。

(しかも、それをマスコミが画期的は判決、といって報道したりするのです。「画期的な判決」なんて、あってよいものでしょうか?)


ですから、裁判の結果を法律に書き込むかどうか、ということは、よくよく検討しなければなりません。
わたしは、基本的には、今の民法を大きく改正する理由も必要もない、と思っています。


あまりおかしな改正がなされることはないだろうと思っていますが、民法のような市民の法律については、政治的な関心が低く、報道もされませんので、結構、学者の案で進んでしまうということがあります。


いずれにしても、日々の生活に関係する法律ですから、改正にあたっては、国民全体が関心を持ち、多くの人々がよいと思えるような改正をするのが望ましいと思います。

多くの方に関心を持っていただきたいし、マスコミでも取り上げてほしいと思います。

政府・国会でも、しっかりと議論をしてほしいと思っています。


(関連するページ)

http://last-rock.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-ca3f.html

http://blog.goo.ne.jp/9605-sak/c/616ade4ad900468ae503a459e5501b55

http://www.shojihomu.or.jp/saikenhou/indexja.html


産科医療補償制度について

今月(平成21年1月)からはじまった産科医療補償制度について、少し書いてみたいと思います。

新聞などで少し記事になっていますが、分娩に関連して発症した脳性麻痺について、産科医の過失の有無を問わずに、補償する制度です。

産科医の過失の有無は問いませんが、分娩に関連して発症した脳性麻痺に限りますので、先天性の場合などは除きます。

補償額は最大で3600万円です。


これは、国の法律による社会保険ではありません。

国が先導しましたが、産科医(病院)が任意にこの制度に加入するか選択します。

産科医(病院)がこの制度に加入した場合に、産科医(病院)から妊産婦に事前にこの制度が適用される旨の書面が提供されます。

掛け金は分娩1回につき約3万円で、産科医(病院)が負担しますが、これは分娩費(出産費用)として、妊産婦に転嫁されます。

そのため、社会保険から支給される出産育児一時金が3万円増額されました。


http://www.sanka-hp.jcqhc.or.jp/index.html

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/sanka-iryou/index.html

http://www.gov-online.go.jp/useful/article/200812/3.html

http://www.gov-online.go.jp/pr/media/magazine/ad/221.html


このように説明すると、産科医(病院)が加入する任意の私保険のようですが、産科医(病院)が直接保険会社の保険に入るのではなく、財団法人日本医療機能評価機構が産科医(病院)と保険会社の間に入ります。


この制度から補償をもらった場合に、さらに医師や病院に対して損害賠償請求をすることもできますが、この制度から得た補償額は損害賠償額から減額されます。


制度全体をみると、自動車損害賠償責任保険にかなり近いと感じる人もいると思います。

どちらも、無過失で補償されます。

制度から補償を得た場合でも損害賠償を別途求めることができますが、制度から得た補償額は損害賠償額から減額されます。

しかし、違いもあります。

ただし、自動車事故は加害者と被害者とに事前の面識はありませんが、医療事故は事前に契約関係にあります。したがって、潜在的な加害者が保険料(掛け金)を負担するのは同じですが、産科医療補償制度では、それが妊産婦に転嫁されます。

また、自賠責保険ではドライバーが民間保険会社と直接契約しますが、産科医療補償制度では、なぜか、財団法人が間に入ります。

そして、自賠責保険は法律に基づく強制加入制度ですが、産科医療補償制度は任意加入の民営の制度です。

なによりも、自賠責保険では、ドライバーの無過失責任が法律上明記されていますが、産科医の医療事故では法律上は従来と変更がありません。


さて、この制度はうまくいくのでしょうか?

この制度の目的は次の3点だと言われています。

(1)分娩に関連して発症した脳性麻痺児およびその家族の経済的負担を速やかに補償します。

(2)脳性麻痺発症の原因分析を行い、将来の脳性麻痺の予防に資する情報を提供します。

(3)これらにより、紛争の防止・早期解決および産科医療の質の向上を図ります。


わたしは、この制度について、かなり疑問があります。

(1)については、医師や病院の過失について論じることなく、速やかに補償するということだと思われますが、もともと、出産は契約なのですから、民法上は無過失責任です。そうではないという法律家が多数いますが、法律の条文をみれば、過失責任でないことは明らかです。その点はおいておいても、契約関係にあるわけですから、この産科医療補償制度がなくても、どのような場合に補償するかは、当事者で事前に取り決めておくことができるのです。また、あくまでも任意加入ですので、産科医(病院)が加入をしていない場合には、速やかな補償はされません。強制加入の自賠責保険と違うところです。

(2)については、補償制度とは直接関係がないといわざるをえません。

(3)ですが、この制度による補償を受けたうえで、さらに損害賠償も請求できるわけですから、紛争の防止・早期解決に役立つ理由はありません。また、産科医療の質の向上も、やはり、補償制度とは直接関係がないといわざるをえません。

そして、財団法人が間に入ることによって、確実にコストは上乗せされます。


わたくしの私見では、財団などはつくらずに、無過失責任を法律上明確にしたうえで産科医(病院)が加入する民間保険を整備するか(自賠責保険方式です)、たんに妊産婦が加入する民間保険を整備するか、どちらかのほうがよかったのではないか、と思います。


また、紛争の防止を重視するのであれば、この制度により補償を受ける場合には損害賠償ができなくなる、あるいは、この制度に加入している医師(病院)により出産をする場合には妊産婦は損害賠償を事前に放棄する、という仕組みを入れるべきでした。


実は、わたくしは、この問題について、15年ほどまえにアメリカの状況を紹介する論文を書いたことがあります。当時のアメリカでは、高額の訴訟をおそれて産科医が減っている、その解決策として保険制度が採用されている、あるいは、その解決策として保険制度の採用を検討すべきだとの議論がなされていました。

そこでは、やはり、無過失補償と、損害賠償の放棄が、ポイントになっていました。

わたしが15年前の論文で紹介したオコンネル氏は、無過失で補償する代わりに損害賠償を放棄するという制度をつくり、現在の損害賠償と無過失保険とのどちらかを選択させれば、被害者あるいは被害者になりそうな人は、おそらくほとんどが無過失保険を選ぶだろう、と主張していました。


しかし、わたしは、わが国では、無過失保険ではなく、損害賠償を選ぶ人もかなりいるのではないかと思います。また、被害者が無過失保険を選んで補償を受けながら、あとになって裁判を起こすというきともありえると思います。そして、裁判になれば、裁判官は、そうした事前のとりきめ(すなわち契約)を無視して、損害賠償を認める可能性が高いと思います。

それは、わが国の裁判が、正義や、善悪や、社会的責任を追及する場になってしまっているからです。

出産事故で裁判を提起する親は、損害の補償よりも、誰か悪い人を見つけたくて裁判をおこすのではないでしょうか。病院や医師が訴訟を避けるのは、賠償金を払うことよりも、まるで悪人であるかのように糾弾されるのを避けたいと思うからではないでしょうか。


本当は、裁判は、法律上の権利の有無を形式的に判断するところにすぎません。そこに、裁判官や法学者やマスコミが違う価値観を入れてしまっているために、こうした出産事故などの裁判が、誰にとっても不幸なものになってしまうと思うのです。


正しいことをしても損害の負担を求められることはあるし、誤ったことをしても損害の負担を求められないことがあります。本来、行為の「よしあし」と、誰が損害を負担すべきか、ということは別のことなのです。

保険は、「行為のよしあし」と、「損害の負担」を切り離すシステムとしては、優れています。しかし、「行為のよしあし」と「損害の負担」とを切り離すということを(法律上はすでに切り離されているのだということを)、社会の多くの人が理解しなければ、社会的には機能しないのです。

裁判所は、行為の「よしあし」や「善悪」や「正義」を判断するところではなく、事実と法律と判断するにすぎないところだということを、法律や裁判所ではすべての問題を解決することはできないのだというあたりまえのことを、まず法律家が認識すべきです。

先に述べたように、今のわが国の状況では、わたしは、たんに医師(病院)が加入できる民営の損賠賠償責任保険と、妊産婦が加入できる民営の補償保険とを整備する(よう国が働きかける)のが、最もシンプルな解決だろうと思うのです。

ただし、この無過失補償制度は任意加入ですので、この補償制度よりも安価でよい保険を提供する民間保険会社が出てくるかもしれませんので、それを促すということであれば、この制度も、国の保険整備の働きかけとして、意味があると評価できたのですが・・・


最後にもう1点。

厚生労働省の決定によって、健康保険の出産育児一時金が3万円増額になるのは、産科医療補償制度に加入している分娩機関で出産した場合のみになりました。

しかし、健康保険は「保険」であり、出産育児一時金はなにに使ったかを問わない定額給付であるはずです。

これは、健康保険と出産育児一時金の仕組みからいって、とんでもない決定です。

産科医療補償制度に加入せずに自分で保険に入った産科医(病院)で出産しようとする場合、妊産婦が得られる一時金が3万円減額されます。

また、妊産婦自身がこの制度ではなく、自分で民間の保険に入ろうとした場合には、その金額は自己負担です。

こうなると、事実上、産科医療補償制度の強制加入といってよいわけです。もし、こうした選択をするのであれば、法律上、強制加入・強制適用とすべきでした。

任意加入のポーズをとり、法律の策定を省略したわけです。

出産育児一時金の額は、法律ではなく、政令で決定することになっています。法律で定めなくてよいということを悪用した脱法行為であり、姑息な手段であり、また、一時金の額を人によって変えるという平等に反するようなことを強行する暴挙である、といわざるをえません。

派遣の雇い止め、内定取り消しや解雇者への対応について

最近、企業の業績悪化が伝えられ、派遣の雇い止めが話題になっています。


急に仕事を失った派遣労働者の方は気の毒ですが、企業を一概に責めるのもどうかと思います。

企業は、まず正社員は解雇できない、正社員の解雇よりは派遣の雇い止めほうがしやすい、という判例(本当は「法制度」というべきなのですが、実際にそうした法律があるかといえばあやしいのです)があるために、派遣の雇い止めをしたということなのです。

もっといえば、こうした事態に備えて、正社員の採用を抑制して、派遣を活用してきたのです。

正社員の雇用確保を第一とするわが国の労働政策にしたがって、企業は合理的な行動をしたのです。


また、昨年は、新卒の採用は、近年にない売り手市場といわれました。

ところが、急に「不景気」の声が聞こえ、内定取り消しが話題となっています。


内定を取り消された方は、本当に気の毒ですが、企業を一概に責めるのもどうかと思います。内定取り消しをやめても、そのつけは、来年あるいは再来年の新卒者に採用減というかたちで回されることになります。その人たちが犠牲になるべきだ、という価値判断が絶対のものとはいえません。

企業は、まず正社員は解雇できない、正社員の解雇よりは内定取り消しのほうがしやすい、という判例(本当は「法制度」というべきなのですが、実際にそうした法律があるかといえばやはりあやしいのです)があるために、内定取り消しをしたということなのです。

内定を維持するために正社員を解雇してもよいとすれば、たぶん、企業は、可能性のある内定者を採用して、もっとも働きの悪い正社員を解雇したでしょう。この正社員は、雇用保険がありますし、このほうが合理的です。

もっといえば、採用が景気に左右されるのは、正社員を解雇できないからです。本当は、企業は、景気にかかわらず、働きの悪い正社員を解雇して、そのぶん採用を増やしたいはずです。しかし、それが許されないために、採用で人員の調整をせざるをえないのです。

やはり、正社員の雇用確保を第一とするわが国の労働政策にしたがって、企業は合理的な行動をしているのです。


正社員は、内定者や派遣労働者よりも手厚く保護されます。

しかし、別のエントリーにも書きましたが、すでに「一家に一人は正社員」という状況ではありません。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10185650634.html


これはアンフェアで不公平ではないか、そうまでして正社員を保護するということがわが国の発展にとってはたしてプラスなのか、ということを、考えるべきです。

(というのも、正社員の解雇が厳しく制限されるということは裁判官と労働法学者がつくりあげたものであり国会で議論されていないからです)


そもそも、もとから失業していた方もいます。こうした方々は、いっそう厳しい状況になるでしょう。

このような状況において、自治体等が、解雇された人に対して低い家賃で公営住宅を提供したり、自治体自身が臨時職員として雇用するといった対策を講じています。

(雇用保険と臨時職員との給料の関係を考えると、この臨時職員という対策の趣旨・効果は疑問であり、雇用保険加入対象外の短時間労働者しかメリットがありません。)

しかし、もとから失業しており就職がいっそう厳しい状況になった人たちは支援の対象外であり、特定の人に優先的に支援がなされることによって、こうした方々の立場はさらに厳しいものになります。

労働者の保護は、失業者の犠牲の上になりたっているのです。


わが国の労働問題は、厳格な正社員の解雇制限による終身雇用制度を抜きにして語ることはできません。


倒産する企業も出てきています。正社員は手厚く保護されますが、裏返すと、他の正社員が解雇されないということですので、いったん失業した人にとっては、再就職はたいへんに厳しいということになるのです。


正社員の雇用確保が第一だと考えるのであれば、こうした内定者、派遣労働者、失業者の不利益は、社会として想定された犠牲だというべきであり、このことで誰かを批判したり非難したりするのは一貫性がないと思います。

派遣労働は女性の問題か

派遣労働者の雇い止めが話題になっています。

この話題自体については、後日、書いてみたいと思いますが、その前提として、派遣労働者一般について、少し書いてみたいと思います。


派遣労働者というと、女性のイメージをもたれる方も多いと思います。

男女共同参画の文献では、統計を根拠に、正社員の女性が減って、派遣で働く女性が増えたとして、女性問題として派遣労働が語られることもしばしばあります。男性は正社員で、女性は派遣社員であって、賃金等の差別がある、ということです。


しかし、統計は、しばしば都合のよいように使われます。

先に結論を決めておいて、その結論に都合のよい数字を統計からひっぱってくるわけです。

学術的な文献であれば、本来はそうした可能性は低いはずですが、実は、学術も、学者がその学術分野を選択したという場合に、なんらかの政治的・政策的な主張がしたいと思って選択をしていることがあります。その時点ですでにバイアスがかかっていることもあるのです。


実際に、誰かが整理したパーセントや割合ではなく、客観的な数字だけをみていくと、派遣を含む非正規労働者は年々増えています。

それでは、その分、正社員が減っているかどうかということを見てみると、ここ10年はたしかに減っています。

それを男女別にみてみると、女性の正社員は、戦後一貫して増え続けています。それが、10年ほど前に頭打ちになりました。数年前から少し減っていますが、現時点では、まだ減少傾向にあると明言することはできません。

他方、女性の非正規労働者は、10年ほど前から増え続けています。

すなわち、10年前までの傾向は女性の正社員が増え続けている、10年前からは女性の正社員の増加は止まり女性の非正規労働が増えている、ということです。

女性の正社員は減っておらず、これまで労働者ではなかった女性が、非正規労働者になったのです。

(しかしパーセントで書くと、働く女性のなかで、正社員の割合が減り、非正規労働の割合が高くなったと書けるわけです。)


他方、10年前から、男性の正社員は明らかに減り、男性の非正規労働者は増えています。

トータルとして、企業が労働者に提供する仕事量や賃金はそれほど変わっていません。


結論として、これまで働いていなかった女性が、派遣などの非正規労働で働くようになり、その分、男性の正社員の仕事がなくなって、男性も非正規労働で働くようになった、ということです。逆の言い方をすれば、男性の正社員を非正規雇用に切り替えたために、女性が非正規雇用で働く余地が生まれた、ということになります。


絶対数や割合からみれば派遣など非正規労働は女性の問題ですが、歴史的に見れば非正社員化は男性の問題なのです。


ここ10年、女性の正社員は増えておらず、男性の正社員は減っているのですから、正社員自体は減っています。

男女に限らず、非正規労働者が増えています。

夫が正社員で、妻が非正規雇用というイメージで捉えるべきではありません。

さらに、核家族化、世帯の細分化が進んでいます。

すでに、「一家に一人は正社員」という時代ではない、ということが見えてきます。

それでも、正社員の雇用確保を第一にする従来の労働政策を続けるのがよいのでしょうか。

そこまで考えるべき問題だと思います。

子育て期にある社員の残業規制について

子育て期にある社員について残業を規制しようという案を労働政策審議会で厚生労働省が示しました。これ自体は、ひとつの案にすぎず、必ずしも政府の考え方というわけではないかもしれませんが、少し書いておきたいと思います。


10年ほど前は、女性の残業や、深夜勤務について、規制がありました。これが、女性の社会進出への妨げとなっているということから、撤廃されました。撤廃前の状況で、女性と男性の能力がイコールなら、いざというときに徹夜してでも仕事をかたづけられる男性のほうに、責任ある仕事を任せようと思うのは、経営者としては当然でしょう。


子育て世代の残業規制も、だから子育て世代には重要な仕事を任せられない、ということになってしまうのではないか、という危惧が生じます。

ただ、女性の残業規制は、本人が深夜でも働きたいと考えても、深夜勤務をさせることができないという規制でしたが、案として示された子育て期の残業規制は、本人が希望する場合のみ適用されるようですから、同視できないでしょう。

また、女性か、男性か、ということは、あたりまえですが、採用する前から決まっています。女性より男性に責任ある仕事をまかせる、ということだけではなく、女性よりも男性を採用する、という判断に傾く可能性があります。子どもができるかどうかは採用時にはわかりませんので、採用差別にはつながらないと予想される点も、女性の残業規制と同視できないところです。


まず、指摘しておきたいのは、実は、現在でも、企業は、社員の子育てに配慮しなければならないということなのです。それは、労働時間設定改善法に定められています。この法律は、これまでの契約関係や労働関係を根本的に変える内容を含んでいます。


さて、この問題をつきつめると、企業がいつでも労働者に残業を命じることができるのがおかしいのではないか、というところに行き着きます。

労働者は、たとえば1日8時間の労働を提供して、その対価として、8万円の賃金を得るわけです。

ある人が、8個の卵を80円で買うという契約をしていたとして、買主が一方的に、100円だすから、10個売れと命令できるでしょうか。そんなはずはありません。

しかし、労働関係においては、使用者が一方的に10時間働け、と命令できるとされています。判例もあります。ところが、実は、そんなことは法律にはどこにも書いてありません。


なぜ使用者が労働者に一方的に残業を命令することができるかを考えると、それは、わが国の終身雇用制度と関係があると思われます。一度正社員として雇用すると、企業は原則として社員を解雇することができません。(そういう判例もありますが、これも法律に書いてあるかどうかといえば、あやしいというべきです。)

そこで、企業としては、仕事の繁閑の調整を、社員の雇用と解雇ではなく、残業でせざるを得ないのです。

また、一人の社員を定年まで雇用して能力を発揮してもらうためには、細切れの作業を割り当てるのではなく、ひとまとまりの仕事を割り当てて、社員の能力の向上をはかり、より責任のある仕事へのステップとして、将来は幹部職員にもなってもらいたいと考えます。

何時間この作業をせよ、ということではなく、この仕事をいつまでに終わらせろ、という割り当てをするわけです。トラブルがあれば、責任を持って対応することが求められ、残業してでも仕上げることが期待されます。


こうした根本的な問題を考えずに、子育て期の残業規制をして問題が解決するというわけにはいかないだろうと思います。

ただ、終身雇用制度のもとにおいては、社員に継続して働いてもらい、能力を発揮してもらうことを企業は求めますので、子育てでやめられるよりも、残業規制をして継続して働いてもらいたい、と考える企業は多いかもしれません。


残業しない社員と、残業している社員とを同じ扱いとすると、残業している社員からは不満がでるでしょう。また、そこで差別をすると、残業規制を申し出る社員も減るし、子育て支援にならないではないかという批判がでるでしょう。

これは、育児休業でも同じ問題があります。

終身雇用制度に結びついた年功序列賃金を採用している企業では、勤務年数により、賃金があがっていきます。その典型である公務員は、とくに問題がなければ、毎年賃金があがります。

育児休業をとった人は、普通に考えれば、その期間を働いたと考えることはできないでしょう。そうしないと、育児休業をとらなかった人から不満がでますし、勤務年数により賃金があがるというのは、本来は、勤務年数により能力がついたはずだから給料があがるという能力主義の考え方が背景にあるからです。

しかし、公務員については、育児休業をとっても賃金があがるという制度をとっているところもあります。あまり考えていないのでしょう。

いっそのこと、年功序列賃金をやめて、職階制をとり、年数ではなく、本当に能力の向上が認められた場合にのみ職階があがり、賃金もあがるとすれば、この問題は解決します。育児休業をとっている時には賃金はあがりませんが、育児休業をとったこと自体はハンディにはなりません。


他方、保育園についても問題提起をする人がいます。

両親正社員で共働きという高所得世帯の保育のために、多額の税金をつぎこむことが正当化されるのかどうか、ということです。

高所得世帯は、高額納税世帯ということを考えれば、正当化できるという考え方もありますが、そのくらいなら税金を下げて、高所得世帯の保育は自己負担としたほうがよいかもしれません。


わたくしの見解としては、企業が一方的に残業を命ずるのは幹部候補社員であるはずであり、そうした社員には、もっと賃金を払うべきだということです。


片働き(専業主夫・専業主婦)ではなく共働きをスタンダードとして考えると、比較的低賃金だが毎日定時で仕事を終えて子育てをする家庭と、高賃金で残業もして子育てにはベビーシッターなど高額の保育サービスを活用する家庭とがあってよいと思います。

前者に対しては残業規制は有効だろうと思います。

後者に対しては、賃金を高くして、税金が投入されない高額の保育サービスを利用できるようにします。この場合、父子・母子家庭でも、高額のサービスが利用できるくらいの高賃金が求められます。そこまでの賃金を出す幹部候補社員なら、ホワイトカラーエグゼンプションを適用してもよいのではないでしょうか。


要するに、一般社員と、幹部候補社員との格差を認めて、幹部候補社員については金で解決するしかない、ということです。格差是認+金で解決ですので、反発が強いだろうと思いますが、子育て支援にはこれが有効ではないかと思います。一律の制度で対応しようとするほうが無理があるのではないかと思われます。


もうひとつ考えれば、終身雇用制度をやめて、解雇を自由化することです。解雇されやすい社会は転職しやすい社会です。子育て期には転職してペースダウンして働き、子どもが大きくなったらまた転職してキャリアップをめざす。それがハンディにならない社会をめざすということです。


いずれにしても、子育て社員の処遇を考えるには、終身雇用制度や年功序列賃金といった、わが国の労働慣行や労働政策の根本を考えざるをえないということになります。

子育て社員の処遇に限らず、世界的にみてきわめて特殊なわが国の終身雇用制度を抜きにして、労働問題を語ることはできないでしょう。

戸籍と住民票が原則非公開になりました

住基ネットについて書いたエントリーで、住民基本台帳や戸籍は、民事法に位置づけられ、いわば取引の相手方について誰でも調べられるように、公開を前提として作成されているものだ、と書きました。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10078189381.html


しかし、住民基本台帳法と戸籍法が改正され、平成20年12月から、原則として、非公開になりました。

多くの人は、これまでも非公開だと思っていたのではないでしょうか。

住民基本台帳と戸籍の基本的な性格が変わったというべきかもしれません。

他人のための台帳制度から、本人のための認証制度になったわけです。


前のエントリーでも書きましたが、これにより、詐欺がしやすくなることは間違いありません。

それを防ぐには、契約しようとする相手方から戸籍や住民基本台帳の写しをもらうだけでなく、相手方から委任状をもらい、自分で相手の戸籍や住民基本台帳を調べるべきだということになります。


しかし、住所、氏名、性別、生年月日が、本当に、秘匿を必要とするプライバシーなのか。

メリットとデメリットをしっかりと比較して、検討された様子がないのが気にかかります。


いままでは市町村は、公開を原則とした法律があるにもかかわらず、各方面からの要望や圧力により、いろいろと理由をつけて公開しないように努力してきたわけですが、これからは法律により当然非公開となるわけですから、市町村の現場ではやりやすくなるでしょう。


なお、例外的に他人の戸籍や住民票の写しをとれる場合がありますが、営利企業である報道機関などがそこに含まれているのは公正といえるのかどうか、気になります。

田母神航空幕僚長の論文問題について

田母神航空幕僚長の論文問題については、tadurabe様のブログ「人生いろいろ」でコメントをしたのですが、こんなに話が大きくなるとは思っていませんでした。現在の状況には問題があると思いますので、コメントの繰り返しになりますが、書いておきたいと思います。

http://ameblo.jp/tadurabe/entry-10159597762.html


結論から言えば、今回の田母神航空幕僚長に対する批判はおかしいと思います。


学術論文として書いた内容について、社会的な責任をとらせてはいけないと思います。

内容がおかしければ学術的な批判をすべきです。しかし、学術的な批判と、実生活での不利益とは、明確に区分しなければなりません。

学術であるなら、一般常識とどれだけかけ離れたことを書いても、それ自体は問題はありません。むしろ、歴史的発見や、天才の発明というのは、当時の一般常識とかけ離れたものです。ましてや他者の批判があるからと学術研究を規制することは許されることではありません。
ただ、問題は、自衛隊幹部が軍や戦争について勝手に書いたということです。これは、他国から、わが国の軍事行動を類推する材料になります。

次に、自衛隊幹部が軍や戦争について書いたにもかかわらず低レベルであったといわれていることです。しかし、それでも受賞され、公表されたということは、一定の価値があると判断した人もいるということです。何十年後には、この「暴論」が通説になっている可能性がまったくないわけではありませんが、学問では、結論だけではなく、論証過程が重要です。


「内容」が一般常識とかけ離れているとか、外国の反発があったからというのではなく、安易に発表したこと自体が幹部としての自覚に欠け、そのレベルの低さにより能力に問題があるということから、更迭になったと理解すべきです。


懲戒処分をすべきだとか、退職金を返還させよというのは、私には理解できません。

懲戒処分は、なんらかの職務上の義務に違反したとか、職務上の犯罪を犯したということが前提になるはずです。

しかし、田母神航空幕僚長は、なんら、職務上の違反をしたわけではありませんし、犯罪を犯したわけでもありません。


政府の公式見解とは違うことを、個人的意見として発表したわけですが、それ自体は懲戒の理由にはなりません。

政府の公式見解といっても、法令に書いてあるわけでもありませんし、行動指針ではなくて歴史認識です。

政府の公式見解とは違うことを、職務上行ったり、指示したりすれば、当然、懲戒の理由になりますが、今回はそうした行動をしたわけではありません。

政府が、自衛官に対して、軍事に関する見解の発表を禁止していたとすれば、義務違反になると思いますが、仮にそのような禁止事項があったとしても、懲戒免職で退職金なしというのは処分としてはいきすぎです。

せいぜい、自覚の問題だといえるでしょう。

また、政治家ではないのですから、「軽々しく発言した」とか「身分をわきまえて」といった批判が該当するとも思えません。仮に該当するとしても、やはり、自覚の問題であり、懲戒処分をすべきということにはなりません。

違法行為や違反行為に対する懲戒処分ではなく、ミスや能力を根拠とした「分限処分」すなわち「降格」ということで、妥当な処分だったと思います。


任命責任といった点を追及している人もいるようですが、田母神航空幕僚長が命令を着実に実行し、能力があったとすれば、特に問題があったとは思えません。政府の公式見解と異なる思想を持っている人を任命すべきではないとすれば、公務員や自衛官の任命には思想調査あるいは洗脳をすべきということになります。たとえどのような思想を持っていたとしても、政府の方針を着実に実行するのであれば、それでかまわないはずです。だからこその文民統制なのです。今回の件は、「文民統制に問題があった」という問題ではなく、「文民統制があるので問題とはならない」ことのはずです。

憲法遵守義務も同じで、憲法に違反した行動をとるのは義務違反ですが、憲法を変えるべきと考えたり主張するのは義務違反ではありません。

これは、民間でも同じで、幹部や上司の方針がおかしいと思いながら、職務としては着実に実行するのが普通です。会社の方針とは違う思想を持っていたからといって、懲戒処分をされるべきだ、とはならないと思います。


政府を批判するとすれば、自衛隊員あるいは自衛隊幹部に対して、軍事に関する意見の発表を禁止する、あるいは許可制にするということについて、法規で明確な基準と処分の規定を置いていなかったことに対してだと思います。


国会に田母神航空幕僚長を呼んで質問するなど、まったく意味がなかったと思います。

国会では、田母神航空幕僚長は自分の見解が正しいということを堂々と主張しており、国会議員では、その見解に対して有効な学術的な反論も当然できなかったわけです。学術の場ですべきことを、国会でやろうとしても、無理だし、すべきではないということです。


田母神航空幕僚長や政府を強く批判している学者やマスコミがあります。

もしも、この論文が国益を損なうとすれば、マスコミが大きく取り上げるほど国益を損なうことになるということをわかってやっているのでしょうか?

そして、思想と表現に対する批判は、自らに向かってくる刃であるということを、わかっているのでしょうか?