第6の権力 logic starの逆説 -6ページ目
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米兵の暴行事件について

この問題は非常にコメントしずらいのですが、だからこそ、あえていくつか留意したほうがよいと思うことを、書いてみようと思います。


新聞報道などによれば、在沖縄米海兵隊員(38)が中学3年の女子生徒(14)に対する強姦容疑で逮捕されたわけですが、未成年者に対する性犯罪なので、当然、詳細はわかりません。

ただし、容疑者は、否認しているようです。


沖縄県議会などでは、被害者への謝罪、基地縮小、地位協定の見直しを求める決議をしているようです。

高村外務大臣は、日米地位協定見直論が出ていることについて「地位協定はグローバルスタンダードだ」「この事件がいくら忌まわしい事件だからといって、それ以上のことを外交上要求するのかどうか」と、地位協定の見直し要求には否定的のようです。



まず、留意することとして、以前に鳩山法務大臣発言に関して書きましたが、すでに、有罪が前提とされた報道がなされているということです。

「有罪が確定するまでは無罪」とはなっていません。

今回は、容疑者が否認しているケースであるにもかかわらずです。

次に、女子生徒が男の車やバイクに乗ったことについて言及したり、なんらかの示唆をするものもあるようですが、女子生徒の行動がどうであっても、犯罪が正当化されるものではありません。

仮に(念のために強調しておきますが「仮に」です)、14歳の少女との性行為は、同意があっても、わが国では犯罪になります。(いわゆる「法定強姦」。刑法は13歳未満ですが、沖縄県青少年保護育成条例では18歳未満です。この規定は「淫行条例」といわれることもあります。)



そして、この犯罪と、基地や地位協定とは、直接関係がないということです。

加害者が米兵であっても、日本人であっても、被害者が受ける被害は同じです。米兵だから許されない、米兵だけが許されないというわけではありません。

残念ながら、わが国においては、日本人が加害者である性犯罪も発生しています。そして、それは、決して少ない数ではないと思っています。

基地問題や、地位協定に話をもっていくと、犯罪の防止、被害の防止から離れてしまう危険があるのではないか、と思います。



地位協定については、この事件では、本当は論点になっていません。

容疑者は逮捕されています。

地位協定で主に議論になるのは、身柄の引き渡しですので、警察が身柄をおさえているこの事件では、地位協定の問題はおきていません。

ただ、容疑者が基地に入ってしまうと、身柄の引き渡しがなされないかもしれないという危惧から、警察が逮捕に踏み切ったとすれば、実は地位協定も問題になったということになります。



地位協定で問題になる身柄の引き渡しですが、これは、米国側からみれば当然のことかもしれません。

米国は、兵士を不当な人権侵害から守らなければなりません。

わが国では、容疑者は当然のように、かつ、長期間にわたり身体拘束されます。

代用監獄という制度で、この拘束が警察の建物内においてなされることもあります。

このような、容疑者に対する対応は、わが国の国内においても、批判をされることがあります。

被害者に対する身体拘束や、代用監獄を批判するのであれば、地位協定には一定の理解をせざるをえないはずです。

(しかし、身体拘束や代用監獄を強く批判している人のほうが、地位協定の見直しを主張しているようも思えるのですが・・・)

「地位協定はグローバルスタンダードだ」「この事件がいくら忌まわしい事件だからといって、それ以上のことを外交上要求するのかどうか」という高村外務大臣の発言は、あたっているかもしれません。

そして、それは、わが国の刑事制度が、グローバルスタンダードに達していない、ということを意味するのかもしれないのです。

鳩山法務大臣の「冤罪」発言について

鳩山法務大臣の「冤罪」発言がマスコミにとりあげられていますので、新聞報道をもとにした範囲でですが、少し書いてみようと思います。(このブログの趣旨からは、鳩山法務大臣を擁護する内容になります。)


新聞報道等を見るかぎり、鳩山法務大臣の発言の趣旨は、次のとおりだと思われます。

(1)たんに裁判で無罪になった場合には「冤罪」にあたらず、裁判でいったん有罪とされたものが再審などで無罪が確定した場合が「冤罪」であること。

(2)裁判で無罪になることをおそれず、検察の職務をしっかりとおこなうこと。

なお、発言は、検察関係者を対象としたものでした。


この(1)の発言は、本来、定義の問題にすぎません。

良い、悪い、というものではないはずです。


それでは、定義の問題として、起訴した被告が無罪になった場合に「冤罪」という言葉を使うのが適切なのでしょうか。考えてみたいと思います。

ここで、「無罪推定」ということを思い出す必要があると思います。

本来、有罪が確定するまでは、無罪なのです。

そうだとすれば、起訴した被告が無罪になったという場合は、一度も有罪とされていないのですから、「罪」があると認められたことはないはずです。

したがって、「冤罪」という言葉は適切ではない、ということになります。

鳩山法務大臣の見解は、まったく納得できるもので、むしろ正しい見解だといえると思います。


それにもかかわらず、なぜ鳩山発言は批判されるのでしょうか。

「冤罪」という言葉は、悪いイメージがあります。

鳩山発言では、「起訴して裁判がおこなわれ、最終的に無罪になったのは、冤罪ではない」ということですから、「それは悪いことではない」というようにとらえられます。

それは、起訴され、裁判にかけられた被告の人権を軽んじるものだ、ということだと思います。


しかし、これは本来、鳩山発言の(2)に対する批判です。

(2)で述べているように、鳩山法務大臣は、起訴され、裁判になって、無罪になることは、決して悪いことではないと考えているようです。


ここで考えてみるべきことは、本当に「裁判になって無罪というのは絶対に避けるべき悪いこと」なのかということです。


「起訴されたら99%は裁判で有罪になる」という話を聞いたことがある人は多いと思います。

また、「検察が起訴しないため、検察審査会が開催され、起訴すべきだという意見が示されたにもかかわらず、やはり検察が起訴しない」というニュースを聞いたことがある人も多いと思います。そうしたニュースのさいには、「検察は起訴して、裁判に判断をゆだねたほうがよい」という発言をする人もありますし、そう思った人もいると思います。


「疑わしきは罰せず」、したがって、裁判では「疑わしきは無罪」です。

しかし、「疑わしきは起訴せず」が正しいのでしょうか。

それとも「疑わしきは起訴して裁判で判断すべし」が正しいのでしょうか。


鳩山発言を批判するということは、「疑わしきは起訴せず」という考え方を支持しているのだということを自覚する必要があります。


「疑わしきは起訴せず」「疑わしきは起訴して裁判で判断すべし」のどちらの見解をとったとしても、その人の人格や能力・資質が批判されるようなことではないと思います。

「疑わしきは起訴して裁判で判断すべし」という鳩山大臣が、なぜ人格・能力・資質について批判されるのでしょうか。

それよりも、「疑わしきは起訴せず」「疑わしきは起訴して裁判で判断すべし」のどちらがよいのかをしっかりと議論すべきではないでしょうか。その絶好の機会ではないでしょうか。政治家やマスコミは、この議論がしっかりされるようにしていくのが役割なのではないでしょうか。個人攻撃をするのが、正しいありかたなのでしょうか。


この問題の根本には、本来は無罪推定であるはずの、起訴された被告の人権が守られていない、ということにあると思います。

起訴されても、有罪になるまでは無罪として、しっかり人権が守られていれば、「起訴され、裁判にかけられた被告の人権を軽んじるものだ」という批判はおこりません。

個人攻撃をするよりも、起訴された被告の人権を守るには、どうしたらよいか考えてみるべきではないでしょうか。


本来、無罪が推定されるはずの被告の人権がなぜ侵害されているのでしょうか。

ひとつは、被告の身体拘束があります。本来は、逮捕勾留などの身体拘束は例外です。起訴されても、拘束されないというのが原則なのです。例外的に拘束されるのは、裁判所の発行する令状がある場合だけなのです。

しかし、現実は、令状が簡単に発行され、身体拘束が原則としてなされます。

これが被告の人権が侵害される理由のひとつだと思います。

しかし、被告の人権が侵害されるのは、ほとんどは、報道によるものだと思っています。無罪推定の考え方ではなく、有罪であることを前提とした報道がなされているのではないでしょうか。


今回、鳩山法務大臣を批判している報道機関は、自分たちの人権侵害の責任を転嫁していないか、ぜひ考えてほしいと思います。


以上のような一般論ではなく、具体的に名前があげられた志布志事件の被告(やその関係者)が不快な思いをするということを、批判の根拠にあげる人もいるかもしれません。

しかし、鳩山法務大臣は検察関係者に対して発言しているのです。志布志事件の被告(やその関係者)が不快な思いをするとすれば、その人たちに、この発言を伝えるからです。この発言を伝えたのは、報道機関です。報道機関は、報道によって、志布志事件の被告(やその関係者)が不快な思いをするとは考えなかったのでしょうか?


この意味でも、今回、鳩山法務大臣を批判している報道機関は、自分たちの責任を転嫁していないか、ぜひ考えてほしいと思います。



ちなみに、鳩山法務大臣は、死刑執行について、ベルトコンベアのように執行できる方法はないか、法務大臣の署名なしで執行できないか、という趣旨の発言をして批判を受けたことがあります。

この発言についても、少し書いておこうと思います。


法務大臣が、死刑を執行するかどうか悩んで判断する、というのは、本来の罪刑の制度とはまったくかけ離れた状況です。これをなんとかしたい、という鳩山法務大臣の意見自体はまっとうなものだと思います。


本来は、死刑とするかどうかは、裁判所が決定するものです。

行政官である法務大臣は、裁判所の決定にしたがい、法律にもとづいて、あえていえばベルトコンベアのように自動的に、死刑を執行しなければならないのです。


それを、違法にも、署名をしないという態度をとった法務大臣が過去にいたために話がおかしくなっているのです。


死刑執行に法務大臣の署名が必要とされるのは、法務大臣が、裁判の結果が正しいかどうか、本当に死刑をしてよいのか、悩んで決めるためではありません。

すでに裁判で判断はなされ、決定されているのです。

それでは、なぜ死刑執行に法務大臣の署名が必要とされるのでしょうか。

裁判で死刑判決を受けていない人が誤って死刑を執行されたり、あるいは、行政の暴走により裁判で判決をうけていない人が死刑にされることを防ぐために、法務大臣の署名という厳格な手続が必要とされるのだと思います。


その意味では、法務大臣の署名なしで死刑を執行できないか、という鳩山法務大臣の発言は、死刑執行の重みが分かっていない、軽はずみな発言だということになります。


しかし、このような発言がなされた背景は、違法にも署名をしなかった過去の法務大臣経験者と、法務大臣に不当な重圧をかけている報道機関や圧力団体の存在があると思います。

批判されるべきは鳩山法務大臣ではない、と、わたしは考えますが、いかがでしょうか。

マクドナルド 残業代と管理職についての判決

この判決については、新聞報道しかみていないのですが、その前提で、少し感想など書いておこうとおもいます。

判決は、マクドナルドの店長は経営に関与していないから管理職ではない、管理職ではないから労働基準法にのっとって残業代を払う必要がある、という内容だったようです。

しかし、経営に関与しているかどうかということと、管理職であるかどうか、ということとは別のはずです。実定法の解釈としては、判決は、明らかに誤っています。

たとえば、週の1回会議に出席して経営に対していろいろと意見を述べる機会があり、実際にそれが経営に反映されているとしても、経営に関する意見をいう以外には、ひたすら工場で作業し、その人の勤務時間や、作業内容はすべて上司に管理されていたとします。この人は、経営に関与していることは間違いありません。この人を管理職として、どれだけ残業させても、残業手当を払わなくてもよい、ということになるのでしょうか?

管理職であるかどうかは、その文字が意味するとおり、他の社員を管理する立場か、他の社員に管理される立場か、によって決まるはずです。自分では作業せず、工員を管理する工場長は、経営者の意向を受けて工場を運営して経営に対して意見を述べない者であっても、明らかに管理職です。

こうした人たちを管理職ではないとしてしまうと、こうした人たちは労働者の組合に加入できることになります。労働組合の意思決定に参加できることになります。それで、労働者の権利は守られるのでしょうか?

店長を管理職ではないというのであれば、店長は労働者を管理する立場ではなく、管理される立場だというべきでした。しかし、それが無理なので、経営に関与しているかどうか、という基準を持ち出したのかもしれません。そうだとすれば、裁判官の直感的正義感で結論を先にだして、むりやりそれに合致する理屈をつけたということになります。

日本では、ほかの社員を管理しつつ、自分も上司に管理されるという、中間管理職やプレイングマネージャーが多いと思います。わが国の労働基準法は管理する人と、管理される人が二分されることを前提としており、プレイングマネージャーのような立場の人について、想定していないといえます。したがって、不備は法律にある、といえるでしょう。法律をそのまま適用するのであれば、管理職は管理する立場の人ですから、プレイングマネージャーも管理職です。しかし、管理される人を守るためには、管理される立場をもつプレイングマネージャーは労働者として保護される必要があります。その点でも、不備は法律にあります。

しかし、もともとの問題は、店長が管理職であるかどうかということではなく、店長の給料が安い、という主張なのです。管理職ではないのであれば残業手当はだすが、管理職でないので管理職手当は払わないし基本給を大幅に下げる、ということで、問題は解決したといえるのでしょうか?

そもそも、なぜ店長は不満があるのなら転職しなかったのでしょうか?経営者側は店長に辞められるという不安はなかったのでしょうか。転職しても今よりよい条件の仕事はない、経営者側にとっては辞められる不安はなく辞められても代わりはみつかる、ということであれば、給料など労働条件は、その仕事にみあうものだったといえるのが、本来です。

ここで、本来です、と書いたのは、日本の現状は、本来あるべき状況にないからです。それは、日本では、事実上、解雇は許されないということであり、それは、労働者の入れ替えがないということであり、転職が非常に難しいということだからなのです。労働者がよりよい条件を求めて転職できる環境にないので、労働条件が悪くても、やめられる心配がないのです。

しかし、他方で、日本では、労働者は、解雇されないという特権をもっています。解雇されないかわりに、労働条件については我慢せざるをえない、というのが日本の現状なのです。これが、労働者によってよい状況なのかどうか、考える必要があります。

規制改革会議の第2次答申について

12月25日に、政府の規制改革会議の第2次答申が出ました。

このなかの、労働分野について、書いてみようと思います。


先日、労働契約法について、従来の法律では労働契約の期間は短いほうがよいとされてきたが、労働契約法では労働契約の期間は長いほうがよいという考え方が規定されている、と書きました。そして、期間の定めのない労働契約は、従来は、最も期間の短い契約と考えられたのに対し、この労働契約法の考え方では期間の定めのない労働契約は最も期間の長い契約と位置づけられる、と書きました。

しかし、政府の第2次規制改革会議は、労働契約は長いほうがよい、という考え方に反対しています。

成立したばかりの法律と、違う考え方が示されているのです。


第2次答申の内容を引用してみます。

「一部に残存する神話のように、労働者の権利を強めるほど、労働者の保護が図られるという安易な考え方は正しくない。場合によっては、既に権利を持っている人は幸せになるが、今後そのような権利が与えられにくくなるため、これまでよりも不幸になる人が出てくることにも注意が必要である。」「正規社員の解雇を厳しく規制することは、労働者の使用者に対する『発言』の担保となるどころか、非正規雇用へのシフトを企業に誘発し、労働者の地位を全体として脆弱なものとする結果を導く。」「解雇規制の緩和をめぐって・・・転職が容易になることで労働条件が緩和さzれ、結果として転職する必要がなくなる側面があることを見落としてはならない。」「労働市場における過度の解雇規制は・・・労働者が雇用されないリスクを高め、あるいは労働者をより劣悪な立場に追いやるという弊害をもたらしている。」

そして、「立法の責任を十分に果たすためには、判例が作り出した現状が政策的基準から見て望ましくない場合には、それ以上の判例への依存は断ち切り、迅速適切な立法により今後のより妥当な司法判断が導かれるよう措置されるべきである。」

このような観点を踏まえ、「解雇権濫用法理の見直し」を提言する。

「民法627条1項では、期間を定めない雇用契約は・・・いつでも解約申し入れできるとされてきた。しかし、その後の判例で、使用者からの解約申し入れ(すなわち解雇)は厳しく制限されてきた。」「解雇権濫用法理が確立し、平成15年に同法理は労働基準法18条の2として明定され、同19年には、その内容が労働契約法16条に移された。」「すなわち、解雇権や雇い止めは著しく制限されており、しかも、これらはいずれも、どういう理由と手続きの下で解雇あるいは雇い止めが有効となるのか、予測可能性が低い。」「そこでまず・・・・当事者の自由な意思を尊重した合意に基づき予測可能性が向上するように、法律によってこれを改めるべきである。」「業務内容・給与・労働時間・昇進など処遇・・・客観的細目を雇用契約の内容とすることを奨励することにより、判例頼みから脱却し、当事者の合致した意思を最大限尊重し、解雇権濫用法理を緩和する方向で検討すべきである。」


答申は、どのような場合に解雇されるかということも、当事者が事前に合意しておくべきであり、その合意を尊重するのがよいとしているようです。

また、解雇の制限と、使用者による労働条件の一方的変更は、セットで考えるべきものだが、解雇の制限を緩和して当事者の合意を尊重するのであれば、使用者による労働条件の一方的変更も否定して労働条件においても合意を尊重する、ということだと思われます。


また、答申は、「労働政策の立案にあたっては、広く労働者、使用者を含む国民や、経済に及ぼす影響を、適切に考察する・・・ことが必要なはずである」と述べていますので、実際には、こうしたことが考察されていないと考えているわけです。


わたしも、基本的には、この答申と同じように考えています。解雇の制限をどうするかというのは、最後は判断なのでしょうが、これまで、しっかりとした考察がされることなく、決められてきてしまった、というのは、そのとおりだと思います。


規制改革会議は、ワーキンググループに分かれて検討をしてきましたが、平成19年5月21日に発表された同会議の再チャレンジワーキンググループ労働タスクフォースのレポートは、この答申よりもいっそう強い、素直な表現がなされています。

引用してみましょう。

「労働者保護の色彩が強い現在の労働法制は、逆に、企業の正規雇用を敬遠させ、より保護の弱い非正規社員、なかでもパートタイム労働者党の雇用の増大につながっている」「解雇規制を中心として裁判例の積み重ねで厳しい要件が課され・・・人的資源の機動的な効率化・適正化を困難にし、同時に個々の労働者の再チャレンジを阻害している。」「社会全体での適材適所の人材配置を図っていくことが肝要である。生涯一企業で働くことを前提とした労働法制・・・を抜本的に見直し、流動性の高い労働市場を構築して初めて、働き方を変えたいと思う個々人が、意欲や努力により働き方を変えることができ・・・再チャレンジが可能な社会となりうる。」

そして、「労働市場に対して法や判例が介入することには根拠がなく・・・真に労働者の保護とならない規制を撤廃することこそ、労働市場の流動化、脱格差社会、生産性向上などのすべてに通じる根源的な政策課題である」と論じます。

労働力の流動化、すなわち、労働者からみれば転職、使用者からみれば採用と解雇が活発化することが、必要であるというのが、基本的な考え方のようです。

解雇権濫用法理については、「判例により人為的に作りだされた一種の『解雇権を排除する協力かつ不明朗な規制』」であり、「そうした規制自体の不条理を直視し、その強さの範囲を見直すことが先決である」と、全否定をしています。

さらに、「行政庁、労働法・労働経済研究者などには、このような意味でのごく初歩の公共政策に関する原理すら理解しない議論を開陳する向きも多い。当会議としていは、理論的根拠のあいまいな議論で労働政策が決せられることに対しては、重大な危惧を表明せざるを得ないと考えている。既得権にとらわれず、あらゆる層の労働者すべてに対して開かれた平等な労働市場を確立していくことこそ、再チャレンジを可能とする真の労働改革であろう」と述べ、答申よりも強烈な批判となっています。


内容的には答申とタスクフォースのレポートは同じですが、タスクフォースのレポートのほうが、素直に、遠慮なく強い表現で書かれている分だけ、わかりやすい内容となっています。

わたしも、解雇権の制限が、人為的に作り出されたもので、そのさいに、ごく初歩の公共政策に関する検討さえなされてこなかったと思っています。

また、わたくし個人としては、タスクフォースの主張する、労働力の流動性を重視する考え方を支持しますが、ただ、こうした検討を十分にすることが必要であり、その結果としての政策決断は、どちらかが絶対的に正しい、あるいは誤っているというものではないと思っています。

しかし、平成19年11月に成立した労働契約法と、12月に示された政府の規制改革会議の答申は、まったく逆の方向を向いており、政策判断がどのような方針によっていくのかわからない、というのは、たいへん困ったことであり、混乱をまねきます。

なお、実定法の解釈、司法判断としては、解雇権濫用法理が誤っていることは、論じるまでもありません。解雇の制限についての議論は、それを確認することからスタートするのがよいと思います。


年金の保険方式は本当は世代間扶養ではない 日経の年金制度改革案について

今日の日経新聞に、日経独自の年金制度改革案が掲載されていました。

年金を、保険方式から税方式にあらため、財源を消費税に求めるというものです。


そもそも、保険方式と税方式の違いはなんでしょうか。


保険方式は保険料を徴収し、税方式は税金として徴収する、というのが形式的な違いです。

しかし、その実質的な違いは、保険方式は積立で、税方式は積立でない、というところにあると思います。

税方式は、今、年金給付に必要な費用を、そのつど税金で徴収します。したがって、破たんがありません。

保険方式は、集めた保険料を積み立てておき、保険料を支払った人たちが高齢になったときに、積み立てた保険料から給付します。貯金に似ていますが、死んでしまえば年金はもらえませんから、長生きすれば支払った保険料よりもたくさんの年金給付を受け取ることができます。こうして、少ない負担で、多い給付を実現するわけです。


さて、従来の年金は、保険方式であったはずです。

保険方式のメリットは、人口の変動に影響を受けないということにあります。自分たちの世代が支払った保険料を、同じ世代で生き残った人たちが年金として受け取るわけです。人口が増えても、減っても、人口ピラミッドの影響を受けることなく、安定して年金を受け取ることができるのです。

税方式は、人口の変動に影響を受けます。高齢者が増えれば、その時点で、それだけ多額の費用が必要になり、すなわち徴収する税金が増えるということになります。若年者が多く高齢者が少ない場合には税負担は少ないのですが、若年者が少なく高齢者が増えれば税負担が増えます。今のような少子化に向かう時代には、負担が多くなってしまいます。

したがって、保険方式のほうが制度設計としては優れているはずです。

そして、保険方式は、本来、同じ世代で支えあう制度のはずです。若年者が高齢者を支える制度ではないはずです。世代間で扶養する制度ではないはずなのです。

しかし、保険方式であったはずの従来の年金制度において、「年金は若年者が高齢者を支える制度」だという人がありました。

また、「少子高齢化がすすんだために年金が破たんした」という人がありました。

これはどういうことなのでしょうか。


年金が破たんしたのは、本当は、少子高齢化がすすんだためではありません。

本当は積み立てておかなければならない保険料を、使ってしまったから破たんしたのです。

保険方式で、積み立てずに使ってしまえば、将来、破たんすることは明らかでした。

年金制度を開始したときは、保険料を払う人ばかりで、受け取る人はいませんから(本来は保険料を払った人だけが年金を受け取ることができるはずです)、当然、保険料がどんどんたまっていきます。

それは、20年後、40年後の給付に使うはずのお金なのです。

しかし、それを使ってしまったのです。施設をつくったり、あるいは、保険料を払っていない人にも年金を支給したり、あるいは、支払った保険料に比べて著しく高額の年金を支給したからです。

そのため、積み立てが足りなくなり、今、徴収した保険料を、今の年金給付にまわさざるをえなくなります。これはよく「自転車操業」といわれるものです。また、詐欺事件にもみられます。高額の利息を約束して、お金を集め、実際には運用せずに、新しく加入した人の出資金から、古い人への利息を支払うわけです。

こうした「自転車操業」は、入金が少なくなれば破たんします。

年金では、現役世代が減ること、すなわち少子高齢化が、入金の減につながります。

そして、今、実際に破たんしつつあるのです。


実際に積立金が足りない以上は、もはや保険方式は成り立ちません。

本当は、保険方式のほうが優れているのです。

しかし、積立金を使ってしまい、実際に積立金が足りないという現状においては、税方式にしたほうがよい、ということなのです。

積立金を使ってしまった現状において保険方式を維持すれば、自転車操業を続けることになり、20歳から60歳の現役世代が負担し、それを65歳以上の高齢者で分配することになります。さらに少子高齢化がすすめば、さらに現役世代の負担が増えます。

税方式をとっても、それが所得税なら同じことです。20歳から60歳の現役世代が税金を負担し、それを65歳以上の高齢者で分配することになります。

しかし、税方式をとり、それが消費税なら、変わってきます。消費税は、高齢者も負担することになります。全国民が負担し、高齢者で分配することになります。現役世代の負担が若干減ります。また、人口の変動の影響も受けにくくなります。

そこで、消費税を財源とする税方式がよい、というのは、一定の合理性があると思います。

ただ、本来の保険方式の意義や、なぜ破たんしたのか、といったことは、しっかりと考えておくべきでしょう。


さて、日経の年金制度の改革案によれば、経過措置として、現行の年金制度も当面存続し、現在(制度改定時)に60歳以上の人はすべて旧年金制度から支給を受け、20歳以下の人はすべて新年金制度の適用を受け、20歳から60歳までの人は、その年齢に応じて新旧年金制度から支給を受けます。

たとえば、40歳の人は、20歳から40歳までは旧年金制度、40歳から60歳までは新年金制度ですから、半分ずつ新旧の年金制度から支給を受けます。50歳の人は、30年分は旧制度、10年分は新制度、つまり4分の3は旧制度、4分の1は新制度から支給を受けます。旧制度において年金保険料を払っていなかった人はその分の給付を受けられないので、公平性は保たれる、という主張です。


しかし、現在60歳で、保険料をずっと支払ってこなかった人はどうでしょうか。この人は、年金給付の財源となる消費税を負担しなければなりません。しかし、年金給付はいっさい受けられません。明らかに不公平です。

また、現在60歳で、保険料をずっと支払ってきた人はどうでしょうか。この人は、保険料を満額負担したはずです。本来、それで年金給付を受けられると思っていたはずです。しかし、さらに年金給付の財源となる消費税を負担しなければならないのです。この人は、感情的に、それを受け入れられるでしょうか。

いずれにしても、日経の案は、現在ちょうど60歳の人が不利になると思われます。


徹底的に公平さを追求しようとするならば、現在の年金制度は、本当の意味で破たんさせるのがよいと思います。年金の積立の残額を、これまで保険料を支払ってきた人たちで、その支払額(とすでに受け取った年金額)から計算して、現金で分配してしまうのです。すなわち、破産です。そのうえで、税方式にいっせいに移管すれば、公平性は保てます。ただ、積立残額が少ないからこそ問題になっているわけで、分配される金額は、思いのほか少ない、ということになるでしょうし、分配にはコストもかかります。また、判断にあたっては、ただ客観的に公平であればよいというものでもないと思います。

どれかが絶対的に正しいというわけではなく、こうした検討を十分にしたうえで、最後は、判断をするしかないと思うのです。


もう一点、注意しておくべきことがあります。

わが国の年金制度は、老齢年だけではなく、障害年金などもあります。

傷病についての社会保険には健康保険などの医療保険制度もありますが、医療費を支給する健康保険に対し、障害年金は生活費を給付しますので、同じ生活費給付である老齢年金とあわせて同じ制度にしたのだろうと思います。

障害年金は、人口構成の影響を受けませんので、老齢年金とは違う検討が必要になります。

年金を大きく改革するのであれば、老齢年金だけではなく、障害年金や遺族年金をどうするのか、ということも、考えておく必要があります。

労働契約法が成立しました

 平成19年11月28日に労働契約法が成立しました。その前に、平成18年4月1日に改正施行された労働時間等設定改善法(労働時間等の設定の改善に関する特別措置法)について、いろいろと考えたことがあります。
 この2つの法律は、いずれもわが国における解雇の制限が背景にあると思っていますので、少し考えたいと思います。


1 民法の原則


 労働契約について、まず民法にまでさかのぼって確認してみます。
 民法は、第623条以下に雇用契約に関する規定を置いています。そのほとんどは解約に関する規定で、期間の定めのない契約についてはいつでも、期間の定めのある契約においても、かなり柔軟に解約を認めるとともに、解約の予告期間について定めています。
 このように柔軟に解約を認めることにより、労働者は身体的拘束や奴隷的従属関係を免れることができるわけです。
 なお、契約内容の変更については、民法には特に定めがありません。これは、契約内容の変更について双方が同意すれば変更できることは当然であり、また、双方が同意しない場合に変更が認められないことも当然であり、解約が柔軟に認められるのであれば解約のうえ新しい条件での雇用契約の申し入れをすればそれで問題は生じないからだと思われます。


2 労働基準法の原則

 労働基準法においても、当初は、民法の原則と同じ考え方であったと思われます。労働基準法第14条において、長期の労働契約を禁止しているのは、労働者の身体的な拘束や奴隷的従属関係を避けるためであったのでしょう。
 しかし、近年では、短期の労働契約を批判する議論があることに留意を要します。この点は、後に検討します。
 なお、労働基準法においては、労働条件の変更については、特に規定がありません。これも、民法の原則と同じように考えればよいと思います。


3 解雇権濫用法理

 民法や労働基準法を無視して、労働法学者と裁判官がいわゆる「解雇権濫用法理」というものをつくりだし、裁判におけるスタンダードになりました。この特徴は2点に整理できます。第一は、正当な理由がない限り解雇は権利濫用で無効であるというものです。第二は、この「正当な理由」が認められることはほとんどない、ということです。具体的には、解雇を避けるあらゆる努力をしたうえで、やむをえないと認められる場合にのみ、解雇が認められることになっていますが、実際には、ほとんど解雇が認められることはありません。
 いわゆる「解雇権濫用法理」には、実定法解釈としては、二点の誤りがあります。第一は、明らかに条文を無視していることです。いつでも解約できるという条文を無視して、正当が理由があった場合にのみ解雇を認める、としてしまいました。第二は、形式的な誤りで、民法第1条の権利濫用と民法第90条の無効を混同したということです。民法第1条は権利濫用について規定を置いていますが、無効になるとはどこにも書いてありません。無効になるのは、民法第90条の規定で、権利濫用ではありません。

 さて、先に述べたように、解雇の「正当な理由」が認められることはほとんどありません。差別的な解雇であったり、労働者が非常に過酷な状況にある場合の解雇であったりする場合に濫用だというのではなく、正当であることを説明しなければならないということになりました。そして、この正当な理由を極端に狭くとらえる(というよりほとんど認めない)ことにより、わが国においては、労働法学と裁判において終身雇用「制度」が確立されたことになります。これにより、いったん雇用した以上は解雇することが困難となるため、まず採用が減少し、採用する場合も厳選され、労働力の流動性は失われ、なんらかの理由で職を失った労働者は非常に過酷な状況に置かれ、景気の状況によって新卒者の採用が大きく左右され、非正規労働者は増え、高賃金・長時間労働・人材育成の正社員システムがスタンダードになることになります。


4 労働条件の一方的変更

 いわゆる「解雇権濫用法理」は、使用者側に労働条件の一方的変更を認めることにつながります。解雇を避けるためにあらゆる努力をしなければならないとすれば、工場閉鎖に伴う転勤や、不利益業務の廃止に伴う職種の変更、場合によっては給料の減額もしなければなりません。
 また、解約が柔軟に認められていれば、労働条件の一方的変更を認めなくとも、解約の申し入れと新しい条件での契約の申し込みをすればよいのですが、(解約が認められないため、労働条件の一方的変更を認めなければ、バランスを欠くことになります。
 そこで、労働法学者と裁判官は、使用者の労働条件の一方的変更を認めてきました。もちろん、実定法にあるものではなく、しかも「合理性」というまったく基準にならない理由づけをおこなってきたのです。

5 労働契約法の意義

 法律では、解雇は原則自由で、労働条件の一方的変更は認めらないわけですが、裁判においては、解雇は原則できず、労働条件の一方的変更は認められるという事態から、実定法と実態が乖離している、また、なんら基準がない、ということを問題と考える者がでてきました。
 そこで、労働基準法が改正され、いわゆる「解雇権濫用法理」の半分、すなわち、「正当な理由がない限り解雇は権利濫用で無効」であることを示す労働基準法第18条の2が新設されました(しかし、残りの半分、すなわち、この「正当な理由」が認められるのはどのような場合か(実はほとんどない)、ということは記載されませんでした)。
 そして、労働条件の一方的変更について定めた法律が、労働契約法なのだととらえることができます。実際に、労働契約法の具体的な内容は、労働条件の変更に関するものに集中しています。

6 労働契約法の留意点

 労働契約法の具体的な内容は、労働条件の変更に関するものに集中しています。労働条件は合意により変更することができる(第8条)というあたりまえの内容から、使用者による労働条件の一方的不利益変更は原則できないが(第9条)、就業規則変更の手続によれば可能であり(第10条)、しかし、就業規則変更の場合でも個別の労働者と具体的な合意があった労働条件については変更はできない(第10条ただし書き)、ということになっています。
 ここで留意しておきないことが3点あります。
 1点目は、先に述べたように、労働条件の一方的変更は、解雇の制限と結びついている、ということです。たとえば、採用時に、ある職種につくことや、ある工場で働くことを具体的な労働条件として雇いいれた場合、使用者は、その職種が不要になったことやその工場を廃止することをもって、他の職種や事業所に労働者を異動させることは、労働契約法上認められません。そうだとすれば、使用者は、労働者を解雇するということになります(もし、使用者が労働者との合意による労働条件の変更をまず申し入れるということであれば、それは変更解約告知といわれる論点になります)。
 2点目は、就業規則の変更について、第10条において「労働組合等との交渉の状況」が明記されていることです。もともと、労働基準法は、第36条の労働時間延長協定をはじめ、多くの労働契約内容の変更(労働者が一定時間働いて使用者が一定額の賃金を支払うということが労働契約の内容だとすれば、労働時間の延長は労働契約の中核部分の変更です)に、組合の関与を認めてきました。その結果、労働組合があるからこそ労働時間の延長はじめ労働契約内容の変更が可能となり、労働組合がなければ労働時間の延長や労働契約内容の変更はできないということになっており、労働契約法もこの状況をさらに進めるものとなっているのです。 労働時間の延長や労働条件の変更をおこないたいと考えている使用者は、労働組合の成立や、過半数以上で構成される大規模労働組合を、歓迎すべきです。
 3点目は、労働契約法で具体的に手続を定めているのは、使用者による労働条件の一方的変更すべてではなく、労働者にとって不利益な変更だけであるということです。この「不利益」という文言の意味については法律では定義をされていませんが、「労働者の意思に反する」という定め方ではなくて「不利益に」という文言を使用している以上は、労働者の主観によって決まるものではないと思われます。したがって、ある労働条件の変更が、ある労働者にとって主観的に認めたくないものであったとしても、それは不利益な変更ではないとして、就業規則変更手続によらず、変更が認められる場合がある、ということです。

7 労働者からの解約と労働契約期間に関する考え方の転換

 これまで簡単に民法の原則から労働契約法の内容までをみてきました。使用者からの解雇、使用者による労働条件の一方的変更については述べましたが、労働者からの解約、労働者からの労働条件の変更については、述べていません。
 労働者からの解約は、民法の原則では、かなり柔軟にできます。そして、労働基準法でも、それは修正されていません。いわゆる「解雇権濫用法理」は、一方的に、使用者のみに適用されるものです。こうした条件においては、労働契約は、期間の定めがないほうが労働者にとって有利であるし、期間の定めがある場合には期間が長いほうが労働者にとって有利になります。そこで、先に述べたように、近年では、期間の短い労働契約は労働者にとって不利であるとして批判をする議論があるわけです。しかし、いわゆる「解雇権濫用法理」を導入すれば、期間の定めのない労働契約は使用者にとって一方的に制約があるわけですから、期間の定めのある、それも、できるだけ期間の短い労働契約を活用しようと使用者が考えるのは当然だったのです。それは、法律の枠内のことであり、脱法行為でも違法行為でもありません。そもそも、いわゆる「解雇権濫用法理」こそが、実定法を無視した主張だったのです。
 しかし、労働契約法第17条第2項は、労働契約の締結にあたり、使用者が「必要以上に短い期間を定めること」を否定しています。これは、期間の定めのない労働契約はいつでも解約できるいわばもっとも期間の短い契約であり、期間の定めのある労働契約は期間が短いほうがよいという民法、労働基準法の考え方が、この労働契約法において、実定法上も転換したことを意味します。期間の定めのある労働契約は期間が長いほうがよく、期間の定めのない労働契約は解雇権制限と結びついてもっとも期間の長い契約ととらえられるのです。


8 労働時間設定改善法の意義

 さて、労働者からは労働契約の解約が民法の原則どおり柔軟に認められるとすれば、労働者からの労働条件の変更を認める必要はないはずです。労働者は、解約をしたうえで、新しい労働条件で労働契約を申し入れればいいし、労働契約法にあるとおり合意による労働契約の変更を申し入れてもよいのです(拒否されたら解約をすることができる)。
 しかし、解雇が著しく厳しく制限され、終身雇用制度が確立されているわが国においては、解雇が少ない分だけ採用も少ないために労働力の流動性がなく、転職は非常に厳しいといえます。したがって、労働者から解約を申し入れたり、解約を覚悟のうえで合意による労働契約内容の変更をめざす、ということは困難な状況にあります。まったく労働者側の事由とはいえ、本人の心身の健康や、子どもや家族の傷病等で、従来のとおり労働できなくなる場合に、転職という解決方法をとれないわが国においては、事業主の配慮に頼るしかありません。労働時間設定改善法は、個々の労働者の「健康の保持」「子の養育」「家族の介護」「職業訓練」に対する配慮をして労働時間等を設定する努力義務を課したものです。
 労使を集団的な関係とみるのではなくて個々の労働者の事情への配慮を要請することと、本来の労働契約にまったく関係ない労働者の家族の事情等への配慮を要請するということの2点で、労働法としても一般契約法としても、特異な規定をもつのが、この労働時間等設定改善法なのです。
 労働時間設定改善法は、その改正施行時においては、従来のいわゆる時短促進法における労働時間の総量短縮目標を削除したことだけがクローズアップされ、規制の後退であるかのようにとらえた者もありました。しかし、より根源的に、労働時間に関する一般的な努力目標から、個別の労働者の個別のニーズに配慮する具体的な努力義務へ転化したことを、見逃すべきではないと考えます。そして、転職を容易にする方向ではなく、転職によらない解決を志向したということも、より大きな観点からみれば、重要です。
 労働時間等設定改善法の規定は、努力義務であっても、努力をしなければ義務違反になるわけであり、個別ケースにも適用されうるという点で、前述のように特異かつ重大な意味を持つものです。これは、立法にたずさわった人にとっては当然のことであり、そのうえで、その特異性を強調することなく、静かに成立をさせたのだと思います。

 切り札であるカードはすでにテーブルに配られており、カードを配ったディーラーはもちろんそのことを知っています。しかし、多くのプレイヤーは、そのカードが使われたときに、それが切り札であったとはじめて気づくのです。

薬害肝炎について

薬害肝炎の問題が、解決に向けて進展しそうです。


この問題については、かなり前から、政治決断はなされてきたと思います。裁判で勝訴しない人も救済すると大臣はいってきたし、実際にそうした提案がなされました。しかし、責任問題が焦点になったために、解決が遅れてしまったと思います。責任問題を棚上げすること、すなわち、「責任がないけれど、救済する」というのが本来の政治決断のはずです。法的な責任については、裁判所がこれまでにも判断していますし、より高度な司法判断をというのであれば、控訴上告して決着するしかありません。いったい誰が、責任問題が焦点になるよう、あおったのでしょうか。責任問題を焦点にしようとあおっている人たちの意図は、いったいなんなのでしょうか。それが、被害者にとって、また、わが国の将来にとって、よいことなのでしょうか。


それでは、責任問題はどう考えるべきでしょうか。政府が認めた薬で被害がでたら、すべて政府に責任がある、と考えるのが正しいのでしょうか。ここで「責任がある」というのは、「悪いことをした」ということです。しかし、もしそのように考えると、政府は絶対的に安全を確認するまで薬を認可しないという選択をするかもしれません。そうすると、薬の認可が遅くなります。その結果、その薬があれば助かった人たちが、死んだり、病に苦しんだりすることになるかもしれません。それが「正しい」のでしょうか。


そもそも、薬は人体に影響を及ぼすものです。薬には、必ず副作用があります。ある病気があり、その病気では薬を使わなければ100%死ぬが、薬を使えば病気はなおるが副作用で50%が死ぬ、とした場合、誰でもその薬を使うでしょう。政府は、その薬を、危険を承知で認可すべきではないでしょうか。それは「悪いこと」なのでしょうか。


極端な例をあげましたが、薬を使うことで病気がなおったり軽減されることもあるが、逆に、健康に害を及ぼすこともある、というのが普通なのです。そのバランスを考えて、たとえ危険があっても、薬は使うべき場合もあります。認可ということであればもっと広く認めるべきでしょう。実際に薬を使うかどうかは、まだ医師や薬剤師の判断、そして患者自身の判断のうえで決定されるからです。


責任問題については、認可をしたのが正しかったのか、認可を取り消すべきであったのか、ということをしっかり反省し、改めるべきことがあれば、改めるべきです。そのためには、どの時点で認可を取り消すべきであったか、といった「線引き」をしっかりしなければなりません。結果が悪かったのだから、すべて悪かったとしてしまえば、それで終わりです。なにが悪かったのか、どうすべきだったのかということを考えなければ、今後どうしていくのがよいのかということにつながりません。

責任問題、すなわち「なにがいけなかったのか」ということと、救済とは、切り離したほうがよさそうです。


救済にも、線引きは必ずあります。薬の副作用で病気になった人、他人からの感染で病気になった人、生まれながらに病気をもっていた人、いずれも病気であるということには変わりはありません。しかし、線引きして、一部の人だけを救済せざるをえないのです。


救済について考えます。副作用や薬害の救済については、誰が費用を負担すべきでしょうか。

政府が税金ですべての費用を負担するとすれば、製薬会社は安全を確認せずに薬を製造・販売しようとするでしょう。政府(税金)より製薬会社が負担したほうがよさそうです。

もし製薬会社が費用を負担するとしたら、被害が生じてしまった場合に、製薬会社は巨額な費用負担に耐えられずに倒産してしまうかもしれません。そうすると、被害者は救済されないということになってしまいます。すると、保険を使うのがよさそうです。製薬会社が保険料を負担して、薬害保険に加入して、薬害が発生したら、被害者は保険から救済を受けられるようにするわけです。しかし、そうすると、製薬会社が負担する保険料は、薬の価格に上乗せされることになります。薬の価格は高くなります。その結果、所得や資産が少ない人は、薬を使うことができない、ということになりかねません。

それでは、薬を使う患者が保険料を負担するというかたちで保険を導入したらどうでしょうか。この保険を強制的にしたら、やはり、所得や資産が少ない人は保険料を払えずに薬を使うことができないという可能性が残ることになります。したがって、患者が任意に保険に加入する、という方法を考えます。すると、患者は、保険料を払って保険に入って薬を使うか、保険に入らずに薬を使うか、薬を使わないか、選択できることになります。この方法が、もっとも患者にとって選択肢が多くなりそうです。ただ、そうした保険がなければ、政府がバックアップしてつくるのがよいのかもしれません。

このように考えてくると、救済の費用は、患者が負担するのがよさそうです。


しかし、患者が救済の費用を負担するのは、感情的に許せない、という人が実際はいるのだろうと思います。

そうした方には、次の質問の答を考えてほしいと思います。「製薬会社が救済の費用を負担するために、薬が高額になり、その高額な薬を使えないために死亡する患者がでてもよいのでしょうか。それは誰の責任なのでしょうか。」

そのうえで、やはり製薬会社が負担するのがよいと判断するのであれば、それは判断の問題で、どちらが正しいということではないと思います。

やはり、どちらかが絶対的に正しい、あるいは誤っているという、「権利」や「責任」の問題ではなく、「判断」の問題なのではないでしょうか。

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