第6の権力 logic starの逆説 -2ページ目

失言による法務大臣の辞任について

平成22年11月22日に、柳田法務大臣が失言の責任をとって辞任しました。

この件については、辞任する前にエントリーをしたかったのですが、かなり遅れてしまいました。


さて、この失言というのは、報道によると、11月14日に、地元のパーティで「法務大臣はいいですよ、“個別事案はお答えを差し控える” “法と証拠に基づいて適切にやっている” 法務大臣は、この2つ覚えておけばいい」と発言したということです。

この柳田法務大臣の発言は、パーティでのことだそうですので、おそらくジョークではないかと思います。他人を悪く言うわけでもなく、自分がやっている法務大臣の仕事についてのジョークですので、それをとりあげて非難するというのはいかがなものかと思いますが、以下では、発言の内容については踏み込まずに、仮に失言であったとしても辞任させるべきでhなかったという趣旨で、辞任反対論を書いてみたいと思います。


大臣が失言で辞任することが最近増えていますが、そのきっかけとなったのは、平成19年1月に当時の柳沢厚生労働大臣が「産む機械の数は決まっている」と発言し、2月に責任をとって辞任したことだと思います。

この「産む機械」発言については、別のエントリーに書いてありますので、そちらをご覧ください。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10727205326.html


この柳沢氏の「産む機械」発言が仮に失言であったとしても、やめるべきではなかったと思います。

それは、閣僚の評価は、こうした国会や政府の外での発言によってなされるべきではなく、どのような仕事をしたのか、あるいは、しなかったのか、ということで評価をされるべきだと思うからです。

よく「資質に問題がある」といったことが言われますが、よい仕事をできるのがよい資質であるはずです。

そして、いったん失言で責任をとることがおきれば、次からは、政敵も、マスコミも、失言を狙い、失言をとりあげることに注力するようになり、本来行われるべき政策についての議論や報道がなされなくなり、他方で、失言辞任が相次ぐことにより、政治や行政が停滞してしまうからです。


そして、実際にそのような事態になった、というのが、柳沢氏の「産む機械」発言の後で起こったことであり、そして、現在もそれが続いているのではないでしょうか。


柳田法務大臣の発言が仮に失言であったとしても、「失言では辞めない、辞めさせない」と勇気をもって言うことが、正常化への道であったのではないか、と思うのです。


もちろん、政策判断を誤った、あるいは、仕事をしていないということがあれば、それは批判し、場合によっては辞任を求めるということもあってよいことです。大臣に対しては、国会や政府の外での失言ではなく、国会や政府での仕事に対して批判がなされるべきではないでしょうか。

政治家の失言、許せる?

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本文はここから

大臣が失言で辞任することが最近増えていますが、そのきっかけとなったのは、平成19年1月に当時の柳沢厚生労働大臣が「産む機械の数は決まっている」と発言し、2月に責任をとって辞任したことだと思います。

そもそも、この「産む機械」の「失言」と「辞任」騒動には、いろいろと誤解や曲解がありました。

まず、「女性は産む機械」という発言をした、と報道されたことです。

しかし、柳沢氏は、「女性は産む機械」という発言はしていません。

「女性は」は報道機関が付け加えたものです。

「(女性は)産む機械」とかっこ書きをしているものもありましたが、これはまさに趣旨を曲解させるものでした。

すなわち、女性蔑視のニュアンスを付け加えたのです。

柳沢氏は、少子化対策について、15歳から50歳までの女性の数は増やしようがないため、女性1人あたりの出産数を増やすしか、出産総数を増やすことはできない、ということを、機械の数は決まっている、それで総生産を増やそうとするなら、1台あたりの生産数を増やすしかない、ということを例にして述べたものであり、女性蔑視のニュアンスはなかったと思われます。

「機械って言ってごめんなさい」という言葉をはさんでおり、よい表現ではなかったと自覚していたようですが、地方議会議員や支援する経営者が参加する内輪の会合であり、TPOを考えて、相手にわかりやすい表現をとったものだと思われます。

そうはいってもそれを聞いた女性は傷ついた、と思う方もいるかもしれませんが、それは本当に、柳沢氏の責任なのでしょうか。限定された場所で話したことを、わざわざ外に伝える人がいたから、聞いた人が傷ついたわけで、それは伝えたマスコミの責任ではないでしょうか。それも、女性蔑視のニュアンスを付け加えて、わざと傷つくように、伝えたのです。


したがって、柳沢氏の「産む機械」発言は、そもそも失言には値しないと思っていたのですが、仮に失言であったとしても、やめるべきではなかったと思います。

それは、閣僚の評価は、こうした国会や政府の外での発言によってなされるべきではなく、どのような仕事をしたのか、あるいは、しなかったのか、ということで評価をされるべきだと思うからです。

よく「資質に問題がある」といったことが言われますが、よい仕事をできるのがよい資質であるはずです。

そして、いったん失言で責任をとることがおきれば、次からは、政敵も、マスコミも、失言を狙い、失言をとりあげることに注力するようになり、本来行われるべき政策についての議論や報道がなされなくなり、他方で、失言辞任が相次ぐことにより、政治や行政が停滞してしまうからです。


そして、実際にそのような事態になった、というのが、柳沢氏の「産む機械」発言の後で起こったことであり、そして、現在もそれが続いているのではないでしょうか。

「失言では辞めない、辞めさせない」と勇気をもって言うことが、正常化への道ではないか、と思うのです。


もちろん、政策判断を誤った、あるいは、仕事をしていないということがあれば、それは批判し、場合によっては辞任を求めるということもあってよいことです。大臣に対しては、国会や政府の外での失言ではなく、国会や政府での仕事に対して批判がなされるべきではないでしょうか。




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神戸市長に55億円の賠償を認めた判決2 議会による損害賠償請求権の放棄について

前のエントリーで、神戸市長に55億円の賠償を認めた判決について書いたことがあります。


そもそも、住民訴訟は、市長や職員が、私利私欲のために勝手に市の財産を使って、市に損害を与えた場合に、提起すべきものです。

神戸市は、きちんと手続を踏んで、隠すことなく、支出をしました。

その支出に仮に問題があったとしても、市長1人が責任を負うべきことでないことは明白です。

したがって、この判決は、根本的に誤りです。


それにもかかわらず、こうした住民訴訟がなされ、このような判決が横行するため、議会は、やむを得ず、市長に対する賠償請求を放棄する、という議決をしたのです。

そして、議会が市長や職員に対する賠償請求を議決により放棄できる、ということは、地方自治法に明確に書いてあります。

それにもかかわらず、なんの法律の根拠もなく、その賠償請求の放棄を無効とした、という判決でした。


しかし、最近、議会の賠償請求の放棄を否定的にとらえる主張がみられ、地方自治法の改正も言われるようになっています。

たとえば、中央大学の阿部泰隆先生は、「議会の多数派が市長与党と称して、大政翼賛会と同じように市長の方針に「協賛」しているのである。とても「良識」ある判断をしているとは思えない・・・・勝手に放棄するのは、背任である。そのようなことが白昼堂々と議論されているのである。・・・違法な権利放棄をすれば、違法行為の共同不法行為者として、自治体も賠償責任を負うと解するべきである」と論じています。(ジュリスト1411号70ページ)


この阿部先生の主張は、「勝手に放棄するのは、背任である」というのですから、議会による権利放棄そのものを否定しています。しかし、議会が放棄できるということは、明確に法律に書いてあるのです。それを無視した主張であり、もはや法律論とも言えません。

阿部先生は、「自治体も賠償責任を負う」と言いますが、住民訴訟というのは、もともと、自治体の立場で、住民が職員を相手に訴訟をおこすものです。そして、神戸市の支出は、市長が独断でおこなったわけではなく、神戸市という自治体が手続きを経ておこなったものです。仮に、その支出が誤っていたとした場合、まさに自治体が責任を負うべきことであり、自治体が神戸市長個人に請求をするという住民訴訟が認められるということは、おかしなことなのです。

したがって、議会はまさに「良識ある判断」をしているのであり、この判決をした裁判所のほうが、とても「良識ある判断をしているとは思えない」のです(法律に基づいた判断をしていないことは明白です)。


このことは、前のエントリーに詳しく書いたとおりですので、ご覧ください。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10422850535.html


わたしは、議会による請求権の放棄は、決して望ましいことだとは思っていません。

また、住民訴訟について、直接職員を被告とすることができなくなった改定も、問題があると思っています。

しかし、こうしたことが行われているのは、住民訴訟で政策的主張をしたり、あるいは、自治体が正規の手続を踏んで支出したものについて本来行うべき是正を求める訴訟ではなく高額の個人賠償を求める訴訟を提起したりするようになったからです。

こうした住民訴訟や、判決こそが、住民訴訟の趣旨を根底から覆すものです。

議会による請求権の放棄の議決や、地方自治法の改定は、酷い訴訟の乱発と、ひどい判決が相次いだための、やむをえない措置であり、責められるべきは、裁判官と、その判決を是認してしまった法学者、住民訴訟を濫用した一部の弁護士、一部の住民であると思っています。


こうした酷い判決をする裁判官がいるために、そしてそのような判決を支持する法学者やマスコミがいるために、政治・行政も裁判をおそれて十分に機能しなくなり、ひいては国民が不幸になるのではないか、と危惧します。

議会が請求権の放棄によって最後に良識を発揮してきたわけですが、この請求権放棄を認めないようにしようという法改正が議論されていますので、あらためて書いてみました。


(このエントリーにもいつものように非難がきそうですが、あえて人気のある主張とは違うことを書くのが「逆説」ですから)

耐震偽装の控訴審判決について

2月24日に、姉歯元建築士による耐震偽装事件について、強度不足が判明してホテルを建て替えたホテル経営者が、建築確認をした愛知県を相手取って提起した訴訟で、愛知県の損害賠償を認める判決が名古屋地方裁判所でありました。

その控訴審判決が、10月29日に名古屋高等裁判所であり、名古屋地方裁判所の一審判決を覆し、県の責任を否定しました。

新聞報道によると、県の過失を認めなかったようです。


この件については、過去のエントリーで名古屋地方裁判所の一審判決について書いたことがあります。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10214278911.html


その要点を繰り返します(がぜひ全文をご覧ください)。

「愛知県が建築確認をしているのは、誰のためでしょうか。

建築主であるホテル経営者のためにおこなっているのでしょうか。

そうではありません。

愛知県が「義務」を負っているのは、県民、国民に対してです。

この建物が地震により倒壊し、通行人に被害が出ないようにするために、建築確認をおこなっているのです。

もし、本当に建物が地震によって倒壊し、通行人に被害が出た場合に、その被害者が愛知県に対して損害賠償を求めるというのであれば、理解できます。

しかし、建築主が愛知県に損害賠償を求めるというのは、理解できません。

建築主こそが、本来、安全な建物を建てる義務があるのです。

他人を危険にさらすような、危険な建物をつくってはならないのです。

その義務に違反した建築主が、愛知県に、税金から、損害の補てんを求めるというのは、なにかおかしくないでしょうか。

安全な建築物をつくるということでは主体が建築主で、そのチェック・サポートをするのが県です。

整備不良の車で事故をおこしたり、スピード違反で事故をおこしたドライバーが、ちゃんと事前に取り締まってくれれば、事故はおこさなかった、と言って、警察を相手に損害賠償を求めたら、その請求は認められるでしょうか?

それとよく似た状況だと思っています。」


したがって、名古屋地方裁判所の一審判決には問題があると考えており、名古屋高等裁判所の二審判決の結果を支持するのですが、しかし、問題は県に過失があったかどうかではないと考えています。


実は、10月28日に、京都地方裁判所で同じように京都府を相手取っておこなわれた裁判の判決がなされています。

その判決の内容は、新聞報道によると、次のとおりとのことです。

「建築基準法は、居住者らの生命、財産を保護している。所有者は直接の保護対象外なので、府が建築確認の判断を誤っても違法と評価できない」


この京都地方裁判所の判決は、私の先のエントリーと同じ趣旨のもので、基本的には、私は、この京都地裁の分析を評価します。

ただ、違法という基準で判断すべきかどうか、という疑問はあります。

不法行為であれば「権利侵害」か「因果関係」でみるべきではないかと思います。

過失があっても、違法でも、損害賠償責任を負うとは限らないのです。


判決に肯定的なことは、このブログの趣旨からは、あえて書く必要がないのですが、新聞では、原告であるホテル経営者のインタビューがあり、同情的な論調にも感じられましたので、繰り返しになりますが、書いておくこととしました。



参考とした記事

http://blog.goo.ne.jp/sumaino1/e/f26be56edbdf0c679acea3fa5e2bb5fd
http://hondamasazumi-js.blogdehp.ne.jp/archives/20101029.html

http://j-burogu123.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-592c.html

東海豪雨新川訴訟控訴審判決について

8月31日に、2000年(平成12年)の東海豪雨について新川流域で床上・床下浸水等にあった方による損害賠償訴訟の控訴審判決がありました。

控訴審でも、1審と同様、原告敗訴、損害賠償は認めないという判決になりました。


河川水害については、行政がなにかをしたために被害が生じたというわけではありません。行政は被害防止のために努力をしています。いわば、努力が足りないから、という理由で損害賠償を求めているという点が、通常の損害賠償請求と異なるところです。


新川流域は、もともと河川の氾濫のおそれが高いと考えられていたようであり、古い家屋には、敷地に盛り土をしたり、基礎や土台を高くするなどの対応をしているものが見られます。


そうした備えをしていない(あえていえば「怠った」)家屋が被害を受けたということになります。


東海豪雨などの水害については、1審判決をもとに、すでのこのブログで一度書いたことがありますので、以下ではそれを再記しておきます。


http://ameblo.jp/logic--star/entry-10079941002.html


行政が建設した建築物が倒壊して隣家が下敷きになったという場合には、行政の責任は容易に認められます。

その建築物を建築したのが行政ではなく、個人であっても、その個人の責任は容易に認められるでしょう。

しかし、河川水害は、被害が生じたからといって、簡単に行政の責任を問えるものではありません。

もともと河川は洪水するものであったところ、行政が治水のために手段を講じて、洪水を少なくしている、というのが現状だからです。

行政がなにもしなければ、洪水による河川水害はもっと頻繁におこっているでしょう。

河川水害は、自然に発生するものです。

それを、行政が努力をして治水をしており、その効果もたしかにあがっているのです。

それにもかかわらず、その「努力が足りない」として、行政の責任を問うているのです。

センセーショナルに「人災」という言葉が使われることもあります。


さて、ここで、「努力が足りない」とは、どういうことでしょうか。

河川水害防止にかける費用が少ない、ということにほかなりません。

もっと、河川水害防止に税金を投入すべきだった、ということです。

そして、被害が発生した場合に行政の責任を問うということは、税金から補償をせよということです。

すなわち、河川水害について行政の責任を追及するということは、河川付近の住民のために、もっと税金を使うべきだ、ということなのです。

河川水害防止のために、そして、被害が発生したら補償のために。


河川水害が発生してしまったときの補償について考えてみます。

Aさんは、河川水害で家屋が全壊したため、税金での補償を求めたとします。

Bさんは、河川水害で同様に家屋が全壊したのですが、河川に近いからということから、高額の保険料を支払って保険に入っており、この保険金が出たために損害がなかったとします。

このBさんの支払う税金から、Aさんの家屋のために補償がなされることが公正でしょうか。

またCさんは、河川に近いということから、高額の費用をかけて、土地を高くしたうえに家を建てたため、洪水にもかかわらず、家屋に損害が発生しなかったとします。

そして、Dさんは、河川に近いということから、ここに家を建てるのをやめて、はるかに土地代が高額になったにもかかわらず(河川に近く低い土地は安いのです)、もっと河川から遠い土地に家を建てたとします。

このCさんやDさんが支払う税金から、Aさんの家屋のために補償がなされることが公正でしょうか。

Eさんは、資産がなく、収入も少ないため、土地も家も持つことができず、賃貸アパート住まいだったとします。

このEさんが支払う税金から、Aさんの家屋のために補償がなされるということは、持たざる者の負担で、持てる者の財産を保護するということになるのですが、それが公正でしょうか。


最後のEさんとAさんとの関係を考えてみると、家屋や家具といった財産への補償と、生命や傷病への補償を分けて、生命や傷病への補償は行政が手厚くおこなう、という選択もあるのかもしれません。


今回は、税金の流れに注目をして、河川水害と行政の責任について書いてみました。

あまり論じられていない点ではないかと思いますが、いかがでしょうか。


なお、河川水害防止のために費用をかけることについても、少しだけ書いてみます。

先のAさん、Cさん、Dさんの関係は、水害防止に税金を投入する場合でも、同じです。

たとえば、Cさんは、高額の費用をかけて土地を高くしたうえに家を建て、洪水に万全の備えをしたとします。その後、Aさんの強い訴えで堤防をつくることになり、まったく堤防を必要としていないCさんの払う税金から、その建設費用を支出することは公正でしょうか。

Dさんは、河川に近い土地を避けて、はるかに土地代が高額になったにもかかわらず河川から遠い土地に家を建てたとします。その後、Aさんの強い訴えで堤防をつくることになり、まったく堤防を必要としていないDさんの払う税金から、その建設費用を支出することは公正でしょうか。


また、もう少し違う視点からも、河川水害防止にかける費用について、考えてみます。

仮に、10億円の堤防をつくれば、河川水害が絶対に防止できるとします。

ただし、10年たったら、また10億円かけて堤防をつくりなおさなければなりません。

他方、堤防をつくらなければ、10年に1回水害が発生するおそれがあり、そのときの損害は5億円とみこまれるとします。

この場合でも、10億円をかけて堤防をつくるという選択が正しいのでしょうか。

裁判などでは、水害が予測できたかどうか、がよく争われていますが、水害が予測できたとしてもあえて完璧な対策をしないこともありえる、とわたしは思うのですが、いかがでしょうか。



この件に関して参考となる記事等

http://bubangzhu.blog.so-net.ne.jp/2010-09-02-3

http://blog.goo.ne.jp/photoproduce/e/da707263b86d0c09784469cd4270db32




生活保護の老齢加算廃止を違法とする判決

生活保護の老齢加算について、2004年に国が廃止を決定し、段階的に減額のうえ、2006年には全廃されました。

一般的な生活保護については、もちろん継続して支給されていますが、老齢加算を廃止するものです。

この老齢加算の廃止、減額について、裁判がなされ、老齢加算の廃止が違法だとの判決が、6月14日に福岡高等裁判所でくだされました。

廃止を決めたのは国ですが、生活保護の実際の窓口は市町村がおこなっていますので、北九州市が被告になっています。


さて、当ブログの趣旨からは、この判決には、否定的なことを書くことになります。


まず、生活保護自体は憲法問題になるかもしれませんが、加算については、政治問題だということです。

政治で争うべきことを、政治の場では勝てなかったので、裁判に持ち込んだという典型的な事例であり、かつ、裁判官が愚かにも政治的な判断をしてしまったという酷い判決です。


そして、違法だというのであれば、法律に違反するのですから、どの法律のどの条項に、なぜ違反するのかをちゃんと示す必要がありますが、なにも示すことができていません。

法律判断をしておらず、政治的な判断をしているわけですから、あたりまえです。

裁判官は、法律の専門家であっても、政策の専門家ではなく、また、選挙で選ばれたわけでもないので政治判断をする立場にもないということを自覚すべきです。


生活保護法は、老齢加算は、厚生労働大臣が決めることとしています。

そして、実際に厚生労働大臣が決めたわけですから、なんら違法はありません。


この判決は、法律には、厚生労働大臣が決めると定めてあるにもかかわらず、厚生労働大臣の判断は誤っていて自分(裁判官)の判断が正しい、だから違法だといっているわけです。

論じるまでもない、明らかな誤判でしょう。


いちおう判決の内容を見てみると、激変緩和措置などについて検討していないということを示しているようですが、段階的に減額して廃止しているわけですから、激変緩和措置はとられているわけです。

検討していない、というのは手続の問題です。

「手続」が「不十分」だ、ということから、「結果」が「違法」だということにはなりません。

手続の妥当性を考えるのは、裁判官の役割ではありません。

今回の判決では、裁判官の役目であるはずの、法律判断をしていないと言わざるをえません。


裁判や判決と離れて、老齢加算について考えてみます。

政策論的には、なぜ生活保護に、「老齢加算」があるのかということは、よくわかりません。

老齢者は、そうでない人よりも、健康で文化的な生活をするのに、高い費用がかかるのでしょうか?

それとも、老齢者の健康で文化的な生活というのは、そうでない人よりも、高い水準なのでしょうか?

どちらも無理があり、正面から考えても、老齢加算には根拠はなかったというべきではないかと思います。

新聞には、「老齢加算を減らされて食費や入浴回数を減らさざるをえない」といった受給者の声が書かれています。

しかし、老齢者でない人よりも、老齢者のほうが、よい食事をとるべきで、入浴回数も増やすべきだという根拠はあるのでしょうか・

(どうせ政策論に踏み込むなら裁判官もここまでいうべきでしたし、マスコミもこの点をとりあげるべきです)


なお、老齢加算のような、重要な問題で、かつ、地方自治体に仕事を左右することは、大臣が決めるのではなく、国会で議論して、法律本体で決めておくべきです。

そうすれば、このような裁判は避けられたと思います。


参考ブログ

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パロマガス湯沸かし器事故の有罪判決について

5月12日に、パロマのガス湯沸かし器を使用していた人が一酸化炭素中毒で死亡した事故について、パロマの元社長と元品質管理部長に有罪の判決がありました。


このブログの趣旨から、判決に否定的な立場で、パロマ社員を擁護する立場で、書いてみたいと思います。


この事故は、パロマのガス湯沸かし器自体に問題があったというわけではありません。

販売後に、改造がなされたため、安全装置が働かなくなり、そのために、死亡事故に至ったというものです。


すなわち、パロマの社員には、積極的になんらかの行為をおこなったということではなく、改造されて危険な湯沸かし器を放置したという不作為の責任が問われているわけです。

そして、不作為の責任については、なかなか問うことが難しいということは、薬害エイズの事件について、前のエントリーですでに書いたところです。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10077669314.html


まず、パロマは、改造湯沸かし器を回収する、契約上の義務がなかったことは明らかです。

安全な製品を販売する義務があり、それは売買で完結されたわけです。

売買後に、買主が(他の人に依頼して)改造をしたものを回収する義務が、契約上あったとは思えません。

契約上の義務がないということは、民事上の義務がないということです。

民事上の義務がないにもかかわらず、より重い、刑事上の義務があったというのが、今回の判決です。

これだけで、なにかおかしいのではないかと思われます。


判決を具体的に見てみます。


判決は、次のように述べています。

パロマは「事故現任に関する情報を入手していた。」そして、「情報等に基づいて、把握できる範囲で・・・点検・回収を行うことは可能であった。」

また、ガス事業者(東京ガス)は、「事故防止のための十分な対策をとっておらず・・・事故の情報の収集は十分でない」とし、経済産業省も「事故に対策する安全対策の指導の実績は乏しく、収集された事故情報についても省内で集約されておらず、事故防止対策を指示するための契機として活かされていなかった。」

しかし、これでは、熱心に情報を集めていれば、対応が可能であったとして刑罰が課され、逆に、無関心で放置していれば知らなかったのだから仕方がないとして許されることになってしまいます。

まったく不合理ではないでしょうか。


また、あくまでもパロマは「点検・回収を行うことは可能であった」にすぎません。

それを判決は、とくに理由も説明せず、「点検と・・・回収を行うべきであった」と言い換えてしまっています。

しかし、やろうと思えばできたということと、やらなければならなかったという間には、大きな違いがあるはずです。

やろうと思えば、パロマでなくとも、(ガス事業者と経済産業省はできなかったとして)修理業者でも、たまたま被害者の家に遊びにきた被害者の友人で機械に詳しかった人であっても、たまたま被害者の家にあげられた車のセールスマンでガス器具に詳しい人であっても、可能であったわけです。

可能ということから、義務ということに、なんら根拠なく変えてしまっていることも、この判決の大きな問題点です。


さらに、判決は、元社長は「最終決定権限を有していたのであるから」、元品質管理部長は「安全対策の実務上の責任者として活動していたのであるから」、「刑法上の注意義務を負う立場にあった」と述べています。

ここでは、2つの問題点があります。

先ほど、「可能であった」が「行うべきだった」にすり替わったと書きましたが、それがここではさらに「刑法上の注意義務を負う」に変わっています。

また、先ほどまでは「パロマの責任」を論じていた判決が、ここでは、元社長、元部長というだけで、個人の刑法上の責任があるとしています。

仮に、パロマに道義上あるいは倫理上の点検・回収義務があったとしても、それがただちに刑事上の義務になるはずがありません。

刑罰を課すほどの義務と責任があったのか、ということを、この判決では検討さえしていません。

さらに、刑罰は個人に課されるものであるはずなのに、判決では、元社長、元部長ということから、「権限」と「立場」で、個人の責任を認めてしまっています。しかし、この「権限」と「立場」は職務上のもののはずです。パロマのイメージダウンに対して、こうした「権限」と「立場」がある社長・部長という肩書の2人は、職務上の責任を追及されることになります。しかし、刑罰は、個人が受けるものですので、肩書から当然に刑事責任が認められるものではなく、具体的な個人の行動や判断を根拠としなければならないはずです。この判決は、元社長・元部長の2人についてさらに詳細に検討をしていますが、結局、事故の発生を予見することができたかもしれない、ということにとどまっています。それで刑罰を課されるのであれば、ほとんどの人が犯罪者になってしまうのではないでしょうか。


判決でも、「本件事故は直接には修理業者による不正改造に起因したもので、その責任は第一次的には不正改造を行った者に帰せられるべきである」と述べられています。

それならば、不正改造を行った修理業者に刑罰を課せば、じゅうぶんだったのではないでしょうか。

さらに、なにも積極的に悪い行いをしていないパロマの社長や部長に刑罰を課すべき理由が本当にあったのでしょうか。


私自身も自覚していますが、誰か悪者をつくり、バッシングして、いい気持ちになりたいという、欲望は、誰にでもあると思います。

だからこそ、理性と知性をもって、冷静に、客観的に、多面的に検討すべきである、というのが、このブログの趣旨なのです。

今回の判決は、悪者をつくりバッシングしたいという人の欲望をマスコミがあおってできた風潮や「空気」に流された結果ではないかと危惧します。

(平成10年7月28日札幌地方裁判所判決、平成14年2月7日札幌高等裁判所判決を参照のこと)


この事故で検討すべきは、誰を犯罪者にするかということではなく、なぜこのような事故が発生したのかを解明し、今後はどのようにして防ぐのかということではないのでしょうか。

性同一性障害で性別を変えた夫と嫡出子について

1月12日、千葉景子法務大臣が、性同一性障害で女性から男性に戸籍上の性を変えた夫の妻の子を嫡出子と認めるよう、早急に改善に取り組みたいと発言しました。

嫡出子は、夫婦の間の子ということです。

性同一性障害で性別を女性から男性に変えても、生物学的には女性のままです。したがって、生物学的には、夫と子の間に親子関係がないことは明らかです。

しかし、民法上の親子関係は、生物学上の親子とは別に定められることになっています。

(生物学上の親子であるという解釈も不可能ではないのですが、そうした解釈をとられている人はおそらく皆無です)

すなわち、法律上の親子と、生物学上の親子とは異なる、ということです。

そうであるならば、法律上の親子を示す戸籍について、生物学上の問題をもちだしている現在の法務省の見解がおかしい、ということになります。


しかし、他方で、DNA鑑定等で、生物学上の親子関係が容易に確定できるようになっていることから、現在の民法の規定を改正しようという意見もでています。

離婚直後に生まれた子は、法律上は、離婚前の夫の子と推定されるのですが、DNA鑑定などで親子関係を確定すべきだという意見が強く出されています。


すると、今回の法務大臣の意見は、法律上の親子を、生物学上の親子によって決定しようという、最近強くなってきた見解とは違う方向にあるということになります。

千葉法務大臣は、先ほど例にあげた離婚直後にうまれた子については生物学を重視して父と子の関係を決定すべきとのスタンスをとっていますので、政治的には、一貫性がないといわざるをえません。


性同一性障害への差別という感情的な問題ではなく、まずは、論理的、客観的に考える必要があると思います。


現在の法律では、生物学を考慮しないということが前提になりますので、性同一性障害で女性から男性に戸籍上の性を変えた夫の妻の子も、夫の子として、嫡出子とすることになります。


そのうえで、法改正、制度改正では、それでよいのかどうか、生物学上の親子関係で、法律上の親子関係も決定すべきかどうかを、政治の問題として考える、ということになるでしょう。

生物学重視の観点で法制度を改正すれば、性同一性障害で性別を女性から男性に変えた夫は、妻の子の父親にはなりえないということになります。

さらに、やはり法改正、制度改正の問題として、相続における非嫡出子差別をやめるかどうか、嫡出子と非嫡出子という区別をやめるかどうか、ということではないでしょうか。


労働者派遣法の改正について

1月8日の朝日新聞朝刊に、労働者派遣法の改正案の提出についての記事がありました。

(1)登録型派遣の禁止、(2)専門的な業務以外の製造業派遣の禁止、(3)未払い賃金についての派遣先の連帯責任、(4)派遣先が違法行為をした場合に派遣先に直接雇用を通告できる制度、のおおむね4点の内容の法案が提出されるようです。

しかし、あまり、冷静に、客観的に考えられた内容ではないのではないか、と懸念されます。


いわゆる派遣切りが問題となるのは、まさしく(1)登録型派遣の問題です。

もともと派遣業が想定していたのは、常用で社員を派遣会社が雇用していて職業訓練をしておき、依頼があったときに、即戦力となる派遣社員を派遣するというものであったと思います。

登録型で、仕事があるときだけ雇用するというのは、当初の想定とは異なります。

派遣という問題を離れたとき、仕事があるときだけ出勤させ給料を支払い、仕事がないときは給料は払わない、ということが認められるかどうか、といえば、認められません。

しかし、一般には、半年、1年といった期間を区切った雇用は認められます。

派遣切り、と悪いイメージでいわれますが、契約期間が満了して雇い止めがあったというのが正しい表現です。

わが国では、期間の定めがない雇用関係を「正社員」といい、これに対して、期間を定めて雇用される「契約社員」があります。

派遣切りは、派遣会社に「契約社員」として雇用された人の、雇い止めの問題です。

すなわち、「派遣」自体が問題というよりも、「契約社員」の問題とみるべきなのです。


そう考えると、(2)製造業派遣の禁止は、あまり意味がないことがわかると思います。

製造業派遣が禁止された場合には、製造業の契約社員に移行するだけです。

また、製造業のみ常用派遣を禁止する理由がとりたててあるとは思えません。


(3)未払い賃金についての派遣先の連帯責任は、どうしてこのような議論がでてきたのか理解できません。

派遣は、派遣先と、派遣元の責任を明確に分けることによって、「中間搾取」といわれる不都合を回避し、かつ、ニーズにあったところに人材を確保する有意義な制度にしようということではなかったかと思います。

(4)も含めて派遣先の責任強化は、労働者派遣の基本的な考え方に反するものです。

簡単にいえば、未払い賃金について派遣先に責任を求めると、派遣先は、派遣社員への賃金を直接支払いしたいと思うようになるということです。

それができないとしても、派遣元が社員に賃金を支払ってからしか、派遣先は派遣元に対する派遣契約にもとづいた派遣料の支払いをしようとしないでしょう。

そうすると、派遣元の資金繰りが厳しくなるだけということになります。


いずれにしても、問題の中核が、「契約社員」の雇い止めにあるということが認識されれば、正社員はまず解雇されず、契約社員だけが雇い止めが認められるということを論ずべきだということがわかります。

そして、正社員を解雇することができないからこそ、業務の繁閑に対応するため、また、将来の業績悪化に備えて、雇い止めをできる契約社員を雇用しなければならないのです。


このブログではたびたび書いていますが、正社員を解雇しやすくするというのが、もっとも合理的な解決なのですが、そうすると、また別の問題が生じるということになります。

派遣先企業や、派遣元企業を「悪者」とみて部分的な規制するのではなく、日本全体の雇用制度がどうあるべきかということを考えるべきではないでしょうか。




障害者支援法訴訟の終結について

1月7日、障害者に原則1割の自己負担を求める障害者自立支援法の違憲訴訟について、原告側と政府(厚生労働大臣)が訴訟の終結について同意しました。

多くのマスコミが肯定的に報道していますので、あえて問題提起をしてみたいと思います。

(批判があるかなと思いますが、すぐに悪人さがしをしたり、善悪の問題にしたりせず、冷静で、多面的にいろいろ考えようとうのが、このブログの趣旨です)



この訴訟の最大の問題点は、本来は、政治の場で解決すべきことを、裁判にもちこんだことです。

福祉をどのようにすべきかということは、まさに政治的な判断の問題です。

少数意見の尊重と、多数決の原則によって、国会で決定すべきことです。

その結果が、自分に不利益であったからといって、裁判に持ち込むことが正当化できるかどうか、ということです。

そして、国会の判断と異なる判断を、「正しい」ものとして、少数の選挙で選ばれたわけでもない裁判官が判決をくだすことが、本当によいことかどうか、ということなのです。



こうした問題について、あるいは、裁判にもちこまれたことについて、政府が「政治的な解決」をはかるということは、ありえると思います。

しかし、政府が「反省」の意を表明したのは、問題があると思います。

国会が、少数意見の尊重と多数決の原理で決定したことについて、厚生労働大臣は反省をすべき立場にはありませんし、反省を表明すべき立場でもありません。

また、「平成25年8月までに、障害者自立支援法を廃止し新たな総合的な福祉法制を実施する」等と合意文書にありますが、法律の廃止や制定には国会の議決が必要であり、厚生労働大臣の独断でできることではありません。

政治判断や、政治的な解決は、基本的には、法律問題や、是非の問題を「棚にあげて」、将来に向けて決断すべきものです。

今回、厚生労働大臣が原告とした合意は、明らかに政治判断の範囲も、厚生労働大臣の権限も逸脱しています。


厚生労働大臣は、法改正が必要だと思うのであれば、裁判とは切り離して、それを着々と進めればよかったのではないでしょうか。

その進捗によって、和解できるのであれば、その時点で、現状をもって和解をすればよかったのではないでしょうか。

なぜ、今、過去の国会の判断を「反省」して、将来の国会の判断を「約束」するような合意をしなければならなかったのか、そうした合意が正当化されるのか、理解できません。


「国」というとき、他人事のように感じがちですが、それは我々「国民」ということだと認識すべきではないでしょうか。とくに、国会で議決された法律については、間接的にではあっても国民が決定したことです。(そうではないと誰もが言いたいとは思いますが)

評論家のように、誰かを批判するということでよいのかということも、考えておきたいことです。