障害者支援法訴訟の終結について
1月7日、障害者に原則1割の自己負担を求める障害者自立支援法の違憲訴訟について、原告側と政府(厚生労働大臣)が訴訟の終結について同意しました。
多くのマスコミが肯定的に報道していますので、あえて問題提起をしてみたいと思います。
(批判があるかなと思いますが、すぐに悪人さがしをしたり、善悪の問題にしたりせず、冷静で、多面的にいろいろ考えようとうのが、このブログの趣旨です)
この訴訟の最大の問題点は、本来は、政治の場で解決すべきことを、裁判にもちこんだことです。
福祉をどのようにすべきかということは、まさに政治的な判断の問題です。
少数意見の尊重と、多数決の原則によって、国会で決定すべきことです。
その結果が、自分に不利益であったからといって、裁判に持ち込むことが正当化できるかどうか、ということです。
そして、国会の判断と異なる判断を、「正しい」ものとして、少数の選挙で選ばれたわけでもない裁判官が判決をくだすことが、本当によいことかどうか、ということなのです。
こうした問題について、あるいは、裁判にもちこまれたことについて、政府が「政治的な解決」をはかるということは、ありえると思います。
しかし、政府が「反省」の意を表明したのは、問題があると思います。
国会が、少数意見の尊重と多数決の原理で決定したことについて、厚生労働大臣は反省をすべき立場にはありませんし、反省を表明すべき立場でもありません。
また、「平成25年8月までに、障害者自立支援法を廃止し新たな総合的な福祉法制を実施する」等と合意文書にありますが、法律の廃止や制定には国会の議決が必要であり、厚生労働大臣の独断でできることではありません。
政治判断や、政治的な解決は、基本的には、法律問題や、是非の問題を「棚にあげて」、将来に向けて決断すべきものです。
今回、厚生労働大臣が原告とした合意は、明らかに政治判断の範囲も、厚生労働大臣の権限も逸脱しています。
厚生労働大臣は、法改正が必要だと思うのであれば、裁判とは切り離して、それを着々と進めればよかったのではないでしょうか。
その進捗によって、和解できるのであれば、その時点で、現状をもって和解をすればよかったのではないでしょうか。
なぜ、今、過去の国会の判断を「反省」して、将来の国会の判断を「約束」するような合意をしなければならなかったのか、そうした合意が正当化されるのか、理解できません。
「国」というとき、他人事のように感じがちですが、それは我々「国民」ということだと認識すべきではないでしょうか。とくに、国会で議決された法律については、間接的にではあっても国民が決定したことです。(そうではないと誰もが言いたいとは思いますが)
評論家のように、誰かを批判するということでよいのかということも、考えておきたいことです。