鳩山法務大臣の「冤罪」発言について
鳩山法務大臣の「冤罪」発言がマスコミにとりあげられていますので、新聞報道をもとにした範囲でですが、少し書いてみようと思います。(このブログの趣旨からは、鳩山法務大臣を擁護する内容になります。)
新聞報道等を見るかぎり、鳩山法務大臣の発言の趣旨は、次のとおりだと思われます。
(1)たんに裁判で無罪になった場合には「冤罪」にあたらず、裁判でいったん有罪とされたものが再審などで無罪が確定した場合が「冤罪」であること。
(2)裁判で無罪になることをおそれず、検察の職務をしっかりとおこなうこと。
なお、発言は、検察関係者を対象としたものでした。
この(1)の発言は、本来、定義の問題にすぎません。
良い、悪い、というものではないはずです。
それでは、定義の問題として、起訴した被告が無罪になった場合に「冤罪」という言葉を使うのが適切なのでしょうか。考えてみたいと思います。
ここで、「無罪推定」ということを思い出す必要があると思います。
本来、有罪が確定するまでは、無罪なのです。
そうだとすれば、起訴した被告が無罪になったという場合は、一度も有罪とされていないのですから、「罪」があると認められたことはないはずです。
したがって、「冤罪」という言葉は適切ではない、ということになります。
鳩山法務大臣の見解は、まったく納得できるもので、むしろ正しい見解だといえると思います。
それにもかかわらず、なぜ鳩山発言は批判されるのでしょうか。
「冤罪」という言葉は、悪いイメージがあります。
鳩山発言では、「起訴して裁判がおこなわれ、最終的に無罪になったのは、冤罪ではない」ということですから、「それは悪いことではない」というようにとらえられます。
それは、起訴され、裁判にかけられた被告の人権を軽んじるものだ、ということだと思います。
しかし、これは本来、鳩山発言の(2)に対する批判です。
(2)で述べているように、鳩山法務大臣は、起訴され、裁判になって、無罪になることは、決して悪いことではないと考えているようです。
ここで考えてみるべきことは、本当に「裁判になって無罪というのは絶対に避けるべき悪いこと」なのかということです。
「起訴されたら99%は裁判で有罪になる」という話を聞いたことがある人は多いと思います。
また、「検察が起訴しないため、検察審査会が開催され、起訴すべきだという意見が示されたにもかかわらず、やはり検察が起訴しない」というニュースを聞いたことがある人も多いと思います。そうしたニュースのさいには、「検察は起訴して、裁判に判断をゆだねたほうがよい」という発言をする人もありますし、そう思った人もいると思います。
「疑わしきは罰せず」、したがって、裁判では「疑わしきは無罪」です。
しかし、「疑わしきは起訴せず」が正しいのでしょうか。
それとも「疑わしきは起訴して裁判で判断すべし」が正しいのでしょうか。
鳩山発言を批判するということは、「疑わしきは起訴せず」という考え方を支持しているのだということを自覚する必要があります。
「疑わしきは起訴せず」「疑わしきは起訴して裁判で判断すべし」のどちらの見解をとったとしても、その人の人格や能力・資質が批判されるようなことではないと思います。
「疑わしきは起訴して裁判で判断すべし」という鳩山大臣が、なぜ人格・能力・資質について批判されるのでしょうか。
それよりも、「疑わしきは起訴せず」「疑わしきは起訴して裁判で判断すべし」のどちらがよいのかをしっかりと議論すべきではないでしょうか。その絶好の機会ではないでしょうか。政治家やマスコミは、この議論がしっかりされるようにしていくのが役割なのではないでしょうか。個人攻撃をするのが、正しいありかたなのでしょうか。
この問題の根本には、本来は無罪推定であるはずの、起訴された被告の人権が守られていない、ということにあると思います。
起訴されても、有罪になるまでは無罪として、しっかり人権が守られていれば、「起訴され、裁判にかけられた被告の人権を軽んじるものだ」という批判はおこりません。
個人攻撃をするよりも、起訴された被告の人権を守るには、どうしたらよいか考えてみるべきではないでしょうか。
本来、無罪が推定されるはずの被告の人権がなぜ侵害されているのでしょうか。
ひとつは、被告の身体拘束があります。本来は、逮捕勾留などの身体拘束は例外です。起訴されても、拘束されないというのが原則なのです。例外的に拘束されるのは、裁判所の発行する令状がある場合だけなのです。
しかし、現実は、令状が簡単に発行され、身体拘束が原則としてなされます。
これが被告の人権が侵害される理由のひとつだと思います。
しかし、被告の人権が侵害されるのは、ほとんどは、報道によるものだと思っています。無罪推定の考え方ではなく、有罪であることを前提とした報道がなされているのではないでしょうか。
今回、鳩山法務大臣を批判している報道機関は、自分たちの人権侵害の責任を転嫁していないか、ぜひ考えてほしいと思います。
以上のような一般論ではなく、具体的に名前があげられた志布志事件の被告(やその関係者)が不快な思いをするということを、批判の根拠にあげる人もいるかもしれません。
しかし、鳩山法務大臣は検察関係者に対して発言しているのです。志布志事件の被告(やその関係者)が不快な思いをするとすれば、その人たちに、この発言を伝えるからです。この発言を伝えたのは、報道機関です。報道機関は、報道によって、志布志事件の被告(やその関係者)が不快な思いをするとは考えなかったのでしょうか?
この意味でも、今回、鳩山法務大臣を批判している報道機関は、自分たちの責任を転嫁していないか、ぜひ考えてほしいと思います。
ちなみに、鳩山法務大臣は、死刑執行について、ベルトコンベアのように執行できる方法はないか、法務大臣の署名なしで執行できないか、という趣旨の発言をして批判を受けたことがあります。
この発言についても、少し書いておこうと思います。
法務大臣が、死刑を執行するかどうか悩んで判断する、というのは、本来の罪刑の制度とはまったくかけ離れた状況です。これをなんとかしたい、という鳩山法務大臣の意見自体はまっとうなものだと思います。
本来は、死刑とするかどうかは、裁判所が決定するものです。
行政官である法務大臣は、裁判所の決定にしたがい、法律にもとづいて、あえていえばベルトコンベアのように自動的に、死刑を執行しなければならないのです。
それを、違法にも、署名をしないという態度をとった法務大臣が過去にいたために話がおかしくなっているのです。
死刑執行に法務大臣の署名が必要とされるのは、法務大臣が、裁判の結果が正しいかどうか、本当に死刑をしてよいのか、悩んで決めるためではありません。
すでに裁判で判断はなされ、決定されているのです。
それでは、なぜ死刑執行に法務大臣の署名が必要とされるのでしょうか。
裁判で死刑判決を受けていない人が誤って死刑を執行されたり、あるいは、行政の暴走により裁判で判決をうけていない人が死刑にされることを防ぐために、法務大臣の署名という厳格な手続が必要とされるのだと思います。
その意味では、法務大臣の署名なしで死刑を執行できないか、という鳩山法務大臣の発言は、死刑執行の重みが分かっていない、軽はずみな発言だということになります。
しかし、このような発言がなされた背景は、違法にも署名をしなかった過去の法務大臣経験者と、法務大臣に不当な重圧をかけている報道機関や圧力団体の存在があると思います。
批判されるべきは鳩山法務大臣ではない、と、わたしは考えますが、いかがでしょうか。