薬害エイズ事件の元厚生省課長の有罪確定について | 第6の権力 logic starの逆説

薬害エイズ事件の元厚生省課長の有罪確定について

いわゆる薬害エイズ事件について、元厚生省課長の刑事裁判で最高裁判決があり、有罪が確定しました。執行猶予がついており、実刑ではありません。

この判決は、二つの観点から注意しなければならない問題があると思います。ひとつは、多くの新聞などのメディアが書いているように、行政判断の不作為により有罪が確定したはじめて(ということは当然唯一)の事件だということです。もうひとつは、薬害にはかなり難しい問題があるということです。そこで、少しこの事件について書いてみようと思います。このブログの趣旨からは、元厚生省課長を擁護するスタンスになります。なお、判決文を読んだわけではなく、新聞等の報道をもとにしています。


まず、薬害には難しい問題があるということは、すでに薬害肝炎について書いたところです。

これが、たんなる食品であれば、疑わしきは食せず、でよいのだと思います。疑わしいと思えば、その情報をすばやく発信するのがよいはずです。最近は、中国での加工食品の危険性が問題になりましたが、それは客観性のない差別的で行き過ぎた非難だという人もいます。かなり前ですが、「O157」について厚生省がカイワレ大根が原因食材であるかのような公表をしたことが問題とされたことがあります(これは国が民事訴訟で敗訴しています)。しかし、食品は、疑わしければ避ける、というのが正しいはずです。食品については、その安全性を生産者が保証すべきだと思います。食べるものについて「危険であるとは証明されていない」というのは通用しないはずです。生産者は、サンプルをとって検査するなど、常に安全性を確保し、安全性を証明できるようにしておくべきだと思います。そうすれば、疑われても、「潔白」を証明できます。「潔白」を証明できないのであれば、疑われてもしかたがありませんし、避けられてもしかたがありません。それは、疑った側に問題があるのではなく、「潔白」を証明できない生産者側に問題があるのです。国は、疑わしければ、それを公表し、排除してよいと思います。

しかし、薬品は、そう簡単にはいかないのです。

もし、薬害について、行政や、公務員が強く責任を問われるとすれば、少しでも安全性に疑義がある薬は認可しない、少しでも安全性に疑義がでた薬は認可が取り消される、ということになりかねません。その結果、その薬があれば助かった人たちが、死んだり、病に苦しんだりすることになるかもしれません。それが「正しい」のでしょうか。また、もともと薬というのは、必ず副作用があります。薬を使うことで病気がなおったり軽減されることもあるが、逆に、健康に害を及ぼすこともある、というのが普通なのです。難しい判断をしなければなりません。刑事責任まで問うのが本当に国民の幸福につながるのか、よく考える必要があります。

薬害肝炎について書いたエントリーをご覧ください。

http://ameblo.jp/logic--star/entry-10061907793.html

なお、薬害エイズについては、エイズウイルス(HIV)が混入した非加熱血液製剤が危険なのであって非加熱製剤自体が危険というわけではないことにも留意が必要です。非加熱製剤を使用しないというのは手段であり、その目的は、一部の危険な非加熱製剤を排除するということです。少しまわりくどくなりましたが、仮に一部に危険な非加熱製剤があるかもしれないといった危惧があったとして、非加熱製剤を一切使わないという思い切った手段をとるのは、おそらく、簡単にできる選択ではなかっただろうと想像されるということです。


次に、行政判断の不作為については、まず、これが、たんなる「不作為」ではなく、「判断の不作為」である点に注意が必要だと思います。たとえば、ある薬が危険であるとして、その薬の効能や副作用を調べろと命令されているにもかかわらず調べなかったとか、認可を取り消せといわれているのに手続きをしなかったとか、法律や規則に定められた基準や手続をせずに放置したというのであれば、すべき行為をしなかったということは明白です。この事件については、そうした状況はなく、当時の課長は、組織として、上司の命令を守り、法令を守り、仕事をしていた、といってよいのではないでしょうか。それにもかかわらず、「判断しなかった」ことについて刑事責任があるとしたのが、今回の判決なのです。

しかし、なぜ判断しなかったとして刑事責任を負うのが、課長なのでしょうか。係長や、担当者ではないのでしょうか。あるいは、部長や局長や大臣ではないのでしょうか。それについて合理的な説明ができるとは思えません。

そして、三権分立の基本的な考え方からいえば、判断するのは、政治の役割のはずです。行政官が、判断しなかった責任を問われるというのは、どこかおかしくないでしょうか。判断しなかったのは、政治家も同じですし、政治家を選んだ国民も同じなのではないでしょうか。


判決の具体的な内容にそって、もう少し論じてみます。


新聞報道によると、判決は、「当時の医師や患者が汚染を見分けるのは不可能だった。国は製剤を承認する立場。回収を製薬会社任せにせず、危害発生を防止する義務が刑法上も生じた」と論じているようです。

しかし、「当時の医師や患者が汚染を見分けるのは不可能だった」のであれば、たんなる行政官であった課長にも「汚染を見分けるのは不可能だった」はずではないでしょうか。

次に、「国は製剤を承認する立場」という点についてですが、今回の裁判は、国の責任や立場が問題となっているのではなく、課長個人の刑事責任を問うものです。国がどのような立場であろうとも、課長個人の責任や義務にはつながりません。このような判示があったとすれば、この判決は、明らかな誤りであり、誤判といわざるをえません。

そして、「危害発生を防止する義務が刑法上も生じた」というのは、かなり問題の核心となる言葉です。これも新聞報道等を見る限りですが、「薬務行政担当者には薬害防止の業務に携わる者としての注意義務が生じた」「エイズ対策の中心的立場にあった被告には、他の部局と協議して必要な措置を促す義務もあった」と判決は論じていますが、これらは職務上の義務について述べているにすぎません。管理職である以上、職務の上では、結果責任は免れない、とわたしは思っています。この課長が、降格されたり、減給されたりしても、それはやむをえないかもしれません。職務上は、義務がない場合であっても、結果に責任を負うのです。義務違反があれば、厳しく責任を問われるのは当然です。しかし、職務上の義務違反については、降格や減給といった職務上のペナルティが課されるべきです。職務上の義務違反があったとしても、ただちに犯罪になるわけではありません。判決全文をみなければはっきりしたことはいえないのですが、法律や上司の命令を守って職務をおこなってきたなにも悪い行為を積極的にしていない個人を犯罪者とするのに、もし、この程度の論拠しかないとすれば、あまりにもずさんな判決だといわざるをえないと思います。


判決の、ほかの部分の言葉も見てみたいと思います。

「薬務行政上必要かつ十分な対応を図るべき義務があったことは明らか」という言葉もあったようですが、まさしく、この言葉どおり、それは「行政上」の国の責任であり、それを、「個人」の「犯罪」の根拠とすることはできません。「国」と「個人」を混同し、「職務上の責任」と「刑事上の責任=犯罪になるかどうか」ということを混同した、二重の誤りがあり、先の「国は製剤を承認する立場」という言葉もあわせると、やはり、誤判である可能性がかなり高いのではないかと危惧します。

「医学的には未解明の部分があったとしても、非加熱製剤によるエイズ発症者がすでに出ており、感染で死に至ることも予測できた」といった判示もあったようですが、「予想できた」程度で、犯罪が成立するのでしょうか。他方、「非加熱製剤によるエイズ発症者がすでに出ており、感染で死に至ることも予測できた」のであれば「当時の医師や患者が汚染を見分けるのは不可能だった」はずはないのではないでしょうか。判決に矛盾はないのでしょうか。本当に、客観的な証拠にもとづいて事実関係を明確にして導いた結論なのでしょうか。なぜ医師や患者や議員や大臣や局長や部長か係長や国民には予測不可能で義務も責任がなく、この課長にだけ予測可能で義務があり責任があるということになるのでしょうか。

また、判決は一般論としてまず「第一次的には製薬会社や医師の責任で、国の監督権限は第二次的なものであり、行政の不作為が直ちに公務員個人の刑事責任を生じさせるものではない」とも述べているようですが、これは正確ではありません。「第一次的には製薬会社や医師の責任で、国の監督権限は第二次的なものである。かつ、行政の不作為が直ちに公務員個人の刑事責任を生じさせるものではない」が正しいでしょう。この部分の整理ができていなかったことが、「国」と「個人」の混同、「職務上の責任」と「刑事責任」との混同を招いたと思われます。




また、安部英・元帝京大副学長のことも少し書いておきたいと思います。ずいぶん前のことで、記憶を頼りに書きますが、安部氏は、事件が大きく報道された当時、まさに徹底的にバッシングを受け、批判の矢面に立ちました。しかし、安部氏がいることにより、薬害エイズ患者は増えたといえるのでしょうか。むしろ、安部氏の研究は、非加熱血液製剤の危険性を認識するのにプラスになったのではないでしょうか。安部氏がいなければ、薬害エイズ患者は、かえって増えていたのではないでしょうか。安部氏は、この分野の研究を進めていて、知識を持っていたために、危険性を認識して避けることができたかもしれません。しかし、勉強や仕事をしっかりして知識を持っていた人が責められ、怠惰にも勉強をせず知識もなく漫然としていた人は知らなかったのだから仕方がない、というのは、どこかおかしいのではないでしょうか。当時、わたしはそんな印象を持っていました。