高台の家が全焼し、夫の実家で暮らすことになり、義母にきつくあたられ、
更に妊娠した子どもを義妹の息子のせいで流産したところまでいきました。
では、最終章までどうぞ・・・・
「母性」 湊かなえ
■第五章 涙の壺
母性について
「これのどこがひっかかる、ってんだ?」
「愛能う限り、って何でしょうね」
「そりゃおまえ。 大切に育てましたってことじゃないのか?」 国語教師は違和感を抱かないようだ。
「じゃあ、そう言えばいいのに」
りっちゃんが出してくれた肉じゃがをつまむ。
この料理が家庭的な女をアピールするのに用いられるのはなぜだろう。
「例えば、肉じゃがやさばの味噌煮といった料理を毎日作ってる人に普段どんなものを食べさせてますかと聞いて、おふくろの味を食べさせてます。なんて答えるでしょうか。 普通のものですよ、って答えますよね。 インスタント食品とか、ろくなもの食べさせてない親に限っておふくろの味とか、栄養バランスのとれたメニューを、なんて答え方をするんじゃないでしょうか」
母の手記
桜を失い、耐え難い不幸に見舞われた私に田所家の誰が温かい言葉をかけてくれたでしょう。
私を救ってくれたのは中峰敏子さんでした。
赤の他人です。 英紀に突き飛ばされた際、救急車を呼んでくれたかたです。
敏子さんは離れまで見舞いに来てくれました。
婦人会の集まりなどで顔を合わせたことはあり、おおらかで優しそうな印象は持っていましたが、
敏子さんは私の手を包み込むように握り締め、涙を流してくれたのです。
自分も子どもを失ったことがあるのだ、と。 自分を責めてはならない、と。
敏子さんは手作りのお菓子をたまに届けてくれるようになりました。
そして自宅で週に一度開いている手芸教室に私を誘ってくれました。
農業での収入は私が一人で作業するようになっても、義母に全部渡していました。
私にお金が払われたことは一度もありません。 家計の事まで敏子さんに打ち明けることは出来ません。
お金がないと口にするのは世の中で一番恥ずかしい行為です。
午後8時から2時間。 家のことは娘ができるようになっていました。
義母に婦人会の集まりがある、と伝えると、ああそうかい、と返事するだけだったのです。
手芸教室は楽しかった!
材料費は毎回300円で、おしゃべりしながら手芸品を作るのです。
初めて参加した日は鉛筆立てを作りました。
簡単な説明であっというまに作り上げた私に、みな賞賛の言葉をおくってくれました。
褒められたのはいつ以来のことでしょう。
独身の頃は両親だけでなく私を褒めてくれたのに、田所家の人たちだけが私を褒めてくれなかった。
嫁ぎ先で冷たく扱われるのは私だけではなく、親や子を亡くしているという共通点まであり、
この出会いを与えてくれた敏子さんに感謝しました。
手芸教室に通い始めて一年ほど経った頃。
敏子の家に行くと、見慣れない人がいました。 敏子さんのお姉さんの、彰子さんでした。
彰子さんは姓名判断ができるようで手芸教室のみなの名前を見てくれました。
そして私の番がきました。
私は・・・・「純潔と情熱を併せ持つ、赤いバラのような人」
思いがけない結果でしたが、皆にうらやましがられ、確かにそうだわと言われ幸せな気分でした。
「深い湖のような人」 これは田所についてでした。
「燃えたぎる炎のような人」 娘についてです。
敏子さんは、そういうタイプじゃないかも、と言いました。
彰子さんの力を本物だと感じたのは、娘を炎に例えた時です。
娘の性格ではなく、あの忌まわしい出来事の残像ではないかと思いました。
それからひと月ほど経った頃、敏子さんから電話で映画に誘われたのです。
私と敏子さんと、それに彰子さんも一緒でした。
義母には婦人会の日帰り見学会をどうしても断れなかった、と言い許可を得ることが出来ました。
精一杯にオシャレしていきました。
「まあ素敵なお洋服。スカーフの巻き方ひとつでも華のある人は違うわね」
開口一番に褒めてくれ、私は母と外出していた頃を思い出しました。
映画が終わり昼食をとることになり、ホテルのレストランに入りました。
このような場所で食事するのも、結婚後、初めてでした。
まるで夢のようなひとときでした。
映画の感想を話した後は、占いの話になりました。
先日の姓名判断の結果は家族の誰にも言ってないことを打ち明けました。
田所は流産してからは、子どもが欲しいとも言わなくなったし、私に触れることもなくなりました。
娘はますます私に身構え、私と目を合わせようとしないし、言葉を詰まらせるのです。
手芸教室で作った物をあげても、嬉しいのやら欲しくないのやらなにを考えてるのかわかりません。
そして、ハッと思いつき、
「もう一人、名前を見てもらってもいいですか?」 私は紙に名前を書きました。
「これはあなたのお母様の名前かしら・・・・桜の花が見えるわ」
やはり彰子さんの能力は本物なのだと確信しました。
「あなたのことをとても心配している。 もうご存命ではないのかしら」 頷くばかりでした。
そして彰子さんは母の思いを聞かせてくれたのです。
「本当によく頑張ってるわね。そんな細い体で、辛いことを全部引き受けて、本当にえらいわ。あなたは自慢の娘よ。 だけど、無理しないでね。 からだは大切にしなさい」
母が私を見守ってくれていると思うと涙がこぼれてきました。
その翌週、敏子さんは手芸教室でない日に家に呼びました。 そこには彰子さんもいました。
「失礼だとは承知してるの。だけど・・・・あなた、お嬢さんとはうまくいってる?」
なんと答えていいかわかりませんでした。
「あなたは不幸な経験をいくつかして、それに娘さんが大きくかかわっていると読み取ったの」
私に起きた不幸は全て娘に起因しているのです。
彰子さんが言うには人にはオルグと呼ばれる「気」ともいうべきものがあり、
嬉しい、悲しい、楽しい、辛い、人それぞれいかようにでもオルグを作り出せる。
そのオルグが娘の場合、とてもよくない状態で、それが私にも影響を与えているのだという。
「悪いオルグを改善することができるんですか?」
漢方薬のようなものを渡されました。 彰子さんの先生と呼べる人が調合した薬だそうです。
敏子さんも娘のことで悩んでいた時期、これを飲んで解決したのだそう。
「希少価値のある薬草を使ってるから値引きはないけど二人分の人生の治療薬と考えると決して高くはないと思うの。 御屋敷の若奥様のあなたなら、決してそんなに高いと思わないわね」
薬の金額はひと月で三万円でした。
胸の内の悲鳴が思わず口からこぼれそうになりました。
しかしこれで本来の姿に戻るなら。そう思うと高い金額ではないのかもしれないと思いました。
娘の薬への効果は目に見えて現れるようになりました。
三十番台だった成績は十番以内へと上がり、委員会に立候補し、ボランティア活動も始めました。
しかし・・・義母に敏子さんから薬を買っていたことを知られてしまったのです。
敏子さんという人は昔から不幸な人を丸め込んでは水晶玉だの印鑑だの、
そういったものを高値で売りつけてる詐欺師だというのです。
こうして、手芸教室に通うことも敏子さんと会うこともなくなりました。
このような結論に導いたのは、やはり娘でした。
なぜ義母の目の前で薬を飲んだのか、それを敏子さんから買ったことまで話したのか。
娘は田所家の血を濃く受け継いでいるのかもしれません。
娘の回想
母が手芸教室に行き始めた。
火曜日の晩、はしゃいだ母を見ていると、夢の家での母が戻ってきてくれたようで
わたしは火曜日が待ち遠しくてたまらなかった。
母を喜ばせるには外に出してあげればよかったのだ。 でもそれを認めるのは悲しいことだった。
わたしは母に喜んでもらいたかった。
手芸教室の日の晩は、夕飯の後片付けをしていつ祖母に用事を言われてもいいように母屋に残った。
本が読みたくて母屋の2階に父についてきてもらった時だ。
りっちゃんの部屋に、金色の座布団の上に乗ったガラス玉が置かれていた。
りっちゃんが出て行った時にはなかったはずだ。
父が祖母に問い詰めると、「お守りだよ」祖母はそう言い、姓名判断で遠く離れた人のオルグという、
気を見ることができる、尊い先生から買った水晶玉、らしい。
「何をバカなことを。騙されたんだよ」 父はあきれて煙草に火を点けた。
父は祖母を説得すると、祖母も納得したようでガラス玉をしまいこんだ。
「あんな風に説得できるのにどうしていつも黙ってるの?」
「相当な金を払わされてる。もっとおかしなもの買ってきたらたまんねえだろ。 お前もつまんないことでばあさんに食ってかかんなくても、ほうっておけばいいんだ。いざとなったら少しおだててやればいい」
「それをママに教えてあげればいいのに」
「そりゃ無理だ。ママには、こうしなきゃいけないっていう自分流の信念があるからな」
「田んぼや家事なんて休んでいいんだよ。おばあさんの言うことなんて聞かなくていいんだよ。じゃなくて、いつもありがとうとか、がんばってるね、って言われる方がママは嬉しいってこと?」
「よくわかってるじゃないか。 この家はママがいなけりゃとっくに崩壊してるだろうからな」
「パパはそういう言葉、ママにちゃんとかけてあげてる?」
「言わなくてもわかってるだろ。 ママは頭もいいし、想像力もあるからな」
父の言葉に納得してしまったけど、今になって間違いだったと気付く。 言ってあげればよかったのだ。
父も、わたしも、母にどれほど感謝し、愛しているのかを。
ある日母は私に、にきびに効く薬を買ってきてくれた。
口に入れて水を含むと膨張して豆っぽい味が広がり、飲み込むのに一苦労だった。
飲みにくいかも、と母に正直な感想を言うと、あんたって子は・・・・と吐き捨てるように言われた。
中学生になってからはテストは間違えた数だけぶたれたし、クラス委員に立候補しないのか、
ボランティア活動には申し込んだのか、などと訊かれたことを自分には向いてないと思いながらも
ちゃんと果たした。
わたしを褒めてくれる人などどこにもいない。
わたしの存在を認めてくれる人などどこにもいない。
いったい、わたしはどうしてここにいるのだろう。
死んでしまいたいような気分になった。
母に愛されたい。
母が手芸教室をやめた。
もしや祖母になにか言われたのではないかと疑念が生まれた。
あるとき、にきびの薬をホットミルクに混ぜて砂糖を加えるとおいしく飲めることに気付き
母が手芸教室に行く日だけそうやって飲んでいた。
一度、祖母にきなこ牛乳を飲んでいるのかと訊かれたことがある。
にきびの薬だと答えたのに大豆の匂いだと譲らず、味見までして問い詰められたので、
中峰さんに頼んでくれたことを話した。
それが原因だったらと考えたものの、にきびの薬ごときでやめさせはしないだろう。
その頃祖母は前より母に優しくなっていた。 自分たちの娘達がまったく当てにならず
母に頼らないといけないことに、ようやく気付いたのだろう。
母とわたしの二人だけになれば、母はわたしを必要としてくれるだろうか。 愛してくれるだろうか。
結局、そうやってわたしは母を求めていただけ。 だから気付けなかったのだ。
母がわたしを愛してくれない理由に―――。
■第六章 来るがいい 最後の苦痛よ
母性について
「おまえの話したい当事者ってのは母親と娘、どっちだ?」
国語教師はしめのメニューにもう一度りっちゃんにたこ焼きを注文してから訊ねた。
「本心を知りたいのは母親のほうだけど、話したいのは娘のほうです」
「子どもを産んだ女が全員、母親になれるわけではありません。母性なんて備わってなくても子どもは産めるんです」
「つまりおまえのいう母と娘とは、母性を持つ女と持たない女ってことなんだな。それで、母親が微妙なコメントをしている自殺未遂娘に、万が一、運悪く母性を持たない女の娘として生まれてきたとしても、悲観せずに頑張れ、とでも言ってやりたいのか?」
「・・・・そういう、簡単な答えがあったんですね」
「しかしまあ調べてみるが、無理するなよ。大事な時期じゃないのか?」
「気付いてましたか」
「そうじゃないかと思ってたが、母性云々で確信した。自分が同じ立場になろうとしているからきになるんだろうってな」
母の手記
神父様―――。
私が娘を自殺に追い込んだと誤解されるのは、娘が私から幸せを奪い続けていたことが要因ではなく、田所が姿を消してしまったからではないかと、わたしは思っています。
しかも、仁美さんまでどこかへ行ってしまった。
田所と仁美さんは不倫関係にあった。
それを娘が私に忠告したことから私は逆上して娘を追い詰めた。
そして私が逆恨みで娘を自殺にみせかけて殺そうとした。
そのような噂が私の耳にも入り、女性週刊誌は見てきたかのように想像であの晩のことを書くのです。
田所と結婚して18年。
彼の口から一度も 「愛してる」 という言葉が出たことはありませんでした。
しかしあの人は深い思いを胸の奥の一番大切な場所に押し込めている人だと理解しています。
義母は母屋で一人で暮らすようになると、私に頼り昔話をすることが多くなりました。
義父は自分の思い通りにならないことがあると田所に手をあげるようになった。
しかし優しく育ち、成績も優秀で教師たちからは神童と呼ばれるほどだった。
義父は外では自慢しながらも胸の内ではおもしろくなかったのか、
つまらないことでケチをつけては
ますます田所に手をあげるようになっていった。 中学生になって美術部に入ってからは
口が利けなくなってしまったのではないかと思うほど無口になった。
私はその話を聞いて、義父が暴力をふるうなど想像すらできませんでした。
でも田所の暗い表情はそのせいではないのか。
両親の口喧嘩を黙って見ていたのも自分が口をはさめば父の怒りを増大させるからではないか。
「なぜ」と思っていたことが腑に落ちていったのです。
田所は家そのものに失望し続けていたはずです。
だから、田所は娘にあの悪夢の日の出来事を伝え、姿を消してしまったのでしょうか。
神父様、ついに、娘が自らの命を断とうとした日のことを書きます。
娘が帰宅したのは午後10時をまわっていました。 無断で帰ってきたことなどなかったのに。
娘は私に友達を紹介したこともなければ、学校での出来事を話すこともありませんでした。
夕飯の時刻になっても帰ってこないのだから。 今日こそは厳しく言い聞かせよう。
田所は一年ほど前から残業が増え、零時近くに帰ってくることが多くなっていました。
娘はどうして私の願うように育たなかったのでしょう。
母が私に注いでくれたのと同じくらい、私も娘に愛情を注いだというのに。
帰ってきた娘はただいまも言わずに玄関を上がり、居間の入口で黙って立っていました。
娘の顔を見上げて私は息を飲みました。
娘の目が開いているかもわからないくらい真っ赤に腫れ上がっていました。
「おかえり。遅かったわね。お友だちと会っていたの?」
かろうじて開いている娘のまぶたから涙が溢れ出してきました。
娘は返事もせず、頷いたり首を動かしたりもせず、じっと私を見つめていました。
「何があったの?」
こみ上げてくる嗚咽を押し殺すように大きく呼吸しました。 そして言ったのです。
「おばあちゃんが、わたしを助けるために自殺したって、本当なの?」
後頭部を思い切り殴られたかのようで、気を失ってしまいそうになりました。
母は自らの舌を噛み、命を絶ったのです。
私に娘を助けさせるために。 私を真の母親にするために。
母の最期の言葉・・・・
あなたの愛を今度はあの子に、愛能う限り、大切に育ててあげて。
あの子、あの子、あの子って誰? しっかりと目を見開くと正面に娘の顔がありました。
「舌を噛んだの?」 そうだ、この子のことだ。
娘を強く抱きしめるも、その手を振り払い自室へと駆けていきました。
田所が帰ってくる気配もなく、うとうとと眠ってしまったようです。
「何やってるんだ!」 義母の悲鳴のような叫び声で目を覚ましました。 あわてて外へ出ると、
しだれ桜の根元に見えたのは義母の姿と横たわっている娘の姿です。
その場を動くことが出来ず、救急車を呼びに、義母は母屋にむかって這うように駆けていきました。
娘の頬に手を添わせると・・・・冷たかった。
踏み台のようなものが置かれており、折れた桜の枝が覆いかぶさっていました。
そして枝にはロープが巻きつけられていたのです。
どうしてこんなことを!
「清佳!」
叫びながらふと思いました。 この子の名前は清佳だったのだと。
救急車で運ばれた娘は一命を取りとめましたが、意識はまだ戻っていません。
娘のリルケの詩を書き写したノートの最後のページにこのように記されていました。
『ママ、赦してください』
私は疑問に思うことがあるのです。どうして娘は母の死のことを知ったのでしょうか。
母の死の真相を知るのは私のみ、だというのに。
田所は娘が救急車で運ばれた数時間後に病院にやってきました。
母が自殺したことを知らない田所に全て話しました。
いつもの何を考えているのかわからない表情で聞いていました。 何か言って欲しかった。
田所は何も優しい言葉をかけてはくれませんでした。
「風呂に入って出直してくるよ」
そう言って出て行ったきり姿はみていません。 私の前から姿を消しました。
神父様。 もしも願いが叶うとしてもあの高台での生活に戻りたいとは思わないのです。
父と母と三人で暮らしたあの人たちの娘でいられた日々に戻りたいのです。
いいえ、たったひとつ願いが叶うなら・・・・・・。
私の愛する娘の意識が一日でも早く戻りますように。
大切な母が命をかけて守ってくれたその命が輝きを取り戻し、美しく咲き誇りますように。
娘の回想
「ママよりパパが好き」 享の妹、春奈ちゃんは当たり前のように口にする。
父親も子どもを可愛がるものなのだと気付いた。
父が母を守り、母が子どもであるわたしを守る。
そう考えていたけど、父は母がどんな理不尽な目に遭っても、まったくかばうことなく、
見て見ぬふりをしていたから、わたしは父を許せなかった。
父が母をきちんと守っていれば、母ももっとわたしに目を向けてくれたかもしれないのに。
ある日、母屋の2階にそっと上がると、社会の先生がすすめてくれた本『エミール』を探しに行った。
本はすぐに見つかったが、その棚に父の日記を見つけたのだ。
『僕の世界に色はない』
高校二年生の時に書かれた日記だ。 父は祖父から暴力を受けていた。
『はむかえばさらに殴られる。自分が殴られるのは我慢できる。しかし母や妹たちに矛先が向かうのは阻止しなければならない』
父は大学生になり、初めて家を離れる。
新聞記者になりたいという思いはあったが祖父から田舎に帰るように命令される。
その絶望感を父は絵に封じ込めることにした。
色を重ねた色のない世界。 そこに色が現れた。 ―――母との出会いだ。
『彼女の瞳に映るバラを見て、初めて僕はバラを美しいと感じた。 鮮やかな色が溢れかえる、美しい家を、彼女とともに作りたい』
美しい家。父にとっても大切な場所だったのだ。 母はかけがえのない存在だったのだ。
わたしは享に父の日記を見つけたことを話した。
興味津々で聞く享はその中でも闘争という言葉に興味を持った。
父は「学生運動」に参加していた。
「国家権力の何と戦っていたんだろう」 父の日記には抽象的な言葉ばかり並んでいた。
「何でもよかったんだろうな」 つぶやく享の横で、わたしは大きく頷いた。
母は一人で農作業をし、寝たきりになった祖母の世話をしていた。
しかしわたしが家事以外のことを手伝うのは嫌がった。
本当は学校を休んででも田んぼについて行きたかった。
わたしは祖母と口をきくのが嫌で、週末は用があると嘘をつくようになった。
「頼る人がいないってのが、これほどに不安なことだとはねえ。 わたしは、哲史には仁美ちゃんと結婚してほしかったんだよ。 あの子はちゃんと四年制の大学を出ているし、役場で働いているし、しっかりしてるから、安心して頼ることができたのに。 哲史が役場を辞めなけりゃねえ・・・」
初めてそれを聞いたときは、きつねうどんの載った盆ごと祖母を殴りつけてやろうかと思った。
「ママはものすごくがんばってるじゃん」
「所詮お嬢様のおままごとだ」
からだはどこも悪くないのに頭だけおかしくなったこの年寄りを、殺してしまえればどんなにいいだろう。
母は祖母に明るい声で優しい笑顔で献身的に世話をしてあげていたのだ。
お嬢様、と憎々しげに口にするのは、単なる女の嫉妬だ。
祖母が仁美さんの名前を出すのは自分と同じ丸い顔と団子っ鼻に親近感を覚えているだけだ。
祖母を老人ホームに入れてはどうだろうと提案すると、
母はろくでなしを見るような冷ややかな目つきでわたしを黙って見返した。
ママのために言ってるのに!と泣きながら言えたらどんなにいいだろう。
祖母を殺してしまいたい。 目の前にあるものを手当たり次第に破壊したい。
田んぼにも火を放ってやりたい。 この家にも火を放ってやりたい。
父が学生運動に参加していた意味がわかった気がした。
そんな父はわたしを裏切った。 いや、母を裏切ったのだ。
享と一緒にバス停にいると、反対車線に到着したバスから父が降りてきた。
わたしは享に母から用事を言付かっていたのを忘れていた、と嘘をついた。
そして父を後ろからこっそりと追いかけた。
父は一軒の家の前で足を止めた。
おばあちゃんの家だった。 今は仁美さんが住んでいる。
父はインターフォンも鳴らさずに中に入っていった。
心臓が高鳴るのを感じながら、足音を消し、門をくぐった。
見慣れた庭に入ると居間の窓の外に身を潜めて耳を集中させた。
「ビーフシチューを煮込んであるの。 あなた、好きでしょ?」
仁美さんは父を 「あなた」 と呼んだ。
「いけない、ドレッシングを買ってくるの忘れちゃった」
「作ればいいさ」
「どうすればいいか、わからないわ。 あなた作ってくれる?」
わたしは玄関に向かった。 鍵はかけておらず、わたしは息をひそめて上がった。
げた箱の上には赤いバラを描いた絵。 見覚えがあった。 どうして、これがここにあるのだろう。
台所をのぞくと、仁美さんが小鉢を小指でかき混ぜ、そのまま父の口元まで持っていくと
父はその小指を舐めた。
「何してるの!」
仁美さんはびくっとして小鉢を落とし、呆然とした仕草が芝居がかっていて気持ち悪い。
父はまったく動じた様子もなく、いつもの目でこちらを見ていた。
「ママは当然このことは知らないよね。 サービス残業なんて言って、本当は毎日ここにきていたんじゃないの? こんな裏切り方をしてるなんて許せない! おまけに、ここはおばあちゃん家じゃない。 あんたたち、頭おかしいんじゃないの?」
これだけまくしたてたのに、返ってきた父の言葉はたった一言だ。
「まあ、座れ」
テーブルの上にはランチョンマットにナイフとフォーク、赤ワインにワイングラスが置かれていた。
こんな食卓を自宅で見たことがなかった。
「ママに悪いと思わないの?」
父は黙っていた。 しばらく話さなくて済むとばかりに煙草に火を点け、ゆっくり吸いこんだ。
「ママより、あの人がいいの?」 また何も答えなかった。 「離婚するの?」 「それは、ない」
「田んぼとおばあさんの世話をさせるためでしょう。 都合よくただ働きさせて、自分はよその女といちゃいちゃするなんて、人間のクズだ。 それなら離婚して、ママをあの家から解放してあげてよ。 わたしはママとこの家に住む。 あんたはあの人と自分の家に住めばいいじゃない」
「そういう単純なことじゃない」
「世間知らずの頼りないお嬢様を、哲史が放りだせるはずがないでしょう」
仁美さんが火の点いた煙草を片手に、部屋に入ってきながら言った。
「ママがお嬢様じゃなくなったことくらい、見ればわかるじゃん。 うちが成り立ってるのはママのおかげでしょ」
「家の中と外の世界では違う」
「じゃあ、わたしが働く」 「そんな甘いもんじゃない」
「そうよ。あなたは世の中の厳しさを知らないから」
仁美さんは煙草を灰皿に押し付けた。ピンクベージュの口紅。テレビCMでよく目にする新色だ。
母のは何年も同じ真っ赤なバラの色なのに。
「あなたがどんなに厳しい社会を知ってるっていうんですか?」
太陽の光など浴びたことのないような白い肌、形よく整えられた爪。 ゆがみのない背中。
何かと戦ったという証などみじんも感じ取ることができない、年輪のないからだ。
「あなたが生まれる少し前、大きなものと戦ったわ。哲史と一緒に」
「学生運動のこと?」 「そうよ」 「仁美さんに訊いてるんじゃない」
「暴力で家の中を支配しようとする父親に立ち向かう勇気がないから、その矛先を外側に向けただけじゃないの? また逃げて・・・今度は何が不満なの? おじいさんが死んでも解放感を得られなかった? 離婚しないのは仁美さんと家庭を持っても美しい家を築くことができないってわかってるからでしょう。 ここを逃げ場として確保しておきたいんでしょう。 ・・・・弱虫。ママにも他の女にも守ってもらって。 ママに謝ってよ」
何も言わずともわたしの目をじっと見ていたのに、父はついに目をそらした。
「いい加減にして!」 仁美さんが声を張り上げた。
父の背中越しに抱きついている。 娘の前でよくこんなマネができたものだ。
「あなたはお母さんに好きれようと必死だけど、お母さんはあなたから故意に目をそらしてる。それを見てるのが哲史は辛いのよ」
腹立たしくて仕方ないのに何も言い返すことが出来なかった。 突きつけられたのは事実だ。
「でもね、あなたとお母さんがうまくいかないのは仕方ないことなのよ。悲しい事故のせいなんだから。べったりと依存しきっていた母親が、娘を守るために自殺したとなれば、簡単に割り切れないわよね」
一瞬、母親が誰で娘が誰を指しているのかわからなくなった。
頭を整理すると、おばあちゃんだ。 箪笥の下敷きになってか、焼死だったのではなかったのか。
「お母さんは自分の母親と娘、どちらを先に助けようか迷っていた。 火の手はすぐそこまで迫っている。 おばあちゃんはお母さんにあなたを助けさせるために、自ら命を絶った。 舌を噛んでね」
嘘だ、嘘だ、嘘だ、デタラメを言うな!
ワインボトルを仁美さんの頭めがけて振り下ろし、家から飛び出した。
家へ帰ると母の顔を正面から見ることができなかった。 否定してほしかった。
しかし、母は否定しなかった。 悲しそうに私に向かい両手を伸ばし、首に強い圧力を感じた。
母の指が私の喉に少しずつ食い込んでいった。
母になら殺されてもいい。 だけど、それじゃあダメだ・・・・。
渾身の力をふりしぼって母を突き飛ばし、自室に駆け込んだ。
どうしてわたしはここにいるのだろう。
あの夢の家を一緒に燃え尽きてしまえば、母の思い出の中で永遠に生き続けることができたのに。
どの木で死ぬかは決めている。
母がときおり愛おしそうにその木に触れているのを遠くから見ていた。
ママはあの木をおばあちゃんだと思っているのだ。
ママ、赦してください―――――。
別れを告げたはずなのに、暗闇の中で母の声が聞こえると感じるとは、なんてずぶといのだろう。
この手を握りしめてくれるのが母だと思えるとは、なんておめでたいのだろう。
名前を呼んでくれたと感じるなんて。
そうか、わたしの名前は「清佳」だったんだ。
■終章 愛の歌
母性について
りっちゃんにたこ焼きをもらったので今から行くね、と母にメールを送り田所の家へと向かう。
祖母は認知症の症状は年々悪化しており、娘も認識できず女性を総じて「お姉さん」と呼ぶのに
母のことは「ルミ子ちゃん」と名前で呼ぶ。
医者などには「わたしの大切な娘」と紹介しているのだから、母の思いは祖母に伝わったのだろう。
父は姿を消して十五年後になる、三年前にふらりと帰ってきた。
仁美さんと逃げた翌年には捨てられていた。
申し訳なかった、と母とわたしに頭を下げた。 母はおかえりなさい、と答えただけだ。
父が逃げたのは罪悪感に駆られてのことだった。
あの台風の日家に向かっていると火が上がっているのが見えた。
急いで家まで駆けつけ父が最初にしたのは、赤いバラの絵を安全な場所に持っていくことだった。
再び家の中に入ると、母の悲鳴が聞こえた。
おばあちゃんが舌を噛んで息絶えている姿が見えた。 母は半狂乱になって言った。
あの子を助けろって、お母さんが・・・・・。
絵なんかほうっておけば、お義母さんも一緒に助けることができたかもしれなかったのに。
父はその罪悪感から逃れるため、母から、そしてわたしから目を逸らすようになった。
父はおばあちゃんが自殺したことはわたしは知っていると思っていたらしい。
自分が娘までも追い込んだことを苦にして、仁美さんと一緒に逃げた。
生き返って以降、父に対して怒りの気持ちは湧いてこなかった。
目が覚めたとき、母に手を握られ、名前を呼ばれたことでわたしの欲求は満たされたのだ。
父が帰ってきた翌年、わたしは結婚して家を出た。
母は挨拶に訪れた享に深く頭を下げてこう言った。
「愛能う限り、大切に育ててきた娘を、幸せにしてやってください」
おばあちゃんの家だったところが、わたしたちの家となった。
子どもができたことを母に伝えると、おばあちゃんが喜んでくれるわ、と母は涙を流しながらしだれ桜の木を見上げた。
わたしは子どもにわたしが母に望んでいたことをしてやりたい。
愛して、愛して、愛して、わたしのすべてを捧げる。 でも 「愛能う限り」 とは決して口にしない。
自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが、母性なのではないだろうか。
メールの着信音が鳴った。
『楽しみだわ。気をつけてね』
古い屋敷の離れに灯りがともっている。 ドアの向こうにわたしを待つ母がいる。
こんなに幸せなことはない。
(第26回山本周五郎賞候補作)
何から言えばいいのやらなストーリーですよね。
意地悪な義母にワガママ放題で何もしない義妹、無口で味方してくれない夫・・・
絶対、田所家には嫁ぎたくないですね(苦笑)
田舎で時代も少し古いようなので、別居するのも難しい状況だったのかもしれませんね。
でも義母よりも許せないのは父・田所だと思いました。
ただの無口な夫でも、ただのでくのぼうな気がしますが、不倫という裏切りは許せないです。
しかも母の知り合いと・・・仁美さんは結婚する前から田所のことが好きだったんじゃないでしょうか。
母親も苦労はしていますが、かなり歪んでいますよね。
自分の母(おばあちゃん)に対する愛が強すぎる。 いわゆるマザコンですね。
物凄く依存してしまったんですね。
おばあちゃんと娘が死にかけた時、自分の母のほうを選んだ時はドン引きしました・・・。
私は子どもを産んだことはありませんが、もし自分の子どもがいて同じ状況だったら
母親には悪いけど、何の迷いもなく自分の子を選ぶと思います^^;
Lilyの自論として、親の愛情をたっぷりと受けて健やかに育った子は、
歪み無く、良い子に育ち、自分の子どもにも同じく愛情を注げると思っています。
このお話では違いますが・・・。
この物語の「娘」は最終的に幸せになって、救われましたよね。
良い結末でホッとしました(^^)
更に妊娠した子どもを義妹の息子のせいで流産したところまでいきました。
では、最終章までどうぞ・・・・
「母性」 湊かなえ
■第五章 涙の壺
母性について
「これのどこがひっかかる、ってんだ?」
「愛能う限り、って何でしょうね」
「そりゃおまえ。 大切に育てましたってことじゃないのか?」 国語教師は違和感を抱かないようだ。
「じゃあ、そう言えばいいのに」
りっちゃんが出してくれた肉じゃがをつまむ。
この料理が家庭的な女をアピールするのに用いられるのはなぜだろう。
「例えば、肉じゃがやさばの味噌煮といった料理を毎日作ってる人に普段どんなものを食べさせてますかと聞いて、おふくろの味を食べさせてます。なんて答えるでしょうか。 普通のものですよ、って答えますよね。 インスタント食品とか、ろくなもの食べさせてない親に限っておふくろの味とか、栄養バランスのとれたメニューを、なんて答え方をするんじゃないでしょうか」
母の手記
桜を失い、耐え難い不幸に見舞われた私に田所家の誰が温かい言葉をかけてくれたでしょう。
私を救ってくれたのは中峰敏子さんでした。
赤の他人です。 英紀に突き飛ばされた際、救急車を呼んでくれたかたです。
敏子さんは離れまで見舞いに来てくれました。
婦人会の集まりなどで顔を合わせたことはあり、おおらかで優しそうな印象は持っていましたが、
敏子さんは私の手を包み込むように握り締め、涙を流してくれたのです。
自分も子どもを失ったことがあるのだ、と。 自分を責めてはならない、と。
敏子さんは手作りのお菓子をたまに届けてくれるようになりました。
そして自宅で週に一度開いている手芸教室に私を誘ってくれました。
農業での収入は私が一人で作業するようになっても、義母に全部渡していました。
私にお金が払われたことは一度もありません。 家計の事まで敏子さんに打ち明けることは出来ません。
お金がないと口にするのは世の中で一番恥ずかしい行為です。
午後8時から2時間。 家のことは娘ができるようになっていました。
義母に婦人会の集まりがある、と伝えると、ああそうかい、と返事するだけだったのです。
手芸教室は楽しかった!
材料費は毎回300円で、おしゃべりしながら手芸品を作るのです。
初めて参加した日は鉛筆立てを作りました。
簡単な説明であっというまに作り上げた私に、みな賞賛の言葉をおくってくれました。
褒められたのはいつ以来のことでしょう。
独身の頃は両親だけでなく私を褒めてくれたのに、田所家の人たちだけが私を褒めてくれなかった。
嫁ぎ先で冷たく扱われるのは私だけではなく、親や子を亡くしているという共通点まであり、
この出会いを与えてくれた敏子さんに感謝しました。
手芸教室に通い始めて一年ほど経った頃。
敏子の家に行くと、見慣れない人がいました。 敏子さんのお姉さんの、彰子さんでした。
彰子さんは姓名判断ができるようで手芸教室のみなの名前を見てくれました。
そして私の番がきました。
私は・・・・「純潔と情熱を併せ持つ、赤いバラのような人」
思いがけない結果でしたが、皆にうらやましがられ、確かにそうだわと言われ幸せな気分でした。
「深い湖のような人」 これは田所についてでした。
「燃えたぎる炎のような人」 娘についてです。
敏子さんは、そういうタイプじゃないかも、と言いました。
彰子さんの力を本物だと感じたのは、娘を炎に例えた時です。
娘の性格ではなく、あの忌まわしい出来事の残像ではないかと思いました。
それからひと月ほど経った頃、敏子さんから電話で映画に誘われたのです。
私と敏子さんと、それに彰子さんも一緒でした。
義母には婦人会の日帰り見学会をどうしても断れなかった、と言い許可を得ることが出来ました。
精一杯にオシャレしていきました。
「まあ素敵なお洋服。スカーフの巻き方ひとつでも華のある人は違うわね」
開口一番に褒めてくれ、私は母と外出していた頃を思い出しました。
映画が終わり昼食をとることになり、ホテルのレストランに入りました。
このような場所で食事するのも、結婚後、初めてでした。
まるで夢のようなひとときでした。
映画の感想を話した後は、占いの話になりました。
先日の姓名判断の結果は家族の誰にも言ってないことを打ち明けました。
田所は流産してからは、子どもが欲しいとも言わなくなったし、私に触れることもなくなりました。
娘はますます私に身構え、私と目を合わせようとしないし、言葉を詰まらせるのです。
手芸教室で作った物をあげても、嬉しいのやら欲しくないのやらなにを考えてるのかわかりません。
そして、ハッと思いつき、
「もう一人、名前を見てもらってもいいですか?」 私は紙に名前を書きました。
「これはあなたのお母様の名前かしら・・・・桜の花が見えるわ」
やはり彰子さんの能力は本物なのだと確信しました。
「あなたのことをとても心配している。 もうご存命ではないのかしら」 頷くばかりでした。
そして彰子さんは母の思いを聞かせてくれたのです。
「本当によく頑張ってるわね。そんな細い体で、辛いことを全部引き受けて、本当にえらいわ。あなたは自慢の娘よ。 だけど、無理しないでね。 からだは大切にしなさい」
母が私を見守ってくれていると思うと涙がこぼれてきました。
その翌週、敏子さんは手芸教室でない日に家に呼びました。 そこには彰子さんもいました。
「失礼だとは承知してるの。だけど・・・・あなた、お嬢さんとはうまくいってる?」
なんと答えていいかわかりませんでした。
「あなたは不幸な経験をいくつかして、それに娘さんが大きくかかわっていると読み取ったの」
私に起きた不幸は全て娘に起因しているのです。
彰子さんが言うには人にはオルグと呼ばれる「気」ともいうべきものがあり、
嬉しい、悲しい、楽しい、辛い、人それぞれいかようにでもオルグを作り出せる。
そのオルグが娘の場合、とてもよくない状態で、それが私にも影響を与えているのだという。
「悪いオルグを改善することができるんですか?」
漢方薬のようなものを渡されました。 彰子さんの先生と呼べる人が調合した薬だそうです。
敏子さんも娘のことで悩んでいた時期、これを飲んで解決したのだそう。
「希少価値のある薬草を使ってるから値引きはないけど二人分の人生の治療薬と考えると決して高くはないと思うの。 御屋敷の若奥様のあなたなら、決してそんなに高いと思わないわね」
薬の金額はひと月で三万円でした。
胸の内の悲鳴が思わず口からこぼれそうになりました。
しかしこれで本来の姿に戻るなら。そう思うと高い金額ではないのかもしれないと思いました。
娘の薬への効果は目に見えて現れるようになりました。
三十番台だった成績は十番以内へと上がり、委員会に立候補し、ボランティア活動も始めました。
しかし・・・義母に敏子さんから薬を買っていたことを知られてしまったのです。
敏子さんという人は昔から不幸な人を丸め込んでは水晶玉だの印鑑だの、
そういったものを高値で売りつけてる詐欺師だというのです。
こうして、手芸教室に通うことも敏子さんと会うこともなくなりました。
このような結論に導いたのは、やはり娘でした。
なぜ義母の目の前で薬を飲んだのか、それを敏子さんから買ったことまで話したのか。
娘は田所家の血を濃く受け継いでいるのかもしれません。
娘の回想
母が手芸教室に行き始めた。
火曜日の晩、はしゃいだ母を見ていると、夢の家での母が戻ってきてくれたようで
わたしは火曜日が待ち遠しくてたまらなかった。
母を喜ばせるには外に出してあげればよかったのだ。 でもそれを認めるのは悲しいことだった。
わたしは母に喜んでもらいたかった。
手芸教室の日の晩は、夕飯の後片付けをしていつ祖母に用事を言われてもいいように母屋に残った。
本が読みたくて母屋の2階に父についてきてもらった時だ。
りっちゃんの部屋に、金色の座布団の上に乗ったガラス玉が置かれていた。
りっちゃんが出て行った時にはなかったはずだ。
父が祖母に問い詰めると、「お守りだよ」祖母はそう言い、姓名判断で遠く離れた人のオルグという、
気を見ることができる、尊い先生から買った水晶玉、らしい。
「何をバカなことを。騙されたんだよ」 父はあきれて煙草に火を点けた。
父は祖母を説得すると、祖母も納得したようでガラス玉をしまいこんだ。
「あんな風に説得できるのにどうしていつも黙ってるの?」
「相当な金を払わされてる。もっとおかしなもの買ってきたらたまんねえだろ。 お前もつまんないことでばあさんに食ってかかんなくても、ほうっておけばいいんだ。いざとなったら少しおだててやればいい」
「それをママに教えてあげればいいのに」
「そりゃ無理だ。ママには、こうしなきゃいけないっていう自分流の信念があるからな」
「田んぼや家事なんて休んでいいんだよ。おばあさんの言うことなんて聞かなくていいんだよ。じゃなくて、いつもありがとうとか、がんばってるね、って言われる方がママは嬉しいってこと?」
「よくわかってるじゃないか。 この家はママがいなけりゃとっくに崩壊してるだろうからな」
「パパはそういう言葉、ママにちゃんとかけてあげてる?」
「言わなくてもわかってるだろ。 ママは頭もいいし、想像力もあるからな」
父の言葉に納得してしまったけど、今になって間違いだったと気付く。 言ってあげればよかったのだ。
父も、わたしも、母にどれほど感謝し、愛しているのかを。
ある日母は私に、にきびに効く薬を買ってきてくれた。
口に入れて水を含むと膨張して豆っぽい味が広がり、飲み込むのに一苦労だった。
飲みにくいかも、と母に正直な感想を言うと、あんたって子は・・・・と吐き捨てるように言われた。
中学生になってからはテストは間違えた数だけぶたれたし、クラス委員に立候補しないのか、
ボランティア活動には申し込んだのか、などと訊かれたことを自分には向いてないと思いながらも
ちゃんと果たした。
わたしを褒めてくれる人などどこにもいない。
わたしの存在を認めてくれる人などどこにもいない。
いったい、わたしはどうしてここにいるのだろう。
死んでしまいたいような気分になった。
母に愛されたい。
母が手芸教室をやめた。
もしや祖母になにか言われたのではないかと疑念が生まれた。
あるとき、にきびの薬をホットミルクに混ぜて砂糖を加えるとおいしく飲めることに気付き
母が手芸教室に行く日だけそうやって飲んでいた。
一度、祖母にきなこ牛乳を飲んでいるのかと訊かれたことがある。
にきびの薬だと答えたのに大豆の匂いだと譲らず、味見までして問い詰められたので、
中峰さんに頼んでくれたことを話した。
それが原因だったらと考えたものの、にきびの薬ごときでやめさせはしないだろう。
その頃祖母は前より母に優しくなっていた。 自分たちの娘達がまったく当てにならず
母に頼らないといけないことに、ようやく気付いたのだろう。
母とわたしの二人だけになれば、母はわたしを必要としてくれるだろうか。 愛してくれるだろうか。
結局、そうやってわたしは母を求めていただけ。 だから気付けなかったのだ。
母がわたしを愛してくれない理由に―――。
■第六章 来るがいい 最後の苦痛よ
母性について
「おまえの話したい当事者ってのは母親と娘、どっちだ?」
国語教師はしめのメニューにもう一度りっちゃんにたこ焼きを注文してから訊ねた。
「本心を知りたいのは母親のほうだけど、話したいのは娘のほうです」
「子どもを産んだ女が全員、母親になれるわけではありません。母性なんて備わってなくても子どもは産めるんです」
「つまりおまえのいう母と娘とは、母性を持つ女と持たない女ってことなんだな。それで、母親が微妙なコメントをしている自殺未遂娘に、万が一、運悪く母性を持たない女の娘として生まれてきたとしても、悲観せずに頑張れ、とでも言ってやりたいのか?」
「・・・・そういう、簡単な答えがあったんですね」
「しかしまあ調べてみるが、無理するなよ。大事な時期じゃないのか?」
「気付いてましたか」
「そうじゃないかと思ってたが、母性云々で確信した。自分が同じ立場になろうとしているからきになるんだろうってな」
母の手記
神父様―――。
私が娘を自殺に追い込んだと誤解されるのは、娘が私から幸せを奪い続けていたことが要因ではなく、田所が姿を消してしまったからではないかと、わたしは思っています。
しかも、仁美さんまでどこかへ行ってしまった。
田所と仁美さんは不倫関係にあった。
それを娘が私に忠告したことから私は逆上して娘を追い詰めた。
そして私が逆恨みで娘を自殺にみせかけて殺そうとした。
そのような噂が私の耳にも入り、女性週刊誌は見てきたかのように想像であの晩のことを書くのです。
田所と結婚して18年。
彼の口から一度も 「愛してる」 という言葉が出たことはありませんでした。
しかしあの人は深い思いを胸の奥の一番大切な場所に押し込めている人だと理解しています。
義母は母屋で一人で暮らすようになると、私に頼り昔話をすることが多くなりました。
義父は自分の思い通りにならないことがあると田所に手をあげるようになった。
しかし優しく育ち、成績も優秀で教師たちからは神童と呼ばれるほどだった。
義父は外では自慢しながらも胸の内ではおもしろくなかったのか、
つまらないことでケチをつけては
ますます田所に手をあげるようになっていった。 中学生になって美術部に入ってからは
口が利けなくなってしまったのではないかと思うほど無口になった。
私はその話を聞いて、義父が暴力をふるうなど想像すらできませんでした。
でも田所の暗い表情はそのせいではないのか。
両親の口喧嘩を黙って見ていたのも自分が口をはさめば父の怒りを増大させるからではないか。
「なぜ」と思っていたことが腑に落ちていったのです。
田所は家そのものに失望し続けていたはずです。
だから、田所は娘にあの悪夢の日の出来事を伝え、姿を消してしまったのでしょうか。
神父様、ついに、娘が自らの命を断とうとした日のことを書きます。
娘が帰宅したのは午後10時をまわっていました。 無断で帰ってきたことなどなかったのに。
娘は私に友達を紹介したこともなければ、学校での出来事を話すこともありませんでした。
夕飯の時刻になっても帰ってこないのだから。 今日こそは厳しく言い聞かせよう。
田所は一年ほど前から残業が増え、零時近くに帰ってくることが多くなっていました。
娘はどうして私の願うように育たなかったのでしょう。
母が私に注いでくれたのと同じくらい、私も娘に愛情を注いだというのに。
帰ってきた娘はただいまも言わずに玄関を上がり、居間の入口で黙って立っていました。
娘の顔を見上げて私は息を飲みました。
娘の目が開いているかもわからないくらい真っ赤に腫れ上がっていました。
「おかえり。遅かったわね。お友だちと会っていたの?」
かろうじて開いている娘のまぶたから涙が溢れ出してきました。
娘は返事もせず、頷いたり首を動かしたりもせず、じっと私を見つめていました。
「何があったの?」
こみ上げてくる嗚咽を押し殺すように大きく呼吸しました。 そして言ったのです。
「おばあちゃんが、わたしを助けるために自殺したって、本当なの?」
後頭部を思い切り殴られたかのようで、気を失ってしまいそうになりました。
母は自らの舌を噛み、命を絶ったのです。
私に娘を助けさせるために。 私を真の母親にするために。
母の最期の言葉・・・・
あなたの愛を今度はあの子に、愛能う限り、大切に育ててあげて。
あの子、あの子、あの子って誰? しっかりと目を見開くと正面に娘の顔がありました。
「舌を噛んだの?」 そうだ、この子のことだ。
娘を強く抱きしめるも、その手を振り払い自室へと駆けていきました。
田所が帰ってくる気配もなく、うとうとと眠ってしまったようです。
「何やってるんだ!」 義母の悲鳴のような叫び声で目を覚ましました。 あわてて外へ出ると、
しだれ桜の根元に見えたのは義母の姿と横たわっている娘の姿です。
その場を動くことが出来ず、救急車を呼びに、義母は母屋にむかって這うように駆けていきました。
娘の頬に手を添わせると・・・・冷たかった。
踏み台のようなものが置かれており、折れた桜の枝が覆いかぶさっていました。
そして枝にはロープが巻きつけられていたのです。
どうしてこんなことを!
「清佳!」
叫びながらふと思いました。 この子の名前は清佳だったのだと。
救急車で運ばれた娘は一命を取りとめましたが、意識はまだ戻っていません。
娘のリルケの詩を書き写したノートの最後のページにこのように記されていました。
『ママ、赦してください』
私は疑問に思うことがあるのです。どうして娘は母の死のことを知ったのでしょうか。
母の死の真相を知るのは私のみ、だというのに。
田所は娘が救急車で運ばれた数時間後に病院にやってきました。
母が自殺したことを知らない田所に全て話しました。
いつもの何を考えているのかわからない表情で聞いていました。 何か言って欲しかった。
田所は何も優しい言葉をかけてはくれませんでした。
「風呂に入って出直してくるよ」
そう言って出て行ったきり姿はみていません。 私の前から姿を消しました。
神父様。 もしも願いが叶うとしてもあの高台での生活に戻りたいとは思わないのです。
父と母と三人で暮らしたあの人たちの娘でいられた日々に戻りたいのです。
いいえ、たったひとつ願いが叶うなら・・・・・・。
私の愛する娘の意識が一日でも早く戻りますように。
大切な母が命をかけて守ってくれたその命が輝きを取り戻し、美しく咲き誇りますように。
娘の回想
「ママよりパパが好き」 享の妹、春奈ちゃんは当たり前のように口にする。
父親も子どもを可愛がるものなのだと気付いた。
父が母を守り、母が子どもであるわたしを守る。
そう考えていたけど、父は母がどんな理不尽な目に遭っても、まったくかばうことなく、
見て見ぬふりをしていたから、わたしは父を許せなかった。
父が母をきちんと守っていれば、母ももっとわたしに目を向けてくれたかもしれないのに。
ある日、母屋の2階にそっと上がると、社会の先生がすすめてくれた本『エミール』を探しに行った。
本はすぐに見つかったが、その棚に父の日記を見つけたのだ。
『僕の世界に色はない』
高校二年生の時に書かれた日記だ。 父は祖父から暴力を受けていた。
『はむかえばさらに殴られる。自分が殴られるのは我慢できる。しかし母や妹たちに矛先が向かうのは阻止しなければならない』
父は大学生になり、初めて家を離れる。
新聞記者になりたいという思いはあったが祖父から田舎に帰るように命令される。
その絶望感を父は絵に封じ込めることにした。
色を重ねた色のない世界。 そこに色が現れた。 ―――母との出会いだ。
『彼女の瞳に映るバラを見て、初めて僕はバラを美しいと感じた。 鮮やかな色が溢れかえる、美しい家を、彼女とともに作りたい』
美しい家。父にとっても大切な場所だったのだ。 母はかけがえのない存在だったのだ。
わたしは享に父の日記を見つけたことを話した。
興味津々で聞く享はその中でも闘争という言葉に興味を持った。
父は「学生運動」に参加していた。
「国家権力の何と戦っていたんだろう」 父の日記には抽象的な言葉ばかり並んでいた。
「何でもよかったんだろうな」 つぶやく享の横で、わたしは大きく頷いた。
母は一人で農作業をし、寝たきりになった祖母の世話をしていた。
しかしわたしが家事以外のことを手伝うのは嫌がった。
本当は学校を休んででも田んぼについて行きたかった。
わたしは祖母と口をきくのが嫌で、週末は用があると嘘をつくようになった。
「頼る人がいないってのが、これほどに不安なことだとはねえ。 わたしは、哲史には仁美ちゃんと結婚してほしかったんだよ。 あの子はちゃんと四年制の大学を出ているし、役場で働いているし、しっかりしてるから、安心して頼ることができたのに。 哲史が役場を辞めなけりゃねえ・・・」
初めてそれを聞いたときは、きつねうどんの載った盆ごと祖母を殴りつけてやろうかと思った。
「ママはものすごくがんばってるじゃん」
「所詮お嬢様のおままごとだ」
からだはどこも悪くないのに頭だけおかしくなったこの年寄りを、殺してしまえればどんなにいいだろう。
母は祖母に明るい声で優しい笑顔で献身的に世話をしてあげていたのだ。
お嬢様、と憎々しげに口にするのは、単なる女の嫉妬だ。
祖母が仁美さんの名前を出すのは自分と同じ丸い顔と団子っ鼻に親近感を覚えているだけだ。
祖母を老人ホームに入れてはどうだろうと提案すると、
母はろくでなしを見るような冷ややかな目つきでわたしを黙って見返した。
ママのために言ってるのに!と泣きながら言えたらどんなにいいだろう。
祖母を殺してしまいたい。 目の前にあるものを手当たり次第に破壊したい。
田んぼにも火を放ってやりたい。 この家にも火を放ってやりたい。
父が学生運動に参加していた意味がわかった気がした。
そんな父はわたしを裏切った。 いや、母を裏切ったのだ。
享と一緒にバス停にいると、反対車線に到着したバスから父が降りてきた。
わたしは享に母から用事を言付かっていたのを忘れていた、と嘘をついた。
そして父を後ろからこっそりと追いかけた。
父は一軒の家の前で足を止めた。
おばあちゃんの家だった。 今は仁美さんが住んでいる。
父はインターフォンも鳴らさずに中に入っていった。
心臓が高鳴るのを感じながら、足音を消し、門をくぐった。
見慣れた庭に入ると居間の窓の外に身を潜めて耳を集中させた。
「ビーフシチューを煮込んであるの。 あなた、好きでしょ?」
仁美さんは父を 「あなた」 と呼んだ。
「いけない、ドレッシングを買ってくるの忘れちゃった」
「作ればいいさ」
「どうすればいいか、わからないわ。 あなた作ってくれる?」
わたしは玄関に向かった。 鍵はかけておらず、わたしは息をひそめて上がった。
げた箱の上には赤いバラを描いた絵。 見覚えがあった。 どうして、これがここにあるのだろう。
台所をのぞくと、仁美さんが小鉢を小指でかき混ぜ、そのまま父の口元まで持っていくと
父はその小指を舐めた。
「何してるの!」
仁美さんはびくっとして小鉢を落とし、呆然とした仕草が芝居がかっていて気持ち悪い。
父はまったく動じた様子もなく、いつもの目でこちらを見ていた。
「ママは当然このことは知らないよね。 サービス残業なんて言って、本当は毎日ここにきていたんじゃないの? こんな裏切り方をしてるなんて許せない! おまけに、ここはおばあちゃん家じゃない。 あんたたち、頭おかしいんじゃないの?」
これだけまくしたてたのに、返ってきた父の言葉はたった一言だ。
「まあ、座れ」
テーブルの上にはランチョンマットにナイフとフォーク、赤ワインにワイングラスが置かれていた。
こんな食卓を自宅で見たことがなかった。
「ママに悪いと思わないの?」
父は黙っていた。 しばらく話さなくて済むとばかりに煙草に火を点け、ゆっくり吸いこんだ。
「ママより、あの人がいいの?」 また何も答えなかった。 「離婚するの?」 「それは、ない」
「田んぼとおばあさんの世話をさせるためでしょう。 都合よくただ働きさせて、自分はよその女といちゃいちゃするなんて、人間のクズだ。 それなら離婚して、ママをあの家から解放してあげてよ。 わたしはママとこの家に住む。 あんたはあの人と自分の家に住めばいいじゃない」
「そういう単純なことじゃない」
「世間知らずの頼りないお嬢様を、哲史が放りだせるはずがないでしょう」
仁美さんが火の点いた煙草を片手に、部屋に入ってきながら言った。
「ママがお嬢様じゃなくなったことくらい、見ればわかるじゃん。 うちが成り立ってるのはママのおかげでしょ」
「家の中と外の世界では違う」
「じゃあ、わたしが働く」 「そんな甘いもんじゃない」
「そうよ。あなたは世の中の厳しさを知らないから」
仁美さんは煙草を灰皿に押し付けた。ピンクベージュの口紅。テレビCMでよく目にする新色だ。
母のは何年も同じ真っ赤なバラの色なのに。
「あなたがどんなに厳しい社会を知ってるっていうんですか?」
太陽の光など浴びたことのないような白い肌、形よく整えられた爪。 ゆがみのない背中。
何かと戦ったという証などみじんも感じ取ることができない、年輪のないからだ。
「あなたが生まれる少し前、大きなものと戦ったわ。哲史と一緒に」
「学生運動のこと?」 「そうよ」 「仁美さんに訊いてるんじゃない」
「暴力で家の中を支配しようとする父親に立ち向かう勇気がないから、その矛先を外側に向けただけじゃないの? また逃げて・・・今度は何が不満なの? おじいさんが死んでも解放感を得られなかった? 離婚しないのは仁美さんと家庭を持っても美しい家を築くことができないってわかってるからでしょう。 ここを逃げ場として確保しておきたいんでしょう。 ・・・・弱虫。ママにも他の女にも守ってもらって。 ママに謝ってよ」
何も言わずともわたしの目をじっと見ていたのに、父はついに目をそらした。
「いい加減にして!」 仁美さんが声を張り上げた。
父の背中越しに抱きついている。 娘の前でよくこんなマネができたものだ。
「あなたはお母さんに好きれようと必死だけど、お母さんはあなたから故意に目をそらしてる。それを見てるのが哲史は辛いのよ」
腹立たしくて仕方ないのに何も言い返すことが出来なかった。 突きつけられたのは事実だ。
「でもね、あなたとお母さんがうまくいかないのは仕方ないことなのよ。悲しい事故のせいなんだから。べったりと依存しきっていた母親が、娘を守るために自殺したとなれば、簡単に割り切れないわよね」
一瞬、母親が誰で娘が誰を指しているのかわからなくなった。
頭を整理すると、おばあちゃんだ。 箪笥の下敷きになってか、焼死だったのではなかったのか。
「お母さんは自分の母親と娘、どちらを先に助けようか迷っていた。 火の手はすぐそこまで迫っている。 おばあちゃんはお母さんにあなたを助けさせるために、自ら命を絶った。 舌を噛んでね」
嘘だ、嘘だ、嘘だ、デタラメを言うな!
ワインボトルを仁美さんの頭めがけて振り下ろし、家から飛び出した。
家へ帰ると母の顔を正面から見ることができなかった。 否定してほしかった。
しかし、母は否定しなかった。 悲しそうに私に向かい両手を伸ばし、首に強い圧力を感じた。
母の指が私の喉に少しずつ食い込んでいった。
母になら殺されてもいい。 だけど、それじゃあダメだ・・・・。
渾身の力をふりしぼって母を突き飛ばし、自室に駆け込んだ。
どうしてわたしはここにいるのだろう。
あの夢の家を一緒に燃え尽きてしまえば、母の思い出の中で永遠に生き続けることができたのに。
どの木で死ぬかは決めている。
母がときおり愛おしそうにその木に触れているのを遠くから見ていた。
ママはあの木をおばあちゃんだと思っているのだ。
ママ、赦してください―――――。
別れを告げたはずなのに、暗闇の中で母の声が聞こえると感じるとは、なんてずぶといのだろう。
この手を握りしめてくれるのが母だと思えるとは、なんておめでたいのだろう。
名前を呼んでくれたと感じるなんて。
そうか、わたしの名前は「清佳」だったんだ。
■終章 愛の歌
母性について
りっちゃんにたこ焼きをもらったので今から行くね、と母にメールを送り田所の家へと向かう。
祖母は認知症の症状は年々悪化しており、娘も認識できず女性を総じて「お姉さん」と呼ぶのに
母のことは「ルミ子ちゃん」と名前で呼ぶ。
医者などには「わたしの大切な娘」と紹介しているのだから、母の思いは祖母に伝わったのだろう。
父は姿を消して十五年後になる、三年前にふらりと帰ってきた。
仁美さんと逃げた翌年には捨てられていた。
申し訳なかった、と母とわたしに頭を下げた。 母はおかえりなさい、と答えただけだ。
父が逃げたのは罪悪感に駆られてのことだった。
あの台風の日家に向かっていると火が上がっているのが見えた。
急いで家まで駆けつけ父が最初にしたのは、赤いバラの絵を安全な場所に持っていくことだった。
再び家の中に入ると、母の悲鳴が聞こえた。
おばあちゃんが舌を噛んで息絶えている姿が見えた。 母は半狂乱になって言った。
あの子を助けろって、お母さんが・・・・・。
絵なんかほうっておけば、お義母さんも一緒に助けることができたかもしれなかったのに。
父はその罪悪感から逃れるため、母から、そしてわたしから目を逸らすようになった。
父はおばあちゃんが自殺したことはわたしは知っていると思っていたらしい。
自分が娘までも追い込んだことを苦にして、仁美さんと一緒に逃げた。
生き返って以降、父に対して怒りの気持ちは湧いてこなかった。
目が覚めたとき、母に手を握られ、名前を呼ばれたことでわたしの欲求は満たされたのだ。
父が帰ってきた翌年、わたしは結婚して家を出た。
母は挨拶に訪れた享に深く頭を下げてこう言った。
「愛能う限り、大切に育ててきた娘を、幸せにしてやってください」
おばあちゃんの家だったところが、わたしたちの家となった。
子どもができたことを母に伝えると、おばあちゃんが喜んでくれるわ、と母は涙を流しながらしだれ桜の木を見上げた。
わたしは子どもにわたしが母に望んでいたことをしてやりたい。
愛して、愛して、愛して、わたしのすべてを捧げる。 でも 「愛能う限り」 とは決して口にしない。
自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが、母性なのではないだろうか。
メールの着信音が鳴った。
『楽しみだわ。気をつけてね』
古い屋敷の離れに灯りがともっている。 ドアの向こうにわたしを待つ母がいる。
こんなに幸せなことはない。
(第26回山本周五郎賞候補作)
何から言えばいいのやらなストーリーですよね。
意地悪な義母にワガママ放題で何もしない義妹、無口で味方してくれない夫・・・
絶対、田所家には嫁ぎたくないですね(苦笑)
田舎で時代も少し古いようなので、別居するのも難しい状況だったのかもしれませんね。
でも義母よりも許せないのは父・田所だと思いました。
ただの無口な夫でも、ただのでくのぼうな気がしますが、不倫という裏切りは許せないです。
しかも母の知り合いと・・・仁美さんは結婚する前から田所のことが好きだったんじゃないでしょうか。
母親も苦労はしていますが、かなり歪んでいますよね。
自分の母(おばあちゃん)に対する愛が強すぎる。 いわゆるマザコンですね。
物凄く依存してしまったんですね。
おばあちゃんと娘が死にかけた時、自分の母のほうを選んだ時はドン引きしました・・・。
私は子どもを産んだことはありませんが、もし自分の子どもがいて同じ状況だったら
母親には悪いけど、何の迷いもなく自分の子を選ぶと思います^^;
Lilyの自論として、親の愛情をたっぷりと受けて健やかに育った子は、
歪み無く、良い子に育ち、自分の子どもにも同じく愛情を注げると思っています。
このお話では違いますが・・・。
この物語の「娘」は最終的に幸せになって、救われましたよね。
良い結末でホッとしました(^^)