みなさんこんにちは。前回からの続きです。
3月16日の「北陸新幹線 敦賀〜金沢間開業」と入れ替わり、長年親しまれた在来線特急が姿を消した、敦賀から先の「北陸本線」。
全国的にも稀少な「特急街道」を最後に味わいたいと、大阪発「特急サンダーバード」に乗り、昨年11月に石川・金沢周辺をさまざま日帰り乗り鉄した際の道中記をお送りしています。
「北陸鉄道(北鉄)石川線」に初乗りを終え、終着の「鶴来駅(つるぎえき、石川県白山市)」 から延びる廃線跡を辿っています。
2009(平成21)年11月に一部廃止となった「鶴来〜加賀一の宮間(2.1km)」。それから殆ど手づかずのまま放棄されているという廃線跡。
それに並行していたのが「能美線(のみせん)」という路線だった、というところまで述べました。グーグル地図より。
ところでさまざま調べていますと、この並行区間の、目抜き通りの踏切跡付近には駅が設けられていたそうです。
この右側にあったそうですが、「鶴来駅」からわずか300m離れた「本鶴来」という駅でした。さらに、大変興味深い記載を見つけました。
…単式ホーム1面1線の地上駅であり、当駅から鶴来駅までの約300mの区間は石川線と並行して複線区間のようであった。なお、石川線側に当駅のホームは無かった。出典①・②。
わかりにくい加筆で恐縮ですが、こういうことになります。先日より参照している、廃線前の前面展望作品をユーチューブより。出典③。
右側を走行中の「石川線」に対し、左側に「能美線」。線路やホームの類はありませんが、複線のように見えていたのは、単線が2路線並んでいたから。いわゆる「単線並列」だったという。
左側が「能美線」と「本鶴来駅」跡地です。
「鶴来駅」に対し、こちらの方が旧市街地の真ん中にあったため「本」がついたのでしょう。
珍しい事例ですが、石川線の側に「本鶴来駅」がなかったのは、それぞれの路線の出自が異なっていたからではないか、と思われます。
同じ「北陸鉄道(北鉄)」でも、金沢市内を目的地にした石川線は「石川鉄道(1915年6月開業)」によるもの。北鉄金沢にて。
一方、金沢郊外の「寺井駅(現在のIRいしかわ鉄道根上能美駅、同能美市)」で省線(→国鉄→JR)との貨客連絡を重視した能美線は「能美電気鉄道(1925年3月開業)」によるものと、異なる会社により開業した経緯があったのでした。
ただ後には、どちらも「金沢電気軌道」という現在の北陸鉄道の母体となった会社に統合されてしまいます。
ところで、旅の途中で駅に置かれていた、広報誌の「ほくてつニュース(2023年10月号)」を頂いて来ました。特大号、というのですが。
「創立80周年」とただし書きにあるのは、80年前の1943(昭和18)年、県下に点在していた鉄道会社が集約され、現在の「北陸鉄道」が設立されたことに由来するもの。
時代的に、おそらくは「陸上交通事業調整法(昭和13年8月施行)」の影響を多分に受けてのよるものだったのでしょう。
先の戦争に進む中、鉄道・軌道・バスなど陸上公共交通の総合的な調整(交通調整)を政策的に行うことを目的に制定されたもの。
国の意向を反映させやすくするため、同一事業者を一つの会社に集約させるという目論見がありました。余談でした。
ところでこれの裏面には、かつて存在していた北陸鉄道の鉄道路線が網羅されていました。
現在営業しているのは、午前中に乗り鉄した「浅野川線(北鉄金沢〜内灘間、6.8km)」。内灘にて。
そして、本題の「石川線(野町〜鶴来間、13.8km)」の2路線のみ。
しかしながら、全盛期にはそれこそ全県下にわたって、実にさまざまな路線が「国鉄(→JR)北陸本線」を起点にして、運行していました。
金沢市内に多数の系統を持っていた、路面電車「金沢市内線」。北鉄各線を結節するという役割を果たしていた、重要な足でした。
さらに路線は、金沢市内や県南部にとどまらず
能登半島の付け根付近にも存在していたよう。
こちらは全線非電化で、初詣や海水浴シーズンには国鉄との直通列車も走ったという路線だったそうです。1972(昭和47)年に廃止。
その中にあったのが「能美線」。
今年3月まで「JR北陸本線」だった「IRいしかわ鉄道 根上能美駅(2015年3月までは寺井駅)」と、この鶴来とを結んでいたという「能美線」。
それでは、かつて鶴来に乗り入れていたこの「能美線」について、その歴史を少し掘り下げてみることにいたします。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「フリー百科事典Wikipedia#本鶴来駅」)
(出典②「カラーブックス592 日本の私鉄22 東海・北陸」井上広和・高橋摂共著 保育社発行 昭和58年1月」)
(出典③以下、ユーチューブ作品)