みなさんこんにちは。前回からの続きです。



 
 

今月、2日付けで紙齢50000号を迎えたという朝日新聞。その日の特別紙面について、あれこれと取り上げています。

 
さて、朝日新聞が「大阪ゆかり」ということからでしょうか、特別紙面の中には関西大手5私鉄にまつわる昔のショットも見つけました。
 
 
「京阪電車」。いや、これは懐かしいですね。
また、鴨川沿いに電車が走っていた頃です。
 
 
左側に鴨川、右側に琵琶湖疏水が流れる「三条駅(京都市東山区)」。
轟々と音を立てる、急流の疎水の上に張り出した1番線の他にも独特の雰囲気を持つ、情緒のあるターミナル駅でした。
 
いまも昔も、京都に行く時はいつも京阪でしたから、乗り換え客でごった返すこの駅に降り立つと、ああ京都へ来たんやなあと感じたものでした。地下化されてもう30年以上にもなりますが、端々にはっきりと覚えている情景です。
 
 
続いては「南海電車」、ターミナルの「なんば駅(大阪市中央区)」です。 
 
 
高いドーム型の広い構内。明かり取りも設けられていて、実に開放感があります。
和歌山・南紀白浜・高野山への直通列車が多数設定されはじめた、1937(昭和12)年に使用開始になった当時としては最新鋭の高架駅だったそうですが、現在の様相とはだいぶ違います。

昭和40〜50年代に、旅客の増加で大規模な改良工事を行ったそうで、高架の嵩上げや拡張により現在の姿に変貌したようです。
2両編成の特急電車ですが、たくさんの乗客ですね。積み残しはなかったんでしょうか…
 
 
そして、こちらは「近鉄電車」。
1939(昭和14)年とありますが、戦前の当時としては女性乗務員というのは、まだまだ珍しかったのでしょうね。


解説にもありますが、掲載されている車両は「大阪鉄道(大鉄)」のもの。
JR天王寺駅に隣接する、大阪阿部野橋を発着している「南大阪線」を建設した会社で、この後に合併を経て、近鉄の一員になりました。



「女性乗務員の登用」というとおそらくは、当時の大鉄から直通していた吉野方面への観光輸送も念頭に置いたものだったのでしょうか。現在は「さくらライナー」が運行されています。


そして、くだんの「大阪阿部野橋駅」の直上にあるのは…あの「あべのハルカス」です。
戦前の大鉄時代からここには百貨店が設けられ、いまや近鉄百貨店の旗艦店にもなっています。大阪市内南部の一大拠点です。


大阪郊外の中河内に住むわたしとしては、超高層ビルが市内には少ない中、目印に方角がはっきりわかる存在なので、重宝?しています。
15kmほど離れた「野崎観音慈眼寺(大阪府大東市)」境内より。 

 
 
ところで、記念の50000号の一面から。
これも、長い歴史の中で語り継がれることになるのでしょうか。
さまざまなことを考えさせられた記念号でしたが、そろそろあちこちと出掛けたいものです。

今日はこんなところです。
みなさんこんにちは。今日の話題です。


朝日大阪朝刊 2021(令和3)年3月2日付け。いつものように、朝食を摂りながら朝刊を読んでいますと…


この2日付けで、朝日新聞は紙齢50000号を迎えたのだとのこと。幼少から身近にあった存在ですが、1年でも単純計算して365号(新聞休刊日もありますが…)、10年でも3650号。


なかなか実感が湧かないのですが、50000号達成というのは、ともかくすごい積み重ねであることには違いありません。


この2日付け朝刊は特別紙面になっていまして
創刊号の復刻版も掲載されていました。
日付は、いまから142年前の「1879(明治12)年1月25日(土曜日)」。


題字の真下の記事は…「官令」でした。
当時は、国の法令や人事などの情報がこのように、報告書の形態で告知されていたようで、それがそのまま掲載されています。

論評や分析、解説といったようなものが見当たらないので、今日の紙面とはだいぶ異なることに驚きますが、大隈重信の名前で発令されたこの告知は、郡区長(現在でいうところの、地方自治体の首長)書記役(副市長、助役でしょうか)に対する月俸(月給)制度変更にまつわるもののようです。


二段目から。
「御製(ぎょせい)」「皇后宮」とタイトルにあります。前者は「時の天皇が詠まれた和歌」という意味ですので、これは明治天皇ご夫妻による詠歌だとわかります。
国民に対してお気持ちの表明をするのに、直接語りかけるということが出来ない時代でしたから、そうするためにこのような方法を用いていたのでしょうか。

ちなみに「1879(明治12)年」という年は、どのようなことがあったのかと調べてみますと…

1月25日 - 大阪で朝日新聞創刊
2月27日 - ジョンズ・ホプキンス大学でサッカリンを発明
3月27日 - 琉球処分官松田道之が首里城で廃藩置県を言い渡す
4月4日 - 琉球藩廃止・沖縄県設置(琉球処分)
5月6日 - 植物御苑(後の新宿御苑)開設
6月4日 - 東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となる
7月14日 - コレラの予防規則(海港虎列刺病伝染予防規則)公布(検疫記念日の由来)
この年コレラ大流行により全国で10万人の死者
7月17日 - ハワイ王国初の鉄道が開業(カフルイ・ワイルク間)
9月15日 - 昨年10月来日本で猛威を奮うコレラの被害発表(罹患138,953名,死者76,597名)
10月21日 - エジソンが白熱電球を発明
11月17日 - 小学校唱歌が編纂される


思わず、高校生の時に使っていた地図帳を引っ張り出してしまいました。

しかし「琉球処分」や「エジソンの白熱電球発明」があった年だったとは…歴史の教科書の内容そのままです(当たり前ですが)。
また、コレラ大流行のまっただ中だったのですね。偶然というのかなんというのか…


ところで、朝日が創刊された前後の出来事も、歴史好きとしては気になるところです。

3年前の明治9年には、旧幕藩体制で中核を担っていた武士たちに対する給与の支払いを、実質的に停止するという「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」。
翌10年2月には、鹿児島へ下野した西郷隆盛を司令官とした、現在のところでは「日本最後の内乱」とされる「西南戦争」の勃発。


さらに、4年前の明治8年には「平民に苗字を名乗らせる」施策、さらに9年には、旧武士身分の帯刀を禁じる「廃刀令(はいとうれい)」。
11年5月には、明治新政府の要職に就いていた大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」。

260年以上続いた、徳川幕藩体制が終焉を迎え
天皇を中心にした近代国家が動き出しはじめたそれらがないまぜになった頃ということがわかります。
いや、すごい時代ですが、新聞というあたらしい存在も、西洋に倣って興った明治維新のあらわれだったのですね。


ところで、朝日新聞はもともと、大阪で創刊された新聞なのだそうです。全国紙の現在では想像がつかないですが、東京での発行はその9年後のこと。なかなか、興味深い経緯です。

(出典「Wikipedia#1879年」・「新詳日本史図説」浜島書店編・発行 1991年)

次回に続きます。
今日はこんなところです。
みなさんこんにちは。今日の話題です。


先日、所用で通りがかった「JR京橋駅(大阪市都島区)」北改札内にて。







駅員さんからの、心のこもったメッセージがいっぱいでした。ちょっと元気になりました。


わたしの他にも、幾人もの人々が足を止めておられましたが…

電車が止まるというと、本当に困ります。
感染のリスクが高いのにも関わらず、さらに利用客も減少しているのにも関わらず、です。
感謝せねばならないのは、利用客のわたしたちなのでしょうが、懸命に、日常を守ろうとされているお仕事には、ただただ頭が下がります。


そういえば、二度目の緊急事態宣言が関西3府県に出されてから臨時休業していた、地元駅のセブンイレブンハートインでも…


解除にともない、3日から営業を再開するのだとのこと。いつも重宝していますから、非常に助かるんですが。

「少しずつでもいずれは穏やかな日常が戻る」とはいえども、それが決して、コロナ禍以前のそれにはならないことには、わたしも含めて、大なり小なり気づいているのかも知れません。



ただし、史実にはこのような、それまでの価値観が覆されるようなことが、かつてにもひょっとしたらあったのだろうかとも感じます。


「あたらしい生活様式」なるものに慣れるには時間がかかるのかも知れませんが、昨春の、これまで経験したことのないような、言いようのないあの不安な毎日を、なんとか乗り越えられていまここに居るのですから、これは、自信を持っても良いのだろうな!などと思えます。

しかし、さまざまなことを考えさせられます。
今日はこんなところです。
みなさんこんにちは。今日の話題です。


1月は「行く」、2月は「逃げる」と来て、いよいよ「去る」3月がやって来ました。
関西3府県への緊急事態宣言は先月末に解除になったものの、まだまだ抜き足差し足です。

とはいえ、寒い冬を抜けて、春が日増しに近づいている日々ですので、少しは気分も明るくはなりそうです。いや、そう期待したいです。


ところで、春の訪れといえば毎年、観察に行くのは地元の神社です。
ここには、見事な梅の花が咲くからです。


本殿横より。節分から続いて、厄除けご祈祷はまだされているようです。


昨年は、ここで次女の七五三参りをさせて頂いたのですが、わちゃわちゃと走りまくるちびっ子に成長を感じたことをふと思い出しました。
今年からは幼稚園ですし…楽しみです。


それから!年が明けたので、自分も本厄をようやく抜け出したことに気がつきます。
コロナ禍がありましたから、なんとか無事に、自分や家族が過ごせたことに感謝しきりです。


前置きはさておき、お目当ての梅の花を拝見して行きたいと思います。


この、お手水の近くから、白やピンクの梅が愉しめるのですが…ちょっと早かったようで、見た感じはまだ2〜3分でしょうか。






本殿の裏側にも、確か木があったなあと…






まだまだ、ほころぶ前のものが多いように感じましたが…それでもまだまだ寒い中、健気に咲いている姿に、なぜかしらほっとします。
もう少しして、また拝みに来たいと思います。


境内の掲示板にあった、ありがた〜いお言葉。
確かに、このような毎日でも自分なりにこなしていけば、それは積み重ねになるのですし。

まだまだ気の抜けない日々が続きそうですが、
ともかく、自分に出来ることを地道にこなす…これしかないでしょうし、結局はそうすることがなにより大事なことだろう、と感じます。

今日はこんなところです。
みなさんこんにちは。前回からの続きです。


過日より、書店の店頭で並びはじめた時刻表3月号。毎年、この時期に春の訪れを知らせてくれる便りだとわたしは思うのですが、別れとあたらしい出会いが交錯するこの月の時刻表について、あれこれと探っています。


さて、この3月号には「特別付録」がついていました。東京から伊豆へ向かう「特急踊り子号」に長年充当されていた、旧国鉄時代からの「185系」が引退するのだとのこと。


普段は首都圏を走っていますので、関西在住のわたしにとっては、一、二度くらいしか乗ったことのない、あまりなじみのない車両です。
しかし、旧国鉄時代に登場したとは思えない、この斬新な車体のストライプ柄は、大変印象に残るものです。


後年になってからは、さまざまなカラーバリエーションが登場したようです。
湘南電車の塗装をアクセントに入れたもの。



そう、「新特急」というのもありましたね。
関西にはない形態でしたから、不思議な感じがしたものです。



往年の車両を模した、復刻塗装が施されたものもあったようで。まるで別の車両のようですが、もとになった車両の塗装のイメージが強いからでしょうか。一度は見てみたかったです。

1981(昭和56)年にデビューしたというこの「185系」ですが、車内設備の陳腐、老朽化などには勝てず、今回の改正で定期運行から姿を消すとのこと。しかし、令和の現在まで生き残ったということは、やはり車両自体が頑丈なつくりだったということなのでしょうか。



この「185系」を用いていた「踊り子号」や、「通勤ライナー」列車には、代替の車両が導入され、さらに後者は「特急湘南号」なるものに格上げされるとのこと。


設備がグレードアップされるのは、時代の趨勢ですね。しかし「通勤ライナー」が主力の首都圏では「実質的な値上げ」になるようで…
なかなか、考えさせられる動向でもあります。


ということで、今春のダイヤ改正について個人的に気になった点をいくつか挙げてみました。

昨日の記事でも触れましたか、コロナ禍を受けて、JRのみならず鉄道業界は、これまでとはまったく異なる考え方、そして取り組みをする潮流に舵を切ったように感じます。

個人的には、今後はどのようなサービスが展開されるのか。他社との差別化をどのように図るのか。鉄道以外の事業展開はどうなるのか。
そこがポイントになるんかなと感じます。
いち鉄道ファンですが、気になるものです。

今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。今日の話題です。

 

 
地元の書店にも、いよいよ時刻表3月号が並びはじめました。これを見かけますと、いよいよ春が近づいて来たんやなあと感じる瞬間です。
 
 
毎年ダイヤ改正が控えるこの3月というのは、ラストランを迎えるもの、あらたに登場するものとが全国各地で入り混じるという、趣味的には大変興味深い時期です。
 
そういったことで、果たして今年はどのような出会いと別れがあるのでしょうか。
なかなか自由に旅が出来ないご時世ですが、今年はどのような変化があるのか、ちょっと探ってみたいと思います。
 
 
 
こちらは「JR大阪駅(大阪市北区)」。
こないだ通りがかりましたら、それにまつわるポスター類がたくさん掲出されていました。 

 
先日に上げた記事ですが、一連のコロナ禍で大きな影響を受けた鉄道業界。もともと、少子高齢化で利用客が減少傾向だったのに、輪をかけるような状況になったのだと思われます。
 
 
その潮流の最たるものというのが「終電時間の繰り上げ」ではないでしょうか。
コロナ禍以前ならば、逆に終電を繰り下げることが旅客に対するサービス向上だったのでしょうが、ライフスタイルの変化というのは本当に大きな影響があるのだなとつくづく思います。


JR西でも例外ではなく、ここ大阪駅を発車するそれでも、20分程度の繰り上げがなされるようです(個人的にはそれでもまだまだ遅いようには感じますが…)。


これは、他の鉄道会社も追随する動向のようですし、時差出勤を推奨するようなポイントの付与など、今後はこれがノーマルなものになるのでしょうか。どちらにせよ、これまでには想像もつかなかったことが現実になりそうです。

 
さて、JR西管内では新型車両の増備も気になるところです。能登半島へ向けて走る「七尾線」と、和歌山県の「紀勢本線」普通列車が、すべて新型車両に置き換えされるとのこと。
 
 
「紀勢本線」というと、京都、大阪から南紀へ向かう「特急くろしお号」が思い浮かびますが普通列車では、旧国鉄時代に投入された「105系」という車両が「和歌山線」ともども、最後の活躍を続けています。
 
 
実車の写真が手元にないので、模型を引っ張り出して来ました。トミーテックから発売されている、人気鉄道模型シリーズ「鉄道コレクション」。ラインナップに、くだんの「105系」があったのを思い出しました。
 
 
この車系、もともとは、首都圏の「常磐線」から「営団地下鉄千代田線」へ直通するための「103系1000番台」という車両を改造したものとして知られています。
 
 
長い編成だったので、ローカル運用に転用するために、中間車両に運転台を増設するという改造がなされたために、同じ車系でもこのように顔つきが異なる、というのが特徴なのですが…
 
 
これが、もともと運転台があった先頭車両。
2両編成が基本ですが、乗客が多い時には増結が出来るように、正面に貫通幌が取り付けられているのが目に留まります。
 
 
毎度おなじみ「Wikipedia#103系」より。
常磐線で活躍していた、旧国鉄時代のショットを見つけましたが、これ、そのままですね。
 
 
JRになったいまでは、まず考えられないような改造、そして、首都圏から和歌山・奈良への転属ですが、令和の現在までよく生き残ってくれていたなと感心します。
 

 
替わりに登場するのは「227系」という車両。
すでにデビューしているもので、JR西独特のデザイン、アコモデーションが施されています。
 
少し前までは、大阪近郊でも旧国鉄からの車両がたくさんだったのですが、急激にその姿はなくなりつつあるのだなと感じます。
 
次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 
ラストランが迫った日本で唯一の多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的にも朝ラッシュ時の混雑が著しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に行われた旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。
 
 
1972(昭和47)年着工の「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」、その要となった地上の「守口市仮駅・仮線」について、あれこれと掘り下げています。
 
仮駅の使用開始は1976(昭和51)年、高架複々線化が完成し、現在の高架駅へ移設されたのは1980(昭和55)年。
その4年の間、地上仮駅から延びる仮線は先行して開通していた京都方の高架線へと、仮設の土盛り築堤でアプローチしていました。
 
 
上下合わせて4線もの仮線が、先行開通の高架線に接続していたということで、かなりの規模だったことが窺えるのですが、かつての切り替え地点は現在はどのようになっているのか、あわよくば?なにか痕跡が遺されてはいないかと気になります。では、善は急げです(笑)
 
 
赤い□で図示した場所がそのようで、直下にやって来ました。現在は百貨店駐車場、東からの入場ゲートが設けられています。
右側の建物は、平成に入ってから建設されたもの。ということは、本題の当時には存在していないものなのですが…
 
 
その奥側、フェンスで仕切られた高架複々線の南側に不自然な形の出っ張りを見つけました。
 
 
よくよく観察しますと、架線は張られてはいないものの、架線柱もこの出っ張りの真下に沿ってつくられている、つまり、実際に使用されていたということがわかります。
 
 
 
この区間の、高架複々線が開通した1980(昭和55)年の様子。
地上仮線と仮駅が完全に撤去された直後と思われますが、はっきりとこの出っ張りと、仮線の役目を終えて蓋をされた壁が視認出来ます。

この構図から、まさにこれが地上仮線から先行開通していた高架複々線へとアプローチしていた「仮設高架跡」だとわかりました!
 
 
再び、冒頭のショットから。現存している「仮設高架跡」は、見た感じでは線路2本分なので
左側の線路2本(上り京都方面線路)は、現在使用されている高架線に食い込むような形だったようです。
これは、興味深いものがあります。
 
 
 
ちなみに、車窓から見た現場の様子はこちら。保線用のレールや枕木が置かれたスペースになっていますが、地上仮線へはここから上下しようとすると、かなりの勾配の上に結構なカーブで合流していたようです。
 
 
その後、守口市高架新駅(現在の駅)の工事は順調に進みます。まず、上り京都方面が高架線に切り替えられたのは1979(昭和54)年4月。

奥の京都方面ホームはすでに運用が開始され、手前の下り大阪方面のホームと高架線は建設のまっただ中という、貴重なショットです。


駅の大阪方、高架複々線の下り大阪方面外側線建設中の様子。工事過程としては、ここが最終段階に当たるところでした。
 
 
そして、1980(昭和55)年6月に、ようやく下り大阪方面ホームも高架複々線化されました。

これに先駆けて同年3月に、京阪線では大規模なダイヤ改正が行われ、区間急行と普通しか停車しなかった、この守口市駅にはあらたに急行・準急が停車(ただし日中のみ)、大阪方面からこの駅で折り返しされる列車は、複々線の東端になった「萱島駅(かやしまえき、同寝屋川市)」へと発着駅が変更されました。

 
当時の京阪特急はすべて、京阪間はノンストップ運転がなされていました。
主要駅を補完する急行がこの駅に停車するようになったことで、守口市駅の利便性向上のみならず、急行や準急と接続が取れるようになった普通への乗り継ぎも改善され、普通しか停車しない駅々へのアクセスも便利になった、という改正でした。

 
さらに、駅前後で激しい混雑を呈していた踏切道もすべて除却され、線路で南北に分断されていた街の行き来も容易くなったので、大きな意義のある高架複々線化だったと言えます。
 
 
車窓から見える、なんでもない光景に、いろいろと掘り下げて行きますと、さまざまな経緯があったのだなと感じた次第です。
そして、高架複々線はまだこの先、京都方面へと続きます。

(出典「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)

次回に続きます。
今日はこんなところです。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 
ラストランが迫った日本で唯一の多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的にも朝ラッシュ時の混雑が著しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に行われた旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。
 

 
1972(昭和47)年に着工、付帯工事を含めると完成までには約10年の歳月を要した「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」、まずはその起点に当たる「京阪電車守口市駅(大阪府守口市)」の変遷について、項を割いています。

駅の北側にやって来ました。
現在は高架複々線となっている駅舎とホーム。
 
 
高架複々線化工事が進むほぼ同じ場所の様子。
画像左下に白い軽トラが停まっていますが、先ほどの現在ショットは、だいたいその後ろあたりから駅舎と高架線を望んだものです。 

守口市仮駅が使用開始されている頃のもので、高架躯体の工事の進捗具合から完成近い1978〜79(昭和53〜54)年過ぎと思われます。 
 

 
ところで、列車の追い抜き追い越しが可能な、広大な敷地に設けられた守口市仮駅。かつては「守口車庫・工場」があり、その跡地に仮設された、ということを先日の記事で触れました。 

さらに、この駅が高架複々線化された5年後の
1985(昭和60)年、再度その敷地を活かして「京阪百貨店守口店」が開業しました。 
 

グーグル地図を加工。
地上仮線、仮駅と、すでに一部が開通していた高架線(緑色の線)の様子を図示しています。
赤い矢印は、そのあたらしい高架線へとアプローチするための、仮設土盛り築堤が設けられていた場所に当たります。
 
 
それでは当時、仮線と守口市仮駅、そして先行開通していた高架線へのアプローチ部分について、現在の様子と比較してみたいと思います。 

現在の高架駅から少し東へ行ったところ、百貨店の駐車場になっているこのあたりに、仮線・守口市仮駅・高架線へのアプローチ部分が存在していました。
 
 
駐車場に続く、百貨店の東口周辺が仮駅。 
 
 
さらに、地上で東の京都方向へ進みまして… 
 
 
このあたりから、仮設築堤で先行開通していた高架線にアプローチしていたようです。 
当然ですが、仮設だった当時の設備は面影もありません。 
 
 
守口市仮駅を通過、仮設築堤を登り京都へ向かう2200系の、京都三条ゆき急行列車。
同じく1978〜79(昭和53〜54)年頃と思われるのですが… 

 
現在の、ほぼ同じ場所の様子。高架複々線だけが、その位置を判別するもののようです。 
 
 
ところで、2つ前の写真を拡大してみますと、その土盛り築堤と、先行開通していた高架線との接続部分とは、守口市仮駅からは複々線のままで高架線につながっていることがわかります。
 
 
線路が4本分もある複々線ですから、仮設とはいえど、かなりの幅があったはずです。
気になったので、その接続部分(赤い□内)の様子をさらに探ってみることにします。

(出典 「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)

次回に続きます。
今日はこんなところです。