ナルトです
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
今日は17話目…
65年前ブラジルへ渡ったボクのおじいちゃんの元へ、花嫁がブラジル到着…です。
祖父「黒木 慧」くろぎ けい
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳
【花嫁を迎えに】
1959年1月終わりに日本の母に嫁探しをお願いし、3月6日に美佐子の写真と手紙が到着。翌日にはブラジルの様子や、日本での準備について、細かく記した5ページもの手紙を書いた祖父慧。
花嫁が決まり一日千秋の思いで毎日を過ごし、独立の準備を始めた。
独立後は、サンパウロ州サンロッケの中心地から4kmほどのところに、5haほどの土地を借りてバタタと呼ばれるジャガイモ栽培をすることにした。
家を建てるために、パトロン森田さんの土地にあるユーカリ材を提供してくださることになり、森田農場での契約期間は9月15日までのため、日曜日や時間外を利用して、材木の切り出しをせっせとしていった。
花嫁美佐子は移民花嫁として手続きが出来ると、6月終わりに故郷を出発、ブラジル到着は8月15日…。
大阪商船の新造船「あるぜんちな丸」でやってきた。
花嫁出迎え準備は、森田夫妻がいろいろと配慮してスケジュールをたててくれ、隣の農場で働く堀込君も同じ船で日本から移民花嫁がやってくるということで、二人でサントス港まで汽車で迎えに行くことにした。
近くの駅からサントス港まで直通でつながる鉄道は、薪で走る蒸気機関車だった。
8月といえは、ブラジルでは季節は冬。
その日は小雨が降っていて寒い朝だった。堀込君と二人はこうもり傘を持って汽車に乗り込んだ。汽車の揺れがひどかったことと、待ち遠しい気持ちが印象に強い汽車の旅。
海岸山脈の峠を越えると、眼下にサントス港の景観が大きく広がっていた。
汽車を降り船着場へ急ぐと、あるぜんちな丸の大きな船体が待っていた。
トラックで出発した森田さんは、すでに港に着いていて私たちを待っていてくれた。
雨は止んでいた。
あるぜんちな丸のタラップが下りると、その上で花嫁たちが傘を手にたむろしていた。
やがて乗船が許されて、写真で何度もみた女性を探した。そのまぶしい太陽のような笑顔は、直感ですぐさま見つけた。
手を握って…一言。
「やぁ、いらっしゃい。よく来てくれたね。」
……それからしばらくは言葉にならなかった。
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
美佐子おばあちゃん、ありがとう!
20歳という若さだから出来たんだろうね…長い船旅と、移民後の話を聞くと、ありがとうの言葉しか出てこない。
ボクも「楽」を考えることはやめて、どんなことにも向き合って、「逃げず」にやっていきます!
成功に近道はないことを教えてくれて、ありがとう。
次回は、いよいよ結婚式と花嫁修行です。
お楽しみに!
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊