ナルトです
 
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
 
 
 
 
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
 
 
 
 
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
 
 
 
 
 
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今日は16話目…
 
65年前ブラジルへ渡ったボクのおじいちゃんの花嫁が決まったその後…です。
 
 
 
祖父「黒木 」くろ けい
 
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳
 
 
 
 
【花嫁とラブレター】
 
 
 

日本に住む母がブラジル移民花嫁の話をもっていき、即決してくれたのは、ナルトの祖母となる黒木美佐子。こちらは「くろ」みさこである。

 

 

 

※祖母美佐子20歳でブラジル花嫁移民に
 

 

 

美佐子の父は、教員をしながら短歌を学び、同郷宮崎県日向出身の歌人「若山牧水」に師事した黒木傳松。

 

父が教員生活を送った熊本で美佐子は育った。

 

 



慧の母ぬいが、ブラジルの息子から花嫁を探して欲しいと手紙が届くと、まず最初に親戚筋にあたる美佐子へ話をもっていった。

 

 

 

 

美佐子は、話をもらったその日のうちに、即ブラジル行きを決断した。

 

八人きょうだいの四番目に生まれ育った美佐子は、日本での暮らしの厳しさもあり、新天地で生きることへの希望に大きな魅力を直感した。

 

 

 

 

美佐子の決意を知った美佐子の母政子は、戸惑いながらも「たんぽぽの花の綿毛は、風に吹かれて遠くへ行って、そこでまたきれいに花を咲かせるよ。あなたもブラジルの地に根づいて、立派な家族を築きなさい。」と送り出してくれた。

 

 

 

別れのつらさを胸にこらえながらも、愛する我が娘の決断を尊重し、幸せを願って送った言葉である。

 

 

※2020年2月ナルト撮影
 

 

 

美佐子から最初の手紙と写真は、1959年3月6日に慧のもとへ届いた。

 

あなたの妻になります…と。


 

 

このうれしい手紙に対して、慧が書いた返事の手紙を抜粋してご紹介。
 
 
 
「お手紙ありがとう。無闇とうれしくてパトロンの森田さんに見せたところ、何やかやと冷やかされて、まったく照れ臭くってやりきれないってな有様です。こちらの者みんな喜んでいます。花嫁さんが来るということで、私はまるで映画俳優みたいになってしまいましたよ。皆で寄ると触ると私たちの話ばかりでもちきりです。…」
 
 
 
 
こんな文章からはじまって、当時の気候などやブラジルの暮らしのことなどがこと細かに書かれていた。
 

北半球と季節が逆のブラジルでは、3月といえば秋…その記述はじつに色鮮やかだ。
 
 
「ブラジルは昨今、秋めいてきました。一雨ごとに、みかんの果実も黄色味を帯びはじめ、秋風に揺れる様は、まるで日本の秋を想わせるようです。収穫の秋です。今、トウモロコシの収穫がはじまり、稲の刈り入れも待っています。仕事は多種多様で年中農繁期で休暇はなかなかありません。つまり日本のように失業するごとき心配は絶対にないというわけになります。… …」
 


そして、嫁入りに荷物は何もいりません。丈夫な体一つを持ってきてください。そんな内容が主だった。
 
 
 
 ※慧から美佐子へ送ったエアメール


 
※慧から美佐子への手紙5頁目

 
 
 この手紙は、現在でもサンパウロの文化協会の資料館に展示されている。
 
 

 


 

 
 
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
 
 
 
おばあちゃんも、おじいちゃんも日本での暮らしぶりは貧しい日々だったようですが、

何もなかったからこそ、二人で懸命に育てた幸せが大きく花咲いたんですね。




 
おじいちゃんの手紙で、季節についての言葉が、
自然と向き合い生きているおじいちゃんらしいなぁ~と思い、

ブラジルが懐かしく思い出されました。



 
ここから、本当の試練の日々がはじまるので、是非続きをお楽しみにしてください
 
 

 
次回は、いよいよ移民花嫁が地球の反対側ブラジルへやってきますよ。





お楽しみに!
 




 
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊