ナルトです
Boa tarde! こんにちは🌱
ボアタルジ
プロ歌手になると決めて、
17歳で入学した大学を半年でやめて…
日本に来ちゃった日系三世ブラジル人です。
演歌歌手としてデビューした日が
緊急事態宣言が出た翌日…
こんな前代未聞のスタートとなったボクの
日本のルーツについて勉強したことを書いてます。
今日は2話目…
65年前にブラジルへ渡った
ボクのおじいちゃんの生い立ちについてです。
名前は「黒木 慧」くろぎ けい
1934年(昭和9年)宮崎県日向市生まれ
現在、85歳です。
【生い立ちと戦争】
子どもの頃、二度ほど死にそうになったため、名前が悪いのだろうと「徳善(とくよし)」と呼ばれていたということ、日本に来て初めて知りました。
祖父慧が小学校にあがった年の暮れ、日本は真珠湾攻撃で第二次世界大戦に参入、五年生の夏に終戦を迎えた。
家は海から50mほどのところにあり、終戦の年、大きな台風がきて高波にさらわれ家がなくなったという。
戦時中のことを聞くと…
前半、日本優勢、シンガポール陥落のときは日の丸を振ってお祝いし、お土産に白いゴムボールをもらうなど、皆笑顔の暮らしだった。
学校への往復8キロの道のりは、誰にも負けずに足は早かったが、戦況が悪化すると空襲も身に迫り、敵機から機銃掃射を浴びせられたり、上空戦を目撃することもしばしばあった。
そんな中、成績はいつも2番、運動神経は良く、おとなしいけど負けず嫌いというから、ナットク。
この時代、産めよ増やせよ…ということで、兄弟は男4人、女4人!食糧難で生きるのに必死。
上から4番目の次男であった慧は、中学を出てから、高校進学はあきらめて働かざるをえず、15歳から開拓事業の重労働で、体を酷使して働いていた。一年くらいしてから、やはり高校くらいは出たいと、重労働の後に、クタクタの体で、夜間の学校に通った。
長男の兄は、宮崎大学をでて教師となり、その後上京して早稲田大学へ入った。宮崎に戻り家庭をもったが、破天荒な人で、実質、祖父の慧が農業と港の仕事で生活を支えていた。
この港の仕事は、砂やバラス(小石)を積む船での陸揚げで、天秤棒を使っての作業は、想像を絶する労働だった。
そして先行きについて、自衛隊に入ろうかとか、和歌山のヤクルト会社で働きながら大学に行けると聞いて、どうしようかと考えていた。
そんな高校卒業を間近にした1955年2月、慧の父が57歳で亡くなった。気管に痰をつまらせて窒息死だった。
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戦中戦後の日本のようすを聞くたびに、ナルトの日本に来てからの驚きなんて、とくに日本での野宿くらい、どーってことないな…と思えちゃいますね。
次回は、祖父慧のブラジル移民への決心と
その道のりをご紹介します。
さぁー
今日も一日
太陽スマイルでやりきります😊